第三五話 グラン・ガーネットという男
中央大陸東南部、アルフェリア王国。その国の南西部に、獣族の里はあった。
その中の一つ、バステート集落。起伏の少ない森の中、自然豊かな地で、獣族たちは日々を暮していた。
周囲にあるほかの集落と争うこともなく、彼らは狩りを行って、平和に過ごしていた。
バステート集落に、炎のような赤い髪と、ブラウンの瞳を持つ男児が、この世界シェオルに生を受けた。
その少年こそが、グラン・ガーネットであった。
グランはすくすくと育っていった。
不器用で無口な彼だったが、狩りの才能は凄まじいものだった。幼いながら将来、獣王となるとまで言われるほどだ。
グラン自身、それを目指して強さを求めた。実力がそのまま階級となるバステート集落では、強さこそが正義だったからだ。
ただ、それだけが理由というわけではなかった。というより彼は、里で威張り散らすつもりなどなかった。
まあ、単純な話。
今代の獣王の孫、セリアン。
グランは彼女に、一目惚れしたわけである。
出会いは九歳のときだった。
当時から才覚を現し始めていたグランは、大人に見守られながらの狩りが不満だった。
幼きグランは、自分の実力を把握できていなかった。
実力に見合わない自信だけが膨れ、大人の角熊が出ようが倒してやる、と意気込んでいた。
黙って集落を飛び出し、森を散策する。
背が高く、幅も広い木々の間を、グランは静かに歩んでいく。
さあ、いつでも来い。
「…………?」
気配を研ぎ澄ませていたグランの耳に、音が聞こえた。
甲高い声、おそらく少女のものだ。
この近辺に人間の村はないので、獣族だろう。
獣族は誇り高い種族。決して仲間を見捨てない、気高き心を持つ。
ただ、グランはそういう誇りなど理解していなかった。これが常識だから、それに従うだけだ。
狩りを中断させられた苛立ちから、グランは小さく舌打ちして、声の元へ近付いていった。
木陰から、そっと覗き見る。
そしてグランは、ハッと目を見開いた。
「――――」
座り込む少女がいた。
グランは思わず、その少女に見惚れてしまった。
歳の頃は、グランより少し幼いくらいか。
真ん丸と大きい、くりくりとした目。ブラウンの瞳は涙に濡れている。綺麗な金色の髪が、風でたなびいた。
何より、獣族の象徴である獣耳だ。側頭部に生えた獣耳は不安のためか垂れて、物音がするたび体と連動してビクビクと動いていた。
(美しい……ではない!)
頭をぶんぶんと振って、惚気た思考を吹き飛ばす。
グランは頬をペシャリと叩いて気合いを入れると、胸を張って大きい歩幅で踏み出した。
もう惚気ないと念じつつ、ちゃっかり背伸びしているグランであった。
「どうした?」
格好つけたくなるとき、なかなか動かない己の口が憎らしくなる。もっと気の利いたセリフは吐けないのか。
少女は泣き声を上げることはなくなったが、ぽろぽろと涙を流している。もしかして、怖がらせているのだろうか。
不安になったグランだが、ふと視線を下げる。擦り剥いてしまったのか、少女の膝に血が滲んでいた。
「……少し待て」
グランは周囲を見渡し、あるものを探す。時間も経たず見つけ、一本の木に近付いた。
その木の傍に生えていた草を引き抜き、グランは急いで少女の元に戻る。
ナイフで茎に切れ込みを入れると、どろりとした透明な液体が出てくる。グランはその液体を、少女の傷に垂らした。
「薬だ」
薬草の知識の修得は、獣族として必須だ。森に住んでいるのだから当然である。
この幼き少女はまだ習っていないようだが。
「…………」
「…………」
両者とも、口を開こうとしない。やはり怖がらせてしまっただろうか。
グランは気まずくなって視線を逸らした。
「…………!」
会話力を欠如した結果の行為だが、今回ばかりはそれが幸運に繋がった。
少女を抱え、グランはその場を飛び退く。
少女は悲鳴を上げたが、先ほどまで自分たちがいた場所を見て、咽喉が凍り付いた。
黒い体毛。
額から突き出た一本の角。
