第五話 《時眼》の勇者
◆
――夢。
「また勝手な行動を、貴様は!?」
屋敷の中、男の怒鳴り声が響く。
金髪と青い瞳を持った青年だった。端正な顔は今、苛立ちに歪んでいる。
青年が睨み付ける先には、一人の女性がいた。
白髪混じりの黒髪した、この夢の主人公。
「できたから殺した。何か文句あるか?」
しかし今回の夢は、何かが少し違った。
正確には、おかしくなっていたのは、女性一人だけだった。
常のお調子者のような発言は鳴りを潜め、代わりのように発されたのは、冷たく凍えた声音だった。
「お前は吾らの最大戦力だ。無茶は許されん」
「だったら、見捨てろってか? 王都の奴らを見殺しにしろって?」
「天秤に掛けろと言っている。お前が死ねば、魔王に勝てなくなる。それはつまり、この世界が喰われるということだ」
「力があるんだ! 使わなきゃ意味ねえだろうがッ!」
今にも激突しそうな空気に、傍観していた者たちが慌てる。
二人の間に割り込んだのは、白い髪と青い瞳の女性。
「『 』もグロウスも、もうやめて!」
「スピルス……」
仲間の悲痛な声に、二人の口論は終わる。
舌打ちすると、女性は部屋を出ようとする。その目の前に、赤い髪の男が立ち塞がった。
「……イグニス、どけよ」
「…………わかった」
女性は鼻を鳴らすと、今度こそ部屋を出て行った。
部屋の中には、重々しい沈黙だけが広がっていた。
――お前はこれを見て、どう思う?――
そして夢が崩壊する。
◇
「…………、…………」
そして、ミコトは目を覚ました。
もうこれも何度目だろう。慣れてきた感覚に溜め息を吐く前に、止めていた息を再開する。
辺りを見渡すと、そう広くはない部屋だとわかった。
装いは応接間のようだ。床に敷かれたカーペット、少しばかり置かれた骨董品。部屋の端の本棚は、種類が雑多な本で埋められていた。
部屋の中央には長方形のテーブル。
そのテーブルを囲むように、四辺にソファーが置かれている。
ミコトはどがりと座ったあと、自身の体を確認する。
いつの間にか、真っ白な薄い衣服を着せられている。耐寒性や防御力は皆無と言ってもいい。
傷は消えていた。あれだけ痛めつけられ、死の直前まで追い詰められたというのに、どこも痛くない。
エインルード家の者によって治されたのか。それとも、死んだのか。
憶えていない。どちらでもいい。どうでもいい。
体は拘束されていなかった。
扉は横手にあった。ミコトは立ち上がり、鋼鉄の扉へ向かう。
開けようとするも、錠が掛けられていた。
次に視線を向けたのは、部屋の奥。
閉まったカーテンを広げる。だがその先にあったのは、ほかの変わらない壁。
窓はなかった。
応接間というには、些か重圧感があった。
「魔力は……」
精製された魔力は、スロットに辿り着くことなく、体外へと流れていく。
牢に閉じ込められていたときと同じ現象。この部屋で魔術は使えない。
「閉じ込められた、か」
魔術を失ったミコト。その膂力は、ただの人間と同じ。
脳のリミッターを外したところで、生身では限界がある。
一応は試しにと、一人掛けの椅子を持ち上げて、扉に叩き付けてみる。
しかし鋼鉄の扉は、重い金属音を鳴らすのみ。ピクリとも動きはしなかった。
ミコトは舌打ちする。
(どうする。脱出手段はすべて潰された。けど、何か……、何かないのか……)
そのとき、生命探知に二つの生命体を捉えた。
あまりに濃い生命力。その内の一つには、憶えがった。
「カーリスト……!」
殺意が沸き上がる。
二人はこの部屋に近付いてきている。
ミコトは扉のそばで待機し、扉が開かれるのを待った。
しばらくして、錠が開く音。扉が開き、人が入って来る。
それが誰かは確認しなかった。どうでもよかった。ただ殺意のままに、拳を振るった。
しかし、攻撃が届くことはなかった。
予めどこに来るか、予測していたかのように構えられた手の平によって、拳が受け止められたからだ。
「な……っ」
そこからの動きは一瞬だった。
勢いを利用してミコトを床に押し付け、腕を捻り上げた。
