幕間 真実は闇の中
王都アルフォードの上層の建物は貴族所有のものが多いが、国が管理するものもある。兵舎や学園、飛行船の港などがそうだ。
その内に、囚人を収容する監獄が存在する。
上層北区の一画に建てられた監獄。その地下には極悪人を収容されている。終身刑、死刑を宣告されるほどの大罪人だ。
大罪人には人権がない。なんの許可もなく殺すのは不味いが、拷問であれば許される。
彼らは犯罪奴隷となって、青空の下を歩くことすら許されない。死ぬまでここに閉じ込められ、唯一死体になって外に出られるのだ。
そんな監獄の地下へと続く階段を降りる、一人の人物がいた。
パラシュ・アビール。騎士団所属の、小貴族上がりの一騎士だ。
騎士服を着ているが、しかし傍目から見て、今のパラシュが騎士とは疑わしかった。
なぜならその表情は憎悪で染まり、殺意で左右の色が違う目を血走らせていたからだ。端麗な容姿は歪み、騎士然としていない。
しかし、そんなパラシュを見る者は、ここにはいない。
彼が豹変したのは、見張りを通された後なのだ。
石畳の床を歩む。左右の檻に閉じ込められた囚人が怨嗟の声を上げるが、パラシュは気にも留めない。
こつ、こつ。と、規則的に足音が反響する。そのリズムは徐々に早くなっていく。
早歩きを超え、もはや強歩と言えるようになったとき、ついに目的地に辿り着いた。
監獄の地下、その最奥の檻にパラシュは強歩の勢いのまま、憎悪任せに手を叩き付けた。
金属の反響音が、ほとんど真っ暗と言っていい地下に響く。
パラシュが持ってきた魔道具ランプに照らされ、檻の中にいた人物がハッキリと映し出された。
パラシュは憎悪を漲らせたまま、その名を呼んだ。
「ドラシヴァ……!」
《公平狂》ドラシヴァ。
すべての強者を貶め弱者とすることで、人々を平等にしようという危険思想を抱く、正真正銘の狂人。
そいつが檻の向こうで、鎖に繋がれていた。両足首は拘束され、満足に動くことさえできない。
先日、庶民の協力によって捕えられた、第一級犯罪者。
その前科は、通り魔のように身分の高い者に障害を負わせるだけでなく、金持ちの資金の窃盗、屋敷の放火も含まれる。
そしてこの男は、パラシュの左目を抉り取った怨敵であった。
あのときの屈辱を、苦痛を思い出しただけで、沸々と怒りが湧いてくる。
そのために一人の奴隷を犠牲にして、復讐のために下層北区に赴いたのだ。捕獲ではなく、その場で殺すつもりだった。
結局それは、庶民の協力によって阻止されてしまったが。しかし、拷問ができなくなったわけではない。
「この顔を憶えているか、《公平狂》!」
「…………」
ドラシヴァは何も答えない。目をぼんやりを開けたまま、つまらそうにこちらを見てくるだけ。
それが、パラシュの怒りを加速させる。
「貴様に左目を奪われた! 屈辱だ! 自分はそのために、人の矜持を捨てたのだ!!」
「…………」
見張りから借りた鍵で錠を開けると、パラシュはずかずかと檻の中に踏み込む。
この復讐は、もう自分一人のものではない。
治癒術師のフィンスタリー・トゥンカリーは、パラシュの目的を聞いて、熱い応援をくれた。命を蔑ろにする者なぞ許せない、と。
治癒術師を紹介してくれたバッサは、ドラシヴァの居場所の情報を提供してくれた。バッサはドラシヴァに、少なからぬ関わりがあると言った。きっとバッサも被害者なのだ。
二人の人間が、パラシュの目的に賛同している。
だから何があろうとも、ドラシヴァを許すつもりはない。
「これから貴様の尊厳を奪っていく。皮膚を剥ぎ、骨を砕き、性器を壊し、歯を降り、鼻を潰し、爪を毟り! 俺と同じように、左目も奪ってやる!! 公平にしようってんなら、貴様も天秤に乗せないとなァ!! ほら、なんとか言えよォ!!」
パラシュの憎悪にまみれた言葉を、子守唄として気持ちよく聞いていたドラシヴァ。
パラシュに何かを言えと告げられ、ようやくその口を開く。
「この俺が今、弱者なれたなら……クキヒッ。それはなんとも甘美だが、まだ駄目だ。公平な世界の創生は、これからなんだから」
「また狂言か! それはもう聞き飽きた!」
「言えと言われたから、仕方なく言ったのだが……はぁ。ここは慈善活動ができなくて、ワーカーホリックなこの俺としては、息が詰まるなぁ」
パラシュは望んでいたのは、救いを懇願する声だった。
怨敵が糞尿垂らしてガタガタガタガタ恐怖に震え、無様に命乞いする姿を見たかったのだ。その上で、怨敵の希望を粉々に砕きたかったのだ。
