第三話 銀の少女
「あの、君! 起きて!」
誰かの声が聞こえた。
この声には、聞き覚えがあった。なんだかよくわからない力で、熊を倒した少女の声。
尊の意識が覚醒へと向かう。
その中で感じたのは、体に何か湿った物が張り付く感触と、地面に感じるゴツゴツとした違和感だ。
それらに不快感を感じながら、尊は完全に目を覚ました。
異世界に来たときの、強烈な酩酊感はない。
異世界トリップの影響で低血圧になったわけではないらしい。心の中で、小さく安堵した。
尊が目を開けると、辺りは真っ暗だった。
がむしゃらに走ったので場所などわからないが、やはり森の中らしい。
いったい自分は、どれくらい寝ていたのだろうかと考え、
(……そんなに経ってねえな。五分、くらいか)
自分が眠っていた時間を当てた。
尊には、いくつか特技が存在する。妙技、と言ったほうが正しいか。
日常生活ではあまり使いようのないものばかりだが。
その妙技の一つが、自分が眠っていた時間がなんとなくわかる、というものだ。
親友の悪ふざけで『睡眠測定』と名付けられた。
ほかにも、起きようと思った時間に起きられる『目覚まし』もある。
これが一番便利だったりする。
「あ、起きた?」
頭上を覆う草木と尊の間を、少女の顔が遮った。どうやら膝立ちになっているらしい。
目の前に、銀髪の少女の、人形のような整った顔がある。宝石のような真紅の双眸が、心配そうにこちらを見つめてくる。
あまりの美しさに、尊は思わず息を飲んだ。が、すぐに我を取り戻した。
「起きましたぜ」
「そう、よかった」
少女は安堵すると、ハッとした表情で顔を背けた。
眼を隠そう、という意図が見えて、目を合わせるのが苦手なのだろうかと推察する。
尊は少女の端正な横顔を見つめた。
(一四歳、か)
これも妙技の一つ『歳当て』だ。
見た相手の年齢をなんとなく当てることができるという、歳を気にする女性の天敵のような妙技だ。
写真ではなく、直に見ないといけないという欠点が存在する。
『歳当て』も、外国人……いや、異世界人にも通用するらしい。無駄な自信が高まった。
尊はゆっくりと上体を起こして、自分の体を確認し、目を丸くした。
血まみれで、服もズタズタに引き裂かれていたが、驚くことに傷一つなかったのだ。
痛みも感じない。完全に治っている。
「治癒魔術をかけておいたから、もう治ってるよ」
治癒魔術。魔術。ファンタジーでは定番のワードだ。
少女の言葉を聞いて、ここが異世界であると確信した。
泥臭さしかなかったので、幻想ファンタジーなんて頭から消えていたのだ。
「マジ助かった。ありがとな」
尊を助けたのは、この少女で間違いないだろう。
言わば、命の恩人だ。感謝の念が絶えない。
「当たり前のことをしただけだから」
少女はニッコリと、穏やかに微笑んだ。
『当たり前のこと』とは言うが、助けられたことに当然と思うような傲慢さなど、尊は持ち合わせてない。
「えっと、名前は?」
とりあえず尊は、少女に名を尋ねた。『君』のままでは呼びにくい。
少女も「そうだね」と言うと、遠慮がちに口を開いた。
「わたしはサーシャ。サーシャ・セレナイトだよ」
少女――サーシャは真っ直ぐ前を向くことなく、少し俯きながら答えた。
教えてもらったのだから、こちらも答えるのが道理だろう。
「俺の名前は……」
言おうとして、少し逡巡した。
