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第二三話 改めまして

 平時ならば、誤魔化し続けられたのだろう。それぐらい上手い演技をしてきたつもりでいる。


 だが今は、尊は地獄に落とされた直後だった。精神的に不安定で、ちょっとした切っ掛けで決壊する状態。つつけば爆ぜる、そんな状態だったのだ。

 それでも、誰にも気付かれることはなかった。


 ――サーシャを除いて。


「気付いてたんだな、お前。……いつからだよ」


「……洞穴でミコトが、ミコトの世界のことを、教えてくれたときくらいから」


「そっか……」


 寂しさを紛らわせるための行為が、見破られていたのか。

 深く、溜め息をこぼした。

 乾いた笑いが出てくる。


「どう思った?」


「どう、って……」


「惨めだったろ? うざかったろ? かっこ悪かったろ?」


 サーシャは優しいから、言葉にすることはないだろうけど。

 きっと心の中では、侮蔑しているはずだ。


「もう、無理だな……」


 騙し続けられないのなら……演じるのも、全部無駄だ。


「茶化してふざけてごまかして、クソッタレな心を隠してきた。こんな醜い心をさらけ出してたら、独りになってしまうって……そう思って、騙し続けてきた。本当の俺はヘタレな臆病者で、周りを傷つけてばっかりで、そのくせ逃げることしか、してこなかった」


 目を閉じれば、己の罪が脳裏をよぎった。




『親父』


『……あ、ああ。どうしたんだ?』


『……いや、やっぱなんでもない』




「あのときだって、この目で見てたのに……。今を壊すのが怖くて、見て見ぬふりをした」




『なんで浮気したの!?』


『そ、それは……』


『ま、まあ待ってよ母さん。なんか事情があったんだろうしさ、な?』




「あんなことになる前に、止められたはずだった。止めなきゃ、いけなかったのに。俺は全然、動けなかった……」




『誠さん……事故で、死んだって』


『……っ!? そん、な!』


『どうして、こんなことに……』


『…………。――母さんは、俺が守るよ』




「守るなんざ、どの口で言ってやがる。ずっと守られてきたばっかりで、なんにも守ってこない俺が、こんなクズが、誰かを守れるわけねえだろ」




『俺、学校やめるよ』


『え、なんで!?』


『お前、本気で言ってんのか?』


『ああ。バイトしなきゃなんねえしな』




「逃げただけだ。周りが俺を置いて、勝手に変わってしまうのが、耐えられなかったんだ」




『そっか……。がんばってね』


『卑屈になるなよ? なんとかなるさ』


『……ああ、サンキューな』




「俺だって頑張ってるって、そう思わなきゃ、潰れそうだっただけだ」




『娘から聞いたよ。高校、やめるんだってね』


『ああ。まあ高校の勉強ぐらいやらなくたって、どうってことねえよ!』


『……そうか。頑張ってね』




「ずっと言い訳を続けて、俺なら大丈夫だって強がって、弱さをごまかしてきた」




『母さん、料理できたよー!』


『…………』


『……母さんにも食べやすいように、水物にしてるんだ。テーブルに置いとくから、腹減ったら食ってよ』




「悲痛に苦しんでいる大好きな人にすら、向き合えなかった」




『初めてのバイトで不安もあるけど、頑張っていきまーす!』


『おー、元気のいい奴がきたなー。なあ先輩?』


『うぇ? ぁう、うんそ、そうだね。と、ところで君、アニメとか興味、ある?』


『……あんま知らないけど、興味ありますぜ!』




「挙句、逃避した先は、妄想だ。……フィクションの世界には、どんな苦境からでも立ち上がる主人公がいた。かっこよかった。俺は物語を追って、その世界の主人公になった気でいたんだ。……そんなわけ、ねえのにな」




『尊!』


『ごめん、な……』




「果てに最後にゃ、死んじまって……今、こんなところにいるんだよ」




『――私は、貴方が好きです』




「まだ、なんにも、答えを出せてないのに……ここに、来ちまったんだよ」


 吐き出して、吐き出して、吐き出して。それでもまだ、吐き出し足りない。

 これまでの後悔が沸々と湧き上がる。理性のタガは外れていて、汚い言葉を濁った思考のままに吐き出す。


「なんとかできたんだ、しっかりやってれば! 見てたんだ、俺は! それでも動かなかった! ビビッてなんにもできなかった! なんとかしなきゃいけなかったのに! なのに俺は、責任全部を親父とあの女に押し付けて、悲劇ぶってたんだ! 俺にだって、罪があったのに! いいやそもそも、俺が始めっから動いてりゃ、あんなことにはならなかったんだ!」