角熊が牙を剥き出し、グランたちを睨んでいた。
「くっ……」
どうするか。
逃げるには少女が邪魔だ。
ならば、戦うしかない。
いざ相対してみると、大人たちがいない状況に、想像以上の不安を覚えた。
失敗すれば後がない。そして、背中に誰かがいる――守る者がいるということは、思っていた以上のプレッシャーだった。
それでも、グランは獣族の戦士だ。戦士は、守ってこその戦士なのだ。
それを今、理解した。
「ぉ……っぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「ガァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
グランと角熊は同時に雄叫びを上げ、跳びかかった。
必死で剣を振るって、回避して、ときにはわざと受けて、戦った。
少女に牙を届かせないため、命を賭けた。
幼き戦士は、気を失うまで戦った。
グランが目を覚ましたとき、穴倉にいた。
穴倉とは言うが、これが獣族の住宅である。大樹の下に穴を掘っているのだ。
見覚えのない家だが、グランの自宅より上階級だろう。置いてある家具などを見て判断した。
ここはどこだろう。
どうしてこんなところにいるんだろう。
グランが頭を捻っていると、穴倉に誰かが入って来た。
その人物を見て、グランは目を見開いて驚いた。
金の髪とブラウンの瞳を持つ老人。しかし、その強靭な肉体は、老いを感じさせないほど力強い。
――ディラン・バステート・スロヴィ。
バステート集落を束ねる獣王が、そこにいた。
グランは慌てて頭を下げようとした。
が、体が痛んでどうにも動けない。獣王の前で、みっともなく呻く始末だ。
「よい。楽にせよ」
「ハッ」
グランは上体だけはなんとか起こして、頭を下げた。
どうしてこんなことになっているんだろう。
確か、一人で勝手に集落を跳び出して、そこで少女を見つけて、そのあと――、
「あ、あの! 俺……自分の傍に、少女はいなかっ……いませんでしたか?」
「ああ無事じゃよ。ほれ、挨拶せんかい」
ディランの背後から、ひょっこりと頭だけを覗かせる少女がいた。
その少女こそ、グランが森で出会った人物であった。
「あ、あの……たすけてくれて、ありがとうございました」
たどたどしい言葉遣いだ。自分と同じく、敬語に慣れていないのだろうか。
グランは咄嗟に、「どうも」としか答えられなかった。
「儂からも礼を言おう、戦士グラン。儂の孫を守ってくれてありがとう」
「そ、そのような、その、もったいなきお言葉……。……? ……孫、ですか?」
グランは顔には出さなかったが、それはそれは驚いたのなんの。
孫がいるというのは知っていたが、臆病らしくなかなか家を出ないものだから、まったく知らなかった。
「そうじゃ。可愛いじゃろう?」
「は、はあ……」
「ああ、そうじゃ。暇なときでいい。君さえよければ、この子の遊び相手になってくれぬだろうか?」
「わ、わかりました」
ディランに背を押され、少女が近付いてきた。
おどおどとしていて、緊張しているのか耳がピクピクしている。それが可愛らしく思える。人付き合いが苦手なグランでさえ、庇護欲をそそられるほどだ。
「わ、わたしはセリアン・スロヴィですっ! よ、よろしくお願いしましゅ!」
「……ぐ、グラン・ガーネット、です。こちらこそ、よろしく……お願いします」
そのような流れを経て、グランはセリアンの遊び相手となった。
グランは九歳から一年経ち、一〇歳になった。
その間、グランはセリアンの遊び相手となっていた。
セリアンはなんというか、獣族らしくない少女だった。
悪い意味で、だ。
臆病な性格もそうだが、運動神経が悪い。
病弱ではなく元気なのだが、いかんせん体力が少ない。
なんで俺は修行の時間を削ってまで、こんな少女に付き合っているのだろう、とグランは疑問を覚えた。
獣王に頼まれたから、というだけではない。そもそも彼は暇なときと言っていたのだから、わざわざ修行時間を削る必要はないのだ。
