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第三話 奴隷の価値観

 《無霊の民》

・無霊大陸に住む、人間の一種族。

・灰色の髪。瞳は灰色と黄色が多い。

・ほとんど魔力の影響を受けていないので、自発的な魔力精製ができない。生物として最低限の魔力精製はしている。

・身体能力が高いが、身体強化した戦士には劣る。

・近年、拉致されて奴隷になる者が増加中。







「灰色、だ……?」


 前上方から声がかかった。刺々しく荒々しい少女の声だ。

 ミコトは声のほうを向く。

 中性的でボーイッシュな印象を受ける、八重歯の少女ががいた。


「あ……?」


 ミコトは眉根寄せた。その理由は二つある。

 一つ。その少女が、灰色の髪と黄色い瞳を持っていること。ミコトを甚振った男と特徴が同じで、二カ月前のことが思い出されたからだ。


 そしてもう一つが、少女が首輪をかけられ、檻に入れられていたことだ。

 奴隷。そして《無霊の民》というワードが、頭に思い浮かんだ。


 さて、その奴隷になった《無霊の民》が、自分に何用だろうか。

 待った末に、彼女が吐き出した言葉は、


「チッ、白髪が混じっただけかよ、紛らわしい。老いるのが早ーんだなぁ、中央大陸のニンゲンは?」


「テメェこらオイ髪のこと話すんじゃねえ!」


 チャングとの頭髪談義を経ても、未だ若白髪がコンプレックスということに変わりはない。

 トラウマ気味の記憶は、怒りによって吹き飛んだ。

 奴隷に向けた同情の念さえ、憤怒の前では立ち去るのみだ。


「だいたいお前、他人こと言えんのか? 特にそのファッションセンス。そんなぶっといチョーカー、流行んねえだろ?」


「言っていいことと悪いことがあるぜ餓鬼!」


「餓鬼? はんっ、一五の女子おなごが何を言う? 俺は一六だぞつまり相対的に見た場合お前のほうが餓鬼なんじゃい!」


「一歳だけだろ……っていうかなんでオレの歳を!?」


 口撃戦を繰り広げていたミコトと少女であったが、それを静止をかける者が現れた。

 檻の中、少女と一緒に捕らえられていた男だ。


 乱雑に切られた灰髪と、だらしなく垂れた目に、生気のない灰色の瞳。

 無精髭を生やした、四〇前の壮年だ。

 くたびれたサラリーマン、という印象を受ける。


「まあまあ、ラカ。そうカッカしちゃ駄目でやすよ」


「オーデ! 悪いのはオレじゃなくてこいつ……!」


「あ、いや、ごめんなさい。俺が悪かったよ。……と、先に謝って年長者の威厳を見せつける俺」


「ム・カ・ツ・ク!」


 ラカというらしい少女からの罵倒がうるさいが、ミコトは先に口撃戦を降りた。

 壮年――オーデのおかげで冷静になったミコトは、微妙そうな表情で、天を仰ぐ。


(それにしても、ボクっ娘ババアや、のじゃロリババアに、重々しい愚生貴族と、オレっ娘かぁ……)