ギリギリ、とパラシュは歯軋りする。
寝る間も惜しんで、どうやって苦しませようかと、暗い妄想を繰り返していた夜。常に食いしばってきた歯がこのとき、あまりの力にバギッ、と欠けた。
痛みはなかった。憎悪は痛覚を鈍らせる麻酔であり、依存と中毒で心身を蝕む麻薬でもあった。
見せかけはともかく、パラシュの心が元に戻ることは、余程の転機が訪れでもしない限りありえない状態まで来ていた。
ドラシヴァの溜め息。
縦に割れた黒い瞳が、パラシュを見て……否、パラシュと被るように、ほかの誰かを見ていた。
「――なぁ、そろそろいいだろ?」
唐突なドラシヴァの発言に、パラシュは眉根を寄せた。
「またわけのわからないことを! いつもの狂言か!」
「慈善活動に行かないと、ココロが張り裂けて死んでしまう。わかるだろう? ……いや、貴女は理解してくれないか」
「ああ、ああああああ、いい加減にィ! ……もういい。拷問すれば、多少まともな口を叩くだろう」
パラシュがドラシヴァの元に歩む。それを見て、ドラシヴァが狂った微笑みを浮かべる。
「そうだ、それでいい。ほら、早く近付けてくれ」
「ああ、言われなくても近付いてやる! その狂笑も、すぐに絶望に変えてやる!」
「本当、頼むよ。早く、早く早くハヤク――」
ドラシヴァの前に辿り着いた。
パラシュは手を伸ばす。手の中に握ったものを、ゆったりと、寸分も狂わないように、近付けていく。
あと少し。もう少し。ほんの少し。そして――差し込んだ。
「――さぁ、この俺を解放してくれ」
は……? と。
その声が誰のものなのか、パラシュにはしばらくの間、わからなかった。
その声音、声質。すべて見知ったモノ。
パラシュ・アビールが発した、呆然の声。そのはずが、誰か知らない者の声に聞こえた。
自分が何をしたのか、パラシュはしばらくの間、わからなかった。
パラシュ・アビールが伸ばした手。それが今、自分のモノでないように感じた。
手の中にあったのは、鍵だった。伸ばされた先にあったのは、錠だった。
二つが噛み合い、かちり、と開錠した。
それが自身の体が成したことなのに、自身の行為ではなかった。
パラシュが呆然としている間にも、体は勝手に動き続ける。
ドラシヴァを縛る錠は、ついにあと一つとなっていた。それに、鍵が伸ばされる。
「ぉ……ぉぉぉぉぉおおおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおぉぉぉぉ!」
必死の抵抗。勝手に動く右腕を、彼はなんとか抑えようとする。
その直後に彼は、今まで経験したことのない麻痺に似た激痛を、左目に感じた。
「ぁぐぎゃ……ぎゃががががああああああぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁア!」
左目の視界が真っ赤に染まった。どろりと、止めどなく血涙が溢れ出す。
激痛が心臓の鼓動に同期して、左目を中心に全身へと広がる。
パラシュが慌てて全身を確認した。
血管が膨張していた。強い鼓動、流れる血液によって肌が波打つ。
抵抗した瞬間、さらなる激痛が感覚を蝕む。
この体はもう、パラシュのものでなくなっていた。
血液の支配によって、彼は一切自身の意思で動けない。呼吸と、辛うじて口を動かすので精一杯だ。
がちん、と。ついにドラシヴァの拘束が外される。
ドラシヴァは一息吐くと、パラシュを介して誰かに微笑んだ。
「ありがとう、アクィナ。これでこの俺も、再び公平を目指せる」
「……ぁ……が……っ」
「それじゃあ、脱出も手伝ってほしいな」
「な……ぎ、ぃ……ぐ」
ドラシヴァの頼みを聞き入れ、パラシュの体が行動を開始した。
地下の通路を歩む。捕えられている囚人たちは皆、不気味な光景を見て静まり返っていた。
静寂の中。こつ、こつ、と足音が反響する。
階段に辿り着いた。
ドラシヴァが階下に待機し、パラシュがゆったりと登る。
見張りの男も、地下の異変に感付いたらしい。
階段を覗き見て、男はひっ、と小さな悲鳴を上げた。
パラシュの様子は尋常でなかった。
左目を中心に、血管が肌に浮き出て、強く波打っていたのだ。パラシュの端麗な顔立ちは、もはや見る影もない。
その様子に、男は恐怖を覚えていた。
瞬時、ダン! と床を蹴る。パラシュの体が階段を駆け上がった。
