第二一話 仮面の崩壊
窓から空を見上げる。
暗鬱な気分に反した、雲一つない快晴だ。
起きたときに東の空にあった太陽は、現在は西に傾き始めている。かなりの時間が過ぎていたようだ。
心は安定してきた。突然に取り乱して、嘔吐することはないだろう。
幻肢痛はまだ続いているが、どこか夢の中の痛みのようで耐えられた。あるいは慣れた、だろうか。
尊は深く息を吐き出し、億劫に思いながら上体を起こして、ベッドの背にもたれ掛る。
動くたびに肌が引きつるような痛みを覚えた。治癒魔術も完璧ではないのだろう。それとも、ただの錯覚なのか。
優しい温もりを右手に感じた。どうしてか心を安らぐ感じ。この温もりを、自分は知っている。
銀の少女がいた。尊の手を握り、椅子に座って目を閉じて、眠っている。
サーシャ・セレナイト。
ミコト・クロミヤが、守ると誓った少女。
冷静さを取り戻せば、余裕もできる。
黒宮尊は、ミコト・クロミヤになることができる。
理想の自分で在れる。
「サーシャ」
一言、声をかけた。サーシャは小さく唸って目を覚ました。ミコトを確認し、心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫、なの?」
「当ったり前だろ。俺には『再生』があるんだぜ? 死ぬわけねえよ」
「…………」
普段のサーシャなら、安堵したように頬を緩ませるのに、今回は違った。変わらず、心配の眼差しをミコトに向ける。
ミコトは焦りを表に出すことなく、おちゃらけた笑みを作った。
「さっきは悪ぃな。なんか突然気持ち悪くなっちまってさ。汚かったろ?」
「……ううん。そんなこと、ないよ」
「そかそか、まあ、悪い。んだけども、もう大丈夫だっちゃ。俺もう元気いっぱい! ほれほれ見てみ? 俺の上腕三頭筋が唸りを上げてるぜ!」
ミコトは精一杯の力こぶしを作る。だがしかし、悲しいかな。特に鍛えてもいない細身の少年の二の腕は、ムキムキというよりひょろひょろだ。ミコトは苦笑いを作った。
「……そう」
サーシャはまだ納得がいかないようだったが、小さく頷いた。
ミコトは安堵して、ベッドから降りた。サーシャが慌てて支えようとするが、ミコトは手で制す。
「っし、大丈夫そうだな」
ミコトは自分の足を確かめ、何度か足踏みする。筋肉痛のような鋭い痛みは、意識しないようにして耐える。
「んじゃちょっち、フリージスのとこ行くべさ。案内してくんろ?」
「それなら、この部屋に呼んでくるから、ベッドでじっとしてて」
サーシャの提案は、倦怠感が続いているミコトにとって魅力的であったが、ミコトは首を振る。
「んや、こっちから行くよ。リハビリみたいなもんさ」
本当は、独りになれば負感情を表に出しそうだったから、だが。
そんなことは億尾にも出さず、ミコトはサーシャに案内されるまま、フリージスの部屋へと向かった。
扉から出ると、すぐそこにリースが立っていた。
相変わらず感情のつかめない無表情で、冷たい瞳をこちらに向けている。
「ミコト様、お体は?」
口から出た言葉も、気遣いというよりメイドの役目を忠実にこなしている印象を受けた。
前までならそこまで気にしなかったのに、今は酷く苛立った。が、それをあからさま表に出すことはない。ミコトは軽く右手を上げて、
「ん、お気遣いどーも。でも見てわからんかい? ピンピンしてるよ俺、左腕ないけど健康だよ」
自虐混じりの皮肉であったが、リースは気にした様子もなく「そうですか」と頷いた。
罪悪感と自己嫌悪で気まずくなって、ミコトは口を噤んだ。それから一拍置いて、リースが問う。
「これからどちらへ?」
「フリージスのところ」
答えたのはサーシャだ。その短い返答には、彼女にしては珍しく棘があった。
何があったのかと、最近の出来事を思い浮かべてみて、すぐに思い至った。フリージスとリースがレイラたちを見捨てたことが、サーシャは許せないのだ。
サーシャから非難の視線を向けられて、しかし、リースはやはり気にも止めず「そうですか」と言い、
「ご案内いたします」
「いいよ。わたしが連れていく。すぐそこだし」
「では、お供させていただきます」
