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第二二話 黒宮尊という少年

 彼は。

 黒宮尊は、東京のとある住宅街の中流家庭で、生を受けた。


 彼は見た目上、普通の赤子と一緒であった。

 身体に欠損があったとか、体が弱いだとか、そんなことは全然なくて。むしろ健康体でまったく病気にかからず、活発。しかし、まったくと言っていいほどに泣かなかった。

 たぶん、親からすれば育てやすかったと思う。遥かに少ない苦労で済んだのだから。


 尊は天才と言われるほどに、成長が早かった。

 物覚えがよかった。絵本を読み聞かせてやれば、スポンジのように言葉を憶えた。

 運動神経がよかった。ハイハイ、つかまり立ち、二足歩行と、すいすい発達していった。

 頭がよかった。赤子だと難しいようなパズルも、あっさりと解いた。


 黒宮尊は神童だった。間違いなく、天才児であった。

 それは両親の親馬鹿視点を取り払っても、間違いなく。


 しかし。

 彼はどこか、おかしかった。


 最初に片鱗を見せたのは、近所の公園に連れて行くため、家を出ようとしたときだ。

 それまで物静かだった尊は、大声を上げて泣きじゃくって、両親を大いに困らせた。

 本来、幼児が外に向けるだろう興味が、尊の中には存在しなかった。


 実際に外に出られるようになったのは、二歳になってからだ。

 公園に行って、しかし尊は公園にいた子と、まったく遊ばなかった。それどころか、周囲を怖がっていた。まるで世界が、敵に見えているかのように。


 三歳になってしばらく経ち、幼稚園に入園することになった。

 尊は両親から離れることを酷く怖がったが、両親は慣れさせるしかないと、半ば無理やり入園させた。


 最初は怯え、部屋の隅にいた尊だったが、次第に交流を憶えていく。いつも泣き顔で、目の周りを赤くしていた尊も、よく遊ぶようになる。

 もともと明るく活発で、運動神経のよかった尊は、すぐに園児たちの中心に入っていった。


 そして――問題が起きた。


 初めから中心にいた一人の園児が、尊に突っかかったのだ。

 幼児というのは自分勝手で、身勝手て理不尽、不条理なものだ。

 ちょっとした嫉妬だった。軽い侮蔑だった。冗談のような軽蔑だった。

 しかし、尊にとっては初めての悪意だったのだ。


 尊は暴れた。周囲にいた園児たちを押し退けて、突っかかってきた園児を小さな拳で突き飛ばした。

 数日後、両親がその園児の両親に頭を下げるのを、尊は理解できずに眺めていた。


 それから、ちょっとした虐めが続いた。尊が突き飛ばした幼児は園児たちの中心だったから、全員が尊の敵に回った。

 きっかけは、ちょっとした悪意。それが尊を、再び元に戻ってしまった。世界を、まるで敵のように睨むようになってしまった。


 幼児の喧嘩だ。殴るも蹴るもない、突き飛ばすだけの喧嘩。

 しかし、尊の成長は早かった。すぐに喧嘩の仕方を憶え、地面に組み伏せ殴るレベルにまで上がる。

 虐められて。返り討ちにして。怒られるのは、なぜか尊の両親で。


 起こったすべての事象が、尊の敵だった。自身が原因であることを理解できず、世界のありもしない悪意を、尊はずっと憎み続けた。

 ちょっとした切っ掛けで、性格が切り替わったように暴れまわる。活発で明るい性格、自分の殻に閉じこもる暗い性格、狂暴な性格が、ころころと入れ替わる。

 それでも唯一、両親にだけは心を開いた。家の中でだけは、尊は『本当』でいられた。


 子供らしくない異常性を心配した両親は、精神科に尊を診せた。

 躁鬱が切り替わることから、双極性障害――つまり、躁鬱病のようだと言われた。

 しかし、さまざまなカウンセリングを受けたが、結果はまったく出なかった。


 そして、二年の月日が流れた。


 幼稚園の先生が、子供たちに浮かぶ風船を配っている。尊はそれを遠巻きに眺めていた。

 別に、混ざりたいとは思わなかった。すでに身内と他人の境界線を明確にし始め、誰とも関わろうとしない尊が、他人と一緒にいるわけがない。

 そうして尊が、幼児らしからぬ冷めた視線を、きゃいきゃい騒ぐ子供たちに向けていたときだった。


 尊の前を、とぼとぼと歩く幼子がいた。明るい茶髪の少女だ。手には赤い風船が握られている。

 その子が、尊の目の前で躓いた。どてっ、と痛々しくなる鈍い音が響く。風船が彼女の手を離れ、ゆっくりと浮遊していく。


 どうして尊がそのとき、行動を起こしたのか。ただの反射的な行為だったのかもしれないし、良心を刺激したからかもしれない。

 それは、一〇年以上経った今でも、わからない。

 ただ結果として、彼は動いたのだ。


 尊は跳んだ。風船の紐に目掛け、手を伸ばす。

 届け。

 届け。

 届け――!