魔術を使わない身で、大きな跳躍。それは人体の限界に迫っていた。肉体のセーブがまるでできていない。
今度こそ見張りの男は、張り裂けるほどの悲鳴を上げようとする。しかしそれは、パラシュに顔を掴まれたことにより阻止される。
パラシュは男の顔を掴んだまま、硬い床に後頭部を叩き付けた。骨が折れ、皮膚が破れ、脳漿と血液が混ざった薄桃色の液体が床に広がっていく。
「……ぢ、が……じぶ……じゃ、ない。……じゃ、ない!」
己の行動を否定するパラシュ。その声は、新たな見張りを呼び寄せた。
「パラシュ様、いったいこれは何事です!?」
「ちが……じぶん、じゃ……ない。……ちが、ぢがぐで、ぇ……」
否定しながらも、パラシュの体は行動を続ける。
人体への配慮を無視した動きは、パラシュの痛覚に刺激を与えた。
「ぁ……ぁあぁ、あぁぁぁぁあああ……。あああああああぁぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁぁあああああああ、あああああああああアアアアアアアアアアアアアアア!」
いつの間にか彼は、最後の見張りを絞め殺していた。
救援要請の鐘の音を、パラシュは呆然と聞き流していた。
ドラシヴァは地下から姿を消していた。
脱出する光景を、数人の見張りが目撃していた。今、騎士の詰所に逃げた一人はきっと、パラシュを逃走援助の裏切者だと報告するだろう。
「あ、はぁ、はは。これ、で……アビール家も失墜、か。ドラシヴァにも、なにも、できなかった……な」
全身に広がる激痛は、最高潮に達していた。
急速に近付く死の実感。意識が遠のいていく間に思うのは、未練と謝罪。
「ごめ……な、ざい。は、ぁうえ。ちぢうぇ。ふしょうの、むすこで、ごめ……。フィン、さん。バッサ、ん。やづになぎもでびず……ごめ、なざぎぃ……!」
ああ、叶うことなら。
もう一度、バッサさんにお会いしたかった。
あなたに、やさしくしてもらったこと……。
たったすうじつでも……あなたとすごしたじかんは、かがやいておりました。
ああ ありが と ぅ
◇
「彼は役目を終えたのですね」
主を前に、バッサはなんの感慨も浮かべることなく、淡々と呟いた。
薄青の髪と青い瞳の、幼い少女。バッサの主――《聖水》の使徒・アクィナはぎこちなく頷く。
「う……ん。うご、かすの。めんどう、だった」
「ふふっ、アクィナ様らしいです」
声だけを聞くなら、それは日常的な会話として終わったかもしれない。
しかしその光景を見た者は、皆が口を揃えてこう言うだろう。『不気味だ』あるいは『気持ち悪い』。
夜の屋外。
二人が立つ地面から、どろりとした液体が噴出する。
血だ。
人ひとり分に相当する血液が、超常の異能によって、アクィナに吸い込まれる。
目から、鼻から、口から耳から、毛穴から、性器から。人体のありとあらゆる穴から、膨大な血液がアクィナに吸収されてゆく。
そのはずが、質量は増えない。アクィナの体には、一切の変化がなかった。
変化がないのは、アクィナだけではない。地面や服に付着するはずの血液は、すべて異変前と変わらない。
「は、ぁ……。これ、おいしく、ない」
一二歳らしからぬ妖艶な声音。
しかしその表情は、ひどくつまらなさそうだ。事実アクィナは、快感も満腹感も得られなかった。
「パラシュ・アビールは駄目でしたか。《公平卿》が、どうも失礼しました」
バッサは協力者の代わりに謝った。
そのとき唐突に、この場に新たな男が加わった。
「バッサさん、それはひどいな。アクィナちゃぁん、最近舌が肥えんじゃないか?」
硬化した、まるで針山のように鋭くとがった、深緑の髪。体のところどころが爬虫類のような、深緑の鱗に覆われた肌。真っ直ぐ前だけを見据えた、けれど狂気を孕んだ、縦に割れた黒い瞳。
鱗族、《公平狂》ドラシヴァが、夜闇から現れた。
この場の三人と、フィンスタリーなどその他少数の治癒術師は、協力を結んでいた。
ドラシヴァが負傷者を作る。世間に動きがばれないよう、バッサが治癒術師を紹介する。そして治癒術師の手によって、『水』を患者に取り込ませる。その後、頃合い見て、アクィナが『水』を回収、力を蓄える。
簡潔に纏めると、このような関係だ。
ドラシヴァには才能を見抜く優れて目と、歪んだ慈愛を持っていた。そんな彼は才能ある者を、殺さず障害を負わせる通り魔として活動していた。
最初はバッサが、一方的に利用するだけの関係だった。しかし、その利用価値は計り知れない。協力を持ち掛け、最終目標を語ると、ドラシヴァは快く了承してくれた。