 ……しれっと男を混ぜてしまったが、いろんな一人称の奴がいるもんだな、と思う。


「まあいいや。みんな違ってみんないい、的な?」


「どこのお坊ちゃん思考だ。ここは、ンな公平な世界じゃねーよ」


 少女がペッと唾を吐いてきたので、ミコトはさっと避けた。

 直後、「あ……」と奴隷二人が漏らした。


「奴隷の分際で、何様だ? あァ?」


 何事かとミコトが振り向くと、すぐ背後に、怒りで顔が真っ赤になった奴隷商人の男がいた。

 彼のズボンには、ラカが吐き出した唾がついている。手には鞭が握られていた。その様子を見ればわかる、彼が何をしようとしているのかが。


 自分にも責があるのに、鞭打ち調教を見逃せるはずもない。

 ミコトはとりあえず頭を下げた。


「いやぁっはぁ、すんません。ちょっと弄ってたんですけど、やりすぎましたですぅ」


「ほう、兄ちゃん。この餓鬼を庇うってことは、買ってくれんのかい?」


「いや、買わんけど」


「じゃあ口出しすんじゃねえよ」


「でもさ、鞭打ちは駄目だと思うんよ。ほら……」


 ミコトは躊躇ったあと、


「……商品だっしょ? 傷つけちゃいかんと思うんですわい」


「……そうだな。じゃあ、こうしよう」


 奴隷商人が、鞭打ちをやめたのだと思った。

 けれど、違った。


 奴隷商人は檻の中に唾がかかった靴を突っ込むと、嗜虐的な笑みを浮かべた。


「舐めろ」


「なっ……」


 ミコトは絶句した。

 なんだ、それは? まるで家畜のような扱いは? これは、人間への態度ではない。


「お、おい待てって! 新しい靴なら買うぞ? 俺も悪いんだし」


「人間の兄ちゃんは悪くねぇさ。悪いのは、俺ら人様に劣る奴隷無族だ」


 その奴隷商人のセリフに、今まで忌々しげに睨むだけだった少女が、憤怒に表情を染め上げた。


「無族じゃねー! オレの名はラカ・ルカ・ムレイ! 名誉ある《無霊の民》だ!」


 無族というのは、《無霊の民》の蔑称だ。人間に劣る、何もない種族という意味を持つ。

 が、それは《無霊の民》である少女――ラカからすると、どうしても許せないものであったらしい。


「名誉? めいよメイヨ、めーよ、ねぇ。こんな檻に入れられて、まだ人間様にンな口を叩けるか」


「ハン! ニンゲンサマも、堕ちに堕ちた奴隷商と一緒にされるのは嫌だろーさ!」


「なんだと!?」


 憤怒と羞恥に表情を醜く歪めた奴隷商人が、鞭を振り上げる。このままでは鉄格子の間を抜けて、ラカを叩かれるのは避けられない。

 ミコトが慌てて鞭の軌道に入ろうとした。だがそれより早く、奴隷商人の動きに反応して、滑り込む者がいた。


 バチン! と痛々しく乾いた音が響く。叩かれたのはラカではなく、


「オーデ!?」


 ラカの悲痛な悲鳴。

 オーデは呻きながらも、奴隷商人の足元まで這う。そして彼は、呆気にとられていた奴隷商人の靴を――舐めた。


 ミコトはまたも絶句した。

 なんだ、この光景は?

 理解はできる。ラカを庇ったことぐらいは、わかる。

 けれど、今目の前に広がる光景は、受け入れられなかった。


「気持ち悪いんだよ、クズ!」


 奴隷商人は一度足を引き、オーデの鼻っ面を蹴り上げた。

 鼻血を垂らし、檻の端まで転がるオーデを睨んだ奴隷商人は、興味が失せたように鼻を鳴らすと、店舗の中へと戻っていった。


「いてて……血が止まらねえっすわ」


「馬鹿オーデ! なんでお前は……!」


「あはは。いやね、女の子はやっぱり、傷がないほうがいいと思うんでやす、あっし」


 へらへらと笑うオーデに、ラカは表情を暗くした。


「あの……」


 ミコトが居心地悪くも声をかけると、ラカが視線を鋭くさせた。

 その目に宿っていた怒気は、憎悪を変じていた。

 ミコトは思わず後ずさったが、それでも、


「鼻血くらいなら、治せるから」


 右手に展開した魔法陣を見せて、ミコトはぎこちない笑みを浮かべたのだった。






 ラカの罵倒やらなんやらを終えて、数分後。ミコトは下手くそな治癒魔術『クラティア』で、オーデを治療していた。

 やはり他人に干渉魔術をかけるのは、生命力の反発もあって困難であったが、鼻血くらいなら治せる。


 治しながら、ミコトはぽつりと呟いた。


「オーデ……だっけ? 奴隷の扱いってのは、どこもかしこも、あんな感じなのか?」


「そうでやすねぇ。ここは中間でやしょうか? もっと上の層じゃ衣食住完備で別嬪に整えられたモンもいやすが、地方じゃ開拓のために使い潰されるんでやす。それでも前国王の時代と比べれば、格段に待遇改善されたそうですぜ。そう考えると、ここはいいとこっすよ」


 もう何度、絶句しただろうか。

 さっきの光景が、中間だというのか。あんな扱いが、中間? いいところ?


「奴隷だからって、あんな扱い……!」


 ミコトの憤りに、オーデは眩しそうに目を細めた。


「旦那……えっと、名前は?」


「ミコト・クロミヤ、だけど」


「ん。クロミヤの旦那は、優しいでやすね」


「そんなこと……!」


 そんなことはない。

 さっきのやりとりを、ミコトは呆然と眺めることしかできなかった。

 今も治癒魔術をかけているが、フリージスに金を貸してもらってまで救おうとは考えていない。

 憤っているのはただ、価値観が合わないだけだ。


「でも、これが奴隷でやすよ。これが、奴隷にとっての当たり前なんす。凝り固まった、価値観でやす」


 奴隷の価値観。奴隷に対する、人々の価値観。

 それはあまりに卑屈なもので、ミコトにはどうしても受け入れられない。納得できない。理解できない。


 ミコトは目を逸らした。逸らした先では、ラカが睨んでいた。

 居心地の悪さを覚えながら、話を逸らす。


「なんであいつを庇ったんだ?」


「同じ一族、仲間の誼……。それと、この年齢差、娘のように見えるんすよ。……こんな父親じゃあ、あの子も恥ずかしいでやしょうが。ラカは本当に、奴隷に堕ちても、変わらず輝いてやすから」