その言葉には、サーシャは反対しなかった。ここで反対したとして、リースがフリージスの元へ戻るのはわかりきっている。
(……いや、ちょっと待てよ)
どうしてフリージスとともにいるリースが、ミコトの部屋の前で待機していたのか。わざわざ待っている理由はないはずだ。
では、ほかに理由があったのだ。フリージスの命令か、リースの判断かはわからないが、おそらくそこには理屈がある。
考えて、一つの結論に辿り着いた。
リースは、ミコトを待っていたのではない。サーシャを待って――いや、見張っていたのだ。
姉であるレイラを助けるため、サーシャが飛び出していかないように。
ミコトは内心でなるほど、とつぶやく。
この状況をどうにかする方法は、一つしか思いつかない。そしてそれは、フリージスの考えで決まる。
「んじゃま、サーシャさんや。改めて案内、お願いな」
ミコトの声で、宿屋の廊下を歩く。古い木造の家らしく、歩くたびに床がきしきしと鳴る。
気を取り直して、サーシャから部屋割りについて、軽い説明を受ける。取っている部屋は三つだ。
さっきまでいた部屋はミコトとグラン用。理由は男同士だからではなく、負傷者だからだ。起きたときグランはいなかったので、もう治っているのだろう。
もう一つがリースとサーシャ用。推測が正しければ、これも監視のためだろう。女性同士であるし、倫理的な問題もない。
そして最後に、フリージス用だ。位置はミコトの部屋から見て、サーシャの部屋を挟んで向こうにあった。
ノックを三回、乾いた音が響く。すぐに部屋の中から了承の声がした。
サーシャが扉を開けて、続いてミコトとリースが入る。全員が入ったあと、リースが扉を閉めた。
部屋の中。丸テーブルの前、椅子に腰かけた、長い金髪の男がいる。不健康的な青白い肌をした、長身痩躯の青年だ。
フリージス・G・エインルードが、道化師を思わせる仮面のような笑みを浮かべ、青く輝く眼でこちらを眺めていた。
「体の調子はどうかな、ミコトくん」
「みんなそれ訊くのな。まあ、お決まりのセリフではあるけどさ。まあ、見ての通り、って言っとくよ」
ミコトは先のない左肩を右手でつついた。
鋭い痛みが走って、すぐに後悔する。
「なるほど。爆発せんばかりの健康的雰囲気が溢れてる、ような気がする」
「どこをどう見れば健康そうに見えるのか。どう見ても五体不満足だろうに。頭、首、胸、手、足のうち、手が半分になっちゃったんだけど」
「でも、問題ないだろう? 人体欠損しても、『再生』があれば元通りさ」
軽口の会話の応酬は、ミコトが口を閉ざしたことで終わった。
フリージスが返した軽口は、ミコトにとって軽いことではなかったのだ。
「さっそく、本題に入らせてもらうけど」
ミコトはため息を吐いてから、そう切り出した。
「魔王教徒どもの居場所を知ってる」
横で、サーシャが息を飲んだ。表情には緊張が走っている。
フリージスの反応は薄く、目を細めただけ。リースに至っては、まったく変化なしだ。
ミコトは軽く苛立ちを覚えながら、続けて言葉を紡ぐ。
「ガルムの谷だ。魔王教徒は今、ガルムの谷にいる」
サーシャが拳を握りしめている。手が真っ白になるほどだ。
フリージスは一拍置いてから、答えた。
「その可能性は、僕も考えていた。あそこは数十年前に、脱走した矮族の奴隷が住み着いた場所だから、多くの洞穴があるんだ。この近辺でアジトにするには、最適の立地だと思うよ」
「……っ、わかってるんなら――」
「それで? 行って、どうなるというんだい?」
フリージスの冷めた眼差しが、ミコトの肝を冷やした。威圧感が、重く圧し掛かってくる。
だが、ミコトは緊張を振り払って怒鳴った。
「レイラを助ける!」
「無理だね」
ミコトの宣言は、あっさりと一蹴された。
フリージスはため息をこぼして、本を読み始めた。もはやフリージスは、ミコトの言葉を聞くつもりはないようだった。
ミコトはカッとした。荒く歩み寄り、本を取り上げようとし――天地が逆さになった。否、ミコトが逆さになったのだ。
背中から床に叩き付けられ、ミコトは咳き込んだ。見上げれば、リースが上から見下ろしている。リースの足払いで転がされたのだ。