流れるような柔の技に、ミコトは手も足も出ない。関節を外されるのを覚悟で動こうにも、力が入れることすらできなかった。
「く、ソがぁ……!」
「元気なことだ。だが、心配するな。危害は加えん」
落ち着きのある男の声だった。
聞いたことがないのに、懐かしい響きを覚える。
どうせこの状況だ。反抗したところで、抜け出しようもない。
ミコトは頷く。と、拘束は外された。
跳ねるように立ち上がり、ミコトは二人に向き直った。
一人は見覚えがあった。
青い瞳には微かな怒りが。長い金髪をオールバックに、腰まで流している。
カーリスト・G・エインルード。
もう一人は老人だった。
《無霊の民》とは色合いが違う、白灰色の髪。目蓋は閉じられてるのに、ミコトの位置を正確に把握して見つめてくる。
その異様さは今まで見た誰より勝り、カリスマは国王アルドルーアをも超える。
異様かつ荘厳。例えるなら、大樹だ。
ミコトが観察している間にも、老人もミコトを見定めていた。
しばらくして、彼は口元を微笑に浮かべた。
「……なるほど。似ているな、これは」
「はぁ?」
唐突な言葉にミコトは、思わず訝しげな声を上げる。
それを目敏く捉えたカーリストが、眦を吊り上げる。
「貴様ッ、この方の前で、なんだその態度は……!」
「ハッ、テメェこそなんだよ。使徒だかなんだとか言って、やってることは目上サマへの尻尾振りかぁ?」
「汚らしい言葉遣い、立場を弁えない態度、感情任せにすべてを台無しにする行動、周囲を巻き込んで自身を貶める愚かさ。そのどれもが見ていられない」
「他人の発言に一々目くじら立てる奴に、感情任せだなんて言われたくねえな」
「どうやら貴様は、教養というものを知らないらしい。親の顔が見てみたいな」
「ン……だとゴラァ!」
それまで様子を窺っていた老人が、ヒートアップする口論を見兼ねて口を挟む。
「やめろ、二人とも」
その一言は重圧を以てミコトとカーリストに伸し掛かり、二人は口を噤んだ。
それを見て満足した老人が、一人掛けのソファーに座る。
今なら逃げられるか。
扉に視線を送る。直後、声が掛けられる。
「逃げても無駄だ。さあ、座るといい」
考えていることはお見通しというわけか。
ミコトはあからさまな舌打ちを打つと、粗雑な仕草で、老人の対面のソファーに座り込んだ。
「カーリスト。君はもう戻っていい」
「しかし!」
「戻れ」
「……っ」
カーリストは最後にミコトを睨み付けると、踵を返して退出した。
足音が遠ざかっていき、完全に消えるまで、ミコトは扉を睨み付けていた。
さて、と老人が切り出す。
「初めまして、ミコト・クロミヤ。我が名はシリオス」
その名をどこかで聞いたことがある。
そう、それは有名な名。
千年前、魔王を討った一人。
神から力を与えられた、神の使徒。
「――《時眼》の勇者、などと呼ばれている」
老人――シリオスはそう言って、自嘲した。
◇
「勇者……だって?」
まさか。そんな、聞き間違いじゃないのか。
勇者は魔王と相打って死んだはずだ。もし生き残っていたとしても、もう千年経つ。
生きていられるわけがない。
『歳当て』――生命を視たところ、奇妙にあやふやだが、およそ七〇歳だと読み取れる。
だがミコトの感覚は、目の前の老人が勇者シリオスだと告げている。
彼が纏う空気は、《浄火》の使徒のそれよりも濃い。
「はは、信じられないか。無理もない、人間の寿命では考えられないからな」
「じゃあ、どうやって……?」
ミコトが訊くと、シリオスは「ふむ」と頷く。
しばらく悩んでいたようだったが、「まあ言ってもいいか」と口を開く。
「私は《時眼》、時を司る者だ。我が身に流れる時を、遅延させることは容易い」
その言葉を聞き、脳に入力し、『歳当て』が外れた理由に納得し、その意味を考え――警戒度を最大まで引き上げた。
人に流れる時を操れるのだとしたら。加速させられるのだとしたら。
――『再生』が破られる可能性。
ミコトは『再生』という異能を発現したが、時間の流れが止まったわけではない。
異世界に来たあとも、背や髪は伸びている。それはきっと、歳も同じ。
『再生』は老いから逃れられない。