 くたびれた壮年は、へらへらと笑う。

 その姿は情けなく、価値観も受け入れがたく、みっともないものであったが……ミコトは、それを尊いと思った。


 オーデはラカのために動いた。誰よりも早く、娘と思う者のために動いたのだ。

 それだけは絶対に、否定できない。


「あんたは……立派な父親だよ、きっと」


 オーデは目を見開くと、ほっとしたような笑みを浮かべた。


「――ありがとうございやす。それを聞いて、あっしも安心しやした」


 そうして話していた頃には、オーデの鼻血は止まっていた。

 ミコトは彼らに何かができないだろうかと考えるも、購入する以外の手は窃盗ぐらいしか思い浮かばない。ミコトは今のところ、犯罪を犯すつもりはない。


 自分にできることは、何もない。

 ミコトは躊躇いながらも、その場を立ち去った。



     ◇



「不思議な少年でやしたねぇ」


 去り行くミコトを見送って、《無霊の民》である壮年オーデは呟いた。

 それを目敏く聞きつけたラカが、表情を怒りで歪ませた。


「ただの馬鹿だろ」


「確かに、思慮が浅いところはありやしたが……あれは、奴隷というモノを知らないだけでやしょう」


 ミコトは浅い思考で、ラカの行ないに対する許しを求めた。

 それは煽りすぎたという罪悪感があったかもしれないが、人としての善意でもあったのは間違いない。


 けれど彼は、奴隷というモノを、根本的なところで理解していなかった。

 奴隷とは者ではなく物。自身の所有権を他者に握られた、所有物。

 殴る、蹴る、叩く。すべては所有者の自由なのだ。


 その価値観は、現国王になって改善され、死に至る虐待こそなくなったものの、根っ子のところでは変わらない。

 けれどミコトは終始、同じ人間へ向ける目線であった。


「お坊ちゃんで、今まで奴隷を見たことがねーんだろーよ」


「高貴な雰囲気はありやせんでしたがね。あれは薄幸でやす」


「……そうだな。若白髪、生えてたし」


 随分な言われようのミコトである。

 本人が聞いたら激怒モノなのは間違いない。


 オーデは苦笑して、ミコトとの会話を思い出す。

 彼は自分を、立派な父親だと言った。本当にそうだろうか、とオーデは思う。


 かつてオーデは、オーデ・アーデ・ムレイと名乗っていた。

 けれど奴隷に堕ち、矜持を捨てた今では、ただのオーデだ。家名であるオーデも、無霊の名であるムレイも、名乗る資格はない。


 そうして生きる気力を失くしていたときに再会したのが、ラカ・ルカ・ムレイであった。

 彼女は奴隷に堕ちても、多少捻くれてこそいたが、矜持だけは失わなかっていなかった。オーデは強い憧れを抱いた。それは今でも変わらない。


 ところが、逆の立場で見てみよう。


 オーデはラカにとって、久しぶりに出会った《無霊の民》だった。

 しかし、そこにかつての面影はなく、いたのは絶望に屈した中年だ。

 ラカからすれば、随分と失望したものだろう。


 ラカは今でも、自分を慕ってくれている。

 けれどそれは本心なのだろうか。心の中では侮蔑しているのではないだろうか。

 そう考えてしまって、仕方なかった。