 止まることなく溢れ出す、芽生えた負の感情。

 いや、違う。

 それらの感情は、ずっと自身の内に溜め込んでいただけだった。それが今、解放されただけなのだ。


 咽喉が潰れるぐらいに叫んだ。

 血が足りないのに怒鳴ったせいで、眩暈がした。


「なあ、サーシャ。俺がこの世界に来たとき何を思ったか、わかるか?」


 俯いているから、サーシャの表情はわからない。侮蔑しているだろうか? 軽蔑しているだろうか 同情しているだろうか?

 それを確認するのが怖くて、彼女が答える前に口を開いた。


「よかった――って。そう思ったんだよ……」


 それは地球で歩んできた己の人生を、真っ向から否定する告白だった。


「まだまだやらなきゃいけないことが、たくさんあったんだ! なんにもかんにもできてないんだ! それなのに、俺は勝手に死にやがって、ここにいるのに!」


 自分自身が許せなかった。


「散々周りを滅茶苦茶にしておいて、俺はあの世界から逃げ出せたことを、喜んでたんだ! ……ああ、そうだ。俺は一度たりとも『帰りたい』なんて言わなかった!!」


 寂寥感はあった。だが、それだけだ。

 異世界で新たな人生を送るのだと、身勝手な決意をして、自分の罪から逃げようとしたのだ。

 利己的、自己中心的に、自身を優先した。

 そんな自分が、憎かった。


「変われるって思ったんだ! こんな俺でも、変われるんだって、思っちまったんだ!」


 自身の罪を忘れ、自分だけ助かろうとする自分が、世界で一番――大嫌いだった。


「ミコト……」


「その名前を呼ぶんじゃねえよ!」


 サーシャが口にした名を聞いた瞬間、堪え難い嫌悪が湧き上がった。

 守ると誓ったはずの相手に怒鳴る。いや、そもそも、誓いなんて大層なものではなかったか。

 尊は怒鳴って……それでもサーシャは、口を閉じてくれない。


「自分のこと、悪く言っちゃダメだよ」


「それを……」


 その言葉を聞いて、尊の中に沸々と苛立ちがこみ上げてきた。


「それを、お前が言うのかよ、おい! 赤い瞳だ『操魔』だなんだって卑下してたお前が、それを言うのか!」


 湧き上がった苛立ちが、本当はそんなこと言いたくないのに、声を紡がせた。

 顔を上げて睨んだ先で、サーシャは怯えて後ずさっている……と、予想していた。


「……そう、だね。だけど」


 しかしそこには、真っ直ぐこちらを見つめる、白い少女がいた。

 綺麗な赤い瞳が、尊を射抜く。


「だけど、わたしはミコトが苦しんでるのを、見て見ぬふりすることなんて、できないから」


 なんで、怯えてないんだ、と。理不尽だ、と、思った。そんな理屈、勝手だと感じた。

 しかし、理不尽だと罵る自分自身の理不尽さを自覚して。地面に崩れ落ちている自分と、真っ直ぐ立っている彼女を対比して、尊は再び俯いた。


 ――サーシャは尊が思っていたより、ずっと強い人間だった。


 眩しすぎて、直視できなかった。

 どうにかして彼女の顔を悲痛で歪めてやりたくなった。

 本当はそんなこと、望んでないのに。


「なあ、俺の言葉を聞いて、わからなかったのか?」


 今度こそこれを言えば、嫌われる。嫌われてしまう。

 ……いいや、嫌われればいい。助ける価値もない人間だって、見放されればいい。


『それだけじゃ、ない……』


 かつてサーシャが自身を否定した言葉と、よく似た言葉を吐く。


「――俺のクソッタレは、それだけじゃねえんだよぉ!」


 それがきっと、一番いいんだ。俺みたいな奴と一緒にいるより、ずっといいに決まってる。


「俺は――お前を、利用してたんだよ」


 ああ、言ってしまった。

 こうするのが正解だって、確信していたはずなのに後悔している。ああ、なんて浅ましい。


「この世界に落ちて、お前に出会って、それが見て聞いてわかる悲劇だったから。俺のエゴが、お前を悲劇のヒロインに貶めたんだ。本当は、お前は俺なんかより、ずっと強い人間なのに。サーシャを救えたら、きっと変われる……って」


 物語のようにこの世界を見るのはよくない?