「グラン、見ていてくださいね!」
セリアンの声に、グランは思考の海から脱した。
目の前に立つセリアンは、何やら手を前に付き出して、うんうんと唸っている。
いったい何をやっているのだろう。
しばらく黙って見ていると、突然セリアンの掌に水が現れた。
「……まさか、魔術か?」
「グランが狩りに出ている間、練習してたんです! どうですか!?」
「すごいな」
一言だけだったが、セリアンは喜んで飛び跳ねた。
会話が上手くないのに、あまり感想を求めないでほしいと思う。が、月並み以下な言葉で喜んでくれるなら、なんとか捻り出したくなる。
もっとも、どれだけ考えても、いつも通り何も思い浮かばないのだが。時間が過ぎるに連れ、想いは告げづらくなる。
最終的に『まあいいか』と諦めた。
改めて、目の前の少女を眺める。
彼女の笑顔を見ていると、仄かに体温が上がった気がした。顔がなんだか熱い。
湧き上がった感情の正体を、グランはまだ掴めていないが。
グランはなんだかんだ言って、こんな日常を気に入っていたのだ。
そんな彼だが、遊んでばかりいたわけではない。むしろ修行の密度は以前より上がっていて、セリアンとの時間はいい休憩時間となっていた。
一度死線を潜ったためか、守るということを知ったためか、それとも……自身でさえわからない感情が生まれたためか。
彼は以前より、各段に強くなっていた。
しかし彼には、悩みがあった。
つい最近、グランも魔力精製できるようになったのだが、魔術の才能がほとんどなかったのだ。
戦士にとって、魔術というのは重要な要素だ。それが不得意というのは、大きな欠点になる。
焦燥のグランは修行中、ディランに呼び出された。
「なんでしょうか、獣王様」
「うむ。実は獣王候補を、里の外に出そうと思うんじゃ」
「なぜ……?」
「世界の大きさを見るため。経験を積むため。そして決して驕らぬ、確固たる人格を身に着けるためじゃ。そこでグラン、君も行ってみんか?」
バステート集落の戦士たるグランの答えは、初めから決まっているようなものだ。
グランは力強く頷いた。
旅立つにしても、グランは外界の常識が欠けている。
というわけで、約三年のときをかけ、常識を学んでいった。
字の書き方や金の使い方。バステート集落で許可されていても、外界では禁止されている行為の数々。グランには未知の領域であった。
そして、グランは一三歳になった。
もう、出発のときだ。
「本当に、行くんですか?」
「ああ」
何度目かのセリアンの問いに、グランは硬い意思で深く頷いた。
これでも、グランも離れたくないと思っている。だからこそ、三年もの時間をかけたのだ。
「一〇年だ」
「えっ?」
唐突に告げたグランに、セリアンは目を丸くした。
「一〇年で、俺は名のある傭兵になってみせる。この里で、最強になってみせる。それまで……待ってくれないか? 伝えたいことが、あるんだ」
真っ直ぐなグランの目を見て、セリアンも綺麗な笑みを浮かべた。
その笑顔があんまりにも綺麗で、グランは見惚れてしまった。
「わたしも、グランが帰ってきたら、伝えたいことがあるんです」
「それは……いや、なんでもない」
なんとなく、彼女が伝えたいことがわかった気がしたが、勘違いだったら気まずいし、帰ってきたらと言ってるし。
いや、でも、なぁ……。
「――じゃあ、行く」
気が変わらないうちに、グランは力強く告げた。
「またいつか。俺が強くなったときに」
「待っています」
そしてグランは、人間界へと飛び出していった。
人間界では、未知の連続だった。
上から下まで、強者と弱者が溢れる世界。
知らないモノ。
勉強したことのない知識。
敵わない実力。
当てはまらない価値観。
理解できない風習。
それらを乗り越え、グランは傭兵として、日々戦ってきた。
最初は野犬退治だった。初めて金を稼いだ。
それから少しずつ規模が大きくなって、山賊を殲滅。初めて人を殺した。
