第二話 異心のエインルード
フリージス・G・エインルード。
世間一般には周知されていないが、貴族の間では有名な男である。
「リース」
「なんでしょうか、フリージス様」
アルフェリア王国最強の魔術師。
その肩書きは、彼にとって重要なものではない。
彼にとって大切なのは、ただ一つ。『とある役割』以外、彼自身が望んでいなかった。
「ようやく、このときが来たな」
「はい。わたくしも、心待ちにしておりました」
フリージスは魔術の天才である。神童だ。
幼き頃からの努力は、二〇歳にして魔術を極めさせた。
「僕たちには時間はない。準備はすべて整った。あと、もう少しだ」
「必ずや成功するでしょう。全力を以て補佐します」
エインルードには使命がある。
千年前から受け継がれてきた、もはや呪いと言っても過言ではない、血の宿命。
「フリージス様。わたくしを、フリージス様の使命にお使いください」
フリージスには使命がある。
生まれてから、ずっと空虚だった心を埋めてくれた者。その存在意義を果たすという、自身で定めた使命が。
「リース。君の使命を果たそう」
だからフリージスは行動する。
同情もなく、憐憫もなく、容赦もなく。
「――行ってくれ、リース」
「――畏まりました、フリージス様」
彼は、命令を下す。
その足元には、《無霊の民》の壮年、オーデが倒れていた。
◇
上秋の初旬。
エインルード領の町、エイン滞在三日目。
――ミコト・クロミヤの体調は、未だ回復しない。
「ミコト……」
サーシャは彼の手を握った。ミコトの手足の先は、異様に冷たくなっていた。
こんなにも弱ったミコトの姿を見たのは、およそ四カ月ぶりだ。
ガルム怪事件。
魔王教の襲撃を受け、すべてがバラバラになりかけた、あのとき以来。
けれど、四カ月前と現在には、決定的な違いがある。
四カ月前は精神的なものが原因だと判明していた。だが今回は、理由がまったくわからない。
「さ、……しぁ?」
掠れた声。ミコトが目を覚ました。
開かれた目蓋の奥にあったのは、虚ろな黒い瞳。
「起きたんだ。ミコト、体はどう?」
「ぁー……。まぁ、なんとか。インフルよか、マシ……だろ」
「無理しちゃダメだよ。水、いる?」
ミコトは小さく、こくりと頷いた。
ちょっとゴメンね、と言って、ミコトの額に乗せていた水タオルを取り、彼の上体を起こす。
テーブルに置いていた水差しを手に取り、ゆっくりとミコトの口に注ぎ込んだ。
「ううっ……。あ、ありがてぇ……。犯罪的だ、美味すぎる……! 染み込んできやがる……体に……。溶けそうだ……っ」
「冗談言ってないで、ゆっくりしてて。あ、何か食べられる? 作ってくるけど」
「やはは。わるい、たぶん吐く」
そう、とサーシャは頷くと、ミコトを再び寝かせた。
布団を被せ、生温くなっていた水タオルを取り換えて、ミコトの額に乗せた。
「そぅいや、さ。俺が起きたとき、いつもサーシャがいるけど……ちゃんと、寝てんのか?」
苦しみながらも他人の心配をするミコトに、サーシャが目を細めた。
「いつもいるってわけじゃないよ。食事とか、睡眠とか、トイレとか、何回も出て行ってるよ」
「そっか。そりゃ、よかった」
ミコトは安心したように微笑んだ、直後。
「――ぐっ……ぁがっぁ!」
「ミコト!?」
苦痛が滲んだ呻き声。
「ぃ……ね、ば。らく、に……るの、かな」
大きく目を見開いたあと、最後に小さく言葉を吐き出して、気を失うように眠りに就いた。
「……っ」
何もできないのが悔しい。
サーシャは歯を食いしばり、左手を強く握りしめた。
唐突に、扉が開く音。
「なーにが、いつもいるってわけじゃない、よ? ほとんど付きっきりのくせに」
レイラだ。彼女は呆れたように溜め息を吐くと、椅子に腰掛けた。
「で? こいつの調子、どうなのよ?」
「……わからない。どんな治癒魔術を掛けても、全然ダメ」
「……そう」
レイラはしばらく目を伏せて、ぽん、と両手を合わせた。
名案を思い付いた、といった風に、
「じゃあアタシがこいつを見てるから、アンタはしばらく休んでなさい」
「え……。でもレイラ、家事できないし……」
「水タオルの取り換え! 起きたら水を飲ます! このぐらいできるわよ!」
「起きたときに体調がよさそうなら、服を脱がせて汗を拭いたりね」
「脱がせ……えぇ!? くっ、できるわよ!」
どうしてレイラが恥ずかしそうにしているのか、サーシャにはよくわからなかった。
