第四話 赤い頭痛
「よぉーよぉー。やぁっと追いついたぜぇ、《操魔》ちゃーんぅ」
突然現れた男が、サーシャを見て嗤った。
厭らしさこそ感じないが、粘ついた邪悪な笑みだった。
ふとミコトの目が、男が持つ物に行く。
剣先が鋭く尖った、黒い剣身の片手剣だ。
形状から刺突に特化しているように見えるが、切り裂きにも使えるようで剣身に刃が付いている。
レイピア、という細剣が頭によぎった。
レイピアは細身で先端が鋭く尖った、刺突用の片手剣である。
しばしばフェンシングの武器と勘違いされるが、フェンシングの武器はフルーレと呼ばれるスモールソードの練習刀。レイピアは両刃で、一応斬撃にも使える。
「マジかよ、また生々しい武器を……。異世界だって言うなら、もっとファンタジーしてろよ。いや、十分ファンタジーなのか……?」
思わず呟いたミコトへ、初めて男が目を向けた。舐め回すような視線を受けて、生理的な嫌悪感が湧き上がった。
なんとなく、コイツとは気が合わない。ミコトは確信した。
最初から馴れ合うつもりなど毛頭ないが。
雰囲気から察せられる。――あの男は、サーシャの敵だ。
「へっ、そんなに見るなよ悪人面。鳥肌が立つぜ」
「わりぃわりぃ、若白髪。あぁんまりにも貧相な格好してっから、ゴミかと思っちまったぜぇ」
「しらっ……! いや、ゴミとは失礼な。死んだ魚みてえな目ぇしやがって」
コンプレックスである若白髪のことを言われ、頭に血が上りそうになる。
それをなんとか抑えながら、
「それにしても、森の中女の子を追いかけるなんて……悪人面、テメェどんなど変態だよ?」
「あぁ? まぁそいつが見目麗しいこたぁ認めるがなぁ、俺の趣味じゃねえよ。一〇年後に期待、ってとこだなぁ」
「ふうん。……そういや聞いたことがあるな。成人女性とヤるのが怖いから、幼い少女を襲う輩がいるって。ハッ、まさかテメェが!? 悪漢はあっかんと思うんだっ!」
「……てめぇ」
挑発されて顔を怒りに歪めた男を見て、会話の内容を疑問げに聞いていたサーシャが、慌てた様子でミコトの前に出た。
そうしてミコトと男を遮る形になって、ミコトを庇うように左腕を横に広げる。
「《カザグモ》。彼は、関係ない。手を出さないで」
「そりゃあ、見逃せってことかぁ? ちょぉっとイライラするが、まぁ、めんどぉが減るならこっちも願ったり叶ったりよぉ」
「お、おい、勝手に話を進めんな」
次々と勝手に決めていく二人へ、ミコトは焦って声をかけた。
自分には、サーシャを助けたいという意思がある。それを無視されて、安全を確保させられるわけにはいかない。
だがサーシャは、険しい顔で叫んだ。それがきっと、ミコトをこの場から引かせる手段だと信じて。
「命が懸かってるの!」
――命が懸かっている。
ミコトの体が震えた。
車に轢かれた瞬間と、角熊に殺されそうになった瞬間がフラッシュバックして、声が出なくなった。
――陽と陰が切り替わる。
「わたしが、相手になる」
「潔いねぇ、嫌いじゃねぇよぉ」
目の前で、勝手に話が進んでいく。
怯えて動けないミコトの前で、世界が勝手に。
(……まただ)
いつもそうだった。恐怖に囚われている内に、周囲が勝手に悪いほうへ向かっていく。
何かができたはずなのに何もせず、怯えて動こうとしない。
――父の心苦しそうな表情が。寝込んでしまった母の背中が。背を向けて走り出した玲貴の姿が。脳裏をよぎった。
また、躊躇して動かないのか。
もしかしたら、全部上手くいくかもしれないのに、何もしないのか。
「――ちげえだろ」
自身の内で生まれた自己嫌悪を抱えながら、ミコトは目の前の世界を睨んだ。
ミコトがいなくても勝手に進んでいく世界だ。そして、もともとミコトがいないはずだった世界だ。
ならば、この場において世界を変えられるのは――自分、ただ一人だけだ。
「――――」
日本において、死という存在は遠いものだった。身近の危機なんて、お年寄りの老死か、不注意ゆえの交通事故か……父親の『死』だけだった。
だが、ミコトは二度死にそうな目に合った。そして、死がどれだけ怖いものなのかは、理解した。
サーシャは言った。命が懸かっている、と。
その真剣な表情を見れば、それが真実なのだとわかる。本当に、この問題に関われば死んでしまうのだ。
だから。だからこそ。
――サーシャを、死なせたくない。
「……ぉ」
答えは決めた。選択した。
もう、変えることはできない。
演じろ、自分を。
最高の自分を演じろ。
「……ぉぉぉお……」
覚悟を決めろ。
後ろを振り返るな。
脇目も振らず、ただがむしゃらに走り抜けろ!