 そんなの、表面上で考えただけだ。本当はなんにも理解しちゃいなかった。


「才能があるって言われて、全然強くなんかなってないのに成長した気になって。変わり始めてるんだって、調子に乗ってたんだ」


 調子に乗ってはいけない?

 それも、表面上の見せかけだ。かっこつけてただけだ。


 口で頭で理解しても、実際はまったく別のことをしている。わかったフリして、本当はなんにもわかっていない。

 思えばいつも、そうだった。やらなきゃいけないと思っているのに、体はまったく動いてくれないのだ。


 理想を目指したはずだったのに、理想は目指した時点で破綻していたのだ。


「選ばれたんだって思ったさ、主人公に! だって、そうだろ!? 死んで、剣と魔法の異世界行って、魔術の才能と特殊能力引っ提げて、新たな人生を歩む――そんなの、テンプレの定番じゃねえか! まるで主人公みたいだろ!? なってやるって思ったさ。だから主人公ミコト・クロミヤだって演じられたんだ!」


 フィクションの世界。主人公たちは苦境に立ち向かい、葛藤を打ち破り、ヒロインを救うヒーローだった。

 最初は弱かった人間が変わっていく――尊はそれに憧れた。


「だけど! 現実は、俺は、全然違った! 今までとおんなじ、全然なんにも守れちゃいない! なにが主人公だクソ野郎。モブすら甚だしい、踏み台にもなれねえクズじゃねえか! こんなので守るだなんて、よく言えたもんだよなぁ!」


 現実から逃げて。

 でも、理想はあまりに遠すぎた。

 現実と理想の狭間で、尊は叫ぶことしかできない。


「『守る』……? ああそうだ、そんな言葉に意味はなかった! 中身がないどころじゃない、器から腐ってたんだからな! こんな身勝手な俺が、変われるはずがなかったんだ!!」


 だから、もういい。


「消えちまえよ……」


 もう、嫌だ。


「おれなんか、死んじまえェ……!!」



     ◇



 ああ、言ってしまったな、と。ぼんやりと思う。

『ミコト・クロミヤ』は偽物で、言葉も行動も何もかも、卑怯者が思い描いただけの幻想だったのだ。

 サーシャはこれを知って、どう思っているのだろうか。


 たぶん、嫌われただろうな。

 こんなに醜い悪意をぶつけ、黒い心を見せつけたんだ。きっと、見捨てられるだろうな。


 いや、そもそもこんなことになったのは、サーシャが逃げてと言ったからだっけ?

 ……なんでもいいか。


 これが正解なんだ。サーシャが罪悪感を抱いたままより、清々したとでも言って離れたほうが、ずっと苦しみは少ないんだ。

 見下されているだろうか。今すぐにでも、罵倒が飛んでくるだろうか。

 もしも、そうなったら……たぶん、悲しいだろうな。


 ああ、体が怠い。目の前がぐらぐらと歪んで、頭がぼんやりとする。

 このまま眠ってしまいたい。


「ミコト」


 サーシャの、大嫌いな男を呼ぶ声がした。すぐ近くからだった。

 俯きながら目を開け、視線を上に向ける。眼前の地面、サーシャが膝をついているのがわかった。

 綺麗な肌なのに汚れちまうぞ……なんて言うのは今さらで、くだらないな。


 尊は再び目を閉じ、これから言われるであろう罵倒を待ち――、


「心配してくれて、ありがとう」


 え? と。思わず、声が漏れた。

 理解できなかった。なぜ彼女が礼を言う? 俺の言葉のどこから、心配しているなんて結論に辿り着いた?

 サーシャはいったい、何を言っている?


