第三一話 姉妹喧嘩
「なんで、ここに来たの!?」
「レイラを助けに」
「放っておいてよ! もう、アタシに関わらないで!」
「とにかく全部、助け出したあとにね」
「さっさと今すぐ、どっかに行ってよ! 目の前から消えてよ偽物!」
「いーや」
レイラの怒鳴り声を、サーシャは軽く受け流しながら、檻を調べていた。
格子の先端は壁に深く突き刺さっていて、押しても引いてもビクともしない。
しばらく錠を調べていたようだったが、どうしようもないとわかると小さくため息をこぼした。
「って、あれ? そこにあるの、もしかしてここの鍵?」
サーシャが檻の中に転がっていた鍵を見つけた。
レイラは気まずくなって、さっと手で鍵を隠す。
「鍵があるなら簡単だよ。この錠、なんか内側に付いてるから、外からじゃどうしようもないんだよ」
そんなこと、わかっている。
それでも、ここから出たくない。ここで終わってしまいたい。
「動かないんなら……じゃあレイラ、ちょっと端に移動して。魔術で吹っ飛ばすから」
ここから出て、どうなるというのだ。
このままサーシャに付いて行ったところで、いつ死ぬかもしれない日々を過ごすのか。
他人のために自分を犠牲にできるほど、自分は立派な人間ではない。
かと言って、知らぬ存ぜぬと逃げることもできない。
妹の面影を残した彼女を見捨てることも、独りになってしまうのも耐えられない。
記憶がなくても、瞳の色が変わっても。
自分には、彼女しかいないのだ。
どちらを選んでも苦痛なら。
ここで、終わってしまったほうがいい。
「こっちを見てよ、レイラ!」
体が震えた。
いつの間にか俯いていて、視界は地面でいっぱいになっていた。
顔を上げるのが、怖い。
「レイラが何を選ぼうと、レイラの自由だよ? このままわたしたちに付いてきても、……別れることに、なったとしても。でも、絶対ここで今、放っておいてあげない!」
「偽物が、勝手なこと言わないでよ……」
もうさっさと、愛想尽かしてどこかに行ってしまえ。
「アンタにアタシの、何がわかるっていうの? サーシャじゃないアンタがアタシのこと、どれだけ知ってるって言うのよ!」
「知らないよ! 本当の気持ちなんて、きっと憶えていたってわからない! それと、わたしはサーシャ・セレナイト。それ以外の誰でもない!」
「黙れ黙れ黙れ! その髪で、その顔で、その声で、アタシの妹を騙るなァ!」
こんなにも似ていて、同じで。なのに、なんでこんなにも違う。
「なんでアンタは憶えてないの! なんでアンタの眼は赤いの! なんで魔族の眼を持ってるの!」
「そんなこと、言われたってわかるわけないよ!」
「うるさぁい!」
目障りだ。耳障りだ。早く、目の前から消えてくれ。
「アンタは偽物なの! アタシの妹じゃない、他人っ! もう、関わらないで!」
「レイラがなんて言おうと今だけは、絶対に関わる!」
なんで、なんで、なんで……。
「なんでアンタは、アタシを助けようとするの……?」
憶えていないはずなのに。
彼女にとっては、他人のはずなのに。
どうしてそんな、優しい目で見る……!