「君の世界では、どうだったかは知らないけどね。この世界で感情論が通じるなんて、考えないほうが身のためだ。そもそも、君程度の実力で勝てると考えているのかい? それはとんでもない思い上がりだ」
「それでも! 助けなきゃいけないんだ!!」
ミコトの怒号に、フリージスは無関心だ。温度差が違う。
「己を貫こうとする姿勢には好感が持てる、が」
フリージスは本を読みながら、冷たい目でミコトを見下ろした。
「君を手伝うつもりはない」
何も言えなかった。ミコトは悔しさで、歯を食いしばった。
サーシャの過保護な治癒魔術を受けて、惨めで涙が出そうだった。
「ベッドに戻るといい、ミコトくん。――君には誰も救えない」
確信を帯びた声音で放たれた言葉に、ミコトは何も言い返せなかった。
◇
ミコトは自室に戻っていた。椅子の背を右腕一本で抱え込むように座って、ベッドに腰掛けるサーシャと相対する。
陰りのある顔をするサーシャに対して、ミコトはニヤリとした笑みを貼り付けていた。右手を顎に添え、わざとらしく唸る。
フリージスに否定されて、しかし、ミコトはそれでも笑みを作った。
「フリージスとリースは、無理っぽいかねえ」
サーシャは俯き気味で、小さく頷いた。
何か別のこと考えているようにも見えたが、ミコトの直感が訊くことを拒んでいた。
「この町の人間に協力してもらうってのは、どうよ?」
「プラムにそんな実力者はいないよ。……それに、巻き込むわけにはいかないし」
「ま、そりゃそだ」
となれば残るは、
「グラン、だな」
獣族の傭兵、《ヒドラ》グラン・ガーネット。クレイモア使いで、火属性身体強化が得意だったはずだ。
その名を出すと、サーシャの表情が歪んだ。
「でも、グランは《浄火》の使徒に……言い方は悪いけど、あっさり負けた」
「…………」
《浄火》の使徒。おそらく、あの火傷だらけの男だろう。この世界で、ミコトを最も多く殺した奴だ。
狂気を孕んだ愉悦の笑みを思い出し、ミコトは震えかけた。だが、眼前にはサーシャがいる。
……黒宮尊を出すわけにはいかない。
「グランはもう、大丈夫なんだよな。ベッドにいねえし」
「うん、だいたいは治癒魔術で治したよ。……あくまで『クラティア』は自己治癒力を高めるためだけの魔術だから、火傷の痕は完全には消せないけど」
「男の傷跡は勲章ってことでいいじゃんよ」
言いながら、『再生』について思考を巡らす。
意識すれば、すぐに蘇る死の感覚。思い出すだけで身震いしそうになる。
救いは何度も繰り返したことで、『再生』の理解が進んだことか。
何度か中級である『バート・アクエモート』も使用したのだ。『最適化』を正しく使いこなせればもっと、もっとに強くなれるはずだ。
今、それはともかく。
「確かグラン、《浄火》とやらに恨みがあるんだっけか」
「そうみたいだね。詳しいことは、わたしも知らないけど」
「でも、あの殺気が偽物とは思えねえしな。協力してくれんのは、確実だろ」
しかし、グランを入れても三人である。
二〇人近く残っていた魔王教徒と、《浄火》の使徒に、バーバラ。
その三つの壁を越えなければ、レイラを救出できないのだ。
(完全に詰んでやがる。無理ゲーも甚だしいぞ)
唯一、《浄火》の攻略法だけは思いついていたが……それを口にするには、あと一歩覚悟が足りなかった。
「とりあえず」
なんにしても、グランと相談しなければならない。
ミコトは「よっこらしょっと」と立ち上がる。
「サーシャ。グランがいずこにいるか、わかる?」
「この宿屋の一階にいるよ」
「うっし、んじゃ行くかね」
ミコトは元気よく部屋を出ていった。
後ろで、深く何かを考えていたサーシャに、ミコトは気付けなかった。
◇
ミコトはサーシャに支えてもらいながら、宿屋の一階に降りる。
左腕がないというのは、思っていたよりもバランスが取りにくいのだと実感した。
一階の食堂には、異様な空気が漂っていた。張り詰めたような緊張感だ。
数少ない宿泊者たちは、食堂の隅から離れるように座っている。
訝しげにしていると、この宿屋の責任者と思わしき男が歩み寄ってきた。
苛立ちと脅えが混じった声音で話しかけられる。
「なあ。あんた、あそこの連れかい?」