 尊は着地……に失敗して、尻餅をついた。すぐに立ち上がり、汚れを払って、近くで倒れている少女に歩む。

 少女が怯えたように後ずさった。尊が問題児というのは、同じ組の子供たちは、みなが知るところであったからだ。


 ここで初めて、尊は『悲しい』と感じた。

 誰かに受け入れられないことが、こんなにもつらいことだったなんて、初めて知った。


 だから。


 右手に握った風船を、少女に突き出した、その顔は。

 誰もを安心させるだろう、微笑みを浮かべていて。


「――俺、黒宮尊。お前は?」


「れ……れ、き」


 それが、伊月玲貴の出会い。

 黒宮尊にとって、初めて友達ができた瞬間であった。



     ◇



 どうして玲貴が、友達になってくれたのか。尊はわからなかった。

 わからなかったが、あまり気にしなかった。重要なのは『玲貴が友達になってくれた』という事実だけであったからだ。

 こういう風に考えられること。それは尊の人間不信が、治りかけている証左でもあった。


 当然、人間関係が構築されれば、悩みは出る。

 玲貴は明るい性格の、平々凡々な少女だ。尊のような異端児ではない。六歳になり、ようやっと論理的思考ができるようになってきたところである。

 精神的な成長が早かった尊との思考の齟齬は、かなり大きなものだった。


 きゃいきゃいとはしゃぐ玲貴に引っ張られ、振り回される毎日。

 それは非常に疲れ――いや、やっぱりそれは、悩みではなかった。むしろ充実した日々で、楽しかった。


 玲貴に影響され、尊も少しずつ笑みを見せるようになっていく。

 ようやく明るい面が、表に出始めたのだ。

 両親も、安心して微笑んでいた。それを見て、尊も嬉しい気持ちになった。


 幼稚園を卒業した。

 小学校に入学した。


 相変わらず玲貴は、尊と一緒であった。ともに学校に行き、ともに遊び、ともに勉強し、ともに帰宅する。

 そして、小学二年生になった。

 玲貴はいつも楽しそうな笑顔を浮かべていたが……尊には新たに、悩みができた。


 尊は未だ、両親と玲貴以外には、心を開けない。尊は未だ喧嘩騒ぎで、危険人物として見られているのだ。虐めこそなくなったが、干渉もされない。

 対して、玲貴は明るい少女だ。尊以外の友達もいる。しかし尊と常にいれば、次第に疎まれていくだろう。


 その未来を予測して、尊は恐ろしくなった。

 自分が虐められるのは、まだいい。返り討ちにする自信もある。

 だが、玲貴には尊のような力はないのだ。今はまだいいが、尊は男、玲貴は女。いつまでも一緒にいられるわけじゃない。


 このまま気にせず、一緒にいるべきか。

 将来のことを考え、離れるべきか。


 本音を言うなら、前者を選びたい。けれど、自分のために玲貴を不幸にしたくない。

 だからと言って、後者を選ぶのも嫌だ。独りぼっちにはなりたくない。


 考えて、考えて、考えて。

 そして尊は、一つの結論に辿り着いた。


 他人を信用できない、この性格を治すには、時間がかかる。

 ならば――演じればいい。


 誰かに心を開けるようになる、そのときまで。

 ずっと――偽ればいい。


 簡単なことだ。

 悲しみや憎しみ、怒りなどの負感情を表に出さない。明るいときの自分を、『普段の自分』を演じるだけだ。

 そして異常ではなくなるよう、周囲に適応すればいい。

 それだけで――。




