第二〇話 修羅界
……うるさい。
『親父』
『……あ、ああ。どうしたんだ?』
『……いや、やっぱなんでもない』
……うるさい。
『なんで浮気したの!?』
『そ、それは……』
『ま、まあ待ってよ母さん。なんか事情があったんだろうしさ、な?』
……うるさい。
『誠さん……事故で、死んだって』
『……っ!? そん、な!』
『どうして、こんなことに……』
『…………。――母さんは、俺が守るよ』
……うるさい。
『俺、学校やめるよ』
『え、なんで!?』
『お前、本気で言ってんのか?』
『ああ。バイトしなきゃなんねえしな』
……うるさい。
『そっか……。がんばってね』
『卑屈になるなよ? なんとかなるさ』
『……ああ、サンキューな』
……うるさい。
『娘から聞いたよ。高校、やめるんだってね』
『ああ。まあ高校の勉強ぐらいやらなくたって、どうってことねえよ!』
『……そうか。頑張ってね』
……うるさい。
『母さん、料理できたよー!』
『…………』
『……母さんにも食べやすいように、水物にしてるんだ。テーブルに置いとくから、腹減ったら食ってよ』
……うるさい。
『初めてのバイトで不安もあるけど、頑張っていきまーす!』
『おー、元気のいい奴がきたなー。なあ先輩?』
『うぇ? ぁう、うんそ、そうだね。と、ところで君、アニメとか興味、ある?』
『……あんま知らないけど、興味ありますぜ!』
……うるさい。
『尊!』
『ごめん、な……』
……うるさい。
…………。
…………。
…………。
『あ、起きた?』
……起きたくなかったよ。
『そう、よかった』
……全然、よくねえよ。
『当たり前のことをしただけだから』
……当たり前って、なんだよちくしょう。それができたら苦労しねえんだ。
『わたしはサーシャ。サーシャ・セレナイトだよ』
……知るか。
『俺の――』
――俺は――
……うるさい。
『名前は……』
――この世界で――
……うるさい。
『――ミコト・クロミヤだ』
――変わるんだ――
……うるさい――――ッ!
◇
「ミコト」
うるさい。
「大丈夫だから」
なにが、だよ。
「ここには、敵なんていないから」
敵だらけだよ、クソ。
「だから、今は安心して……」
ああ、くそ。
「ミコト……」
だから……
「る、せぇ……」
掠れた声を上げて、目を開けた。
頭がぼうっとして、思考が定まらない。自分が誰であったのか、今まで何をしていたのかを、ゆっくり再構築していく。
黒宮尊。
ちっぽけな存在で、車に轢かれて野垂れ死んで――、
いや、違う。
体に感じる違和感。尊は視線を落として、それを見た。
――左肩の先、そこにあるはずの左腕がない。
直後、光景がフラッシュバックする。
事務的に甚振ってくる男の姿。気持ち悪い笑みを浮かべた、火傷だらけの男。角熊の群れに幾度も食い殺された記憶。
死んで、生き返って、死んで、生き返って、死んで、生き返って、死んで生き返って――
「――っ! ぁ、かっ、はぁ……!」
上げようとした絶叫は、咽喉がカラカラに乾いていて、掠れた音となる。
ひりつくような咽喉の痛み。込み上げてくる不快感。頭の中を掻き乱す気持ち悪い記憶。
尊は錯乱して暴れ回りそうになり、
「ミコト!」
少女の声によって、現実へと引き戻された。少女の視線が、黒宮尊をミコト・クロミヤにした。
右手に、ほんのりと人の温もりを感じた。少女が手を握っている。
状況を見ればすぐに察せられる優しさを、今のミコトには察することすらできない。
「よかったぁ。起きたんだね」
『ミコト・クロミヤ』を意識して、暴走したがっている心を抑えつけて、ミコトは冷静さを装った。