が、それは今、置いておいて、
「あんまり大声出しちゃ……」
レイラは口を噤んだあと、しきりに頷いた。
これぐらい言っておけば、レイラでも大丈夫だろう。料理以外なら。
「もっと診てたかったけど、せっかく言ってくれたんだし、町に出掛けようかな。ミコトも、無理してでも何か食べたほうがいいだろうし……。台所、使わせてもらえるかな?」
「……休むって、そういうことじゃ……。もういいわ、行ってらっしゃい。気分転換にはなるでしょ?」
「うん、ありがとう。ちょっと出掛けてくるね」
サーシャは椅子から立ち上がると、躊躇いながらも扉へ向かう。
最後にミコトの顔を見て、部屋の外へ出た。するとそこで、一人の少女と出会う。
ラカが気まずそうに、扉のすぐ近くでうろうろしていた。
「どうしたの、ラカ? 入らないの?」
「お、オレは……。できること、何もねーし」
そう言って、その場から逃げ去ろうとしたラカを、サーシャは引き止める。
「待って!」
「ぐ、ぉ……! 襟を掴むな、息ができねー!」
「ご、ごめん、つい。それで、その、ラカ? 部屋に入らないなら、少し買い物に付き合って?」
「……しゃーねー。荷物持ちぐれーなら、な」
そうして彼女たちは、町へ出掛けて行く。
その後ろ姿を一人のメイドが、無表情に見つめていた。
「何回見ても、きちっとした街だよね」
買い物に出掛けたサーシャは、辺りを見渡して呟いた。
シンメトリーの家々や街並みは、一種の芸術のように彼女の目には映ったのだ。
エインルード領は中心にあるエインという町と、幾つかの小さな農村で構成された、小さな規模の領だ。
異名や風聞とは異なり、田舎の領地である。目立った観光地や産業はなく、行商人の数も少ない。
「きちきちすぎて、逆に気持ちわりーよ」
この左右対称の芸術も、絶景と言えるかというと、そうでもない。ラカのような感想を抱く者も少なくないだろう。
珍妙、異様、物珍しい。ただそれだけの街並みを見に来るのは、芸術家ぐらいなものだ。
「しっかし、サーシャ。こんな草買ってどーすんだよ」
ラカの左右の手には、それぞれ違う種類の草が、一束ずつ握られていた。
彼女のぼやきに、サーシャは苦笑する。
「ただの草じゃなくて、薬草。こっちは熱冷ましで、そっちは頭痛に効くんだよ」
「……ミコトの奴、どうなってんだろーな」
ミコトの様子は尋常ではなかった。
この状態があと一週間続けば、命の保証はないだろう。
『再生』をはぐらかされ、伝えられていないラカは、純粋に不安を覚えていた。
「うん。でもミコトなら、きっと大丈夫だよ」
対してサーシャの言葉だが、『再生』のことを言っているわけではない。そして、確信の言葉でもなかった。
ラカを安心させると同時に、自身が信じたいがためのものだった。
ふと、サーシャは思った。
もしもラカが『再生』のことを知っていたら、どう思うのだろうか、と。
「ねえ、ラカ」
「どーした?」
「……次、あっちのお店に行こう? 果物を摩り下ろしたものなら、ミコトも食べられるかもしれない」
結局、言うのはやめた。
サーシャが言うことではないし、きっと信じもしないだろう。
サーシャはラカを引き連れ、次の店に向かおうと歩む。
そのとき、店の彼女たちの間に割り込む、一人の女性が現れた。
「あれ、リース? どうしたの?」
紫紺の髪と瞳を持つ、フリージス専属のメイド、リースだ。
いつもとまったく変わらない無表情だ。
「すみません。サーシャ様、ラカ様。少し、こちらに来て頂けないでしょうか」
サーシャとラカは顔を見合わせてから、不思議そうに了承した。
リースに連れられ、二人はエインを歩く。
十数分すぎた頃だろうか。
サーシャとリースは、倉庫のような場所に案内された。周囲を見渡すに、ここはどうやら倉庫街らしい。
ここからは、エインルード家の屋敷の背中が見えた。
促され、サーシャは先に倉庫の中に入った。中は薄暗く、明所から暗所の切り替わりにより、周囲の様子はわからない。
と、そのとき、声が聞こえた。
「ここまで付き合って頂いて、ありがとうございます。――《黒死》の使徒に気付かれると、何が起こるかわかりませんから」
無感動なリースの声。
その直後、躓かないよう慎重に歩んでいたサーシャの背後で、何かが倒れる音が聞こえた。
振り向くと、倉庫の入り口から伸びる光の中に、一人の人物が倒れていた。
ラカが、倒れ伏していた。
「え……?」
思考の停滞。
眼前に迫る、無表情のリース。