 尊は一変した。

 周囲に振りまいていた悪意を消し去り、快活に笑うようになった。

 困っている人を見れば助け、悲しんでいる人がいれば励ます。


 その裏に、激しい苛立ちだけを宿して。


 そんなことをして、若白髪が生えてきた小学三年生の春。

 奇妙な転校生がやってきた。


 癖っ気のある茶髪と、綺麗な青い瞳をした少年――空閑悠真。

 幼いながらに美形な容貌であったが、彼はひどく怯えていた。関わる者すべてから離れようとしていた。


 尊は『普段』と同じく、悠真に関わることにした。

 悠真は相も変わらず怯えていたが、尊には心を許し、離れようとしなかった。

 尊も同じく、悠真に対して何か、シンパシーのようなものを感じていた。


 彼らが友達になるのは、遠い未来ではなかった。

 空閑悠真。黒宮尊にできた、二人目の友達だった。


 それを切っ掛けに、悠真は尊に影響され、怯えを消し去って。

 尊の張り詰めていた内面が、穏やかになっていく。


 お茶らけた言動は、癖になって根付き。

 快活な演技は、本物になった。


 尊は不完全ながら、『本来』の人格を取り戻すことができたのだ。



     ◇



 時は過ぎ、尊たちは中学校に上がった。

 周囲からの尊の認識は、その頃には落ち着いていた。


 尊、玲貴、悠真の三人に対する周囲の認識は、仲良し三人組といったものとなっていた。

 事実、彼らは親友になっていた。


 よくふざけるが、根は真面目な尊。

 元気で明るく、社交的な玲貴。

 面倒臭がりだが、自分の芯は絶対に曲げない悠真。


 それぞれに微妙な共通点を持ちながら、決して同じ感性を持たなかった。だからこそ三人は、親友と呼べるほど仲良くなれたのかもしれない。


「ま、まいネェムいづレキ・イヅキぃ……」


「ちげえだろ。ここはこう……ごっほん! マイんネーェェェんムイッズ、ミコト・クロミぃぃぃヤぁぁぁあ! ……みたいな?」


「いや、それも違うだろ」


 中学校からの帰り道で、その三人組は歩いていた。

 何をやっているのかと言うと、英会話の練習である。玲貴が壊滅的に発音できないのだ。


「じゃあ実践してみろよ、悠真」


「お前だってその気になればできるだろうが。……はあ、めんどくせえ。My name is Kuga Yuma」


「う、上手い……」


 呆気にとたれたような玲貴の呟き。

 だが、尊は不満そうに、


「名前と名字は逆だろ?」


「別にいいだろ。慣れないし」


「まあそうだけどよ。その内慣れるって」


「いや、たぶん無理」


 そうこう話している内に、分かれ道だ。

 悠真は小さく溜め息をこぼすと、尊と玲貴に向いた。


「じゃあな」


「ああ、また明日な」


「バイバーイ」


 手を振って見送る。

 悠真は恥ずかしそうに背を向けると、早足で歩き去っていった。


「じゃあ、私たちも帰ろっか」


「そだな」


 黒宮家と伊月家はわりと近所で、登下校は一緒にしていた。

 玲貴が寝起きに弱い。尊はよく起こしに行き、一緒に通うのが日課になっていたこともある。

 昔は便利に使われて、尊の特殊体質もあって『目覚まし』と名付けられたほどだ。


 だが最近は、どうしてか早く起きるようになってきている。「ノックして」や「レディーに対して……」などと言うあたり、中学校に上がって少しは羞恥心を持ったということなのだろうか。