あるいは異能による干渉ならば蘇生するかもしれないが、そうあっさり試せるはずもない。
久しく感じる『本当の死』の予感。それはもう二度と、誰とも会えないという恐怖。
ミコトは顔を強張らせた。
「怯えることはない。肉体の維持にほとんどの力を割いている今では、時の加速などできない。未来を視る力――《時眼》の由縁も、まともに使えん」
それを聞いて、ミコトは安心する。
同時にこの部屋を抜け出すことも可能ではないか、という考えが生まれるも、それは一旦打ち消す。
目の前の存在は超重要人物だ。
《浄火》の使徒のように発狂していないし、バーバラのような悪意、カーリストのような敵意は感じ取れない。
つまるところシリオスは、情報を持ちながらも話がわかる、貴重な存在だ。
何が起こっているか理解できない今、彼から情報を抜き出すのは最良の選択肢だ。
「なぁ。サーシャは今、どこにいる? ここはどこだ?」
「ククッ、随分と直球だ。……ふむ、答えてやろう。屋敷の地下、両方の答えだ」
まさかこんな簡単に教えてくれるとは思っていなかったので、ミコトは気が抜けたように目を丸くする。
しかし、答えてくれるなら幸いだ。
「サーシャに手ぇ出してないだろうな?」
「今はまだ、な」
「――っ!?」
それはつまり、危害を加えるということか。
なぜ、なんで、どうして……。
「エインルードは! 保護してくれるんじゃなかったのかよ、サーシャをさぁ!?」
冷静さを失って激昂するミコトに、シリオスは「ふむ」と考え込んだあとに頷く。
しばらくしてシリオスは口を開くが、ミコトが望む答えが出てくることはなかった。
「それは、私が答えることではない。フリージスが自身の口で、直接語らねばならないことだ」
その一言で、ミコトの思考は停止した。
耳から冷風が入り、冷たい空気に脳が晒されたかのように、心が気持ち悪い極寒に落とされる。
「……フリージスは、俺たちの仲間だ。俺に魔術を、戦う術を教えてくれた」
「彼はエインルードの人間だ」
「あいつはなんだかんだ言って、レイラの救出に協力してくれた!」
「それこそ、利害の一致というものだ」
「――うるっせぇんだよ老い耄れ勇者! 俺らが過ごした四カ月間を、テメェが語ってんじゃねえ!!」
目を閉じれば目蓋の裏に、いつでも情景が浮かぶ。
フリージスを起こしたら、リースに無表情の怒りを向けられたこと。
フリージスとグラン、彼らと恋バナもどきをしたこと。
フリージスの前で魔道書を広げ、指南してもらったこと。
たくさん、いっぱい、いろんなことがあった。
それが嘘だなんて、信じられない。
「あいつは! 裏切ったり、しないんだ……!!」
気付けば、声が震えていた。涙で視界がぼけやたのを、乱暴に拭って正常に戻す。
シリオスは何も言わなかった。ただただ黙って、ミコトの言葉を聞いていた。
いつの間にか立ち上がっていた。
ミコトは荒い息を吐きながら、乱暴に座り直す。
長い沈黙が応接間に広がる。
静けさが肌に突き刺さるように痛かった。
「もしも……」
沈黙が破られる。
シリオスが深い溜め息のあと、言葉を続ける。
「……もしも《操魔》と共に、エインルードを出られたなら。次は、封魔の里を目指せ。そこはサーシャ・セレナイトが生まれた地だ。そこに行き、ある男に会え」
意図のわからない助言に、ミコトは疲れたように首を傾げる。
サーシャの出身地に行って何がある。
いや、もしかすると、脱出された場合の保険かもしれない。
暗闇の中で差し出された手。暗いからこそ救済者の手は見えず、良心か悪意かを判断できない。
本当の本当に助言なのか。それとも罠か。
「疑う気持ちはわかるが、心配するな。脱出からしばらくの間、君たちに干渉しないことを、勇者の名に賭けて誓おう」
シリオスの仕草、動作、声音。それら真摯な態度と、頭痛が与える既視感が、彼が本気で告げていることをミコトに確信させた。
理屈のみで言うなら、信じるべきではない。しかし心情としては、信用してもいいと判断した。
だけど、
「なんでお前は、そんな助言をくれるんだ? エインルードの仲間じゃねえのかよ」
「……仲間、か」
仲間、と。シリオスは呟く。