サーシャの名乗りから考えて、外国らしく名前・名字の順なのだろう。『黒宮尊』と答えてしまえば、『クロミヤ』が名前に捉えられかねない。
別に『ミコト』が名前だと説明してもいいが、郷に入っては郷に従え、だ。
「ミコト……。ああ――ミコト・クロミヤだ。よろしく」
中学でやった英語の授業でもそうだったが、やはり名前を逆にするのは新鮮で、まだ慣れない。これから使うたびに慣れていくだろうか。
尊――ミコトは名乗ったあとに少しの気持ち悪さを覚えたが、サーシャから「よろしくね」と返されて少し和らいだ。
「でも、ミコトって……珍しい名前だね。あっ、変だとか言ってるわけじゃないかからね」
「いや、日本人の名前は外国じゃ珍しいってわかってるし、気にしてねえよ」
ミコトが気にしているのは、女の子みたな名前だと言われることと、おこがましいなどと弄られることだ。
『尊』というのは、神仏の呼び名の下に付ける敬称なのだ。実際は両親の名前を組み合わせただけに過ぎないのだが。
ミコトの返しに、サーシャは『日本人』というワードに首を傾げていたが、安心した顔をしていた。
日本人の名前が珍しいという言葉に嘘はないものの、最近DQNネームなるものが増えてきて微妙なところだが、それはともかく。
ミコトは地面に落ちていた、開きっぱなしの携帯電話に気付いた。画面は暗くなっている。
慌てて拾って確認した。時間経過で暗くなっていただけとわかり、安心した。
汚れこそ付いているが、壊れていない。車に轢かれたときにできた傷があるだけだ。
耐衝撃性が高いのを買って正解だった。
ふと、倒れている熊に視線が行った。
脳震盪を起こしたのか気絶していたが、恐怖で咽喉が干上がるのを感じた。
自分をあと一息で殺していた生物なのだ。
本来ならトラウマものだが、ミコトはなんとか叫び出すのを抑える。
「しっかし、あんなのが出るとか、ここはどんな危険地帯だよ。あれって魔物って奴か?」
「ここはガルム森林っていう普通の森で、あれは角熊。ただの野生生物だよ」
「角が生えた熊だから角熊……安直だな。っつーか、こんなのがただの野生生物とか……ひえー、怖い怖い」
異世界ゆえに聞いたことのない地名は、この際置いておいて。
ミコトは乾いた笑い声を上げた。
あの生き物、角熊がただの生物なのか。
サーシャの言葉のニュアンスからすると本当に魔物がいるようなので、さらに戦慄した。
もっと強い奴がいんのかよ……。
思えば、この携帯電話が車に轢かれて壊れ、フラッシュをたくことができなかったなら、ミコトは死んでいたのだ。
この携帯電話は、自分に残った幸運の象徴である。
大事にせねばと、電源を落とした。充電する手段があるかわからないのだから、節約するのは当然だ。
ミコトはもう一つの幸運、サーシャを見た。
携帯電話には申し訳ないが、感謝に具合では完全にこちらが上だ。
おそらく、この世界の現地人だろう。
物語なら第一村人とか、ヒロインとかそういうポジションだが、現実をそういう目で見るのはよくない。
ああ、よくない。うん、よくないな。そうだな。そうだが。
「……」
サーシャの穏やかな雰囲気で、ミコトの頬を緩んだ。
彼女と話していると、こちらも穏やかな気分になるのだ。どうしてか、気を許してしまいそうになる。
――そこで、重大な違和感に気付いた。
考えて、すぐにわかった。
震える手で、唇をなぞる。
(……なんで、言葉を理解できるんだ?)
