第五話 暗き水の中
慌て、走り寄ってくるサーシャ。木の根に躓く姿は、あの強力な魔術を使ったようにはどうしても見えない。
まじまじと見つめられてもサーシャは気にした様子はなく、ミコトの体をペタペタと触り始めた。
「だ、大丈夫だった? どこにも怪我してない?」
「お、おう、大丈夫だから、別に確認しなくても――あっ、そこ触っちゃらめぇ!」
「念のため、治癒魔術かけておくね」
「や、大丈夫なんだけど……」
怪我がないのは本当なのだが、サーシャは聞かない。
魔術で世界を青く染め上げて、サーシャは左手をミコトへと翳した。
ただ今回は、今まで見てきたものとは違った。
青い光が舞い、サーシャの左手へと収束されていくまでは同じだが、今度は青い光が空中で幾何学模様を描き始めたのだ。
おそらく、ファンタジーではお馴染みの、魔術の発動に必要な、
「……魔法陣、って奴か?」
「うん、そうだよ」
ミコトの質問にサーシャは簡潔に答え、目を閉じた。集中しているようで、声をかけづらい。
と、サーシャが目を見開いて、魔法陣をミコトの胸部に押し付けた。
ギョッとするミコトの前で、サーシャは口を開いた。
世界を変える、詩を紡いだ。
「――『クラティア』」
たった一言。だが、落ち着いて聞けばその一言に、幾重にも重なった意味があることがわかった。
世界が書き換えられる。
倒れたときにでも擦りむいたのか、肘にできていた傷が、瞬時に消えてしまったのだ。
初めて落ち着いて見たファンタジーだ。本当に異世界なんだなぁ。
「……すげえ。俺は今ほどボキャ貧なのを恨んだことはねえよ」
呆然と呟くミコトに傷がないことを確認して、サーシャは安堵のため息をこぼした。
すると、サーシャが悲壮な表情をした。あまりに唐突で、ミコトは目を丸くする。
「なんで、戦ったの……?」
そう訊かれて、ミコトは言葉に詰まった。
「死ぬかもしれないのに、なんで?」
「……あれだ。お前は命の恩人だからな。助けるのは当然だろ?」
本当は、違う。
ただ、自己嫌悪の果てに、周りを見ないよう我武者羅に駆け出しただけだ。勇気でもなんでもない。
本当は、怖かった。
死にそうになって、すごく恐ろしかった。
しかしミコトは、そんな内心を悟らせないように、笑顔を作った。
いつもの自分を演じるのは得意だった。
「なんで、ミコト……」
しかし、サーシャは口を閉じた。泣きそうな顔で何かを言おうとして、しかしその顔が険しいものに染まる。
サーシャが左手でミコトの右手を掴み、走り出す。突然引っ張られたミコトは転がりそうになりつつも、なんとか体勢を立て直して付いて行く。
いったいどうしたのか訊こうとして――その前に、理由が判明した。
「――待ァてよ、オラァ!!」
背後からかけられた、憎悪のこもった男の声。
慌てて振り向くミコトの視界に、森の奥から追ってくるラウスの姿が映った。
「マジかよ、クソ!」
ミコトの中で焦燥が生まれた。
先ほどサーシャが放った水弾は、間違いなく直撃したはずだ。角熊への攻撃よりも強力そうだった魔術が、だ。
しかし、ラウスの体に付着した水はなく、服を汚した程度で怪我もしていない。
「醜い《操魔》とド素人ォ! 調子に乗ってんじゃァねェぞォ!!」
ミコトは苦々しい思いを吐き捨てた。死んでいたらよかったのに、と本心でぼやいた。
この思考は、日本人の倫理観としてどうなんだろうか。気にしている暇はない。
「ミコト、あそこ!」
ミコトは首を元に戻して前を見た。そして、視線の先で森が途切れているところがあった。
「出口か?」
「たぶん!」
「おそらくきっとメイビー! っしゃ、もうひと踏ん張りしますかね!」
ミコトとサーシャは、走る速度を上げた。
森の出口と思われる場所まで、もう少しだ。
自然と頬が緩むのがわかった。
この調子なら、ラウスから逃げ切れるだろう。町に付けばなんとかなるはずだ。
