第二七話 はじまりのおもいで
それが、少女の記憶の中にある、始まりの記憶であった。
「捨て子、か」
どこかも知れない、木々が生い茂る森の中。少女は木々が生い茂る森でただ一人でいた。
少しずつ疲弊していく体。ついには泣くことすらできなくなり、木の根の隙間に挟まり、丸くなっていた。
声をかけられたのは、そんなときだった。
返事を期待してのことではないだろう。なぜなら少女はまだ、生まれて二年なのだ。
くすんだ銀髪と青い瞳をした、肉付きのいい体格の男だ。背中に差したハルバートの柄には、大きな荷袋が提げられていた。
三〇歳もいかないくらい若々しいが、滲み出る風格は強者のそれだ。
幼いながらにそれがわかり、少女は恐怖を覚えた。もっとも、叫ぶだけの体力も残されていなかったが。
ふと、男は何かに気付いたらしく、遠慮がちに少女に手を伸ばす。
「こいつ、ただの捨て子じゃねえのか?」
少女の着ていた服に触れて、男は訝しげに眉根を寄せた。
「この手触り、けっこうなモンだ。この近辺で手に入るもんじゃねえぞ。まさか、貴族サマの捨て子か? 妾の子で、正妻の怒りにでも触れたか?」
しばらく男は考え込んでいたが、ふいに苦笑して頭を振った。
「ま、なんでもいい。なんにしても、やることは変わらねえしな。ったく、捨て子を拾ったのはこれで何人目だ? ……名前、考えとかねえとな」
男は軽々と少女を抱き上げると、すいすいと森の中を進んでいく。
「ナターシャと話し合って決めるか」
しばらくして獣道に出ると、あ、と男は少女に向いた。
「そういや、まだ言ってなかったな」
そして、男はニヤリと笑った。
「俺はサヴァラ。サヴァラ・セレナイトだ。って言っても、まだ理解できねえか」
カラカラと笑う男――サヴァラを、少女は不思議そうに見つめていた。
男の早足でしばらく、ようやく森を抜けた。そこに広がっていたのは、 森に囲まれた、ひっそりとした里だ。
閑散と建てられた、木造の家々。建築技術はそこまで高くなく、二階建ての家はない。
里の中央を流れる緩やかな川。そこから水路を伸ばして、畑に行き届くようにしていた。
とても長閑で、自然豊かな里の中に、
「ただいま帰ったぜ、マイハニー!」
「お帰りなさい、マイダーリン!」
二人の男女の挨拶が響き渡った。
住民たちは「またアイツらか」「口から砂糖がヴァー」と呆れたように囁き合うと、ペッと唾を地面に吐き捨て、自分の家に帰っていった。
そんな悪意のない、むしろ祝福じみた陰口と光景など、自分の世界に入っている二人は気付かない。
「今日は香辛料とか手に入れてきたぜ! これでナターシャの料理も、さらに美味くなるな!」
「もう、サヴァラったら! 腕によりをかけて作ってあげちゃうんだから!」
サヴァラの世辞抜きの賞賛に、ナターシャという名前らしい女性は頬を紅潮させた。
それからも甘ったるい会話を続けていた二人だったが、ふいにナターシャがサヴァラの腕に抱えられているものを、つまりは少女を見て、顔を曇らせた。
「あ、そだ、忘れてた。この子は――」
「まさか、サヴァラの隠し子……!」
「ち、違うぞ! こいつは森で拾っただけだから! だから足を踏まないで!」
しばらく目からハイライトが消えていたナターシャだったが、サヴァラが嘘をついていないとわかると、すぐに表情を真剣なものにした。
「また捨て子?」
「ああ、そうらしい」
「可哀想に……ってこの子、すごく衰弱してる! は、早く何か食べさせないと!」
「そ、そんなにか!? 婆さんに速攻で作らせる!」
サヴァラは慌てて少女を抱きかかえ直すと、近くに建っていた民家に走る。