「おおおおおおおおおお――――!」
ミコトは地面を蹴って走り出した。
サーシャの制止の声も、耳に入らない。驚き目を見開く男など、思慮に値しない。
世界のすべてを振り切って、ミコトは男の懐深くへ潜り込んだ。
「おおおおああああああああああ――――ッ!」
右の拳を、強く、強く、強く握りしめ、振りかぶる。
そして、矯めに矯めた力を、解放した。
「へぇ」
視界の中で、男が口の端を吊り上げ、楽しげに目を細めた。――そんなこと、どうでもいい。
男に突き出した拳は、あっさりと避けられた。
当たり前だ。こんな大振りの攻撃、素人だって避けられる。そんなこと、ちゃんと考えている。
だからミコトは、勢いのままに体当たりを繰り出した。
それさえも避けられたが、今度は素早く左の拳を突き出した。軽いジャブだ。
その間に右拳を構え、体制を立て直す。
角熊を簡単に倒したサーシャが怯えるくらいだ。きっと、この男は強いのだろう。
それにレイピアという得物も持っている。素手のミコトが、普通に戦って勝てる相手ではない。
だから、
(勝つなら、インファイトしかない!)
武器を持っていようと、体はミコトと変わらない人間だ。ならば、武器が使えない位置まで踏み込めばいい。
ミコトは自棄のように行動を起こしたが、決して何も考えていないわけではないのだ。
運よく拳の範囲内に踏み込めたのだ。絶対に距離を離すことはできない。離されたら、また次に踏み込むのは至難だ。
「なぁ若白髪ぁ? 自分が場違いだってわかってっかぁ?」
人を小馬鹿にした語調で、男が語りかけてくる。それに対するミコトの返答は、考えるまでもなく、すらりと出てきた。
「場違い? 知るかよ! 俺は勝手にやってやる!」
誰のためにもならない気遣いに、価値なんてない。それがミコト答えだ。
男は呆気に取られたような顔をし、そのあと喜色を浮かべる。気色悪い笑みだ。
「同感。そこだけは気ぃ合いそぉだなぁ」
ミコトの言葉のどこに、気に入る要素があったのか。わからなかったし、考えるつもりもない。
ミコトは返事として、拳を返した。が、あっさり避けられる。
男に余裕を作らせないために、素早い連撃を繰り出すミコト。
だが、現実は非情だ。ミコトが放つ拳は、ラウスが身をよじるだけで簡単に避けられる。
遊ばれている。そうわかっていて、何もできない。
どうにかして捕まえられれば、そのままマウントを取って殴るだけなのに。それで、今までの喧嘩は勝てたのだ。
こちらがいくら殴られようと、相手が武器を持っていようと、ちょっと耐えて有利に立てば、あとは殴るだけ。
なのに。敵との距離が、こんなに遠い。
「くそ……っ!」
焦ったミコトは、意表を突くために蹴りを繰り出した。しなる脚は、確実に男に迫る。
だが。
「ざぁーんねぇーん」
声を発した男の表情には、嘲りの色があった。ミコトは蹴りが悪手だと悟ったが、すで放った今では遅すぎた。
男が屈む。それだけで、簡単に蹴りは避けられた。
さらに男は鞭のような蹴りを放った。しなった脚が向かう先は、右脚を放ったミコトを支える、左脚。
「冥土の土産だ、若白髪」
ミコトの左脚が、蹴りを受けた。そこまで強い衝撃ではない。が、すくい上げるだけの力は込められていた。
ほんの数瞬の浮遊感。気づけばミコトは尻餅をつき、男を見上げていた。
「俺の名はラウス・エストック。しっかり憶えて、死んでけよ?」
そして。
逆手に構えられたレイピアが、振り下ろされた。
◇
目の前にあるレイピアの切っ先が、自分の体に迫る。
スローモーションになった世界で、ミコトは嘆息した。
馬鹿なことをした、と思う。妙な正義感を振りかざて突貫し、結局は何もできずに死ぬのだ。
完全な犬死だ。これが馬鹿でなくてなんだというのか。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、やってよかったと思う。
もともと、死んでいたはずの命だから、自分の心が死を認めてしまったのかもしれない。
だが、一つだけ。
心残りがあった。
(俺が殺されたあと、サーシャはどうなる?)
