断章 名もなき浄火の悔鬼
アルフェリア王国は、中央大陸最大の国土を持つ。
あまりに広すぎて、同じ国であるのに時差があり、気候がまったく違う。
その内訳は、大まかに以下のようになっている。
東の魔導地帯。中央大陸最大の霊地で、魔導技術が発達している。
西の交易地帯。輸入出が盛んで、商人の多くがここにいる。
南の森林地帯。緑豊かな場所で、獣族などの他種族が住んでいる。
北の火山地帯。噴火と同時に霊脈が引き上げられる影響で、多くの魔鉱石が出土する。現在出回っている魔鉱石の多くが、ここで採掘されたものだ。
ちなみに、ファルマやプラムなどの町村は、中央寄りの北西部であるが……。
ここで語ることは、きっとないだろう。舞台も、時間軸さえも違うのだ。
決定的に終わってしまった男の、最期が書かれた物語は、ここではやめておこう。
これから語る物語は、本編から八年前のこと。
火山地帯にある、マルハウトという村が舞台だ。
もっとも。
――この断章も、最期には違いないのだがね。
◇
新世歴九八七年、下冬。
矮族の炭鉱夫は、鉱山で魔鉱石を採掘し。
鱗族の傭兵は、危険生物を討伐する。
人族の商人は採掘された魔鉱石を運び、鍛冶師は鉄を打つ。
マルハウトでの生活は、例年と同じものであった。
それは、メティオという男にとっても、例外ではない。
生まれつき、炎を操ることができたメティオ。
火山地帯で鍛冶師の町であったマルハウトで、彼は神聖視、または畏怖されていた。
その力は噴火の力さえ抑制する強力なもので、もはや信仰と言ってもいいほど、メティオは敬われていた。
その日もまた、彼は『火の御子様』と呼ばれ、神のように扱われていた。
「火の御子様。お山のご機嫌は、いかがでしょうか?」
マルハウトの最も大きな屋敷で、声が上がる。その男の質問は、火山の様子を尋ねたものだ。
それに答えたのは、炎のような赤い髪と、青い瞳の男であった。
「いつもと変わらねえよ」
彼はいつもと同じ、ぶっきらぼうな態度で返した。
メティオが見たところ、次に火山が噴火するのは一〇〇年以上未来の話だ。それを伝えても、毎日のように訊いてくるのは、どうしてなのか。
(そんなにお前ら、山が怖いのかよ)
アホらしい。そして、つまらない。
メティオは深々とため息をついた。
「ほれ、わかったんならさっさと帰れ。このあとナールに会うんだ、不機嫌丸出しで会いたくない」
「ナール……。ああ、火の御子様の幼馴染ですな」
「そうだ。ほら、帰れっての」
ぞんざいに帰そうとするが、男は顔を顰めた。
そして。「失礼ですが」と言葉を紡ぐ。
「火の御子様とあの者では、立場が違います。貴方様は炎の寵愛を受けた御子様。お付き合いをする相手は選ばれて……」
「――その口、閉ざせ」
次の瞬間、メティオの放った火弾が、男の顔の横すれすれを通り過ぎた。
屋敷を壊すわけにはいかないので、途中で消しておく。
男は汗をだらだらと垂れ流している。
やりすぎた、などとは思わない。目の前の男は、言ってはならないことを言った。
「おいテメエ、なんの権限があって口を挟んでるんだ?」
「い、いえ。そんな、私は、町を代表する町長として……」
その言葉で、そういえばこいつ町長だったな、と思い出した。
ぶっちゃけると、今の今まで忘れていた。
「俺はなんだ? 言ってみろ。……まさか、テメエより下なんて言うつもりじゃねえよな?」
「そ、そんなっ、滅相もない!」
「じゃあ口を挟むんじゃねえよ。こっちはな、仕方なくこんな立場でいてやってるんだ。その上でまだ何か要求するつもりか?」
メティオの右腕に、赤いオーラが宿る。
身体強化魔術『イグニモート』ではない。彼の中に宿る炎の力を、イメージ通りに纏っただけだ。
その右拳で、宙を殴る。
パンッ! と空気が弾けた。
ヒッ、という小さな悲鳴が、町長から漏れた。
……みっともない。
もっと脅せば下のほうも漏れそうなほど恐怖していたが、別に嗜虐趣味があるわけでもなし。だいたい、屋敷が汚れてしまう。
ここらで手打ちにすることにした。
「いいか? 弱い人間が、俺に指図するんじゃねえ。……それと、だ。ナールに手を出しやがったら、噴火させてやるからな。――さあ、わかったら帰れ!」