相変わらず魔術は苦手だったが、火属性の身体強化『イグニモート』と、付与魔術『イグニエント』を修得した。
グランの戦闘力は、急速に成長していった。
《カザグモ》と呼ばれていたラウスと、成り行きで決闘したこともあった。
鋭い剣捌きには苦戦したが、最終的になんとか勝つことができた。
なかなかに強かった。もっと狭い空間で戦えば、恐らく負けていただろう。
ずっと宿泊まりも金がかかるので、共同で小さな土地を買って、家を建てようとしたこともあった。
何度か失敗した末、成功させた直後、旅に出なければならない始末。グランは一度も住むことなく、泣く泣く土地を売った。
アルフェリア王国から出て、初めて戦争に参加した。次々と人が死んでいく中で、グランは辛うじて生き残った。
最後には初めての逃亡をしてしまったが、苛烈な戦闘スタイルから、いつの間にか《ヒドラ》と呼ばれるようになっていた。
中央大陸最南部シェダル帝国で、魔族を討伐した。
初めて本気で死にかけた。昔の角熊との死闘が、ちゃんばらごっこにさえ思えた。
探索者として、魔大陸に行ったことすらある。
奇怪な動植物はそのすべてが魔族で、すべてがトラップと同じようなものだった。
禍々しい赤い月には、生存本能を刺激された。
そして九年。
もうすぐグランは二三歳になる。
いろいろなことを経験し、強くなった実感があった。
これなら獣王、ディランにすら勝てるかもしれない。
あ、いや、それはどうだろう。
……そうだな、早まるな、俺。
「……ん?」
商店街を歩いていたグランの目に、それが映った。
それは簡素な出来の指輪だった。だが、グランにはそれが、セリアンに似合う気がしてならなかった。
人族には結婚したら、左手の薬指に指輪を付ける風習があった。
こんな気障な行為は似合わないかもしれないが、気を引く要素はあるだけあったほうがいいと、《カザグモ》が言っていた気がする。
いや、もっと過激な物言いだったが、今それはどうでもいい。
グランは目に付いた指輪を買うと、ぽつりと呟いた。
とりあえず、そろそろ里に帰ろう。
グランはアルフェリア王国に入国した。
そのとき、門番たちの会話が聞こえてきた。
なんでも魔王教とか言う組織の動きが活発になってきて、多くの町村が襲撃されているらしい。
あまり気にしていなかったグランだが、次の言葉を聞いて、目を見開いた。
――獣族の里が襲われている。
グランは入国審査を無視して、アルフェリア王国に乗り込んだ。
行く先は故郷、バステート集落だ。
すでに死んだ魔王を信仰する組織などに、獣族たちが負けるとは思えない。
けれど、この嫌な予感は、なんだ?
立ち寄った町で聞いた話によると、今襲われているのは、バステート集落らしかった。
度重なる襲撃で、森の奥に逃げているところなのだそうだ。
今度こそ、グランは焦った。
夜も眠らず道を駆け抜け、ときに川を渡って馬に乗って、とにかく先を急いだ。
早く、早く戻らないと。
そして、バステート集落に辿り着いた。
そこで見た光景は、地獄だった。
森は焼け、大樹は炭になって倒れている。
青々とした故郷の面影は、どこにもなかった。
駆ける獣族たちの姿も、ない。
そこで、ふとグランは、獣王の家であった大樹を見た。
「――――ッ」
思わずグランは叫びそうになった。
一人の獣族が大樹に、十字に打ち付けられていた。
――ディラン・バステート・スロヴィ。
バステート集落最強の獣王が、磔にされて死んでいた。
「そんな……ばかな……」
獣王は集落の象徴であり、最強の証だ。
それが破られたという事実は、グランにとって衝撃的だった。
「いや、まて……そうだ。獣族たちは森の奥に逃げ込んだんだ。みんな、生きているはずだ」
強さの指標を失ったグランを支えるのは、仲間たちだ。
早く合流しなければ。グランはもつれそうになりながら、足を速めた。
焼かれた草花を踏み締め、走っていく。
この焼け地を辿れば、仲間たちがいるはずだ。
しばらくすると、炎が焚かれる音が聞こえてきた。
(燃えている……? まさか――!)