周囲を見渡せば、ここがどこかの家の中であることがわかった。そして自分はベッドの上で寝ていて、サーシャはその横で椅子に座っているようだった。
「さ、ゃ……」
銀髪赤眼の少女――サーシャの名を呼ぼうとして、しかし意味ある言葉は出てこない。
ミコトが口をパクパクする様子を見て、サーシャがミコトの手を放し、立ち上がった。
理由のわからない名残り惜しさと、胸が裂かれそうな孤独感。そしてサーシャの視線が外れたことで、弱い自分が現れかけて発狂しそうになる。
それが抑えられたのは、サーシャがすぐに戻ってきてくれたからだ。
サーシャがその手に持っていたのは、木のコップだ。彼女は近くのテーブルにコップを置くと、ミコトの横で屈んだ。
「ミコト。ちょっとだけ体、起こせる?」
ミコトは無言で頷く。左腕の欠損を、サーシャの支えで補いながら、上体を起こす。
たったこれだけの動作で、ひどく疲れた。体力が戻っていないから、だけではないだろう。己の内側に意識を向ければ、生命力がずいぶんと減っているのがわかった。
これは、すぐに治るのだろうか。それとも、これから一生付きまとう倦怠感なのだろうか。
「ゆっくり飲んで」
差し出されたカップには、水が入っていた。右腕を動かすのも怠くて、察したらしいサーシャが、コップをミコトの口に付ける。
ゆっくりと首を後ろへ傾けつつ、コップの水を飲んでいく。サーシャも、ミコトの動きに合わせてコップを動かした。
口の端から、漏れた水が布団へ垂れる。そんなことは意に介さず、ミコトはコップの中身を飲み乾した。
「っ……はあ……はあ……はあ……」
荒い息を吐いて、ミコトは俯いた。
痛む頭を抑えて、深いため息をこぼす。
サーシャが語りかけてくる。が、そのすべてが頭の中に残らなかった。
ぼうっとして、目の前に広がる世界が、どこか別の世界のことのように思える。
「ここは……?」
絞り出した言葉は、本当にこれは現実なのかという、確認のようなものだった。
もしかしたらこれは夢で、目が覚めたらまだ地獄にいるんじゃないか、という恐怖を晴らしたかったからだ。
「プラムの宿屋だよ。フリージスとリース、グランもいるよ」
ほっと安堵の溜息をこぼす。
しかし、先ほどサーシャが挙げた名前の中に、一人の少女がいないことに気付いた。
「……レイラは?」
「…………っ!」
サーシャの表情が悲痛に歪んだ。励まさなきゃいけない、という思考が生まれたが、霞んで消えていく。ミコトにはもう、誰かを励ます気力も、余裕すらない。
だから、察せられたにも関わらず、ミコトは黙したままだった。
「……レイラは、魔王教に捕まってる」
「…………」
朦朧とした記憶の中から、老女の言葉が浮かび上がる。
『あの姉貴分気取った娘は生かしておく。三日間だけガルムの谷で待っている……、って伝えておいて!』
「……そっか」
あのときは、まったく考える余裕がなかったからわからなかったが、『姉貴分気取った娘』というのはレイラのことだったのだ。
そのレイラは今、黒装束の集団と老女に火傷だらけの男――魔王教というものに捕まっているということか。
そして魔王教、ガルムの谷にいる。
「サーシャ」
「ん、なに? ミコト」
訊き返すサーシャから視線を外し、ミコトは寝返って窓から見える空を眺めて、言った。
「ちょっち、部屋から出ていってくんね?」
サーシャの心配や優しさを無碍にする頼みだった。僅かながら余裕の出てきたミコトは、その行為の愚かしさは理解していたが、撤回する気はなかった。
独りになりたい。そういう気分だったし……何より、彼女に罵声を飛ばしそうになりそうだった。
どうして、俺を置いて逃げたのか、と。