その背後で、ナターシャが声を上げた。
「わ、わたしもすぐに行く!」
「馬鹿なこと言ってんな、ゆっくりしてろ! お前はもうすぐ『お母さん』になるんだから!」
サヴァラが返した言葉を聞くと、ナターシャはハッとしてその場に立ち止まって、お腹をなでる。
ナターシャは頷いた。彼女のお腹は、ふっくらと膨らんでいた。
「わかった。サヴァラ、頑張ってね」
そう言って、ナターシャはサヴァラを見送って、それからゆっくりと跡を追った。
眩しそうに細めたナターシャの瞳は、宝石のような赤色だった。
結果として、少女は無事助かった。
衰弱していたが、そこまで深刻ではなかったのだ。
次に発生したのは、どこの家で面倒を見るか、という問題だった。
どこの家も子供がいるか、よく里から出かけているか、子供の面倒を見る体力がないなどで、なかなか引き取り手は見つからない。
とりあえず、セレナイト長老宅――つまり、サヴァラとナターシャの家に引き取られることとなった。
膝の上に少女を置くサヴァラと、膨らんだお腹をさするナターシャが、向かい合って座る。
「ったく、こっちだってもうすぐ子供が生まれるってのに」
「しょうがないよ。わたしたちの家は、なんだかんだ言って今まで、捨て子を引き取ったことはないんだから」
「……ま、引き取ったもんは仕方ねえ。婆さんらの手を借りて、四苦八苦育てるか」
「そうだね。とりあえず、名前を考えようよ」
考え込む二人。沈黙を破ったのは、自信満々に口を開いたナターシャだ。
「ペコペコ!」
「お前……まさかそれ、この子の名前……」
「いい名前でしょ?」
「却下だ却下! ……こいつのネーミングセンスが残念なの、忘れてたぜ」
サヴァラは苦笑とともにため息を吐き出した。
「よし、じゃあ俺の名付けセンスをご覧あれ、だ」
ゴホン、とわざとらしい咳をして、サヴァラは言葉を紡ぎ始める。
「この子は俺たちの、ゼロ番目の子供だ。っつーことで、ゼロをレイにする。んで、拾った俺の名前をくっつけて、『レイラ』だ。ほら、よくできてんだろ?」
「シンプルなのか凝ってるのか、よくわかんないね」
「いいんだよこういうのは、不自然でさえなきゃな」
しばらくそうやって駄弁っていた二人だったが、ほんわかとした日常は、突如として慌ただしいものとなる。
立ち上がろうとしたナターシャが、急にお腹を押さえて蹲ったのだ。
「く、ぅぅぅ……」
「ど、どうした!?」
「う、産まれる……」
出産だ。
サヴァラはレイラを抱えたまま、急いで立ち上がった。
「婆さんを連れてくる! それまで頑張れよ!」
「うん……」
サヴァラは家から飛び出した。
ふいに、その体が風で覆われ、サヴァラの走る速度が上昇する。
一分もしない内に、一軒の民家に辿り着いた。
ドンドンと乱暴に扉をノックして、返事を待つ間もなく開いた。
その先にいたのは、衰弱していたレイラの面倒を見てくれた、銀髪に青い瞳の老婆だ。
「婆さん、ちょっと来てくれ! あと、この子をちょっと家に置いといてくれ!」
サヴァラはまたも返事を待たず、レイラを地面に下ろしたかと思うと、すぐさま老婆を抱えた。
そしてそのまま、家を飛び出していった。
レイラが孤独に不安を覚え始めた頃、サヴァラは一人で戻ってきた。
目尻に涙を溜めて、ひどく不安そうにレイラに語りかけた。
「邪魔だって、婆さんに追い出された……。ああ、大丈夫かな、ナターシャ。苦しそうだったし、やっぱり傍にいてたほうが……いやでも、不安そうな顔してたら逆効果って……なあ、レイラはどう思う?」