メティオの怒号を聞くなり、町長はなけなしの気力を振り絞って一礼したあと、屋敷を去っていった。
本当に、情けない。
こういう人間を見るたび、メティオは夢に出てくる女のことを思い出す。
詳細は思い出せない。彼女の顔すら思い浮かばない。だが、とても強い、ということだけは憶えていた。
けれど、ここは夢でなく、現実だ。
互いに競い合えるような好敵手がほしいと、メティオは願う。まあ、望んで手に入るものではないが。
「……さて、と。もうすぐナールが来るし、玄関で待ってるか」
呟くのと同時、屋敷で働いている使用人が、来客の報を伝えてきた。呼んで来ると言うが、メティオは押し止め、自分で迎えに行くことにした。
数少ない、自分を一人の人間として見てくれる相手なのだ。使用人などに任せられるか。
そうして玄関に着いたとき、そこには一人の女性がいた。
艶のある黒髪を持つ彼女こそ、メティオの幼馴染――ナールであった。
「おお、来たな。さっそく上がってくれ」
町長への荒々しい態度からガラリと変わり、力強くも優しい口調で話す。
だが、ナールはメティオの内心を見破っていた。
「メティオ、何か嫌なことでもあった?」
「どうしたいきなり?」
「なんか、苛立ってるみたいだったから」
ナールの言葉に、メティオは気まずくなって頭を掻いた。
「さっき町長の野郎に会ってさ。ムカついたから追い返した」
「メティオらしいわね」
「そうか? 別に、誰にでもあんな態度取ってるわけじゃねえよ」
と言うメティオだが、大抵誰にでもぞんざいな態度を取っている。例外はナールと、メティオに信仰心を抱いていない幼き子供くらいなものだ。
「でも、よくわかるもんだな」
「わかるわよ。だって、もう二〇年の付き合いでしょ?」
「……もう、そんなに経つのか」
メティオとナールが出会ったのは、五歳のときだったか。
あの頃はまだ、メティオの異能は発覚しておらず、変わった子供と思われていただけだ。そのため、ナールと出会うこともできた。
それから二〇年。二人とも現在、二五歳となっていた。
二人とも結婚適齢期ギリギリだが、どちらも結婚していない。
メティオは単純に、釣り合う相手がいないから。薦められたお見合い相手も、一度も見ることなく蹴った。
ナールは美人だが、メティオのお気に入りという噂が広がっているため、手を出しづらいらしい。
そのことを思い出すと、メティオはなんだか申し訳ない気持ちになると同時に、安心してしまう。
「さて、広間に着いたが……何する?」
家の中でできることは、かなり少ない。
娯楽というものがないのだから、仕方ないと言える。
かと言って、外に出るわけにもいかない。
ハルマウトの象徴であるメティオが勝手に出かけると、大騒ぎになるのは目に見えていた。
「前来たときって、何をしたかしら?」
「確か、チェスだったな。その前はトランプだったか?」
「私が全勝したわね」
「うっせぇ。俺は頭が悪いんだ」
メティオはとかく、頭を使ったゲームが苦手だった。対してナールの頭脳は、この町でも随一であった。
火の御子様と敬われようと、メティオは特殊な力を持っただけの人間だ。なんでもかんでもできるわけじゃない。
バツが悪そうにメティオが頭を掻くと、ナールは目を丸くした。
「なんかメティオ、会った頃とすごく変わったわ」
「そうか?」
「そうよ。だって昔は負けず嫌いで、全然負けを認めなかったもの。それに、ふらっと失踪することもなくなったし」
「あー……」
メティオは気まずくなって、また頭を掻く。
ナールの言ったことは、その通りだった。昔と比べると今の自分は、ずいぶんと大人しくなったものだ。
メティオは昔、突発的に湧き上がる衝動を抑えることができなかった。それも、子供であることが言い訳にならないほどに。
夢に出てくる女以外に負けることが、悔しくて悔しくて仕方なかった。時折、その女に会いたくなって、旅に出ようとしたこともある。
怒りを抑えられず、ものすごく喧嘩っ早かった。
「昔話はやめろ。黒歴史だ」
「そう? 私はけっこう楽しいけど?」
くすくすと悪戯っぽく笑うナール。メティオは乾いた笑みを漏らした。
そういえば、とメティオは話題を変える。
「明日、新世祭だな」
「ええ、そうね。町じゃ、けっこう準備が進んでるわ」
新世祭。