そこにどんな思いがあるのか、ミコトにはわからなかった。
「エインルードの協力者だが、傍観者でもある。ただ、彼らの祖先と縁があるだけさ」
そしてシリオスは、邂逅から初めて目を開いた。
青い瞳。秘められた強い意志。微かに宿る懐古、そして後悔。
「私が助言を与えるのは……。……君が彼女に似ているから、だろうな」
◇
シリオスはそれ以上、何も語ることはなかった。彼はあくまで中立を貫くつもりらしい。
会話を終えると、シリオスは部屋を出て行った。
「鍵はしっかり掛けんのな……」
状況はまったく改善していない。
サーシャが屋敷の地下に捕まっていることはわかったが、脱出できなければ意味はない。
周囲の壁を叩いて、反響から厚さを測ろうとしてみるも、なんの成果は得られなかった。
声を張り上げても見張りがやって来ないので、不意打ちによる脱出もできそうにない。
もちろん本棚やカーペットを動かしたところで、秘密の脱出口があるはずもない。実際なかった。
何か情報があるかと、本をタイトルを眺めてみるも、大したものはない。
使える魔術は生活級。
物理は強化もできない生身の肉体。
道具もなく、異能だって役に立たない。
「こんなので、どうやって……」
キリキリと、脳を締め付けるような頭痛。
心が焦燥で張り裂けそうだ。
「何か……。何かなにか、ナニカないのかっ!?」
考えに考え、考えた抜いて、その末に。
ある閃きを覚えた。
ミコトは周囲を見渡した。
密閉された空間。
どこかに空気穴があるはずだ。
探して、そしてミコトは天井の隅に、小さな穴を発見した。
人が通り抜けらえる大きさではない。
だが、それで構わなかった。
塞げればいい。
改めて周囲の道具を確認する。
ソファー、本、カーペット。ここにはたくさんの可燃物がある。
「――ケキッ」
不死身は嗤う。
地下の応接間の外には、一人の男が立っていた。
首輪の痕。それは元奴隷の証。彼はエインルードの住人で、この応接間の見張りを請け負った者だった。
この中にいる者が吐いた、エインルードへの侮蔑、嘲弄、罵倒。
それらを思い出すだけで、腸が煮え繰り返る思いが沸き上がる。
目の前の部屋に、この領を脅かす敵がいる。悪魔がいる。
殺したい気持ちでいっぱいだったが、彼は職務に忠実だった。
先ほどまで聞こえてきた悪魔の声。
見張りを挑発して誘き寄せようとする声は、今はもう聞こえない。諦めたのだろうか。
「……ん?」
異臭。
焦げ臭い。
目の前の鋼鉄の扉から、熱気が漂ってくる。
まさか、火事か。
男は顔を強張らせた。
どうやらエインルードは、悪魔を鬱陶しいと思っていると同時、利用するつもりでいるらしい。
その理由を男は知らなかった。とにかく、悪魔を死なせてはいけない、と考えた。
慌てて扉を触るとあまりの熱さで、反射的に手を引っ込めた。
これは本当に火事らしい。
(ああ、くそ! なんで悪魔など、助けねばならん!)
男は上着を脱いで手に巻く。こうすれば多少の熱に耐えられる。
鍵を取り出し、錠に差し込む。
そして男は、鋼鉄の扉を――開いてしまった。
ほんの一瞬だけ、彼は目撃することになる。
焼け焦げた部屋。ほぼ鎮火していた炎。
扉のすぐ近くに転がっていた焼死体。――その瞳の赤い輝き。
「ひっ」
男は怯え、部屋からすぐに跳び出した。
それは結果として、彼の命を助けることとなる。
密閉していた空間に、空気が入り込む。
それらは収まりかけていた炎を、爆発的に燃焼させる。
爆炎で体を燃やした男は、悲鳴を上げてその場から逃げていく。
それを見届けながら、悪魔は嗤う。
「バックドラフト――てなァ。一か八かだったけど、成功するもんだ」
燃え残った衣服を着直しながら、ミコト・クロミヤは脱出する。
静かに脱出する手段は、残念ながら思いつかなかった。
ならばいっそ、騒動を起こしてしまえばいい。
「騒げよ騒げ。もっと慌てふためけ、エインルード。そうすりゃ、連携なんて崩れるもんさ」
魔術が使えることを確認。
生命探知。今度こそ、見知った少女の生命を見つける。
「待ってろよ、サーシャ。今すぐそっちに行くから」