もちろん、二歳のレイラが答えられるはずがない。
レイラを抱え、他人の家をうろうろするサヴァラの元に報せが届いたのは、それから数時間後であった。
レイラを抱えたサヴァラが、自宅へ向けて疾走する。一瞬で辿り着き、ナターシャの元へと向かう。
「あ、サヴァラ」
そして布団の上のナターシャと、ナターシャに抱えられた赤子を見て、安心して膝から崩れ落ちた。
「よかった……よかった……」
サヴァラは目尻に涙を溜めると、ナターシャに膝立ちですり寄っていく。
「この子を、抱いてあげて」
「ああ、ああ……!」
サヴァラはレイラを降ろすと、赤子を抱えた。
「女の子だよ。可愛い名前を、付けてあげて」
「俺でいいのか……? って、お前の名付けはひどいもんな、ハハッ」
サヴァラは嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。
「実はさ、最初から考えてた名前があるんだ。男の子の場合はサルーシャで、女の子の場合はな――」
サヴァラは赤子を掲げて、告げた。
「――サーシャ。この子の名前は、サーシャだ!」
この世に、サーシャ・セレナイトが誕生した瞬間だった。
そうして、セレナイト一家がそろったのだ。
サヴァラ、ナターシャ、サーシャ、レイラの四人が。
レイラはサーシャを覗き見た。薄らと開いたその先にある瞳は、綺麗な青色だった。
◇
ガジ、と擦り付けるような音が、体に直接響き渡る。
頭部をざらざらした硬い物に打ち付けて、その鈍い痛みに、レイラは目を覚ました。
「ここ、は……? ――っ!」
再び鈍痛が頭部に走る。掠れた悲鳴が反響した。
咽喉が乾いて、ひりひりと痛んだ。
理解不能の状況で、レイラはできるだけ危険から遠ざかろうと後退った。
背中に硬い感触。振り向けば、そこには岩の壁があった。
退路を断たれ、錯乱しかける。だが、追撃が来ないことがわかると、次第に冷静になっていった。
そこでようやく彼女は、周囲の確認する。
上下左右後を硬い壁で包まれている。例外は前方で、道が続いていた。太陽の明かりはなく、光源はすべて松明だ。
ここはどこかの洞穴らしい。レイラはその洞穴の、一番奥にいるのだ。
しかし、レイラは通路を歩いていくことはできない。
なぜなら、檻に囚われていたからだ。
子供でも五人とは入れないような、小さな空間だ。
天井も低く、息が詰まってしまいそうだと思った。
そして。
檻の外には、一人の老女が立っていた。松明の明かりで、影がゆらゆらと揺れている。
貼り付けたようなニッコリとした笑顔が、レイラを冷たく見下していた。
老女を見て、レイラの脳裏にさまざまな記憶が蘇る。
魔王教の中心――バーバラ・スピルス。
あの日の、元凶。
後悔が、憤怒が、憎悪が。
ごちゃ混ぜになった負の感情が、理性をショートさせた。
「あ、ああああああああ……!」
掠れた怒号を上げて、バーバラに跳びかかる。そして、その首に手をかけようとして――
「ああ、本当にお美しい、醜いココロ」
直後、暴風が檻の中で吹き荒れた。
「人のココロを叩き潰すのはボク、とぉっても大好きなんだよねぇ」
レイラの体が浮き上がり、何度も何度も壁に体を打ち付ける。
血液と悲鳴が、風の中で舞う。
檻に体を衝突させたのを最後に、嵐が収まる。レイラは重力のままに地面に叩き付けられた。
うつ伏せのレイラの背中を、バーバラが檻の外から踏み付ける。
青い光が、洞穴の中を照らした。
レイラの体から傷と痛みが消えていく。
治癒魔術をかけられているのだと、レイラは少しずつ鮮明になっていく思考の中でわかった。
なぜ治癒魔術を?