その選択は大成功と言えただろう。ドラシヴァは以前にも増して、積極的に『慈善活動』をしてくれた。
「きちんと厳選してくれなければ困ります、ドラシヴァ。アクィナ様に粗食など……」
「真面目も真面目だ。この俺ほど勤勉な働き者、早々いないぞ」
ドラシヴァは深い溜め息をこぼした。
実績を評価されない不満ではない。彼はただ、焦れていた。
「それで? そろそろ渡したいものがある……って、前に言ってなかったか?」
「ああ、それですか。それなら、はい、どうぞ」
そうしてバッサが取り出したのは、赤い水晶だった。
ほかの分身体ではなく、このバッサだけが持ち得る物。魔鉱石以上に多量の魔力が圧縮されて作られた、聖晶石に似た何か。内包する魔力があまりに多く、バッサの分身魔術『アルトロ』を用いても複製できない代物。
それは聖晶石とは明らかに違う。色にしてもそうだが、魔力が違う。
澱み、濁り、神の理から逸脱した、異端の魔力。――瘴気。
その正体は魔大陸で採取された、邪晶石と呼ばれるモノだった。
ニヤリ。そのドラシヴァの笑みは、不敵ではなく狂気のもの。
狂人の狂気は邪晶石の使い方を瞬時に理解させた。彼は邪晶石を受け取ると、躊躇なく口の中に放り込んだ。
咀嚼はしない。拳ほどの大きさの邪晶石を、彼は一口で飲み込んだ。
ゴクリ。抵抗はなかった。食道に導かれ、そのまま体の中に堕ち……そして、どこかに吸収された。
直後、ドラシヴァの肉体から魔力が噴出する。
初めは青かった魔力は、急速に色を変えていき――ついに、赤い瘴気へと成る。
「ギ……ギヒャグヘブヒ、くはひゃぐげふぃふこかかききかいあかあ――――!!」
狂気は惹かれ合い、さらなる狂気を募らせる。これは、その一幕。
夜の王都に、狂人の狂笑が響く。その声は、こう告げた。
――すべての『弱者』よ、もうすぐだ。あらゆる『強者』よ、地に堕ちろ!
◇
◇
◇
「……もしもし?」
『ん? その声、ミコトではないのか?』
「え、ミコト? ……あ、これわたしのじゃない! ごめんね、すぐ代わるから! ミコトー、『ノーフォン』に連絡来たよー」
「ん、おう。サンキュ、サーシャ。……はいはい、お電話代わりまして、ミコト・クロミヤでございまーす。おっ、アスティアじゃん! やほー」
『おいミコト。先に出た女は、いったいどこの誰だ? なぜそいつが出た?』
「一応知ってるはずだぜ? サーシャっつって、あの《公平狂》からお前を守った一人だ」
『そ、そうだったのか……』
「サーシャが出たのは、俺が預けてたからなんだけど」
『なぜだぁ!?』
「いやぁ、俺って最近、物持ちが悪くてさぁ。繊細な品物だっていうし、壊しちゃ不味いだろ? だから信頼できる人に預かってもらってたの」
『そういうことでは……、そういうことでは……! ぐぬぬっ』
「歯軋りうっせぇ。で、なんの用だよ? こっちゃ王都出て三日しか経ってねえんだぜ?」
『大したことではない。いや、大したことか。お前にも関係ある話だ』
「ほう」
『ドラシヴァが牢獄から脱走した』
「ほう、脱走。ドラシヴァがねぇ、へぇ……、……へあっ!? 大したことじゃん! なんで、Why? どうやって、How!」
『それが不可解でな。脱走援助者がいたのだが、奇妙なのだ。援助者の名前はパラシュ・アビールというのだが』
「あ、俺そいつに会ったことあるわ。確か、目を抉られたとかなんとか……ん? なんで怨敵を助けるのさ?」
『だから奇妙なのだ』
「話は聞けないのか?」
『いや、死んだ。変死体……ミイラのようになってな』
「ふぅん、そりゃまた奇妙な話だなぁ」
『真相は闇の中、というわけだ。――さて、これで伝えなければならないことは伝えた。それでは、世間話と行こうではないか』
「オーケー、何か話題ある?」
『そうだな。それでは、こういうのはどうだ? 先日、近衛隊長のゼスが菓子作りをしたのだが、それがなんとも不味く……ハッ ぜ、ゼスではないか、こんなところで奇遇だな、ハハハハ。え、や、すまぬだからデコピンは勘弁してヒャンッ!』
「…………うん、じゃあまたな、アスティア。オタッシャデー!」
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中編・第四章『異世戒貴』
異世界滞在、四カ月目の上秋。
ミコト・クロミヤは、最悪の地獄に叩き落される。