第一話 変異してゆく物語
◆
「 」
声が聞こえた――そんな気がした。
誰だろう。
暗闇の中、周囲を見渡した。
誰もいない。
というか、ここはいったいどこだ?
「 !」
また、同じ声。
誰かが呼んでいる。
行かなきゃいけない、その人の元へ。
動こうとするが、体はなかなか先に進めない。
まるで、水の中を歩いているようだ。一挙一動があまりに遅い。
進む。どこに?
光のない、先が見えない真っ暗闇の中で伸ばした手は、闇に飲まれて見えない。
自身が見えない。
何もない。
誰もいない。
ここには何もなかった。
振り向いても、もともといた場所がどこだったのか、まったくわからない。
一歩進めば、戻れなくなる。
前進と後退の区別さえ、もはやできない。
ふと、足元が蠢いたような気がして、
「ミコト!」
――そして、意識が浮上する。
◇
「…………ぁ」
ミコト・クロミヤ、あるいは黒宮尊という名前の少年は、ゆっくりと目を覚ました。
意識は判然としない。焦点が定まるのに、しばらく時間を要した。
違和感。自身の手を見ると、誰かが触れている。
触れて感じる、人肌の温もり。銀髪赤眼の少女が、手を握ってくれている。
「あ、起きたんだ、よかった」
「ぃ、ぅ……」
出そうとした声は掠れていて、まともな音として機能しない。
ミコトが口をパクパクと開閉させていると、サーシャが水を飲ませてくれた。
冷たい水が口内の奥へ向かう。
咽喉が潤っていく。
食道を水が通っていったのがわかった。
周囲を見渡すと、訝しげなレイラとグラン、ラカとオーデ。遠巻きに眺めているフリージスとリースがいた。
「ここは……?」
「珍しいわね。アンタ、まだ寝惚けてるわけ? 昨日野宿したとこよ」
「……ああ、そういえば。って、寝惚け……あれ? 俺、寝てたのか?」
ゆっくりと思い出す。
確か昨日も寝ずの番を担当して、魔術の修業をしていたはずだ。
ああ、そうだ。あのとき、魔力を精製しようとして、急に頭痛に襲われたのだ。
完全に思い出した次の瞬間、頭に走る鈍い痛みを自覚する。
「ぐ……ぁ」
目の前が真っ赤に染まるような激痛に、ミコトは頭を押さえて呻いた。
体が芯から冷えていくように寒い。なのに心臓は激しく脈動し、身を焼くような灼熱の血液が体中に送られる。
脳に熱い血が通う瞬間、頭痛がよりひどくなる。
今の状態は、明らかに常軌を逸していた。
疑問を考える暇もなく、ミコトは地面に倒れ込んだ。
「み、ミコト……!?」
急変したミコトに、真っ先に反応したのはサーシャだった。
うつ伏せのミコトを仰向けにする。
「――かっ、はぁっ。……はぁっ、はぁっ……」
頬を上気させたミコトの目は虚ろで、焦点が合っていない。
短いテンポの呼吸は、ひどく荒い。表面的な身体状態だけを見れば熱を持っているのに、ミコトは寒そうに体を震わせていた。
サーシャはすぐさま魔法陣を構築する。そしてミコトへと押し付け、対病気用の治癒魔術『ベラティア』を発動した。
しかし、ミコトの調子はまったく改善しない。せめて、どんな病気かさえわかれば、対処できるかもしれないのだが……。
「フリージス!」
サーシャは仲間の中でも、最も魔術に長けた男に助けを求めた。
フリージス・G・エインルード。長い金髪と青い瞳の青年は、いつになく神妙そうな顔付きだった。
「僕も、今のミコトくんの状態はわからないな。だが、単なる風邪というわけではなさそうだ」
「そんな……!」
「もうすぐ、エインルード領に着くというのにね」
といった会話を、ミコトは朦朧とする意識の中で聞いた。
どうやら俺はぶっ倒れているらしいと、ミコトはようやく自身に起きたことを理解する。
そういえば、こんな映画があった。
宇宙人が地球に侵略してきて、人々が逃げ回るストーリーだ。
その終わりは、地球のウイルスに適応できなかった宇宙人が死んで解決、といった感じだ。
まさか、とミコトは考える。
宇宙人を異世界人として、侵略された側をこの世界とするなら。
ミコトもエイリアンと同じく、ウイルスに負けて死ぬのではないか。
(……それなら、『再生』すれば問題ないか)
『再生』。
死んだら完全状態で蘇るという、ミコト・クロミヤが持つ異能力。
それを発動すれば、この苦しみから脱することができるのではないか。