まだ燃えているということは、焼かれたのはつい先ほど、ということ。
今、獣族たちは追われているのだ。
「『イグニモート』!」
ペース配分は考えない、考えられない。
身を焦がす焦燥感が、グランを急がせた。
そしてグランは、燃え盛る森にやってきた。
まさにそこは、焦熱地獄であった。
「セリアン! みんな! どこにいるんだ!?」
何度も呼びかける。
煙を吸い込んでしまって、一瞬意識が消えかけた。
このままだとまずい。
まずいから、早く出てきてくれ。
元気な姿でいてくれ。
頼む。
頼むから……。
「グラ、ん……?」
人の声が聞こえた。
聞き間違えるはずがない。
一〇年経っても、絶対に。
「セリアン!」
倒れていた人物に、グランは急いで駆け寄った。
金髪の髪、ブラウンの瞳、垂れた獣耳。長い月日を経て、セリアンは見違えるように美しくなっていた。
こんな状況でなければ、見惚れていただろう。
「グラン、大きくなりましたね」
「今そんなこと言ってる場合か!? 早く逃げるぞ!」
まだ、仲間がいるかもしれない。けれど、グランは自分の実力を把握している。グランには、セリアンただ一人しか助けられない。
グランはセリアンを背負おうと手を回して――その感触に、動きを止めた。
「グラン、一〇年ぶりですね」
「ああ、そうだな……」
広がっていく、熱く濡れた感触。
「グラン、とっても格好よくなりましたね」
「お前も、とても綺麗になった……」
セリアンの体が、徐々に冷たくなっていく。
「グラン、ちょっと気障になりましたか?」
「さあ、どうだろうな。そうかもしれない」
セリアンの力が、少しずつ弱まっていく。
「グラン。私、伝えたかったことがあるんです」
「俺もだ、セリアン……!」
悲しい、キスをした。
「私の、夫になってくれませんか……?」
「ああ……ああ、ああ!」
そして、
「――私は、あなたが好きです――」
とても、うれしいことのはずなのに。
溢れてくる涙は、嬉し涙じゃなくて。
「俺も、お前のことが――」
告げようとした、その前に。
愛した女性が、息を引き取った。
「……うそ、だよ、な?」
もう二度と動かないセリアンを背負いながら、グランはその場に膝をついた。
昔、居眠りしていたセリアンを起こしたことがあった。
体を揺らす。そうすれば、起きてくれるのではないか、と思った。
けれど現実に、そんなことはありえない。
「俺は、口下手だが……帰ったら旅のこと、いろいろ聞かせてやろうって、いろいろ考えてたんだ……」
グランは訥々と、セリアンに語り聞かせる。
「最初は、不安だった。怖かったんだ、仲間がいないのが。よくつるむメンバーはいたが、すぐ引退してしまってな。家を建てたら、一緒に住もうと言ってたのにな。……ああ、そうだ。昔、《カザグモ》が女性を襲っていてな。成り行きで決闘なんてのをしたんだ。今から思うと、里の外で決闘したのは、あれが初めてだったな。もちろん勝ったさ、強くなったからな。そういえば、巷では俺、《ヒドラ》などと呼ばれてるらしい。これで二つ名持ちということになったか。……金も稼いでるんだ。クレイモアを買おうとして、ぼったくられたがな。本当に経験というのは大事だな。……魔族とも戦った。魔大陸にも行った。あの大陸から見る月は、本当に赤かったよ。……戦って、強くなって、いろいろして。っと、これを忘れたらダメだよな。里に帰ってくる前、指輪というのを買ったんだ。恋人の、左手の薬指にこれを付けるのが、人族の習わしらしい。……これを、お前に……おまえ、に……ぃ」
視界がぼやけて、前が見えない。
懐から取り出した指輪は、手が震えてなかなか彼女の手に付けられない。
「ははははははははははははははははは!! 殺し殺して殺し尽くそうメティオ! 《浄火》の使徒よ! 獣どもを『浄火』しろ!!」
「くげ、ぎぎぎ、ぎゃふぐぅふ……ナー、ぁぁぁぁぁああああああああ! ルぅぁあ、ぁぁぁぁあああああああああああああああ!!」
炎の向こう側に、人影が見えた。
《浄火》の使徒……あいつが、あいつがセリアンを殺したんだ!!
「ああああ ああああああああああ あああああああ あああああああ あああああ あアアア アアアアアアアアアアア アアアアアアアアアアアアアアア アアアアアァァァァアァアア ――――ッ!!」
憎しみに心を焼かれそうになる。
けれど、ほんの少しだけ残っていた自制心が、グランを止めた。
セリアンを、ちゃんと弔ってやりたい。憎悪を優先し、彼女を炎の中に放り込むような真似、絶対にしたくない。
「くそ、くそくそくそくそくそくそくそ……!」
グランは走り出した。
声が聞こえる。
「生存者だよぉ、《浄火》! ボクの鬱憤晴らしのために、みぃんな殺し尽くしてねぇ!」
「ぐぎゃは、ふいきひひひっぶふあはあああ!!」