「レイラが、大切だから」
彼女の答えは、単純だった。
「なん、で……」
「レイラが好きだから。今までレイラに、助けられてきたから。その分を、これから返していきたいと思うから」
だから、と彼女が続ける。
「何度でも言うよ、レイラ。大事なことだから二回再三四度五度言う。――あなたが大切だから、助けたいと思った。だから、わたしはみんなの力を借りて、ここまで来た」
大切だから、助けたい。
それは、ひどくシンプルで。
だからこそ、心の中に響き渡ってくるような気がした。
「どうやって返すって? アタシは明日にでも死ぬかもしれないのに!」
「わたしが守っていく」
「今まで守られてばっかのアンタが、どうやって!?」
「どうやってもこうやってもない! 守るの!」
「人を傷つけるの、怖いくせに!」
頑なに主張を曲げないサーシャと、逃げ口を探すレイラ。
それが、サーシャが一瞬言葉を止めたことで、流れがかわった。
再びサーシャが口を開く。
「わかったよ! もう遠慮なんかしないよ!」
「な、なにが……」
サーシャは深くため息をこぼしてから、垂れ気味の眦を吊り上げた。
「レイラにだって、わたしの気持ちなんかわかんないでしょ!」
「いきなり、なに……」
「この三年間、ずっと無理しっぱなしだったレイラを見てきて、わたしが何を考えてたのか……レイラにわかるの!?」
「そ、そんなの、わかるわけないでしょ!」
「レイラが見てないところで掃除洗濯そのほかいろいろ! なんとかしてレイラの負担を減らせないかって、いつも考えてた! 料理だって、栄養があるものいっぱい使ってきた!」
「そんなの、言ってくれなきゃわかるわけないじゃない!」
「レイラは家事とかダメだもんね! ……言ったよね、言わなきゃわからないって。わたしにレイラの気持ちがわからなかったみたいに、レイラもわたしのこと、全然わかってなかった。前のわたしを知ってたって、全然変わんないよ!」
「そ、んなの……」
「こんな簡単な姉妹喧嘩、もっと早くにすればよかったね」
姉妹喧嘩。
彼女、サーシャ・セレナイトは、そう評した。
頭の中で、しっくりと何かが嵌ったような気がした。
ああ、そうか。
姉妹じゃないと思っていたのはレイラだけで。サーシャはきっとレイラのことを、姉のように思ってくれていたのだ。
もっと、彼女と話すようにしていれば、何かが変わっていたのだろうか。
少なくとも、今みたいなすれ違いは、起きずに済んだのではないだろうか。
「い、今さらよ!」
「今さらなんかじゃない! ちょっと遅れただけ。これからだよ!」
「これ、から……」
「そう、これから」
手が差し伸べられた。
サーシャの手は闇を切り裂く、光のように見えた。
似たような光景を昔、どこかで見た気がした。
鍵を隠した手が、少しずつ、少しずつ持ち上がっていき――
「逃ぃがぁすぅわぁけぇ、ないだろうが! 邪魔者はァ、皆殺しだ……ッ!!」
洞穴の向こうから、怨嗟の声。
現れたのは《無霊の民》、ジェイド・エイド・ムレイ。
血に濡れた灰色の髪と、血に染まった顔。そして――二つの瞳が、赤い輝きを放っていた。
サーシャのジェイドの、赤い視線が交錯する。
水が弾けた。
力任せで強引に振り下ろしたジャイドの右拳が、水弾を砕いたのだ。
「そんな……!?」
あの水弾は、身体能力だけで耐えられるものではない。ましてや、破壊などできるわけがない。
「こ、これ、これがががガガガガっチカラぁ! チカラだァ!」
ジェイドの様子は、明らかにおかしくなっていた。異常と言っていい。
焦点が定まっていない。
明らかに、おかしい。
「は、はははハハハハハハ! イマここで、使ト様がクダさった邪晶石がァアアアっハハァ! この体をオカしてくれるとワァ!!」
叫びながら、ジャイドは手に持っていた瓶を傾け、中身の液体を被るように飲んだ。
ジェイドの口が、ぶちぶちと裂けていく。が、血が出たのは一瞬のことで、すぐに治った。