指差されたほうを見れば、食堂の隅に一人、獣族の男が座っていた。
燃えるような赤い髪。赤みを帯びたブラウンの瞳には、抑えきれない激情が宿っている。
様相を見れば、火傷の痕が増えていることがわかった。火鼠の革でできた外套はなくなっていて、左腕だけでなくほとんど全身が包帯に覆われている。
ミコトはぎょっとするも、落ち着いてその男に近付いていく。
「よっ、グラン。なんかピリピリしてんな」
「…………ああ」
グランがぎろりと、ミコトを睨んで返事した。
彼からすればただ返事をしただけかもしれないが、あまりに目付きが鋭すぎた。
「ちょっち鎮まろうぜ。このままじゃ営業妨害になっちまう」
「……そう、だな」
グランは辺りを見渡し、ようやく客が自分を遠巻きにしていたことに気付いたのか、静かに目を閉じた。
少しだけだが、雰囲気が和らいだような気がした。
ミコトは右手の痺れを自覚した。無意識に強く握りしめていたらしく、真っ白になっていた。
相手は仲間であるというのに、どうしてこんなに恐怖しているのか。ミコトは吐息をこぼし、手汗が滲んでいる右手を緩めた。
「まずは、アレだ。体は大丈夫か?」
ミコトは尋ねながら、席に座る。ミコトの後ろに、サーシャが立つ。
「ああ」
「……戦える?」
「ああ!」
グランの眼光が強まった。
「ああ、戦える。戦わなければいけない。――殺す、必ず」
鬼気迫る形相であった。
これなら、必ず一緒に戦ってくれる。そう思わせる覚悟があった。
「魔王教徒どもは今、ガルムの谷にいる。レイラの救出、手伝ってくれるよな?」
だからこそ、ミコトの質問は確認のようなものだった。
彼ならば、すぐさま頷くと思っていた。
しかし、
「俺は、《浄火》の使徒を殺せれば、それでいい」
「……それ、は? それでいいって、どういうことだ?」
「余裕があれば、協力しよう。だが、俺の目的はあくまで、奴をこの手で葬ることだ」
グランの決死の覚悟は、ただただ復讐に注いだものであった。それ以外のことはついでに過ぎないのだと、彼は言外に語っていた。
言葉に詰まるミコトの背後で、サーシャが震えたのがわかった。
引くわけにはいかない。ミコトは恐怖を抑え込んで口を開く。
「レイラはサーシャの姉で、仲間だろうが! 一番優先しなきゃならねえのが何か、わからねえのか!」
「優先すべきは、ケリをつけることだ。それは、《浄火》が死ぬことで終結する。奴の死こそが、セリアンへの手向けだ!」
グランの激昂。声を荒げ、殺意を露わ怒鳴った。
ビクリと、ミコトは肩を震わせた。
「そもそもフリージスに雇われたのは、《浄火》に巡り合える可能性があったからだ。そして相見えた今、護衛を続けるつもりはない」
グランの暗い激情を宿した瞳が、ミコトとサーシャを冷たく貫いた。
「《浄火》は殺す。たとえこの命を捨ててでも、だ。レイラ救出を優先するつもりはない」
ミコトはグランをきつく睨んでから、サーシャを見た。
サーシャは表情を悲痛に歪めていたが、何も言わなかった。
「俺は明日、ガルムの谷に出向く。そこにお前らが付いてくるかどうかは、好きにしろ」
「勝算でもあんのかよ!? お前、アイツに負けたんだろ! 勝てるって、確信を持って言えるのか!?」
もしも勝てるのなら、このままでもいい。グランと《浄火》を戦わせればいい。
しかし、勝てないのなら。無駄に戦力を減らのなら、戦うべきではない。
「勝算などない」
「じゃあ、なんで!?」
「――どちらの死でも、構わない」
ミコトは息を飲んだ。
グランの静かな気迫に、歯の根が噛み合わなくなる、不気味な恐怖を覚えた。
「セリアンを殺した奴でも。間に合わず、守ることすらできなかった俺でも。どちらの死でも、構わない」
グランは、本気で言っていた。
「それにだ、ミコト。ただの勘だが、俺は今のお前が、心底気に食わないんだ」
ミコトは、その言葉に何も返せない。
何も言うことなく、ミコトたちは食堂を去った。
◇
宿屋を出て、目的もないままプラムの町を練り歩く。
町の様子はファルマとあまり変わらず、ところどころに既視感を覚える場所もある。
ファルマを発って一日しか経っていないのに、とても懐かしく感じた。