下冬四〇日から四六日と、上春一日。その八日間に渡って開かれる、新しい年を祝う祭りのことだ。
これはマルハウトだけでなく、中央大陸全土の風習である。
屋台や見世物も増え、踊りをすることもある。
「ってことは、お前も踊るのか?」
「そうよ。これでも、この町じゃ一番の踊り手なのよ?」
えっへんと胸を張るナール。大きな胸が強調されて、メティオは目を逸らした。
「へ、へえ。じゃあ、ちょっと見せてくれよ。どうせこっちは、一個人として参加できねえからな」
火の御子たるメティオは、民衆に混じることができない。
役割というと、祭りの開催式で挨拶し、椅子に座って踏ん反り返るくらいなものだ。去年もそうだった。
「……仕方ないわね。じゃあ、メティオのためだけの踊り、やったげる」
メティオの寂しげな言を聞いて、ナールは彼の前に立った。
「ほらメティオ。音頭、お願いね?」
「へいへーい。うろ覚えだから、一緒に歌ってくれよ?」
屋敷の中で、女が踊り、歌が響く。
日常は不満だが、こんな生活もいいかもな、とメティオは思った。
そうして、時間は過ぎていく。
そう、刻一刻と。
――絶望の時は、迫りくる。
外を見ると、そろそろ日が暮れ始めていた。火山の奥に太陽が沈めば、夜はすぐだ。
メティオの屋敷はマルハウトの外れに建てられているため、暗い中の移動は危険だ。
「そろそろ終わりましょうか」
踊りを終えたナールは、額の汗を拭う。
「踊りってのは、こんなに疲れるのか。大変だな」
見ているだけというのも退屈したため、ナールの指導されながら踊っていたメティオは、息を荒くしていた。
メティオは火の御子なんて呼ばれてはいるものの、炎の能力以外は人並みなのだ。
「長いことお邪魔しちゃったわね」
「邪魔なんてことはないさ。また来いよ」
「ふふ、そうね。また来るわ。あ、そうだ。お祭りのとき、何か差し入れ持って行ってあげる」
「お、本当か!?」
側近どもには先に話を通しておかねば。メティオはしっかりと憶えておこうと、頭の中で復唱した。
そして立ち上がろうとしたが、裾を踏ん付けて体勢を崩してしまった。しかも運の悪いことに、ナールのほうへ倒れていく。
完全に不注意になっていたメティオもナールも、対処できない。
「おわぁ!?」
「きゃっ」
ごん、とナールを巻き込んで床に倒れた。
「いてて……」
ナールが下敷きになってしまったらしい。メティオは慌てて身を起こした。
「大丈夫か、ナー……ル」
目の前に、ナールの整った顔がある。目は閉じられている。
メティオの意識が真っ白になった。
神のごとく敬われようと、彼は男に過ぎない。
普段は意識しまいとしてきたナールの美しい容貌に、思わず見惚れてしまった。
停滞は十数秒ほどか。
ゆっくり、恐る恐るという風に目を開けたナールと、ぱっちりと目が合う。
俺は幼馴染にナニをしているんだ。
羞恥心を覚えたメティオは、すぐさま飛び起きた。
「わ、悪いナール!」
「……別にいいわよ、もう」
土下座しかねない勢いのメティオに、ナールはぶっきら棒に返した。
これは許されたのか、それとも怒りを抑えているだけなのか。判断に迷うメティオを横目に、ナールはぽつりと呟いた。
「意気地なし」
「え、今なんて?」
「もういいわよ!」
ナールは怒鳴ると、さっさと玄関から出て行ってしまった。
「なんなんだ、いったい……」
屋敷から去っていくナールを見送りながら、メティオは呆然と呟いた。
それは誰かに返答を期待してのことではなかった。そもそも、近くに使用人は愚か、人がいないはずだった。
しかし、返ってくる声があった。
「ふふ。キミも人が悪いなぁ」
その声は、玄関の外から発せられたものだった。
そして、玄関の影から現れる、一つの人影。
青い月の光に照らされ、人影の正体が明らかになる。
歳の頃は三〇台前半だろうか。純白の髪と青い瞳を持っている女性だった。
どこかで見たことがある。しかし、この目で見たことはない。
既視とも未知とも違う感覚だ。なぜか、懐かしさを覚える。
「誰だ、お前」
普段のメティオは、目の前に正体不明の人物が突然現れたなら、強く警戒しただろう。
だが謎の旧懐、そして『この人は安全だ』という根拠のない安心感によって、キツい態度になることができない。