猛獣のようにギザギザの歯が、奥歯から前歯まで剥き出しになる。
「まさか拷問イガイで、キョウカ目的にこんなモノを使う日がクるとはナぁ! ああ、温い! 不味い! シュトーノぉ! 血液がフットーするるるルルルぅ!」
シュトーノ。
五感の鋭敏化と、精神高揚の効果が高い麻薬だ。
だが、それだけで冷徹な装いを見せていたジャイドが、狂人のようになってしまうのか。
少なくとも、麻薬だけで口裂けになるわけがない。そこには何か、シュトーノ以外の理由があるはずだ。
「イイィ気分だ! まるでジブンがジブンではなくなッたよオなァ! ギンモヂィィィィヤアヒフャハッア! 《操魔》だかナンだか、もオ知らねエ! どオせツギがあるんだしなァ! ギヒハ、愉快にぜぇぇぇんぶ皆ゴロ死だァ――!」
ジャイドが地面を蹴って駆けた。ドン! と衝撃。硬い洞穴の地面が、靴の形に砕けた。
空気を切り裂くように迫るジェイド。狭い洞穴の奥。サーシャには左右上下後方、どちらにも逃げられない。
サーシャはすぐに魔法陣を展開すると、水弾を放つ。
ジェイドは嗤うと、天井すれすれに跳ぶことで回避した。
「死ネぇ!」
「生きる!」
空中でナイフを構えるジェイド。サーシャはジャイドと地面の、ほんの少しの隙間を跳んで潜り抜ける。
着地を前提とした跳び方ではない。頭を庇った手が地面と衝突、激痛が走った。ごろごろと転がって体中を硬い地面に打ち付けた。
痛がって、隙をさらしている暇はない。すぐに飛び起き、ジェイドに向き合う。
「『アクエスト』……!」
サーシャの右手から、水弾が射出される。ジェイドは着地した直後で、背を向けている。普通なら避けられるはずがない。
だが、今のジェイドは明らかに人体の限界を超えていた。身体強化をしていないとは思えない動きだった。
着地した瞬間膝を折り畳み、バネのように跳ねる。空中でエビ反りの体勢でバック転。水弾を背中すれすれに避けた。
そんな芸当ができるなら、横に避けるなり迎撃するなりできたはずだ。それでも大道芸のような行いをした。
ふざけるために、非合理的な行動に出る――驕りによる余裕な行動。
――それは、予想できていた。
ジェイドの取った手は、この状況でサーシャの利になる。
「ふぅ――」
先ほど右手で『アクエスト』を撃つ間に、サーシャの左手には、魔法陣が展開されていた。
属性は地。それは本来、サーシャが苦手とする属性。しかし、魔法陣に精神的な資質は関係ない。
系統は干渉。対象はこの洞穴全体。
階級は初級。咄嗟に発動できる魔術はその程度で、だが、今はそれでも構わない。
効果は震動。対象を震動させる魔術。
「――『クェイク』!」
魔法陣が、地面に押し付けられる。
洞穴が軽く震動する。しかし、着地した直後のジェイドは、思わぬ揺れに体勢を崩した。
攻めるなら、今!
『クェイク』がしっかり成功したか確かめることもなく、サーシャはジェイドへ向けて駆け出す。
遠くからでは避けられる。ならば、寄って撃つ。
サーシャは周囲に集めていた魔力を、左手の一転の収束する。
そして、圧縮した魔力を、ジェイドへと解き放つ。
これは魔術でもなんでもない。ただ、魔力の塊をぶつけただけだ。
だが、それでも効果はある。
魔力は生命力とほとんど同一だ。魔力濃度が高ければ、近くに誰かがいる錯覚さえ受ける。
そのような空間では、魔力に慣れていない身では魔力酔いという症状を引き起こす。言うならば、人混みに酔うようなものだ。
さて、サーシャが圧縮した魔力の塊だが、これが異常な濃度であった。すぐに周囲に溶けてしまう魔力も、距離を詰めれば拡散する前にジェイドに当てられる。
ただの魔力に、物理的な干渉はできない。
そして《無霊の民》は、産まれから魔力というものには慣れていない。
魔力を弾けないジェイドに、何が起こるのか。
つまりそれは――あまりにひどい魔力酔いだ。
「ぅ、げぇ、ごほっおおおぉぉぉぇぇぇ!」
ぐちゃぐちょ、と吐瀉物が地面に撒き散らされる。赤い血が混じった黄土色の液体からは、鉄と酸の臭いがした。