そう思っているレイラに、
「こちらを向きなさい」
声とともに、脇腹に激痛。地面から盛り上がった岩が、レイラの体を、ほんの少し宙へ浮かせた。
地面への激突。レイラはうつ伏せだった状態から、仰向けにされていた。
バーバラが、レイラの瞳を覗き見る。
自身の内を覗かれるような不快感。恐怖が湧き上がる。
――死にたくない。
「死にたくない?」
レイラの思考を読んだように、バーバラが尋ねた。
「な……」
「なんでわかったのよ、と言おうとしたね」
「…………」
図星であった。
バーバラはレイラが言おうとしたことを、的確に言い当てる。
「ぁっはぁあ――! いい憎悪ぉ、いい恐怖ぅ! 素っ晴らしい! なんっと素晴らっしィィィ!」
バーバラの愉悦と快楽混じりの哄笑が、洞穴の中に響き渡った。
「死にたくない。死にたくないよね。死にたくないんだよね。……仕方がないなぁ、レぇイ~ラちゃん。はい、これをあげよう」
バーバラが何かを放った。それはくるくると回りながら、レイラの額にこつんと当たった。
地面に落ちたそれを、レイラは頭を横にして確認した。
「か、ぎ……?」
「うんうん、そうそう、この檻の鍵。これで君は、ここから脱出できるわけだ」
レイラは朦朧とした思考の中、檻の扉へと向かう。
錠は内側に設置されていた。初めから、レイラに鍵を渡すつもりだったのだろう。
レイラが錠に手をかけ、鍵を差し込もうとしたそのとき、バーバラの唇が残虐に弧を描く。
「――でもでもぉ、本当の本当に君はぁ、ここから出たいとぉ……思っていたりしちゃうのかぁ、なぁ?」
バーバラのその言葉に、レイラの手が止まった。
その様子を見て気をよくしたのか、バーバラが嗤いを深くする。
「ここを出てどうしよう? 妹の元へ戻ろうか? でもその妹、君のことは忘れてるよね? 最初から血の繋がりもないのに記憶さえなくなってしまったら、本当にそれって妹? 家族? 大切な人? 守りたい人? ……違うよねぇ? それってただの、瓜二つなだけの他人だよね? 助ける価値なんて、ないよね? あるわけないよ。そう、なんだよ。……それでも出たいの? この暗いじめじめした、静かな場所から、出たい? また自分を蔑ろにするためにぃ? 他人を守るためにぃ? 明日には命を落としているかもしれないのにぃ? 信頼したはずの人間に裏切られるかもしれないのにぃ? ……つまらない人生だと思うよね? それって生きてる人生って言える? もう死んでるんじゃないかな? 生きてない人生に意味なんてないよね? 欲望のない人生に、意味なんてないよね? そう、あるわけがない。あっちゃいけない。――欲望がない人は、死人だよ」
ね? そうでしょう? と。
バーバラの言葉の数々が、次々とレイラの心に突き刺さる。
レイラの思考とバーバラの言葉が混ざり合って、本当の自分が何を考えていたのか、曖昧になっていく。
「アタシ、は――! あ、たし……は…………」
そして。
ついにレイラは、鍵を手落とした。
あ、と声が漏れる。地面に落ちた鍵を手に取ろうとした。
触れようとした瞬間、バーバラの足が、レイラの手を鍵を同時に蹴とばした。
キン、キン。という金属の甲高い音が、檻の奥へと転がっていった。
しかしレイラは、鍵を追いかけることができなかった。いや、しなかった。
バーバラの言う通りだ。
ここから出たくないと、思ってしまったから。
レイラは、自分が弱い人間だと自覚している。
戦闘力の面で言えば、そこらの平民と比べればずっと強い。
これは、心の問題。家族に依存しなければ、心の安寧さえ保つことができない、心の問題だ。
諦めたレイラを、バーバラは愉快そうにうんうんうんうんうんうんうんうんと何度も頷くと、レイラから離れていった。
どこへ行くのだろう? ……どこでもいいか。
レイラはその場で、膝を抱えて丸くなった。
バーバラの姿が完全に見えなくなって、足音さえ聞こえなくなっても、レイラは鍵を手に取ろうとはしなかった。