そこまで考えて、違和感。先ほどの思考に疑問を覚えた。
けれど何がおかしいのか、いくら考えても靄がかかったように答えは出ない。
……ともかく、違う。
今回のこれは病気ではないと、ミコトは直感的に悟っていた。
これは、『最適化』に近い何かだと……。
思考できたのは、そこまでだった。
一際強烈な頭痛が、意識を闇へと誘う。
ミコトは抗うこともできず、気を失った。
◇
ミコトの体調が急変したため、馬車は町へと急いだ。
もうすでにエインルード領内には入っている。この街道から町はすぐそこだ。
時折、麟馬を休ませるため立ち止まるのが、サーシャの焦燥を掻き立てた。
町に到着したのは、起床から約八時間後。
太陽が真上に昇って、少し傾いてきた頃のことだ。
――エインルードの中心にある町。名をエイン。
エインには、囲むように高い外壁があった。
その高さは王都のものを超え、三〇メートルに届くほどである。
エインに入るには城壁の関所を通らなければならない。
いくつかの商人の馬車が門前に並んでいたが、フリージスは「病人がいる」と言って彼らにどいてもらう。
フリージスはこの町の貴族で、かなり有名らしい。フリージスは御者台にいたリースの横に座り、関所の警備員に顔パスで通してもらって、町の中へと入る。
サーシャがエインの街並み感じたのは、きちっとしている、だった。
石造りの街並みだ。
地面に敷かれた、均等の大きさのレンガ。大通りの真ん中にいるとわかる、左右対称な家々。
このような光景は、生粋の地属性の貴族が納める街並みの特徴であった。それにしても、これは行き過ぎであったが。
中心部が豊かというのは、どこの領でも変わらない。進んでいくに連れ、豊かになっていくものだ。
それでもシンメトリーを崩さない辺り、少し異常な光景であった。
大通りは屋台で賑わっていた。
果物や料理の匂い、和やかな喧噪。平和な光景だった。
住民たちの視線。この馬車がエインルード家のものだとわかった瞬間、喧噪が一瞬静まった。
御者台のフリージスが手を振ると、それまでの静寂が嘘のように、住民たちが歓声を上げた。
ビクリと体を震わせるサーシャの耳に、人々の声が聞こえてくる。
こうやって平和に暮らせるのは、エインルードが初めてだった、と。
私たち、僕たち、俺たちを救ってくれてありがとう、と。
そんな人々の首には、首輪の痕があった。それはかつて、彼ら彼女らが元々、奴隷であったことを表している。その中には、《無霊の民》らしき者たちもいた。
ラカとオーデは、二人して息を飲んでいた。彼らも二カ月前までは奴隷だったから、感じ入るものがあるのだろう。
人垣の中から、二つの人影が飛び出してきた。
白い花冠を被った、一〇歳にも満たない少年と少女だった。同じ髪色と瞳から、おそらく兄妹なのだと推察できた。
兄妹に危険が及びかねないので、馬車は一旦停止する。
母親らしき人物が二人を連れ戻しに来た。母親は仕切りに謝罪しながらも、その目にはフリージスのそばに来られたことへの歓喜があった。
「どうしたんだい?」
フリージスが声をかけると、兄妹は顔を見合わせてから、一緒に何かを差し出した。
掌にあったのは、兄妹が被っているのと同じ、白い花冠であった。
「フリージスさま! これ、あげる!」
「わたしたちをたすけてくれて、ありがとうございます!」
そう言った兄妹や、その母親にも、首輪の痕がある。
時折冷たい言動を取るフリージスだが、優しいところもあるのだ。だからこそ保護してくれたのだと、サーシャは改めて実感した。
「ああ、ありがとう。ラオ、リエ。大事にするよ」
フリージスは受け取ると、花冠を頭に被った。
返答を聞いた母親が、ハッと目を見開いた。
「子供たちの名前を、憶えてくださっているのですか?」
「もちろんだとも。皆、僕たちを支えてくれる、大事な領民だからね。全員はさすがに無理だが、自分で救った人くらいは憶えているさ」
「ああ、ああ、フリージス様……! 光栄です、光栄です!」
兄妹の母親は涙を流し、手を胸の前に組んで祈り始めた。
まるで神様……。そういった扱いを受けるほどに、フリージスは領民の救いになったのだ。
「じゃあ、僕たちはそろそろ行くよ。この冠、ありがとうね」
最後にフリージスが手を振って、馬車は出発した。