 玲貴の成長が誇らしいようで、少し寂しい。これが兄心か。


「あ、そだそだ、忘れてた」


 歩みを進めようとして、ふと思い出した。


「何かあった?」


「駅前に寄っとかなきゃいけねえんだったわ。わりぃ玲貴、先に帰っててくれ」


「えー。……うん」


 そう言って不機嫌になる玲貴を見て、尊は苦笑。

 今度クレープでも奢ってやろう。それで機嫌は治るだろう。


「んじゃ、行ってくる」


 そう告げて、玲貴に背を向け走り出した。

 駅前まで、尊の足を持ってすれば一〇分ほどで到着する。自分の体力や調子を感覚的につかみ、最速で到着できるよう速度調整して走る。


 向かう先は有名な携帯ショップ。

 最近、携帯を買いたいと思うようになってきた。今日は下見だ。

 今度、父か母を連れてくるつもりでいる。


 玲貴の父は娘の頼みに弱く、悠真は金持ちであるため、二人とも所持していた。

 流行に疎く携帯電話自体にあまり興味はないが、友人たちの中で自分だけ持っていないのは癪だ。


 一〇分後、ちょうど息が切れる瞬間に到着。

 すぐさま店の中に入る。クーラーがかかった店内は、気持ちいいくらいに涼しかった。


 店員に声をかけられたが、まず自分で見てみると言って、一人で店内を回る。

 性能はどうでもいいから、第一に頑丈で、第二に安いのがいいなぁ。

 尊は見回し、ふと目についたそれに手を伸ばす。


 シンプルなデザインの、黒い携帯電話だ。側面にボタンがあり、それを押すとパカッと開いた。

 何度か開閉を繰り返し、手の感触を確かめる。しっくりくる。何より、かっこいい。


 尊は満足して、携帯ショップを出ていった。今度の休日にでも買ってもらおう。


「……ん?」


 駅に目を向けて、見知った背中を見つけて足を止める。


「親父?」


 視線の先で、父親の黒宮誠が住宅街に向けて歩いていた。

 そういえば、今日は早く帰ると言っていた気がする。


 後ろから脅かしてやろう。尊は息を潜めてチャンスを窺った。



 ――今思えば、どうしてさっさと駆け寄らなかったんだと、後悔している。だって、息子である俺が近くにいれば、あの女は親父に近付けなかったのに。



「あれ、黒宮くん?」


 女の声がした。尊ではなく、誠にかけられたものだ。

 声のほうを向くと、一人の女性が立っていた。やつれた雰囲気が漂う美女だった。


「……お前、瀬戸か? なっつかしいな。高校卒業以来か」


 明るい声で誠が言う。瀬戸と呼ばれた女性は暗く微笑んだ。


「なんか、雰囲気変わったな。どうしたよ?」


「ちょっといろいろ、上手くいかなくてね……」


 それよりも、と瀬戸。

 会話を逸らそうと質問する。


「美咲とは上手くいってる?」


「あったりめえだろ? 近所じゃ仲良し夫婦で通ってんだぜ? ……マジでありがとな、あいつと引き合わせてくれて。おかげで俺は、こんなにも毎日が幸せだ」


「……そう」


 俯き、瀬戸が呟く。

 誠には近すぎてわからなかったようだが、離れて観察していた尊は、瀬戸の顔が悔しげに歪んだのを見た。

 それも一瞬。瀬戸は感情を読み取らせない笑顔で顔を上げた。


「積もる話もあるし、あたしのアパートに行かない?」


「あん? 俺んちくればいいじゃねえか。たぶん美咲もいるぞ? この時間なら、息子もいるかもしれん。会ってかねえか?」


「美咲には、ちょっと……」


 瀬戸は深刻そうな表情を作った。

 一片たりとも疑っていない誠は、険しい顔をした。


「わかった。なんか知らんが、相談くらいなら乗るよ」


「……ありがとう。ここから歩いて一〇分くらいだから」