グランを追ってくる炎の波。
このままでは飲み込まれてしまう。
そうなれば、セリアンを弔うことが、一生できなくなってしまう。
「ァア、アァァァアアア――……!!」
右腕だけでセリアンを抱え、左腕を構える。
そして、炎の波に手を突っ込み――無理やり、方向を変える。
「ぐ、ぎ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
左腕に大火傷を負いながらも、グランは決して振り返らない。
グランは森が見えなくなるまで、逃げ続けた。
「お前を……守りたかったよ、俺は」
セリアンは、海に流した。
火葬は……また火で包むのが可哀想で、土葬もイメージが悪いのでやめた。
それならば、綺麗な――セリアンによく似合う、海がいい。
「いつか海を見たいと、言っていたよな……。こんな形で、すまない」
手元にある、赤い水晶を見る。それは魔大陸で拾ってきたものだった。
多大な力を得られるというそれを、グランは飲み込んだ。
「《浄火》の使徒……絶対にいつか、お前を殺してやる……!!」
そう誓って、捜索を始めた。
けれど魔王教は神出鬼没。現れるタイミングも行動理念も、何もつかめないまま、半年が過ぎた。
現状の進捗に反して、憎しみだけが募る。
虚しかった。無力だった。
もう俺は、復讐できないのではないだろうか。
そう思って、酒場で酔い潰れていたときだった。グランのテーブルの前に、誰かが座った。
「君がグラン・ガーネットでいいかい?」
「……なんだ、お前」
「おっと。名乗ってなかったね、失礼。僕はフリージスだ」
目の前の青年――フリージスは、つかみどころのない飄々とした笑みを浮かべた。
「君は魔王教を探してるんだったね」
グランの表情が凍り付いた。酔いは一気に覚めた。
「それが、なんだ?」
「いやぁ、別に。ただ、僕たちについてくれば、また巡り合えるかもしれないよ」
その言葉に、グランは反応した。
そんなグランを見て、フリージスは笑みを深くした。
「護衛、やってくれるかい?」
この男が言っていることは、本当がどうかはわからない。
けれど、このまま単独で行動していても、可能性は低い。
ほんの少しでも可能性があるのなら、俺は――
「――やってやる。奴を、《浄火》の使徒を屠る機会があるなら」
◇
駆ける。
外套の左袖に、右腕を突っ込んだ。破れる音ともに取り出したのは、左腕に巻き付けていた包帯だ。
グランは包帯を放り棄てた。熱された岩に当たり、白が焦げた黒に変わっていく。
その包帯に、グランは見向きもしない。
首に下げたネックレスを取り出し、付けられていた指輪を取り外した。
セリアンに贈るはずだった指輪。もう、その相手はいないが。
グランは左腕を見やった。焼け爛れた醜い肌だ。
苦笑して、左手の薬指に指輪をはめた。
グランは炎の渦に開いた穴に突っ込んだ。
体に火傷を増やしながら、それでもグランは進むのをやめない。
目の前に立ち塞がる炎を切り裂いた。
その先にいる敵――《浄火》の使徒に立ち向かう。
自分は今、《浄火》のことを、どう思っているのだろうか。
仲間たちを脅かす敵か。
セリアンや獣族の仲間たちを殺した仇か、手向けか、ケジメか。
きっと、全部なのだろう。
仲間を守りたいという想いはある。けれど、この憎しみは、どうやっても消えることはない。
だが、それでいい。理由がたった一つである必要など、どこにもない。
けれど。
『俺は、守りたいんだ!! そのために――死なすぞ、お前の執念を!』
けれど負の感情より、どちらかと言うと――正の感情のために戦いたい。
そういう気分だった。
グランの中で混沌としていた執念は、もう死んでしまったから。
「ハアアァァァァァアアアアア!!」
最後の炎を切り崩す。炎の竜巻の中心部まで踏み込む。
絶叫する《浄火》目掛けてひた走る。
「今ここで、終わらせる」
一閃。
銀の閃光が迸り、《浄火》の体を突き抜けた。
深く深く、切り裂いた。
《浄火》が絶叫。
右手に炎を纏った、自死も躊躇わない一撃が、グランに迫り――
「永劫に――眠れ」
――返す刀で、一閃。
キィン、という甲高い音が響く。
クレイモアが根本から折れてしまっていた。
だが、もう問題はない。刃はもう、必要ないのだ。
どさり。
《浄火》の使徒が、その場に崩れ落ちた。
「ナ……ル……」
《浄火》の青い瞳から、光が失われた。
今度こそ終わったのだ。
動きを止めた《浄火》に見向きもせず、剣を失った一人の男は、天を仰いだ。
「セリアン。あの日、最後まで伝えられなかったことを、言うよ」
小さくて、掠れていて。しかし、最愛の想いが込められた言葉で、紡ぐ。
――私は、あなたが好きです――
「俺も、おまえのことが――好きだ」
一筋の涙が、万感の想いとともに流れた。
「――愛している。セリアン」