フリージスの頭の上には、花の冠が乗っていた。
「エインルードの領民は、その三分の一が元奴隷なんだ」
フリージスは領民に笑顔を振り撒きながら、ぽつりとこぼすように語り始めた。
「それ以外のほとんども、奴隷だった者の血が混ざっている。奴隷とまったく交わらなかった家系なんて、領主の――エインルードの血筋以外にはないだろうさ」
エインルード領には、別名がある。
貴族からは蔑称で、奴隷からは理想郷として呼ばれる、その名は――、
――奴隷の街。
ミコトという病人がいたが、いくら大多数の領民が道を空けてくれるとはいえ、街の中で馬車を本気で走らせはしない。
それはきっと、ミコトは不死身だから問題ないだろう、というフリージスの考えがあったのかもしれないが。
遅々として進まない馬車に、サーシャはかなりの焦燥を覚えていた。
屋敷に到着したのは、街の中に入ってから数十分後のことだった。
使用人に案内されるまま、サーシャたちは移動する。
領主代理と会食する予定だが、ミコトは客室で寝かされることになった。首輪の痕がある使用人に案内され、グランがミコトを背負い付いていく。
サーシャも治癒術師であることを建前に、ミコトが心配で付いていった。
派手すぎない配色のカーペットに、落ち着きのある緑のカーテン。
置かれているテーブルやイスも意匠の凝った木造で、純白のベッドは一寸のズレもなく整えられている。
豪華でありながら金臭さを感じさせない客室は、静かな印象を見る者に与えた。
グランはミコトを起こさないよう、ゆっくりとベッドに降ろす。
サーシャはミコトに負担がかからないように、器用にベッドに寝かせて布団をかけた。
ミコトは目を覚まさない。
顔は赤く、額には汗を流している。荒い呼吸を繰り返して、ひどく苦しそうだ。
ミコトの額に手を付けると、かなり熱を出していることがわかった。
「ミコト……」
サーシャは『クラティア』と『ベラティア』の両方をミコトに使用する。
するとほんの少しだけ、安らいだ表情になった。あくまで、ほんの少しだけ、だが。
そのとき、客室のドアがノックされた。
入ってきたのは、いやに堅苦しい印象を受ける、三〇歳ぐらいの男だった。
金髪をオールバックに腰まで伸ばし、青い瞳をしている。
見た目に何か、おかしいところがあるわけではない。
感情を振り撒いてもいない。それどころか表情は無に近く、何を考えているのかわからない。
見た目は、それくらいなもの。
――だというのに、異常な雰囲気。
振り切れた人間が持つ、特有の威圧感。
威厳ではなく、異様。
「失礼する。貴様が《操魔》のサーシャ・セレナイトか?」
初対面の挨拶としては失礼な物言いだった。雰囲気、高価そうな服装や態度からして、おそらく貴族だろう。
グランが軽く目を細める横で、サーシャは気にせず答える。
「はい、わたしがサーシャ……です。でも、できればあんまり、『操魔』とは呼ばないで、ください」
「善処しよう」
相手が自分たちを保護してくれるエインルードの身内なら、失礼な態度で返すわけにはいかない。
上下関係や貴族の常識には疎いが、そのくらいはサーシャにもわかった。
「隣のは?」
「グラン・ガーネット。護衛として雇われた傭兵だ」
「そうか、ご苦労だった。褒美は後ほど渡そう」
グランは普段と変わらぬ口調で、敬語など微塵も使わなかったが、男に気にした様子はない。
「褒美の話をする……っていうことは、やっぱりエインルードの人ですか?」
「む、そうだが。……ああ、名乗っていなかったな。吾はカーリスト・G・エインルード。このエインルードの次期当主である」
彼――カーリストが名乗った、その直後だった。
今まで感情の失せた表情をしていたカーリストが、急に目を見開いたあと、鋭い眼差しでサーシャを睨み付ける。
一瞬怯えたが、違う。カーリストが睨んでいるのはサーシャではない。
その後ろ。
――ミコト・クロミヤに対して。
その目に宿っているのは、憎悪に近い非難だ。
「カーリスト……さん?」
呼び掛けると、カーリストは我を取り戻し、再び表情を無にした。
しかしそこには、隠し切れない動揺と、変わらず宿る敵意があった。
「失礼した」
カーリストは弁明しなかった。
ただ、頭を軽く下げただけ。そして彼は、何も言わずに客室を出て行った。