「ミコト、わたしに嫌われようって、思ってる」


「――――っ!?」


 図星だった。


 尊は強がり(ミコト)を否定され、否定し。生き方を否定されて、否定し。――それでも、本気でサーシャに悪意をぶつけることは、できなかったのだ。

 どうしても心の奥で、彼女を裏切ることに、抵抗を感じていたのだ。


「わたしだけじゃ、レイラを救えない。だったら、このまま逃げたほうがいい。だからここでわたしの心を折ってでも、レイラを見捨てさせたかった。……そうだよね?」


 自身も自覚していないことを言われて、尊はハッとする。先ほどの言葉の数々と思考の空白に、自分でさえわからなかった思惑があったのだと、初めて気付いた。

 だがどちらにしても、レイラを見捨てる選択肢を取らせる、クズの思惑だ。


 だからサーシャが言う言葉は予想できた。その予想は、今回は外れなかった。


「――余計な、お世話だよ」


 静かな怒気を交えた、サーシャの声。それは初めてまともにサーシャが尊に向けた、『怒り』の感情だった。


「確かに、わたしは弱いよ。誰かに……レイラに頼らなきゃ、今まで生きてこれなかった」


 静かな、震えた声。込められた感情は、尊もよく知っている罪悪感が秘められたものだ。

 だがサーシャは、尊とは違った。


「――だからわたしは、今度はわたしが、レイラやみんなを助けたい!」


 弱いと決めつけていた。

 気弱だと思い込んでいた。

 ただ、優しいとだけ思っていた。


「今まで助けられてきた分……ううん、それ以上に! わたしはみんなの助けになりたいの!」


 でも、違っていた。

 サーシャは――本当に『強い』のだ。


「ミコトの言った通り、ずっと卑下してきた。わたしはわたしが、あんまり好きじゃない。でも、それでも、好きになりたいって思ってる!」


 だから! と。

 サーシャは、言う。


「だからミコトも、自分を否定しないで!」


「そ、んな……」


「自分を嫌いにならないで!」


「んだよ。それ……」


「もっと、自分を好きになって!」


「んなこと、言われたって……」


 そんなことを、言われて。初めて、そんなことを言われて。

 けど、どうすりゃいいんだよ。


 ……いや、本当に初めてか?