「ああ、うんうんうん。そういえば、名乗るのがまだだったね。――初めまして、ボクはシェルア。……メティオ。キミと似たような存在さ」
『まったく悪意がない』女の言葉だ。
明らかに余所者で、火の御子の噂を聞いた見物客という風でもない彼女が、どうして自分の名を知っているのか。
そんなことに疑問など抱かず、メティオは首を傾げた。
「俺と同じ?」
「ええ、ええ、ええ。いろいろ話すこともあるし、中に入れてよ」
「それもそうだな」
そしてメティオはシェルアを屋敷へ上げ、先ほどまでナールといた広間に入った。
メティオは上座で胡坐を掻き、シェルアも腰を下ろした。
「メティオ。キミは今の世界をどう思っているのかな?」
いきなりなシェルアの切り出しに、メティオは訝しんだものの、思ったままに答える。
「世界なんて広いもん訊かれてもな。正直、どうでもいい」
「ああ、そんな広いものじゃなくてもいいんだ。んー、そうだね。じゃあ言い方を変えようか。自身の現状をどう認識しているのかな?」
シェルアの真剣な問いかけに、メティオもきちんと答えなければいけないと感じた。
頭の中を整理してしばらく、メティオは訥々と口を開く。
「やっぱり……不満、だな。火の御子なんて呼ばれて労働義務はなくなったが、考えなしに動けなくなった」
「壊したい?」
「極端だな。言っておくが、その気はない。これは俺自身が、納得して選んだ道だ。多少の不満は飲み込むさ」
「…………ふーん。でもでもでもさ、このままだとキミさ、気持ちを伝えられないままだよ」
シェルアの発言と悪戯っぽい眼差しで、彼女の言葉の意味を理解したメティオは、顔を真っ赤にした。
「な、なんの話だ」
「誤魔化したって無駄さ。だってボクは《虚心》の使徒だからねぇ」
「言っている意味がわからん!」
「――教えてあげるよ」
シェルアの瞳が、瞬時に青から赤へと色を変え、メティオを見つめた。
その輝きに魅入られ、メティオは目を奪われた。妖しい赤の輝きに、しかしメティオは気付かない。
「ボクとキミは勇者の使徒なんだ。ボクが《虚心》で、キミが《浄火》。つまり、ボクらは似たような存在」
シェルアの言葉が、メティオの脳内へと浸透する。
「でもでもでも、勇者サマどもの目的ってねぇ。ボクには合わないんだよねぇ」
その声は、直接に心を叩く。震わせる。
「だからさぁ、ねぇ。《浄火》のメティオ。ボクに、協力してくれないかなぁ?」
ここまでに来て、ようやくメティオは自身の異常に気付いた。
気付けば、今までの不可解な点が浮かび上がってくる。
どうしてこの女を信用したのか。屋敷へ上げたのか。
そして、ようやく気付く。女の赤い、魔族の瞳に。
「くっ……!」
目の前の女は異常だ。
すぐさま、今すぐにでも排除しなければならない。
もはや屋敷への配慮はない。
メティオは炎を生み出す――直前、シェルアの右手によって頭を掴まれた。
ぎりぎり、と握力が強まる。
激痛によって、メティオは能力を発動できない。
薄く明けた目蓋の向こうて、シェルアの笑みが弧を描く。
「ボクの仲間になりなよ。そうすれば、キミは思いのままに動くことができる。こんな町のことなんて、気にしなくていいんだ」
心を掴まれた。そう錯覚するような衝動が、メティオの中に入り込んでくる。
いや、入り込んでくるのではない。これは、内から溢れているのだ。
「想い人も、自分の好きなようにできるんだ。それって、素晴らしいことって思わない? 我慢って、体に悪いんだってね。もうさ、いいじゃないか。解放しちゃおうよ」
抗うことはとても苦痛で――この流れに身を任せたら、とても気持ちいいだろうな。
「たぁった一瞬。そう、一瞬さ。それだけで、キミの世界は変わる。とても、すごく、劇的に――ね?」
そうだ。一瞬だ。ほんの少しの間だけだ。
それぐらいの間、自由になったっていいだろう? ほら今、どこか誰かが言っている。
――壊せ、燃やせ、焼け、焦がせ、犯せ、殺せ!――
子供の頃に聞こえた、狂気に染まった声。
かつて他人の声として聞こえていたそれは、自分自身のものへと変わった。
そうだ。これは、俺がやりたいことなんだ。
だから、俺はそれに従うよ。