 自分はラカに、どう思われているんだろうか。

 それを訊くのが怖かった。訊いてはいけないことだとも、わかっていた。


「オーデ?」


 ハッと顔を上げた。

 目の前に、訝しんだ様子のラカがいた。

 長いこと考え込んでいたらしい。


「すいやせん。ちょっと考え事をしてやして」


「そうか。なんか困ったことがあったら言ってくれよ。オレたち、仲間なんだからさ」


「……そうでやすね」


 自分は考えすぎなのだろうか。とはいえ、これが性分なのだから、どうしようもない。

 オーデは自嘲した。それから数秒後のことだった。


「へえへえ。さっすが《カザグモ》殿だ。うちに来るたぁ、見る目がありますねえ」


「お世辞なんざいらねぇ。クソッ、だいたいこれは三店目だ。その時点で見る目がねぇよ。俺のお眼鏡に適わねぇ奴隷がいねぇんなら、とっとと別の店に行くぜ」


 店舗から奴隷商人と男が、話しながら出てきた。

 短い茶髪と、ブラウンの三白眼。どことなく軽薄な印象を受ける顔立ちをしていた。


「しっかしあの《カザグモ》殿が隻腕になっているとは……ヘマをしたものですなぁ」


「ぶち殺すぞ三下ァ」


「こぉれはこれは、失礼いたしました」


 奴隷商人の言葉遣いこそ丁寧であったが、頭を下げて《カザグモ》の視界から外れたときの表情は、深い侮蔑で染まっていた。


 長い間アルフェリア王国にいたオーデは、《カザグモ》の噂を聞いたことがあった。冷酷無慈悲に蜘蛛のごとく、敵対したものを屠る傭兵だと聞いている。

 その悪行は下層北区の住民にとっても見過ごせるものではなく、しかし処罰するには《カザグモ》は強すぎて、腫物のように扱っているという。


 檻の前に《カザグモ》が立った。ギロリ、と檻の中にいる奴隷たちを、粘ついた視線で睨む。

 そこには情欲に濡れた厭らしさこそなかったものの、隠しきれない残虐性が窺えた。


 一人二人と見定めていた《カザグモ》の視線が、一点に集中する。

 彼が目を付けたのは、灰色の髪と瞳を持った壮年――オーデであった。


 オーデはなんとなしに悟った。

 どうやら五年余りの主人なき奴隷生活は、この男に買われて終わるらしい。


「男……《無霊の民》……体格は同じ、か? おっさんってことだけが癪だが……もう探すのもめんどくせぇし、こいつでいいか」


《カザグモ》は何やらぶつぶつと呟いたあと、顔を上げた。


「よし、この男に決めた。おい三下。こいつを買うぜ。幾らだ?」


「へえ。こんなもんでどうでしょう?」


 奴隷商人がそろばんを弾いて見せる。オーデは《無霊の民》としての視力で、それを覗き見た。

 高い、それがオーデの感想だ。上・中層で売られるようなモノには劣るものの、下層で売られるような質の低い奴隷と比べれば、格段に値段が違う。


 それは《無霊の民》が、純粋な身体能力という点ではトップクラスであるからだ。

 もちろん身体強化などの魔術を使えば、《無霊の民》など容易く超える。しかし魔術の習得には、それなりに教養が必要だ。

 そこらの平凡な奴隷と比べれば、価格が高いのは当然であった。


(クロミヤの旦那がいたら、それが一人の人生の値段かと、愕然しそうでやすねぇ)