「おけおけ。んじゃま、ちょっと遅れるって連絡しとくか」


 誠はシンプルなデザインの携帯電話を取り出すと、操作に手間取りながら電話をかける。電話相手は、尊の母であり誠の妻である、黒宮美咲だろう。

 少し話して電話を切ると、誠は「んじゃ、行くかね」と声をかけ。


「そうね。行きましょ」


 そう言って、誠に背を向けて。

 瀬戸が、暗い笑みを浮かべた。


 二人は歩き出した。

 尊は、付いて行かなかった。

 誠を止めなければと思うのに、怖気づいてしまったのだ。


 ――親父なら大丈夫だ。親父なら。


 そう、自分に言い聞かせる。



 甘く見ていたんだと、今にして思う。

 たった一つの過ちで日常が狂うだなんて、そのときの俺は、思いもしなかったんだ。



     ◇



 その日から、誠は帰るのが遅くなった。

 何が起こったのか、尊は漠然としかわからなかったが、あの瀬戸という女のせいだというのはわかった。


「親父」


「……あ、ああ。どうしたんだ?」


「……いや、やっぱなんでもない」


 問い質そうとした。

 けれど、いざ口を開こうとすると怖くなって、何も言えなかった。

 尊は両親が大好きだった。優しいを超えて、甘いと言ってもいいほどに。だから問い詰めるような真似はできなかった。


 早い内に何か行動を起こしていれば、せめてこの状況だけは、なんとかなっていたのかもしれないのに。




「なんで浮気したの!?」


「そ、それは……」


 誠は嘘が得意ではなかったし、美咲は勘が鋭かった。

 だからこそ、すぐに発覚してしまった。


 ――黒宮誠が、浮気をした。


 その事実は、尊にひどい衝撃を与えた。妄信に近い信頼が、ガラガラと崩れたのだ。

 けれど、負の感情を心の内に仕舞う。悪意を外に出さないよう、心に鎖を巻き付ける。


 何年も続けていたことだ。

 他人を演じるわけじゃないのだ。負感情を隠して、『普段の自分』を演じる。

 たったそれだけでいいのだから。


「ま、まあ待ってよ母さん。なんか事情があったんだろうしさ、な?」


 今回は、尊の仲介でなんとかなった。警察沙汰にもならなかったし、離婚しようという話も出なかった。これまでと同じ生活をしよう、ということになった。

 だが、一度入った亀裂は、治ることはなかった。


 誠はおどおどするようになったし、美咲は夫のご機嫌取りをしようとする。尊は、そんな二人から距離を取った。

 嫌だった。狂ってしまった日常を見るのが、耐えられなかった。


 大好きな両親が変わってしまって、向き合うことなく逃げ続けた。

 そして誠とは、二度と向き合うことができなくなった。


 ――誠が、車に轢かれて死んだ。


 死にたくて飛び込んだのか、不注意で車道に入ってしまっただけなのか、それとも信号無視かは、憶えていない。 

 それに、どうでもよかった。そんなことは、問題じゃなかった。


 悲しかった。つらかった。

 それでも、それらの感情を心の奥底に仕舞い込んだ。絞り上げた怒りを表面上にだけ貼り付けて、父が嫌いだと、何度も自分に言い聞かせる。

 そうしなければ、泣いてしまいそうだった。泣いてはいけないのだ。


 そうしなければいけなかった。

 なぜなら、母がいたからだ。


「どうして、こんなことに……」


「…………。――母さんは、俺が守るよ」


 その誓いに、しかし美咲は立ち上がらない。

 自分自身を繕って告げた誓いが、誰かに届くはずがなかったのだ。




「俺、学校やめるよ」


「え、なんで!?」


「お前、本気で言ってんのか?」


「ああ。バイトしなきゃなんねえしな」