ミコトたちは森を出て、そのまま走り続け――サーシャがミコトの手を掴んで後ろに引っ張ったので、足を止めてしまった。
「なん……!?」
サーシャの意図を尋ねる前に、ミコトもそれに気づいた。
ミコトとサーシャの進行方向。その先に――地面が、なかった。
「メイビー……」
ミコトたちの進行を阻むように、横一線に大きな谷があった。斜面は急な傾斜、と言うよりは垂直のほうが正しいだろう。
幅は一〇メートルほどか。助走をつけても飛び越えられる距離ではない。
「しまった、ガルムの谷!」
サーシャが叫ぶ。きっとこの谷を失念していたのだろう。
ミコトの中で、絶望が生まれた。
「よぉ、追いつめたぜぇ」
男の声だ。ミコトはビクリと肩を震わせて、後ろを振り向いた。
茶髪の男――ラウスが残虐な笑みを浮かべて、目付きの悪いブラウンの三白眼でミコトたちを睨んでいた。
ラウスは体の周囲に風を纏っていた。風が目に見えるのは、ファンタジーならでは、か。
表面上、怒りは見えないが――放たれる怒気と殺気が、ミコトの芯を震わせた。
「もぉどこにも逃げらんねぇぞぉ」
ラウスが一歩、踏み出す。ミコトは後退ろうとして、足元が崩れるのを感じて踏み止まった。
ミコトたちとラウスの距離は近い。左右の道は開けているが、ミコトが全力で走ろうと、すぐに追いつかれてしまうだろう。
もちろん、後ろに下がっても深い谷が口を開けて待っているだけだ。
ミコトは歯噛みした。
「くっそが……」
戦うしか、ないのか。
ミコトはサーシャに視線を送った。気づいたサーシャが、横目でミコトを見る。
サーシャは恐怖に顔を強張らせていた。
ミコトはなんとか自制心を働かせ、表情を歪ませないようにするのが精一杯だった。
「(飛び降りるよ)」
サーシャの言葉に、目を見開いた。
飛び降りる場所なんて、ここには谷しかない。
まさか、一縷の望みに賭けるつもりでは。
そう考えるミコトの耳に、何がが聞こえた。
ミコトは耳を澄ませた。轟々と振動と、何かが流れる音が聞こえる。発生源は――谷底だ。
不自然に見えないように、サーシャを見るように首を少し曲げて、谷底を見た。そして、轟々と流れる川を確認した。
暗くてわかりにくいが、かなり高低差があるだろう。同様に、水深もわからない。
「(マジで?)」
サーシャが小さく頷いた。その表情は強張ったものだった。
きっと、サーシャも怖いのだろう。ならば、ここで弱音を吐くわけにはいかない。
ミコトはニヤリと笑った。本当は恐怖で震え出しそうだったが、無理やり心を奮い立たせる。
前を向いて、ミコトはラウスを睨んだ。
ミコトたちの苦悩の様子をニヤニヤと窺っていたラウスは、レイピアの腹で肩をポンポンと叩いた。
「作戦会議は終わったかぁ? ほぉらぁ、どぉするぅ? 逃げるかぁ? 尻尾巻いて犬のよぉにぃ? それともぉ、かかってくるかぁ? 身のほど知らずのアリが、無謀にもドラゴンへ立ち向かうよぉにぃ」
「ハッ、冗談。頭の悪いたとえだな。……俺は平和主義でな。疑いようもなくクソみてえな悪党にゃ、もう刹那たりとも関わりたくねえんだ」
だからさ、とミコトはサーシャを流し見た。サーシャはミコトと視線が合うと、大きく一つ頷いた。
ニヤリと不敵に笑って、サーシャに笑みを返し、サーシャの左手を握った。
「これにて失礼するぜ。んじゃな、アホ野郎」
言って、ミコトとサーシャは、同時に後ろに跳び下がった。足元が硬い地面から、何もない中空に変わる。
ほんの少しの浮遊感。そして、落下が始まった。
先ほどまで立っていた地面が、引き伸ばされた時間の中で上昇していく。
完全に地面よりも下に行く前に、ラウスのとぼけた顔が愉快で、思わず笑ってしまった。
落下速度が、急激に加速する。周りの景色がぐんぐんと移り変わっていく。
数秒もせず、足から川に叩きつけられた。衝撃でたまらず肺から空気を漏らした。