 なぜか強く記憶に残っている少年を思い出し、オーデは苦笑した。

 オーデが意味のない思考を続ける間にも交渉は進んでいく。否、それは交渉というより脅迫であった。


「高い。その六割だ。じゃねぇと殺す」


 不機嫌に《カザグモ》が首を横に振った。

 八つ当たりか、奴隷商人は苛立たしげに檻を蹴った。


「……相変わらず、クソみたいな男だ。この下層でも、あんたほどのクソ野郎は早々いないでしょうな。表に出る価値ねぇよ」


 奴隷商人のセリフのどこが、《カザグモ》の琴線に触れたのか。

《カザグモ》は突如として強烈な殺気を、奴隷商人に叩きつけた。奴隷商人は引きつった悲鳴を上げて尻もちをついてしまった。


《カザグモ》が舌打ちをする。次の瞬間、殺気は霧散した。

 懐から金貨を何枚か取り出すと、滂沱と汗をかいて荒い呼吸をする奴隷商人に投げ付けた。


「三下よぉ? 金を払ってやったんだ。さぁっさと奴隷を出せっての」


「く、クソ蜘蛛が、地獄に堕ちろ!」


 悪態を吐いた奴隷商人が檻を開ける。

 けれど、首輪をかけられている奴隷たちは逃げ出せない。

 もしも逃げ出したとして、逃亡奴隷として捕らえられるだけだ。


 奴隷商人は檻に繋がれた、オーデの鎖の鍵を外した。

 乱暴に鎖を引っ張られ、オーデはおぼつかない足取りで従うしかない。


「オーデを放せ!」


 それを許さないのが、ラカ・ルカ・ムレイという少女であった。

 痩せ細った体に力を込めて、奴隷商人へと跳びかかる。


 しかし、奴隷商人は鼻で笑うと、ラカの顎を蹴り上げた。

 ラカは檻の端まで蹴り飛ばされて、背中を強打した。


「ふん。衰えた無族風情に、この俺が負けるはずないだろうが」


 行くぞ、という命令にオーデは従う。

 どうか起きるなと願って、しかし願いは届かない。


「放せっつってんだろーがッ!!」


 苦痛を噛み殺したラカが、再び奴隷商人へと跳びかかる。

 もう逆らっては駄目だ。奴隷商人は格下に容赦しない、逆上しやすいタチの男だ。これ以上逆らえば、まずいことになるのは明らかだ。


 オーデはラカと奴隷商人の間に滑り込むと、ラカの横面を殴り飛ばした。

 驚愕からか、今度こそラカは悲鳴を上げた。信じられないという眼差しでこちらを見るラカを、オーデは己を殺してでも拒絶する。


「早く……行きやしょう」


 オーデは久しぶりに檻の外に出た。外は眩しくて、眼球が溶け落ちそうだと思った。

 奴隷商人が持つ鎖が、《カザグモ》へと託される。

 背後で檻の扉が閉まる音と、娘のように思っていた少女の慟哭が聞こえた。


 ただただ、オーデは思う。

 勇者でも魔王でも、魔女でも悪魔でも怪物でも、ただの人間だろうと、誰でもいい。

 身勝手な願いだとはわかっている。けれど、願わせてくれ。


 どうか――どうか彼女を、独りにしないでやってくれ。



     ◇



 どれだけの時間が過ぎただろうか。

 ラカは檻の中、独りぼっちだった。


 ラカの憔悴した様子を見兼ねたのか、ほかの奴隷も話しかけてきたが、そいつは自分たちから居場所を奪った人間どもだ。

 善意、それはきっと偽物だ。ラカは偽善者どもに、殺意を込めて睨み返した。それきり、一度も話しかけられない。


 ラカは奴隷に堕ちて、およそ半年ほどとなる。

 無霊大陸で過ごしていたところを、傭兵に拉致されたのが、地獄の始まりだ。


 中央大陸南西部からたらい回しにされ、時には飛行船にも乗せられ、気付いたらこんな東端の国にいた。


 不安で不安で仕方なかった。

 独りぼっちは怖かった。


 そんなとき再会したのだ。五年前、傭兵に襲われたときに救い、逆に捕まってしまった男と。

 ――オーデ・アーデ・ムレイ。

 彼はレイラにとって憧れだった。けれど会ったとき、オーデはあまりに様変わりしていた。


 優しげな微笑みは、卑屈に媚びを売る笑みに。

 悲しそうな顔は、どこか諦めた寂しげな笑みに。


 もちろん失望した。しかしそれよりも、恩を返したいと思ったのだ。

 助けられても結局、自分は捕まってしまって、こんなところにいるけれど。

 それが申し訳ないと思うからこそ、強く思った。


 オーデの希望であれ、と。支えであれ、と。


 けれど今、ここにオーデはいない。そして自分は、こうやって落ち込んでいる。

 連れていかれるときに引き止めようとしたのも、独りになるのが寂しいからだった。

 つまらない話だ。希望や支えで在ろうとしたはずが、逆に支えてもらっていたのだ。


「ぅ……ぅぅ……」


 独りでは、涙を堪えることすらできない。

 虚勢の皮を剥けば、弱い少女、たった独りしかいなかった。


「ォ……でぇ……」


 ラカはただただ独り、涙を流していた。


 ――そんなときだった。


「《無霊の民》、か」


「ご購入いたしますか?」


「もちろん。一人でも多いほうがいいからさ」


 檻の外を見やる。

 そこには微笑みを浮かべてこちらを観察する金髪青眼の青年と、紫紺の髪と瞳を持った無表情なメイドがいた。


 服装からして、上流階級なのは間違いない。

 反骨心を支えにして、ラカは睨みつけた。


「る、せーな」


「それは悪かった。でも、我慢してくれないかな?」


 悪びれもせず、変わらず微笑みを浮かべている青年。胡散臭い奴だ、と思った。


「まあ、悪いことにはならないさ。君はこれから、使命に貢献してもらうだけなんだから。っと、名乗りを忘れていたね。僕はフリージス・G・エインルード。この子が……」


「リースと申します。フリージス様お付きのメイドをやっております」


「ん、自己紹介終わり、かな。さて、君の名前が知りたいな」


 掴みどころのない主従に、ラカは溜息をこぼした。

 どうせ自分に観察眼はないのだ。どれだけ観察したって、相手の真意は見抜けない。


 ついにラカは面倒臭くなって、投げやりに告げた。

 ぶっきら棒に。不機嫌に。憮然と。


「……ラカ・ルカ・ムレイ」


「ん。ラカくん。これからよろしく」


 数分後、ラカは久しぶりに檻の外に出た。

 独りきりの外は、思いのほか寒かった。

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