異世界人が、違う世界の言語を理解できるはずがない。
異世界トリップの作品でよくある、『自動翻訳』などというものでないのはわかっている。
ミコトは憶えているのだ。気絶する前、サーシャが別の言語を使っていたところを。
だが、今は理解できる。
完全に、というわけではなく、『なんとなく』という感じで、違和感が半端ではない。
『この言葉、わかる? あんだすたん?』
ミコトは日本語(一部英語)でサーシャに話しかけた。
様子が急変したミコトに首を傾げていたサーシャは、さらに首を傾げた。
日本語を理解していないのだろう。
「なんて?」
「いや、なんでもねえよ。ちょっと我が家に伝わるインチキ占いをやってみただけ」
「インチキなの!?」
日本語が話せなくなったわけではないようだ。あくまでこれは、ミコトになんとなく言語を理解させる、というものらしい。
理由がわからず、非常に気持ち悪いが、役立っているのは事実だ。考えてもわかりそうにないし、保留だ。
「ミコトは、どうしてこんなところに?」
「いやそれがさぁ、気付いたらこの森で寝てたんだよねー」
ミコトは飄々といったふうに答えた。角熊に襲われたときに感じた恐怖は、すでにしまい込んである。
「気付いたらって……その前は何をしてたの?」
「車に轢かれて、憐れにもガメオベラしちゃったのよ」
「が、がめおべら……? クルマって、馬車のこと?」
サーシャが不思議そうな顔をした裏で、ミコトは新たな情報を頭の中で反芻させる。
サーシャは、車の存在を知らないようだった。そのあとに出したのは、『馬車』というワード。
よくある異世界ものの作品のように、この世界は科学文明が発達していないのかもしれない。
「それで、サーシャはなんでこんなとこに?」
同じ質問を、今度はミコトがした。
自分でこの森を『こんなところ』と言いながら、真夜中に歩いているサーシャの意図が気になったのだ。
その質問に、サーシャは何かを思い出したかのように、ハッとした表情になった。
もしかしたら訳ありなのだろうかと推察し、質問を取りやめようとしたが、
「あ、あの、ごめんなさい! わたしちょっとおしっこ!」
「トイレに行っといれ……って女の子がなに言ってんの!? っつーか状況的に見て明らかそれ嘘だよな!」
突然サーシャが立ち上がり、森の奥に向かって走り出した。
しばらく唖然としたミコトも、慌てて立ち上がって追いかける。
夜の森の中、血まみれの男が可憐な少女を追いかけるという猟奇的な図。
しかも少女は先ほど、トイレに行くという発言をしていて、犯罪臭が漂いまくりなのだが……焦ったミコトに自覚はない。
「お、おい、待ってくれよ!」
思ったより、体がきつい。
治癒魔術とやらで怪我は治ったようだが、体力は減ったままらしい。
それでも、一歩一歩が違うし、体力的にもミコトのほうが上だった。
すぐに追いついて、サーシャの前に回って立ちふさがった。
双方、息を荒くして立ち止まる。
ミコトと、背がミコトの肩ほどしかないサーシャが視線を合わせば当然、ミコトが見下ろしサーシャが見上げる形になる。
しかし、サーシャは目を逸らして俯いた。
「いきなりどうしたんだよ? 俺、なんかした?」
「あ、あの、えっと……」
サーシャは言いよどんだように、何も答えない。
ミコトの中で、不安が募る。
サーシャは、この世界で初めて出会った人間なのだ。
こんなところで置いてけぼりにされるわけにされてはたまらない。
このままでは、運の悪いミコトは、きっと遭難してしまうだろう。角熊か、ほかの生物に襲われる可能性もある。
迷惑かもしれないが、ここで黙って別れるなどという選択肢は存在しない。
困ったことがあるのなら――彼女は恩人だ。助けない理由など、ありはしない。
ミコトの剣幕に圧倒されたのか、サーシャが少しずつ視線を合わせていく。
「実は、わたし……」
そのときだった。
ガサリ、と後ろで物音がした。ミコトの背後を見たサーシャが、その顔を緊張と恐怖で強張らせた。
後ろに、何かがいるのだ。
ミコトは素早く振り向いた。
その十数メートル先、その人影は立っていた。
茶色の短髪の男だった。
こちらを見る目付きは悪く、ブラウンの三白眼をしている。にやけた口元は、軽薄な印象をミコトに与えた。背はミコトより少し高い。
歳は、ミコトの妙技『歳当て』によれば、二三歳といったところか。
ミコトの奇怪なものを見る視線と、サーシャに睨まれる中で。
――その男は、口を弧の形に歪めた。