なんで、見捨てたのか、と。
それは、それだけは、口にするわけにはいかなかった。
どれだけ堕ちても、自分の落ち度を誰かに押し付けることだけは、絶対に嫌だった。
何よりも、サーシャに向けること、だけは。
「……うん、わかった。何かあったら、すぐに呼んでね?」
最後までミコトの心配をしたあと、サーシャは部屋から出ていった。ミコトはただ俯いて、サーシャが出ていくのを待っていただけだった。
バタン、と扉が閉まる。自分を見る視線が消えて、ミコト・クロミヤは黒宮尊に戻った。
作った笑顔は消え失せ、代わりに陰鬱とした内面が表れる。
尊は目を閉じた。先ほどまで寝て……気絶していたというのに、すごく眠たかった。
そのまま眠ろうとして――目蓋の裏に、地獄がよぎった。
生殺与奪権を他者に握られ、命が消える一歩手前で蹂躙された光景。
炎と暴力が躍る中、ただ状況に翻弄された光景。
孤独の闇の中、捕食され死にながらも、走り続けた光景。
「っ……う、ぇ」
唐突に込み上げてくる不快感。
無意識にベッドを汚すことへの忌避感が、辛うじてベッドの端に顔を持って行けたことが、唯一の幸いか。でなければ、体中が吐瀉物まみれになっていただろうから。
「うぇぇぇえええええ……」
吐く。とにかく吐いて、吐いた。
胃の中が空っぽだったから、固形物は出てこなかった。ただ、黄色っぽい液体が口から垂れて、床に広がっていく。
口の中に酸っぱい味を覚えながら、尊は床に広がっていく胃液を眺めていた。
片づけないと、と。ぼんやりとした頭で考えるのに、体は怠惰に動かしづらい。
尊は遅速でベットから降りて、直後、今はもうないはずの左腕が激痛を覚えた。
幻肢痛という奴だろうか、と頭のどこかが考えた次の瞬間には、いつの間にか胃液の上に倒れ込んでいた。
じんわりと染みてくる、酸っぱい臭いの液体を、ミコトは空白の思考で見つめる。
光の反射で、胃液に尊の顔が映し出された。
陰鬱そうな顔。焦点の合っていない眼、半開きの口。
胃液に映るに相応しい顔つきだ。
尊は口を開いた。同期して、胃液に映る黒宮尊が口を開いた。
「ああ、お前なんか」
『ああ、お前なんか』
尊は言う。胃液の中の尊も言う。
「死んじまえばよかったのに」
『死んじまえばよかったのに』
その言葉は結局、彼自身へと返ってくる。
耳の中、頭の中で反芻し、尊は舌打ちした。
簡単に死ねたら、苦労しねえんだよ、と。
フィクションでは、よくある話だ。不死者が死ぬ方法を求めるお話。約束された絶対的な『生』から、抜け出す方法を探すストーリー。
そう。『再生』を持つ限り、尊は死ぬことができない。ずっと永遠に、激痛とともに死と生の狭間を漂うことになるのだろう。
どうやったら、死を回避できるのだろう。どうやったら楽に、永遠の死を手に入れられるのだろう。
朦朧とする意識の中、尊はずっとそんなことを考えて。
「ミコト、何かあったの!?」
先ほど部屋を出て行ったサーシャが、慌てて部屋に入ってきた。
倒れたときに出た音を聞き取ったのだろうか。もしかしたら、部屋のすぐ外で待機していたのかもしれない。
……どうでもいい。
尊はぼうっと黙して、サーシャの介抱を受け入れた。
ベットに戻され、すぐ横でサーシャが床を掃除している。
なんとかしなきゃと思うのに、心は雁字搦めで動けなくって。
何度も人格を切り替えた末、最後に尊は、ミコト・クロミヤにはなれなかった。
・修羅界
優れた自身の虚像をつくるため、表面上は人格者や善人を装い、謙虚なそぶりを見せる。
だが、内面では自分より優れたものに対する嫉みと悔しさに満ちている。
心に裏表があり、本心は見せない。
十界、四悪趣の一つ。