勢いのまま川底まで沈んでいく。もし川が浅ければ骨折は免れなかったが、幸い足が川底に付いたとき、すでに速度は少なくなっていた。
とはいえ完全とは言えず、脚にビリビリとした衝撃が走った。
サーシャの左手をしっかり握っていることを確かめて、空いている左手と両足を使って水面に向かう。だが、想像以上の急流のせいで、ミコトの体が乱雑に回って方向感覚が消えていく。
川の中、意を決して目を開いた。
水の中で目を開くのは、小学校のプール以来だ。不快感をこらえて周囲を確認しようとする。
ただでさえ見えにくい水中で、さらには暗い夜だ。水面を見つけるのは苦労した。
必死で泳いで、水面へ向かう。
しかし、死ぬ気で頑張っているのに、全然進んでいる気がしない。乱流が動きを阻害しているのだ。
いっそ、まったく動かないほうがいいのかもしれないが、ほとんどパニックになっているミコトに、そんなことを考える余裕はなかった。
(これは、まずい……ッ! 『水』の中『見ず』らい……なんつってる場合じゃねえこれホントまじ!?)
本当はラウスに立ち向かったほうがよかったのではないか、という後悔が生まれた。
ミコトは素人だからラウスがどれほど強いかなどわからないが、こんな急流な川に飛び込むよりずっと助かる可能性があったのではないのだろうか、と思えてしまう。
本当は何が正しかったのかもわからないが――言えるのは、もう手遅れということだけ。
そのとき、視界に影を捉えた。前方から迫る影は、急速にミコトの横を通りすぎる。
その瞬間にわかった。影の正体は、地面から突き出た岩だと。
またミコトの視界に影が映る。それは真正面から、ミコトに近づいてきていた。
慌てて移動しようと泳ぐが、激流のせいで思うように進まない。
ついに避けられず、岩とミコトの頭が激突した。
鈍い痛みが走り、視界が明滅する。
(……やっ、べぇ…………)
酸素不足に加え、激痛に襲われたのだ。なんとか気力を振り絞ろうとするが、これまでに溜まった疲労で、ミコトはもう限界だった。
そしてついに、ミコトの意識が闇に落ちていく。
繋いだ手だけを、強く握りしめて。
最後に、頭に走る鈍い痛みを感じながら――――。
◇
「はあ……」
夜闇の中、急流な川の川岸で、一人の少女がため息をこぼした。
鎖骨まで届く亜麻色の髪と、ツリ気味の目に緑眼を持った少女であった。
彼女は名前をレイラといった。
場所はガルムの谷。
中央大陸の東南部に位置する、アルフェリア王国。その北西のガルム森林を分断するようにある峡谷だ。
峡谷とは言うが、ガルムの谷は少し下流にいくと横幅が広くなり、ほとりができる。レイラはそのほとりを歩いていた。
ゴツゴツとした岩が多く転がっており、かなり歩きづらいはずの場所を、素早い足取りで進んでいく。
だが、その表情は暗いものだった。
理由はいくつかあるが――その大部分を占めるのは、彼女の妹分である少女の行方が、未だ掴めていないことだ。
その少女に、追っ手がいるというのに。
時間としては今日の……いや、昨日の晩。
仲間たちとともに、バーニルからファルマの町へ行くためバルマ街道を通っていたが、日が暮れてきたことで馬車を止め、一夜を明かすこととなったのだ。
戦力面からして危険はないが、無駄な労力を使って町に着いても宿が閉まっているだろうことを考えた結果だ。
そんなところに、あの二人組は攻めてきた。
一人は数年前に引退したはずの、風属性身体強化による高速移動と異様な執念深さからくる実力から、《カザグモ》という通り名を持つ傭兵、ラウス・エストック。
それだけなら問題なかった。仲間にはラウスと拮抗する実力者もいたし、後衛もいた。しかし、もう一人が問題だった。
――ヘレン。
ラウスにそう呼ばれていた女は、間違いなく化け物。上級魔術を消耗した様子もなく連発してくる風使いで、仲間全員でかかっても倒せる相手ではなかった。