《無霊の民》は魔力酔いしやすいが、優れた身体スペックから回復も早い。すぐに手を打たなければいけない。
サーシャは罪悪感に表情を歪め、ジェイドに近寄る。左手を突き出して、魔法陣を展開する。
無力化した相手にトドメを刺すことに、抵抗感はある。だが見逃して、大切な人が傷つくかもしれないと考えると、覚悟は自然と決まった。
サーシャは詩を紡ごうと口を開き――
「なぁぁぁアアアんてなァ!」
詩の変わりに出たのは、悲鳴だった。
口から吐瀉物を撒き散らし、白目を剥いていたはずのジェイドの右手が、魔法陣を突き破ってサーシャの左手をつかんだ。
「なん、で……!?」
「なァンでェ? 決まッてンだろオがよォ。ソンナのでコのジェイドさマがシぬわけなイだろオがよォ!」
万力のような力が、サーシャの左手を絞める。ジェイドの爪が皮膚に食い込んでいく。
「コレでオわりだムカつく《操魔》! ツギのカラダにキタイしてシになァ!」
ジェイドの左手が引き絞られる。その爪は黒く硬化し、長く鋭くなっていた。
まるで猛禽類のような爪だ。あれで咽喉を引き裂かれては、一溜まりもない。
だが、サーシャに避ける手段はない。
片手の自由は奪われ、逃げることはできない。身体能力で圧倒的に劣り、それを覆す技術もない。
咽喉を切り裂こうとする左手を、ただ眺めることしかできないのだ。
それでも、諦めることだけはしない。
なんとか振り解こうともがき、突き飛ばそうとする。そのたびに力で押さえつけられても、その目から光は失われない。
左手が放たれる。
空気を引き裂くような毒手が迫る。それでも、最後の最後まで目を閉じなかった。
そして、永遠に目を閉ざすこともなかった。
サーシャの視界から、何かに弾かれたようにジェイドの体が消えたからだ。
「げェやアアアアアアアアアアア! あづイ、アヅいィィィィィ!!」
吹き飛ばされたジェイドは、炎に包まれていた。肉を焼く独特の臭いが、洞穴の中に充満していく。
ジェイドはなんとか消そうとしたのか、足掻き、己の咽喉を掻きむしった。鋭い爪に咽喉を切り裂かれ、血が溢れ出す。その後、絶叫を上げて地面に倒れ伏した。
そこでようやく、ジェイドを包んでいた炎は消えた。あとに残ったのは異臭と、黒く焦げたジェイドの遺骸だけだった。
サーシャの魔術ではない。第三者が来たわけでもない。魔術を使えないジェイドが、魔術に失敗して自爆することもない。
なら、答えは一つだ。
「――レイラ!」
振り向いた先。檻の中から右腕だけを突き出した状態にレイラが、そこにいた。
レイラはヤケクソになったように「ああもう!」と怒鳴ると、檻から一歩離れた。
「サーシャ。ちょっとそこ、どきなさい」
「うん!」
サーシャは頷いて、壁に寄った。
それを確認して、レイラは詩を紡いだ。
「死ね、気持ち悪いボクっ子クソババア! 鍵なんか使ってやるか、ぼけぇ! 吹っ飛ばせ! 『アルタ・イグニスト』!」
強化術式を合成された火弾魔術が、レイラの右手から放たれた。
檻に衝突すると、鉄を思い切り叩いた金属音が洞穴の中に響き渡る。
拮抗の末、吹き飛ばされた檻はジェイドにぶつかり、あとに続いてきた炎が再びジェイドを包んだ。
まさに死体蹴りだ。
レイラは、外へと踏み出した。
「レイラ!」
サーシャが呼びかけ、駆け寄る。
レイラはバツの悪そうな顔をした。それを見たからか、サーシャは跳び付こうとして、踏み止まった。
「レイラ、は……。これから、どうするの?」
そう訊かれて、レイラの咽喉が詰まった。
ジェイドに攻撃したのは、咄嗟のことだった。
どうなってもいいと、何もしたくないと、叫んでいたはずなのに。いざ目の前でサーシャが殺されかけているのを見ると、体が勝手に動いてしまった。
もしも、あの魔術が避けられていたら、檻の中にいたレイラに、逃げ場はなかった。それなのに、勝機を見つけたわけでもないのに、死期を早めるような選択をした。