古めかしい町並み。大声を張り上げて接客する、市場の商人たち。道には慌ただしく、明るい表情で行き交う人々がいる。
ミコトとサーシャの間に漂う空気は、そんな明るい雰囲気に反するような、暗いものだった。会話はなく、ミコトを先頭に黙して歩く。
ミコトは気怠い思いで、辺りを見渡した。町の近くで地獄が起きたというのに人々は何も知らず、みんな本当に楽しそうな笑みを浮かべていた。
陰鬱な気分に反した、賑やかな世界。俺の世界とは別物だと、ミコトは口元を隠して暗い笑みを浮かべる。
そう。同じ世界でも、まったく違う世界、価値観に生きている人たちがいる。
善人、悪人、偽善者、正義の味方、英雄、狂人、凡人、馬鹿、天才、お人好し。さまざまな人がいる。
表情だけはにこやかに、冷静な思考で損得勘定と打算的思考をする人間がいる。
自分の目的、復讐のためなら、ほかのすべてを犠牲にできる人間がいる。
日本では見かけなかっただけで、探せばいろんな人がいたのだろう。地球という広い世界で見れば、もっといたはずだ。
だがこの異世界では、それが当然なのかもしれない。
時代観が中世辺りだ。容易く命を蔑ろにできる価値観が、いくつもあるのだろう。
知りたくなかった。それは、ミコトが絞り出した拒否感情であった。
日本の、殺人とは遠く離れた日常で生きてきたミコトの価値観では、命が最も優先される。
義務も権利も願望も、生きていなければ果たせない。命と名誉を天秤にかければ、間違いなく命が重くなる。そう思っていた。
理解しているつもりではいたけれど、価値観というものは本当に、人それぞれなのだろう。自分が頑なに信じてきたものが、粉々にぶち壊されていくようだった。
本当、理解しているつもりで、なんにも俺は――
「ミコト」
背後で、サーシャの声。自身の内へ没頭しそうになっていたミコトは、ハッと立ち止まった。
気付くと、プラムの門前にいた。警備員と思しき壮年の男性が、眠気のある訝しげな眼差しをこちらに向けていた。
どうしてここに来たんだろう。その疑問をすぐに振り払い、ミコトは振り向いた。
サーシャが俯いている。ただでさえ十センチ以上の身長差があるのに、俯かれれば表情がわからない。
唐突に、サーシャが顔を上げた。その表情はなぜか、悲痛な覚悟で歪んでいる。
困惑していると、サーシャの左手がミコトの右手を握った。
手を引かれるままに、門を潜ってプラムの外へ出る。
「お、おい。いずこ行くのさ?」
「…………」
ミコトの軽口に、サーシャの返答はない。
こんなことは初めてだった。今までは反応はどうであれ、必ずなんらかのアクションを起こしていたというのに、今回はそれがない。
嫌な予感がした。
勘違いだと、ミコトは予感を払い捨てた。
手を引かれてプルームル街道を歩く。歩く速度は、かなり速い。ミコトが起きてから常に気遣っていたサーシャが、ミコトの体を気にせず歩んでいる。
しばらくして、サーシャは立ち止まった。ぼうっとして歩いていたミコトは、危うくサーシャにぶつかりそうになってしまうも、なんとか止まれた。
周囲を見渡す。場所はプルームル街道から少し外れた草原だ。プラムとガルム森林の、ちょうど中間辺りだ。
「どうしたのさ? 仲間を増やす考えができたりとか?」
軽い調子で尋ねるが、サーシャの反応はない。ここまでくれば、如実に違和感を覚えた。
サーシャは何度か口を開くが、逡巡しているようでなかなか話さない。きっと、何か思いついたのだ。
ミコトは彼女が話すまで待つことにした。嫌な予感を、気のせいだと言い聞かせて。
長く、気まずい沈黙。
その果てにようやく、サーシャは口を開いた。
――その内容は、想像とかけ離れていたけれど。
「……ミコトは、逃げて」
え、と。
知らず、声が漏れた。
言われた言葉の意味が、わからなかった。理解しても、ミコトの中に生まれたのは困惑と……焦燥だった。
「な……んで、だよ? なに、言ってんだ? レイラを助けるのに、少しでも戦力が多いほうがいいだろ。レイラを見捨てるってのか?」
ミコトの口から吐き出されるのは、苛立ち混じりの醜い言葉。これまでサーシャへ向けることのなかった罵倒を、初めて口にした。