 悠真は何度も、遊ぼうと声をかけてくれた。それはきっと、尊に元気になってほしかったからだ。

 玲貴はこんな自分を好きだと言ってくれた。尊を追いつめる結果になったそれは、きっと本当は、誰かに想われているんだってことを気付いてほしかったからだ。


 異常だった尊を、見捨てないでいてくれた両親。

 ずっと昔。

 友達ができたと言う尊の話を、嬉しそうに聞いてくれた母。

 気が狂いそうになっていた幼少期、尊を優しく背負ってくれた父。


 ほかにも、たくさんの情景が脳裏をよぎった。

 こんなにも想われていたのに、全然気付けなかったことに、尊は愕然とした。


「…………っ」


 今すぐ玲貴と悠真に『ありがとう』と伝えたかった。

 ベッドに寝たきりになった母を叩き起こし、本気で守っていきたい。

 墓の下にいる父に、土下座して謝りたい。そして『今までありがとう、大好きだよ』って、伝えたい。


「けど、もう無理なんだよぉ! どうしたって、好きになれるわけねえだろ!?」


 彼らに会う機会は、きっと来ない。

 直感的にわかっていたのだ。この世界には、地球に帰る手段なんてないと。

 伝えたい想いは、永遠に届かないのだ。


「帰りたいよ! けど、気付くのが遅かった……遅すぎたんだ! なんで、おれは、こんな、だめなん、だよ……!」


「だめなんかじゃない!」


 サーシャが、尊の否定を否定する。

 なんでハッキリ、そう言えるのか。それが尊には、まったくわからなかった。


「確かに、ミコトはいっぱい、弱いところがあると思う」


「ああ、そうだ!」


「つらいことがあったら逃げたくなるし、悲しいことがあれば泣きたくなる」


「ああ、そうだ……!」


「でも――それだけじゃ、ない」


 つい最近、サーシャが自身を否定し、尊が自身を否定した言葉で、今度はサーシャが、尊を肯定する。


「あの夜、洞穴で。『操魔』のことを肯定してくれた。赤い瞳を、綺麗って言ってくれた」


 尊のすぐ目の前、地面に膝をついて、サーシャが泣きそうな顔で微笑んでいた。

 初めて知る。自分が率直に告げた感想が、こんなに彼女を救っていたということを。

 今、わかった。この応酬は、あの洞穴での一幕を、まったく逆にしただけなのだと。


「わたしが暗い気持ちになったとき、あなたは明るく振る舞ってくれた」


 ああ、そうか。

 サーシャが悲しんでいたのは、尊に中途半端な悪意をぶつけられたからではなかった。


 そうだ。

 尊が自身を散々に否定するのを聞いて。

 彼女は、悲しんでいたのだ。


「――ミコトは、優しい人だよ」


 その言葉を聞いて。

 ふいに、涙が溢れた。ずっと今まで、昔からずっと流すまいとしてきた涙が、頬を伝う。涙は地に落ち、染みが広がっていく。


「だから、もういいよ。もう十分、頑張ったよ。だから、もういいんだよ」


 自身のすべてが、許されたような気がした。錯覚だろうけど、解放された気がした。

 自分がやらなければいけないのだと。そう思い込んでいた心が、ほぐされていく。その奥に隠して見えなかった欲求が、溢れ出す。

 心を覆っていた鎖が、ぼろぼろに崩れていく。


「これを、ミコトにあげる」


 サーシャが懐から、ネックレスを取り出した。綺麗に輝く青い水晶がつけられている。

 尊の感覚は、それを一瞬で魔力の塊であると見抜いた。


「これは聖晶石。石に魔力が付与された魔鉱石じゃなくて、純粋な魔力の結晶……。これを、ミコトにあげる」


「なん、で?」


「換金すれば、贅沢しなきゃ一生暮らせるだけのお金になると思う」


「なっ……?」


 一生暮らせるほどの価値が、あの水晶にはある。

 尊の感覚は、聖晶石の魔力密度が、魔鉱石の比ではないことを瞬時に悟った。


「でも、それ……大切なものなんじゃないのか?」


「うーん。お母さんの形見らしいよ」


「なんでそんなもの、俺なんかに渡すんだよ!」


 大事なものを、どうして尊に渡すのか、全然わからない。

 どういうわけか問い質そうとして、しかし、サーシャはその前にこう返した。


「『なんか』なんて、言わないで」


 その言葉も、尊が言った言葉だった。

 尊が彼女に向けた偽善意が、本当の善意になって返ってきているのだ。


「……っ、今そんなことは、どうでもいい! さっさと答えろよ!」


 このまま、サーシャの言葉を受け入れるのが怖くて、反発するように声を荒げる。

 だって、自分を認めることがこんなにも怖いなんて、知らなかったから。


「わたしに、お母さんの記憶がないのもあるけど……。きっと、ミコトのために使ったほうが、お母さんも喜んでくれると思うから」


「そんな、理屈……! お前の母さんがどう思ってるかなんて、わかんねえだろうが!」


「うん。わたしはお母さんを憶えていない。……でも、レイラのことは知ってる。レイラが大好きだったお母さんだもん。絶対にいい人だよ」


「レイラ、が……」


「うん。……それに、わたしは形見よりも、ミコトのほうが大事だから」


「――――」


「ミコトには、幸せになってほしいから」


「――――っ」


「だから、逃げて」


「――――っ!」


 尊は、自身の欲求を自覚した。

 そして、決めた。


 覚悟なんて、立派なものじゃない。

 これから進む道には、後悔があるかもしれない。