檻を壊して出てきたのは、無意識だった。
ジェイドを倒したという達成感だろうか。サーシャを守ったという充実感だろうか。サーシャを傷つけた罪悪感だろうか。
……いや、違う。
達成感も充実感も、罪悪感もある。だが、そうではない。
檻から出て、傷付いたサーシャを抱き締めてやりたいと――そう思ったはずなのに。
「アタシ、は……」
口から漏れるのは、掠れた言葉だけ。
視線をサーシャから逸らす。
だって、どうやって向き合えというのだ。
妹ではないと否定して、家族ではないと拒絶して、偽物だと頑なに断じて。
そのくせ自分は孤独が嫌だと叫んで、勝手に依存して、身勝手に傷つけて。
それなのに、向き合う資格なんて、ない。
レイラは目を固く閉じた。
堪えなければ、涙が出そうだった。
悔しくて、自分が憎くて、醜い感情が溢れそうだった。
だいたい、自分がいたところでどうなる。
サーシャには、仲間がいる。
アルフェリア王国最強の魔術師がいる。
強力な無属性魔術師がいる。
実戦経験が豊富な傭兵がいる。
サーシャ自身、『操魔』という特異な力を持っている。
そして、決して死ぬことがない、才能ある少年がいる。
対して、自分は器用貧乏なだけの凡人で、特出したものは何もない。
きっと世間的に見れば、優れた部類なのだろう。自然属性すべての初級魔術を扱い、火属性においては中級だ。王都に行っても、引く手数多なのは間違いない。
けれどそれでは、化け物たちには太刀打ちできない。
このまま付いていっても、足手纏いになるだけではないのか、と。
そんな不安が、とめどなく溢れてくる。
このまま、消えてしまったほうがいい。
レイラがそう思った、そのときだった。
体を包む、温かな人の温もり。
驚き目を開けると、レイラに抱き付いたサーシャがいた。
「レイラがこれからどうするかとか、わたしにはわからない」
サーシャは決して、レイラに顔を見せようとしない。
「このまま別れても、どうするのも、レイラの自由だよ。レイラの人生なんだから」
声は震えていた。
「だから、もういいよ。もういっぱい、レイラは頑張ってきたんだから。だから、もう休んでいいんだよ。レイラが生きたい人生を――生きて」
レイラは沈黙した。
自分が生きたい人生とは、いったいどんな道だろうか。
どれだけ考えても、サーシャと関わらない人生が、まったく思い浮かばない。
恐る恐る、サーシャを抱きしめる。彼女の肩が震えたのがわかった。
いつの間にか、こんなにも不安にさせていた。今までも、ずっと不安にさせていたのだ。
レイラは強く、強く強く、抱きしめた。
決して出すまいとしていたのだろう、サーシャの押し殺すような嗚咽が聞こえてきた。
胸部に、温い湿った感触がした。
「……そう、ね」
そういえばこの子は、とんでもない泣き虫だった。
記憶を失ってからは、ミコトが死に、生き返ったときの一度しか見た憶えがないが……。もしかしたらサーシャは、ずっと我慢してきたのかもしれない。
記憶は失っても、人格は変わらず、か。
「決めたわ、サーシャ。アタシが生きる人生を」
苦笑するレイラ。サーシャをゆっくりと引き離す。
そうして見えるようになった彼女の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
「ったく、アンタはもう、変わんないわね」
「な、泣いてないよ。これはアレだよ、汗だよきっと」
「声も震えてるわ」
「こ、これは、笑ってるんだよ!」
「目元真っ赤にして?」
サーシャは言い訳を思いつかなかったのか、うーうー唸ってレイラの顔を見た。
その直後、慌てていたサーシャの表情が、優しげに変わる。
「そうだね。わたしは泣いてた」
「えらくあっさり認めるのね?」
「うん。涙を流して、鼻水垂らしてた。……今の、レイラみたいに」
「……え」
レイラは自分の頬に触れた。そして感じた、湿ったい感触。