 今にでも、自分のせいで大切な日常が壊れてしまうのではと怖がって、そこから逃げることにした。

 大切な人を守るという大義名分を以て告げた言葉を、彼らは否定することなんてできないだろう、という打算があった。


「そっか……。がんばってね」


「卑屈になるなよ? なんとかなるさ」


 家庭環境に関わるデリケートな問題だからこそ、二人は迂闊に行動できない。

 彼らが尊にかけるのは、励ましのみ。

 わかって言ったはずなのに、尊はそれが悲しかった。だが決して、それを表に出すことだけはしなかった。


「……ああ、サンキューな」


 そう口にして、誰にもわからないように歯を食いしばった。




「娘から聞いたよ。高校、やめるんだってね」


「ああ。まあ高校の勉強ぐらいやらなくたって、どうってことねえよ!」


「……そうか。頑張ってね」


 自分が冷静でないことくらい、わかっていた。だから大人に期待した。

 けれど、やはり何も得られない。大人だからこそ、デリケートな問題には慎重になるものなのだと、尊は知って落胆を覚えた。




 バイトをするという宣言は嘘ではない。

 尊は近所にあるコンビニの求人広告を見て、そこでバイトすることに決めた。


「初めてのバイトで不安もあるけど、頑張っていきまーす!」


「おー、元気のいい奴がきたなー。なあ先輩?」


「うぇ? ぁう、うんそ、そうだね。と、ところで君、アニメとか興味、ある?」


 少しだけ考える。

 今までそういうサブカルチャーには疎かったが、これを機に知っていくのも悪くない。

 いい気晴らしになりそうだ。


「……あんま知らないけど、興味ありますぜ!」


 そして尊は、フィクションの世界に入り浸ることになる。

 空想の世界には、自身の悩みが入る余地はなかった。主人公の輝かしい人生を鑑賞していると、自分も主人公になれた気がした。


 そうして逃げ続けて、季節はいつの間にか、冬になっていた。

 なんとかしようと思いながら何もできずに、数カ月の時が流れてしまっていたのだ。


 そして、クリスマス。



「――私は、貴方が好きです」



 嬉しかった。

 けれど。


 認められるわけがなかった。

 尊の日常感では、玲貴は幼馴染だったから、決して恋人にはなりえない。


 恐ろしかった。

 父親の不倫で、愛が絶対でないことを知ってしまったから。

 付き合ったとしても、いつか裏切ってしまうのではと思ったから。


 だからごまかした。

 いつも通りだ。負の感情を押し隠し、いつも通りに振る舞えばいい。


 茶化してふざけてごまかして。

 自分を置いて勝手に変わっていこうとする世界を、なんとかして引き止めようと、みっともなく足掻いて。


 結局、無意味……いや、マイナスな行いだったのだろう。

 暗に、好きではないと告げたのも同然だったのだから。


 怒鳴り、尊から離れようとする玲貴。

 彼女に迫る自動車。


 無意識に手を伸ばした。届かない。

 なぜ届かない? この手が小さくて、何も掴めないからだ。

 どうやったら掴める? こんな俺でも、どうにかできるのか……?


 ――ある。

 安全圏から外に出て危険を冒せば、救える。


 尊は踏み出した。手を伸ばした。その手でつかんだ玲貴を、思いっきり後ろへ投げ飛ばした。


 尊は玲貴が助かるのを祈るのと同時に。

 自分が死んでしまうことを望んだ。




 疲れたんだ。

 世界にも、自分にも。

 もういいじゃないか。

 死でもなんでもいいから、さっさと俺を終わら――


 ――衝撃。

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