しかし、サーシャに動揺はない。ミコトを真正面から睨みつける。
「レイラは助けるよ」
「どうやってだ!? 最強の魔術師サマは動かねえぞ! リースも一緒だ! グランは《浄火》にご執心……正面突破じゃ無理なんだ! それがわかってんのか!? できるとでも思ってんのかよ!?」
「――それでも、わたしはレイラを助けるよ」
「だったら!」
ミコトは叫ぶ。怒りで心を埋めて、サーシャの無謀を否定する。
「だったらなんで、俺に逃げろだなんて言うんだ!? 確かに俺は弱いさ、仲間の中の誰よりも! それでも『最適化』が、『再生』が――無限の命がある! お前だって見たはずだ、俺が生き返った瞬間を!」
「うん」
「邪魔なら邪魔ってハッキリ言えよ! 目障りか!? 気に入らねえか!? ああ悪かったな、俺はこういう人間なんだ!」
「違うよ」
「なら、なんで――」
「だって、ミコト」
サーシャの、力が込められた声が、ミコトの声を遮る。
今までにない嫌な予感がした。その先を言わせてはならないと、頭の中でガンガンと警邏が鳴り響いた。
それでも、体はまるで金縛りにでも遭ったように動かなくて。
ゆっくり流れる世界の中で、サーシャが口を開いた。
「――ミコト、怖がってるから」
思考が、真っ白に染まった。
感情が、真っ黒に染まった。
その言葉を理解するにつれて、ミコトは首を横に振った。
「……おれ、が? こわがって、る?」
「うん」
「ば、か……言え。俺が怖いっつったか? 誰がいつ怖いって言ったんだ!? 俺はまだまだ戦えるぞ。バーバラも《浄火》も怖かねえ。死の恐怖なんざ、生き返るってわかってりゃあ乗り越えられる!」
「…………」
「アイディアが……、策があるんだ、《浄火》を倒せる可能性が! それには、俺の『再生』が必要不可欠なんだよ!」
「…………」
サーシャが、首を横に振った。
哀しげに歪められた表情が、ミコトに相対する。
「顔が」
ふいに、サーシャが漏らした言葉。
は? と、ミコト。
カオ、かお、顔? いったいコイツは、何を言おうとしている?
「…………!?」
まさか、と。違和感を覚えたその部位に、自身の手を這わす。
ペタペタ、と。触る。確かめる。
そして――わかってしまった。
「ち、ちが、ちがう! 俺は、おれ、は……!」
触れた部位。自身の、顔。
そこに浮かぶ表情は――笑みだった。
「――――っ!? 違う! 俺は、おれは安心してなんかいない! 武者震いだ、見間違いだ! 眼科が精神科でも行ったほうがいいんじゃねえか!?」
咽喉を震わせる。今のは間違いなのだと、ただの勘違いなのだと、狂乱のままに言い訳しようとして。
「ミコト」
その声が、ミコトの意識を掴んで放さない。
「や、やめ……」
この先を聞いてはならない。見てはならない。触れてはならない。感じてはならない。
それは許してはならない。容認してはならない。
それはミコトの根幹を支える、ミコトを形作る、『ミコト・クロミヤ』という存在の――
「――強がるのは、もうやめようよ」
強がり。強がる。強がって。強がった。
取り繕って、言い繕って、誤魔化して、威張って。
虚飾。贋物。偽り。偽物。紛い物。
知られた。
「ぁぁ……そうかよ……」
ミコトはため息をこぼした。深く、肺の底から吐き出される空気。いや、抜け出していくのは、それだけではない。
『ミコト』として形作ってきたモノが。ずっと『ミコト』を支え続けてきたモノが。すべて全部、抜け落ちていく。
「はあ……」
思い返せば、違和感があった。ミコトが自己嫌悪を抱いたときに、サーシャが気遣ってくれたこと。
完璧に演じていたはずだった。その上で、見破られていたのだ。
「おまえ……ずっと、気付いてたんだな」
『ミコト・クロミヤ』の根幹が崩れていく。呆気なく。ぼろぼろに。いっそ、面白くなるぐらい、愉快に。
『彼』は乾いた笑い声を上げて、膝をついて、座り込んだ。
「もう……いいや」
両手で顔を覆った。肌に、指がめり込むぐらい爪を突き立てた。
そして、最後に残っていた、それを。
『彼』は、『ミコト・クロミヤ』の残骸を。
――黒宮尊は、『強がりの仮面』を脱ぎ捨てた。