無意識に口で息をしていたことに気付いて、レイラは思いっきり鼻で吸った。ずるずるずる、と鼻水の音。
「ね?」
目の前でニヤリという不敵な笑みを浮かべるサーシャ。
かつて、まだ里にいた頃の記憶が蘇る。
サーシャと二人、森の中に探索へ出かけたことがあった。
そこでレイラが珍しい蝶を見つけて森の奥に踏み入って、迷子になった。
奇妙な獣や鳥の鳴き声、遠吠え。
暗く闇に染まっていく森。
独りぼっちで孤独な世界。
来た道がわからなくて、下手に動くこともできず、泣きじゃくっていたレイラ。
そんな彼女の元に現れたサーシャは、ニヤリと似合わぬ不敵な笑顔を浮かべて、こう言ったのだ。
『さ、帰ろう?』
結論を言えば、サーシャもレイラを探して森に踏み入って、迷子になっていた。
どこにも行けなくて、森の中独りで震えていたレイラの手を、サーシャは握ってくれた。それだけで、不安は消えた。
闇の中で伸ばされた手は、闇を切り裂く光のようだった。
最終的に、サヴァラが見つけてくれたのだったか。意外と里は近くて、悔しい思いをしたものだ。
「…………」
サーシャは憶えていないだろう。
心配したナターシャに、二人一緒に抱きしめられたことを。
サーシャは憶えていないだろう。
一緒になって、サヴァラに怒られたことなど。そのあと、乱暴に頭を撫でられたことなど。
憶えていないだろう。レイラが憶えている数々のことを。
でも、記憶を失ってからも、同じだ。変わっていなかった。
レイラがヤケクソのようになって、頼まれたからと、サーシャを助けるのだと息巻いて。
その後ろで、サーシャがどんな思いでいたかなど、まったく考えていなかった。
ずっと自分が一番苦しんでいると、役目を果たしているんだと、思い込んでいた。支えてくれていたことに、まったく気付けなかった。
サーシャは憶えていないだろう。でも、サーシャはサーシャだった。妹は妹だった。家族は家族だった。変わってなど、いなかった。
それなのに、レイラはずっと自分の記憶だけに浸って、今のサーシャを見てこなかったのだ。
「三年ぶりの姉妹喧嘩は、アタシの負けね」
「え……? 今なんて?」
「なんでもないわよ、ったく」
深く、息を吸い込む。深く、ため息をこぼす。
「アタシの人生は、アタシが決める。たとえ妹の頼みでも、今回ばっかりは勝手にさせてもらうわ」
ふん、とレイラは鼻を鳴らそうとしたが、鼻が詰まっていたので不格好になった。
サーシャはその言葉を聞いて、このまま別れてしまうと思ったのだろうか、悲しみを隠す空元気の笑顔を浮かべた。
作り笑顔の下手くそさも、マイナス方向で早合点するのも、相変わらずだ。いや、今回ばかりは自分の態度が悪いか。
レイラは軽く苦笑して、ニヤリという笑みを返した。
「サーシャ。アタシはアンタの姉で、アンタはアタシの妹でしょうが。勝手に見捨てて、どっかに行くわけないでしょうが」
「ぇ、それって……」
「鈍いわね! アンタみたいに二回再三四度五度言わないから、しっかり聞きなさいよ!」
「耳の穴かっぽじって聞く!」
「よろしい!」
恥ずかしい。が、こうなりゃヤケクソだ。
レイラは叫ぶようにして、宣言した。
「我が妹サーシャよ! アタシはアンタを大切に思う! だから! 守る! 支える! ……だから、アタシを守って、支えて! もう、独りにしないで!」
我ながら、情けない言葉だと思う。
でも、これが気付いた、本心だから。本気の想いを偽ることに、意味はないから。
「――うん」
そしてサーシャは、強く頷いた。
「さ、帰ろう?」
差し伸べられた手。かつて見た光景。闇を切り裂く光。
レイラはそれを、強く、握りしめた。
と、不意に引き寄ってくるサーシャ。胸元に吸い寄せられてくるサーシャの顔。
結果は、わかりきっている。
「ちょ、サーシャ! 鼻水っ、鼻水ついちゃう!」
「もう今さらだよ!」
「今さらだけど! 今さらだけども! 羞恥が一周回って冷静になったのよ! 今さらだけれども! ……って、ちょ、ああ!? ……ぁぁ…………」