 グダグダ悩む自分のことだ。きっといつか、『もしも』を考えてしまうときが来る。


 でも、もう、進むと決めたから。

 尊は手を伸ばし――ネックレスを受け取った。


「…………っ」


 悲痛に顔を歪め、ぎゅっと目を閉じるサーシャ。

 どれだけ綺麗なことを言ったって、寂しいと感じてくれているのだ。そのことが、尊には嬉しかった。


 尊は緩慢な動きで立ち上がる。サーシャとの高低関係が逆転した。視線を下げると、俯くサーシャの頭が目に入った。

 歩き出す。ゆっくり、小さな歩幅で、一歩踏み出し――止まった。


 サーシャのすぐ後ろで、尊は膝をついて座る。サーシャの首に右手を伸ばす。


「えっ……」


 サーシャのとぼけた声。現状がわからず、戸惑う声だ。

 けど、ちょっと待ってほしい。まだ準備ができていない。

 右手一本だと、器用にできないのだ。


「よしっ、できた」


「これ、なんで……?」


「なんでじゃねえよ。それはお前が持ってたほうが、ずっと似合うんだからさ」


 サーシャが首元に手を這わす。そして掴み取ったそれは――青い水晶。

 尊がサーシャの首にかけたのは、彼女の母の形見であるネックレスだった。


「サーシャ」


 尊は再び、サーシャの前に膝をついて座る。

 サーシャの頬に伝う涙を、右手で拭う。


「やっと気付けたんだ」


 この世界に、友達や家族はいないけど。

 でも、想ってくれる人が全員、いなくなったわけじゃなかった。


 ずっと、目の前にいたんだ。

 それに、ずっと気付けなかった。


「わかったんだ、やっと」


 自分がやらなければいけないと、自分を追いつめていた。

 心が見えなくなるほど、義務の鎖で雁字搦めにして、本当の気持ちがわからなくなっていた。


 でもそれは、ずっと心の中にあったんだ。

 鎖を払ってもらった今なら、それがわかる。


 それは、身勝手な欲求だった。

 けれど、悪い気はしなかった。


「――――」


 迷うことはあるだろう。

 立ち止まってしまいたくなることも、あるだろう。

 けど、この想いさえあれば大丈夫だと、根拠のない確信があった。


 だから、尊は。


「――俺に、助けさせてください」


 頭を下げて、懇願する。


「――俺を、助けてください……!」


 このとき。

 尊は人生で初めて、心の底から『助けて』と。救いを求める言葉を、口にできた。


 答えは、果たして。

 断られないだろうか。

 拒否されないだろうか。


 怖くて、もしもの答えが恐ろしくて、逃げ出したかったけれど。

 尊は顔を上げて、真っ直ぐサーシャの目を見た。


 黒と赤の視線が絡む。今度こそ、黒は逃げなかった。

 サーシャが、口を開いた。

 ただ、一言。


「――うん」


 安堵で、崩れ落ちた。尻餅をついて、笑う。

 たぶんだらしない笑みになってるだろうな。


「ありがとう。『ごめん』なんか放っといて、ありがとう! 本当に、本気で、ありがとう……!」


「うん」


「もう逃げない、なんてハッキリ言えないけど。けど、もう決めたから。だから俺も、自分に向き合ってみるよ」


「うん」


 尊の弱々しい誓いに、けれど、サーシャは嬉しそうに頷く。

 勇気なんてかっこいいものは、持っていないけど。覚悟なんて大層なものも、あると信じることしかできないけど。


 尊は右手を握りしめる。

 彼女が信じてくれるなら、頑張れる気がしたから。


「改めまして、自己紹介をするよ」


 今度こそ、仮面を脱ぎ捨てて。

『やらなきゃ』を捨て去って、『やりたい』という想いを忘れないよう、心に刻み込むために。


 今度こそ、本当の自分を失わないために。


「俺の名前は、黒宮尊。尊が名前で、黒宮が名字。一六歳。高校を中退してバイトしてた、半人生脱落組。ついでに異世界人」


 心(本当)は、見つけられたから。


「ま、ここ外国みたいな感じだし、ミコト・クロミヤでいいよ。中身はガラッと変わっちまったけどな」


 尊はミコト・クロミヤを名乗り、立ち上がる。

 右手を差し伸べる。サーシャの左手を掴んで、引き上げる。


「心機一転、頑張るとすっかぁ!」


 吠えるミコトに、サーシャはクスリと微笑んだ。


「言うほど変わってないよ、ミコト」


「うえぇ!? 変わったっしょ! なんか『吹っ切れた!』って感じになってなくなくない?」


「でも、おふざけは素でしょ? それに、ミコトはずっとミコトだよ。優しいまま」


「お前なぁ……」


 恥ずかしいこと、さらっと言うなぁ。

 ミコトは内心、溜め息をこぼした。その顔は、嬉しそうに緩んでいたが。


「さってとぉ。ここはいっちょ、合わせてやっとくか。ほれほれ、打ち合わせだ」


「……?」


 訝しげに耳を寄せるサーシャに、ミコトはごにょごにょ。

 サーシャがうんうんと頷くのを見て、ちょっぴり満足。


「んじゃ、生こうか」


「準備おーけーだよ」


「うっし。三、二、一、ハイ!」


 右手と左手を繋ぎ、二人はともに歩く。

 同時、宣言した。


『さあ、逆転開始だ!』


 ミコトとサーシャは誓い合う。

 運命には――負けない。

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