「――堕ちた、ね。ふふ、ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ、はははははははあはははあははあははあははあははあはははあはははあはあはははははははあはははあはっははははあははっははははあはっははははあっはっはははははははああはははははっははああははははははははははははははあはははあははあははあははあははあはははあはははあはあははあははあははあははあははあはははあはははあはあはははははははあはははあはっははははあははっははははあはっははははあっはっはははははははああはは――――――――」
――暗転する。
『火の御子様、これはいったい!?』
使用人か。毎回毎回、会うたびに頭下げて媚び売って、鬱陶しいったらありゃしない。
邪魔だ。俺の目の前に立つな。
『とうとう正体を現したな化け物め!』
ああ、やっぱり。
火の御子だなんだとか言って、みんな俺のこと、怖がってたんだな。
まあいいや。邪魔だ、燃えろ。
『あの化け物を討てえぇ!』
町長か。
俺の顔色を窺うだけの低能が、俺の行く先に立ち塞がるな。
邪魔だ、死ね。
『助け、たずけでぇ!』
あれ、何言ってるんだこいつ。意味が通じない。
クズども、俺にわかる言葉で話せよ。
本当、うるさい。燃えろ。
「アハ、あははははあははあははははああははははははっはあははははあっは!」
アア、なんて気持ちがイイんダろう。ずッと抑エてきた力を、十全に、欲望ノままに振るエルというのは。
アイツはドコにイるンだろう。
女だ。黒髪ノ、気高イ、アノ女は、ドコダ。
ソウイエバ、名前ハ、名前、ナマエ、ハ……。
『メティオ……?』
アァ、黒髪ノ女ダ。
懐カシイナ。久シブリ。
オレ、ジツハ、オマエノコト、愛シテ――。
――暗転。
頭が痛い。
目の奥が、なんだか熱かった。
体が怠い。
いつの間にか眠っていたらしい。
なんで眠っていたんだろう。さっきまで何をしていたんだっけ?
ずっと目を閉じていても仕方ない。
メティオは目を覚まし、目の前の光景を認識する。
黒煙で覆われた空。
燃え盛る家々。
焼ける肉と、その臭い。
「……は、ぁ?」
どうやら、まだ夢を見ているようだ。
目の前の光景を、メティオの脳は処理し切れなかった。
メティオはとにかく、立ち上がろうとして、気付いた。
肌の感触がおかしい、鮮明すぎる。
メティオは服を着ていなかった。
ふと近くを見ると、衣服がぐちゃぐちゃに放り棄てられている。付いた火から延焼し、すぐに灰になった。
なんで裸になっている?
このどろどろと湿った液体はなんだ?
――どうして裸のナールが、俺の下敷きになっている?
「……ん、だ? これ。おい、なんの……冗談、だ?」
まさか、悪戯か。心臓に悪いぞ。
体を揺らす。肌が冷たい。反応がない。
ナールの目は見開かれ、光を失って動かない。
「おい……ナール……?」
よく見てみれば、ナールは痣だらけで、赤と白と黒で汚されていた。
まるで、誰かに抑えつけられ、蹂躙されたかのような……。
――フラッシュバック。
『メティオ……?』
呆然と、こちらを見ている。
『ま、待って。どうしたの、メティオ!? 何があったの!?』
心配してくれるナールが近付いてくる。こちらからも近付いていく。
『きゃあ!? ねえ、待ってメティオ! こんな、急に、どうして……!?』
ナールが汚されていく。穢されていく。
否。汚しているのは己だ。穢しているのは己だ。
『私……メティオのこと、信じてるから……』
最期の最期まで、メティオのことを信じて、抱きしめてくれたナールを。
『私はメティオのこと、す――』
メティオの暴力が、ナールを――
「ぁ、ぁぁぁ、ぁああぁあぁぁああああぁ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああぁあぁぁああぁあああああああ…………!!」
思い出した。思い出した思い出した思い出した。
抑えてきた力を、十全に、欲望のままに振るった。
理性を犠牲に、本能だけで動いた。野獣のように、欲望を吐き出した。
「……ぁ……ぅ、ぇぁ…………?」
憶えている。当たり前だ。自分自身による、自分自身のための行動だ。忘れるはずがない。
ああ、そうだ。俺がやった。俺が殺した。
俺が、俺が、俺が、俺が俺が俺が俺が!