サーシャが次に感じたのは、首筋を襲った一瞬の痛み。
意識が薄れていく。闇の中に落ちていく。
「なん、で……?」
サーシャの問い、リースは強い意志を瞳に込めて、告げた。
「わたくしは――『アヴリース』のすべては、フリージス様のために」
そしてサーシャは、完全に意識を失った。
◇
「これが報酬だ」
グランがフリージスから投げ渡されたのは、金貨が詰められた布袋だった。
掴み取ると、金属のじゃりん、という音が鳴った。
「これまで護衛を務めてくれたこと、感謝するよ」
「互いに益のある関係だった……。それに、仲間だからな。当然のことだ」
彼らがいるのは、屋敷の玄関前だった。ほかにも使用人が、グランの見送りに来ている。
そう、グランはここに泊まる気はなかった。仕事を終えた以上、グランの役割は終わりであり、滞在する意味はなくなる。
布袋を懐に仕舞い、グランは深く頷いた。
傭兵業をしていると、物の消耗が早い。剣の手入れ、傷付いた防具の修繕、何にしろ金が掛かるのだ。
「これからどうするんだい? 猛獣もいない田舎だと、傭兵業はできないよ」
「すぐ旅立ち、調査する。魔王教が気掛かりだ」
魔王教は『操魔』を求めていた。その持ち主であるサーシャがエインルードに保護されることを、奴らは阻止しなければならない立場のはず。
しかし魔王教は、四カ月前の一件以降、まったく姿を現す気配がない。
グランは傭兵業を一旦やめ、エインルード領周辺の調査をする気だった。
これは依頼ではなく、グラン自身の意思だ。
(それに、アレの侵攻が進んできたからな。もう、共にはいられない)
フリージスに見えないよう、グランは小さく自嘲した。
「なるほどね。確かに魔王教の動きは気掛かりだ。怪しむのもわかる」
「奴らの考えていることなど、俺にはわからないがな」
ミコトの異常が、魔王教が原因ではないかと疑っているぐらいだ。
「話し込んでしまったな。それじゃあ、俺はもう行く。皆には夕食の席にでも、お前から話しておいてくれ」
グランは屋敷に背を向け、歩き始めた。
「ああ。その頼み、聞き届けた」
見送ったフリージスは、最後にグランに向けて告げ、屋敷の中へと戻る。
重厚な扉が、ぎぎぎ、と軋んで閉まっていく。
「もっとも」
グランが雑踏の中に消えた頃には、フリージスの表情からは人らしさが失せていた。
扉が完全に閉まる。それは宛ら、牢獄の扉が閉じられるがごとく。
「――今日はそんな余裕、ないだろうけどさ」
◆
暗闇の中に、彼は立っていた。
周囲を見渡しても、辺りは黒い闇に包まれて、何も見えない。
前を見ると、薄らと光が見えた。遠く、ずっと遠く。
そこには何かがある。恋い焦がれ、追い求めていたものが、そこにある。
ふと、何かが崩れていく音が背後から聞こえた。
その崩壊は、少しずつこちらに近付いてきているのがわかった。
絶望が追って来る。
急がないと追いつかれる。
彼は走り出す。
その足元で、ナニカが蠢いた気がした。
――急げ、急げ、急げ。間に合わなくなるぞ?――
――このままじゃ全部消える。皆、死ぬ――
――さっさと起きて、駆けずり回れ――
女の声が聞こえた。
そして、彼の意識は浮上する。
◇
「――ぁが、ぎぁっぁぐぅ!」
魘されていたミコトが、唐突に苦痛の絶叫を上げた。
そばで見ていたレイラは、緊張に顔を強張らせた。
レイラに治癒魔術など使えないし、正体不明の病への対処法など知っているはずがない。
ここにサーシャがいないことが悔やまれる。無理やり休ませたのは失敗だったかもしれない。
もし、ミコトの体調が悪化したら……。
その後悔と危惧は、一応のところ、杞憂に終わった。
「――――っ!」
カッと目を見開いたミコトが、被っていた布団を乱暴に取り払い、糸で操られた人形のように、むくりと上体を起こした。
表情は無。その顔が青褪めてなければ、人形と錯覚するほどに人間味がない。
感情を映さない虚ろな瞳が、ぎょろりとレイラへと向く。
「サーシャは?」
その声には、感情の起伏がない。
レイラは戸惑いつつも答えた。
「か、買い物に行ったんじゃないかしら」
異様だ。普通じゃない。
今のミコトは、明らかにおかしい。
「そうか。じゃあ、町だな」
緩慢な仕草でミコトはベッドから降りると、扉に向けて歩き始めた。
あまりの唐突さに呆然としていたレイラは、慌ててミコトを引き止めようとする。
「ちょ、ちょっと、勝手に動くんじゃないわよ!」
しかしそれは、数瞬遅かった。