サーシャを逃がせたのは、ただの幸運だ。ヘレンが無茶苦茶に魔術を放ったところ、うまいことサーシャが吹き飛ばされたおかげだ。
レイラは足止めに失敗したことを悔いた。なんとか仲間とともにヘレンを足止めしたが、それが精一杯でラウスを逃してしまったのだ。
妹分に対する心配が高まっていく。
レイラとその仲間たちは、タイミングを見計らってヘレンから逃げ出した。撃退なんて、とてもではないができなかった。
妹分の探索は、それぞれ別行動で探すことになった。
離れた人と連絡できる魔道具『ノーフォン』はあるが、妹分が持っていた『ノーフォン』は忌々しいことにヘレンが壊してしまっていたのか、連絡が取れない。
「急がないと……」
レイラたちが足止めをやめたということは、ヘレンが自由になるということだ。
妹分がヘレンと衝突すれば、敗北は必至だ。
力の足りない自身への怒りと、妹分に対する心配と、未だ見つからないことへの焦りが、レイラの足を急がせる。
そんな中、レイラの中で暗い感情が芽生えた。
――別に、放っておけばいいじゃないか。
レイラは首を振って、その醜い思考を振り払おうとする。
だが、一度考え始めると止まらなかった。
――あの子は自分のことなんて、姉貴分なんて思ってない。
――あの子は、妹分と同じ容姿の、別人なのだから。
違う、呟く。
それを認めるわけにはいかない。
彼女は妹だ。もはやたった一人の家族だ。
それに、恩人に託された彼女を、見捨てることなんてできない。
――恩人と言っても、もう故人じゃないか。
――苦しんでまで、やらなきゃいけないことか?
――報われることなんて、ないのというのに……。
「違う!」
報われるかどうかなんて、どうでもいい。
ただ、あの子が救われてくれれば、それでいい。
あの子の両親に救われた命だ。それを、残されたあの子のために使うのは、当然のことなのだ。
それに。
「……がなくても、あの子はアタシの妹なのよ」
レイラは深いため息を吐いた。腹の内に溜まった澱みを吐き捨てるように。
そして、抱いてしまった醜い思考を恥じて、憎んだ。
あの子は恩人の娘で、妹分の少女。
それだけで、いい。それだけで。
「…………」
どれほど歩き続けただろうか。
月の位置は傾いてきている。あと数時間で夜明けだ。
ふと違和感を感じて、レイラは川のほうにある岩場を見た。大きな岩が転がるそこに、何かがある。
目を凝らして、岩と岩の間から覗く、人の手を発見した。
「――――っ!」
咽喉がカラカラに干上がるのを感じた。
まさか、アレは。
あの子の手ではないのか?
焦燥感に急かされながら、レイラは岩場に辿り着いた。
顔を顰めた。
「……誰?」
岩に挟まるようにして倒れていたのは、白髪が混じった黒髪の少年だった。岩の間から見えていたのは、この少年の左手だったのだ。
ここからでは上半身しか見えないが、かなりボロボロで服には血の痕も付いている。川に入っていたのか、びしょ濡れだった。
血色が悪いが、まだ生きているようだ。しかし、放っておけば体温の低下で凍死するだろう。
もう春とはいえ、川の中ではやはり冷える。
少女は舌打ちした。
他人とはいえ、このままにしておくのは寝覚めが悪い。
妹分の甘さが映ってしまった、とぼやいて、せめて川から引き上げてあげようとして――少年の右手が握る、誰かの手に気づいた。
「もし、かして……」
少年の近くで、川から頭だけ突き出した人物を見つけた。銀の髪を持った、美しい少女。――レイラの妹分であった。
慌てて、妹分を川から引き上げた。触って確かめたが、体温が低下している。あのまま川に浸けたままだったら、少年と同じく凍死していたのは間違いない。
レイラは見渡し、谷の壁に開いた洞穴を発見した。
起きる様子のない妹分を背負う。
ふと思い出し、レイラは川に下半身を浸けた少年へ向けて言う。
「戻って来たときにまだ生きてたら、運んであげるわよ」
レイラは、今度こそ洞穴に向かっていった。