――この俺が、ナールを殺したんだ。
「ああああああ!? ナール、なーるぅぁああ! なんで、なんでなンでナンでなんデナンデだァ!? あああ、あああああああああああああ……!! これは、俺が――違う! 俺は、俺はおれはオレは、こんなことをしたかったんじゃない! こんなことのために、こんなことのためにぃィィィイイイ! アイツを……よごして……けがして……ちがう、ちがうちがうチガウ! チガウ!! 好きだったんだ、愛してたんだ、守りたかったんだ! スきになってほしかった、アイしてほしかった、ソバにいてほしかった! ほんとうだ、ホントウなんだぁ……! ぜったいに、こんな、ワケわかンねェことをしたかったンじゃナイ!! 俺は、俺は俺は俺は俺は俺はおれはおれはおれはおれはおれは! おれはああああああああああああああ――――ッ!!」
メティオの思考が、絶望で埋め尽くされていく。
ただただ、幼稚な言い訳を繰り返し叫ぶ。
次第に、メティオという存在が、染められていく。
正から負へ。常から狂へ。光から闇へ。聖から邪へ。青から赤へ。
「あああぁぁぁぁあぁぁあぁあぁあぁあぁぁあぁぁああああああああああああ! ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………、…………………………………………………………………………あああああああははははあはははあっははははははははははははははははははっはははははあははははっはっははははははははははははははははあはははあははあははあははあははあはははあはははあはあはははははははあはははあはっははははあははっははははあはっははははあっはっはははははははああはははははっははああはははははははははははははははははあはははあははあははあははあははあはははあはははあはあはははははははあはははあはっははははあははっははははあはっははははあっはっはははははははああはははははっははああはははははははははははははははははははははあっははあはははははははあはははあははあははあははあははははあはははあはあはははははははあはははあはっははははあははっははははあはっははははあっはっはははははははははははははははははははは――――――――!!」
――そして、堕ちた。
そこにいるのは、もはや人間ではない。
人間の形を成しただけの、欲望と絶望の化け物だ。
「ふふふ。狂ってしまえば、操るのはとても容易いよね」
メティオの傍にシェルアが近寄る。しかし、メティオは反応しない。メティオは彼女に害を与えられない。
いや、もしも制約がなくなったとして、メティオがシェルアに復讐することはないだろう。彼にはもう、人を見分けることさえできないのだから。
「じゃあ、次は『名無しの森』に行きましょうか。メティオを手に入れたんだから、制圧は楽勝だね」
シェルアはハルマウトの地を去る。その後ろに、黒装束の集団が続く。
メティオも呻きながら、シェルアの後ろに続く。
「ナ……ル。お、れは。……が、う。あ、い……す、ぃ……だ。ぁ……、ぇしぁぅぅぅぅ。ど、ご……だ」
もはや彼は、メティオという名前すらない。火の御子という称号すら、もはや意味などない。
今の彼を表す名称は、たった一つしかない。
◇
新世歴九八七年の、下冬の夜。
《浄火》の使徒が覚醒したのは、この瞬間であった。
彼は魔王教の最強兵器として、『名無しの森』や獣族の里バステート集落、封魔の里、ほかいくつもの村々を襲い、周囲に憤怒と憎悪を向けられて。
新世歴九九五年の上春に、最期を迎えることとなる。
かつて襲った里の生き残りや、守りたい人を持つ者たちに敗れ、死ぬのだ。
その最期は、最後を迎えた名もなき《浄火》にとって、幸運だったのだろうか。
それはきっと、本人にすらわからない。