倒れ込むように扉に伸し掛かり、ドアノブを回すと、扉は開かれた。体重を乗せていたミコトは、そのまま廊下に投げ出されてしまう。
駆け寄ろうとしたレイラは行動の前に、ミコトの前に立つ男に気付いた。
カーリスト・G・エインルード。エインルード家の次期当主であり、当主代理であり、フリージスの兄である男。
「――そうだな。貴様には、勝手に動かれては困る」
レイラの言葉に同意するかのようなセリフだが、その意味合いが大きく異なることは、すぐに察せられた。
カーリストがミコトに向けるのは、疑いようもない、敵意。
ミコトとカーリストの視線が絡み合った。
直後、ミコトが絶叫が響く。
「あ、かぐがぁあだああざあぎっぎぁ……!」
強烈な頭痛でも感じているかのように、ミコトは頭を押さえて蹲った。
そのミコトの左肩に向けて、カーリストが足を振り下ろす。
拮抗はない。
抵抗もない。
ミコトの皮膚も、肉も、骨も――肩は、受け止めきれない。
カーリストの右足が、ずぶりと減り込み、食い込み、抉り出し、貫き通す。
ミコトの左肩が、呆気なく千切れた。
「――――ぁ、……ぁがぐっ、ぁぁぁぁ、ああぁぁァァ…………ッ!?」
千切れたミコトの左腕が、レイラの足元にまで転がってきた。
あまりの事態、信じられない状況に、レイラは後退ることしかできない。
なぜカーリストが、ミコトを攻撃している。
保護してくれるのではなかったのか。
レイラの心理状態に関わらず、状況は変わりゆく。
「――――!」
声にならない雄叫びを上げるミコト。しかしどういう原理かミコトの体は、正確には床との接地面が、まったく動かせていない。
右手、両膝、両足が封じられ、左腕はない。四肢を使えないミコトが取れる手段は、たった一つ。
「ぃぎゃぁっ、『イグニスト』ォ!」
詠唱。直後、右手から生み出されるはずの火弾が、床との接着によって暴発する。
火弾は床を抉り、炎がミコトとカーリストの両者を包み込んだ。
煙が晴れる。
そこにいたのは火傷だらけになって倒れ伏す者と、無傷の者がいる。
前者がミコトで、後者がカーリスト。
ミコトの自爆は、なんの結果も生まなかった。
「――逃げろ、レイラ! 急げぇ!!」
張り裂けるような声に、ようやくレイラは己のすべきことを認識した。
これはカーリスト……否、エインルードの総意かもしれない。だとすると、最も狙われる可能性があるのは――。
戦いの場から背を向けたレイラは、窓を蹴破って屋敷から脱出した。
後ろ髪を引かれる思いだが、思い違いをしてはいけない。自身にとっての最優先は妹だ。
その行動を、ミコトも望んでいる。
「フリージスの奴、どういうことよ!?」
すぐにでもフリージスに問い質したいが、そうしてもいられない。
レイラは衝撃を殺して着地すると、町の中へと紛れた。
レイラ・セレナイトに関してはどうでもいい。が、下手に殺して、《操魔》を刺激するのはまずい。
だから見逃す。あの程度はカーリストにとって、まったく脅威にならない。殺そうと思えば殺せる。
「あが……あぐふっ、げがっぁ」
足元で呻き声が聞こえた。ミコト・クロミヤに、カーリストは蛆虫でも見るかのような、凍て付いた視線を向けた。
蟻を踏み潰すように、腹部に乗せた足に体重を掛けていく。
カーリストの前では、あらゆるモノの『硬さ』は意味をなさない。例えダイアモンドだろうと関係ない。
水に沈むかのように、ミコトの腹部に足が沈んでいく。
「なん、だ……っ。テメェはァ!?」
ミコトの殺意が膨れ上がり、カーリストに叩き付けられる。が、それはカーリストに不快感を抱かせるのみ。
「黙せよ、《黒死》」
再度振り下ろした足が、今度はミコトの胸部を穿った。
弱々しく鼓動する心臓が露出する。
「あぐふっ、ふぐぐはっががはァ……ッ!!」
ミコトの必死の抵抗が、まるで効かない。
あらゆる攻撃が効かず、あらゆる防御が突破される。
今まで積み上げてきた、ミコト・クロミヤの全てが通用しない。
「吾はエインルード領、次期当主。カーリスト・グロウス・エインルード」
カーリストが宣言する。
言い聞かせるように、上から目線で、異質な使命感を以て告げる。
「――《地天》の使徒である」
カーリストの蹴りが、ミコトの頭部を消し飛ばした。
痛みを感じる一瞬すらなかった。
死。
『再生』。
(ああ……。ダリィ……)
怠惰に堕ちた少年は、危機が過ぎ去るまで、目覚めを拒む。
どこかに引き摺られるのを、朦朧と眺めていた。