ミコトが戦っていた内に逃げてくれていたなら、それでもいい。構わない。
だが、なんの関係もないミコトを庇おうとした彼女だ。ミコトはサーシャのことなど何も知らないが、逃げているとは考えづらかった。
なら。
自分が殺されたあと、サーシャはどうなるのか。
「――――ッ!」
意識を闇へ落とそうとする倦怠感を取っ払い、ミコトは閉じかけた目を見開いた。
――動け――
突如、強烈な頭痛に襲われた。
永続的で現実感を失わせる、鋭い痛みだ。
ミコトはその激痛に抗うことなく身を任せた。そうすることが最善であると、本能で悟ったのだ。
その瞬間、眼の痛みとともに、視界が真っ赤に染まった。
体が勝手に動く。
レイピアが届くまでに仰向けになり、両手を顔の横に付いたミコトは、両手に全体重を預けて下半身を持ち上げた。
その途中、身をよじることで、迫るレイピアを紙一重に避ける。
「はっ?」
耳に男のとぼけた声が届く。
聞こえたはずなのに、睡眠中に聞こえる音のように頭に残らない。
ミコトは左脚をレイピアを突き出している右腕に絡め、呆然としている男の顔に、震脚の要領で右足を突き出した。
ガン、と鈍い衝撃を足裏に感じながら、左脚で力の抜けた男の手から、レイピアを剥がそうとした。だが、それだけは成功しなかった。
そして半ば逆立ちした状態から、ブリッジのように腰を曲げて足を振り下し、その勢いで両手を地面から離すことで立ち上がった。
直後、頭痛は嘘のように消え、視界が平常のものへと戻る。
ミコトは我を取り戻して、一連の動作を思い出す。が、記憶があるのに実感がない。まるで夢を見ていたような気分だ。
目の前には、蹴られた頭を押さえ、ふらついている男がいた。
確か、ラウスと名乗ったか。死に際に聞かされただけなので、どうにも頭に残っていない。
ラウルだったか、ラウナだったか。いや、やっぱりラウスだ。
(つーか人の……俺の体って、こんなに動くもんなんだな)
運動神経はいいと自負していたが、まさかここまでとは。
ぼやき、そして気づく。
――世界の変化に。
空気中で青い光が舞っていた。それはまるで、世界が青く染まっているかのようだった。
そういえば、とミコトは思い出す。角熊に襲われ、死にそうになっていたところを。
意識が朦朧としていたためあまり憶えてないが、確か青い世界の中にいたような……。
青い光が移動する。その動きの軌道は一点に収束する。
中心には、一人の少女がいた。
銀髪赤眼の少女、サーシャだ。
先ほど話していた、穏やかな雰囲気とは違う。ピリピリとした緊張感を漂わせて、左腕をラウスに向けていた。
その左腕に、青い光が吸い込まれていく。
サーシャの左拳が輝く。次の瞬間その光は呆気なく消失し――ミコトは、世界が震えたのを感じた。
瞬きの間、左手の先に、サーシャの身長を超える巨大な水の塊が生まれていた。
そして。
サーシャが閉じていた目を見開き――詩を、紡ぐ。
「『アクエスト』……っ!」
サーシャの命令を受けた水の塊が、放ったサーシャに衝撃を与えた様子もなく射出される。
地面を削りながら直進する水の塊が向かう先は、ミコトに蹴られてふらつき、避ける様子のないラウス。
「――――ぁッ!」
ラウスが気づいた。だが、もう遅い。
水の塊は呆然としていたラウスを巻き込み、森の奥に木々を圧し折りながら消えていった。
角熊を倒したときよりも、大きさも威力も段違いだった。
「……おおぉ」
ミコトは呆然と、その光景を見つめていたのであった。