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第一九話 誰だれダレ?

 次に意識を取り戻したとき、ミコトは地面を転がっていた。

 体を打ち付け、ようやく停止した瞬間、地面から吹き上がる土砂と爆炎に飲み込まれた。


 ――『再生』


 次に意識を取り戻したとき、ミコトは空を舞っていた。

 周囲にあるのは、打ち上げられた土砂。上昇が停止し、頭から落下する。

 グシャリ。首が折れた。


 ――『再生』


 次に意識を取り戻したとき、ミコトは火傷だらけの男に蹴られていた。

 鼻が、歯が折れ、眼球を潰す。手先を踏みつけられて、ぐにゃりと曲がった。

 腹部を蹴られる。空っぽになった胃から、胃液だけが溢れ出す。

 首を蹴られた。呼吸できなくなった。首を蹴られた。骨が折れた。


 ――『再生』


 ――『再生』


 ――『再生』


 ――『再生』


 ――『再生』


 ふざけんなわけわかんねえよなんだよこれくそどうなってんだいやだわからないこわいおそろしいくるしいたすけてだれかおれをすくってみつけておしえてどうすればいいいったいなにがおこっているいえにかえりたいかえしてれきはどこゆうまきてくれかあさんおやじもうなんだよどうにかしてくれそうまいぶさあしゃみつけてああああああああああああああ――――。


 頭がぐるぐる回る。体が下手くそな人形劇のように踊る。

 五感は正常と異常を繰り返し、気絶することさえできない激痛と無痛の狭間で漂う。


 何が起こっているのか。何がどうなっているのか。

 自分はいったい、何をしているのか。何をされているのか。何をしなければならなかったのか、何をすればよかったのか、何がしたかったのか。

 自分が誰なのかさえ、覚醒と暗転の中で曖昧になっていく。


 ミコト・クロミヤ。黒宮尊。クロミヤミコト。みことくろみや。くろみやみこと。

 本当にそんな名前だっただろうか? 名前なんてあったのだろうか? 俺は誰だ? なんだ、いったい?

 思い出せない。どうでもいい。なんでもいい。


「   !」


 声が聞こえた気がした。爆炎が踊る中、『彼』は無意識にそちらを見た。

 視線の先。だれかいる。だれだっけ? 知っている。あれ、違う? わからない。

 仲間? そうなのか。大切? たぶん当たっている。

 けど、逃げている。置いて行かれた? ああ、そうみたいだ。


 笑みが漏れた。納得? 諦め? 失望? 感情さえも、わからない。

 涙が溢れそうになる。あれ、ナミダってなんだっけ? まあなんでもいい、どうせ出ないんだし。

 ぐるぐる踊る。どかんと舞って、ぐしゃりと落ちる。どかどかどかどか嬲られて、べきべきべきべき剥がされて、ぐちゃぐちゃべちゃべちゃと壊される。


「メティオ、やめなさい」


 唐突に爆炎がやんだ。

 無限に続くのではと思っていた地獄が終わった。


 ちょうど『再生』したところでストップをかけられたからか、体に異常はない。

 しかしそれで、『彼』が元通りになるわけじゃない。限界まで傷つけられた心は、体が直っただけでは治らない。


「ああ、ああ、ああ……! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! 感動のあまり、メティオへの静止が遅れてしまったんだ。でも、でもでもでもでも、貴方は《黒死》の使徒だった! 死から這い上がる力があった! 本当によかった!!」


 何を言っているのだろうか、この老女は。

 彼女を知っている? 知っている。いや、知らない。

 狂気を孕んだ慈愛。そんなもの、アイツは持っていなかった……。


「お名前!《黒死》のお兄さん、貴方の名前をボクに教えて! ……あっ、自己紹介は尋ねたほうからするものなんだったかな? うんうんうんうん、でも、こんな体で名乗るのはボクの精神衛生上耐えられない! だからここは持ち主から取ってバーバラ・スピルスと……うんうん、しばらくはそう呼んでほしいな」


 言葉の意味が理解できない。脳の回路が処理落ちして、まともにモノが考えられない。

 それでも、わかることがある。がんがん響く『頭痛』が教えてくれる。


 これはチャンスなのだ、と。

 この場から、恐怖から逃げられる最高の機会なのだ、と。

 だから『彼』は、


「    」


 たった一つのルーンを紡いだ。

 それだけが術式。それだけで魔術。


 魔力というエネルギーが、そのまま死として現出する。


 無音だった。『彼』の体から溢れ出した泥――『黒死』が、瞬く間に空を覆った。

 夕暮れは一瞬で暗黒に閉ざされ、漆黒の闇に染まる。


「  あ    ああああ     あああああああああ    !」


『黒死』が――落ちる。

 触れた先から死に終わらせる『黒死』が、木々や地面を塵へと枯らしていく。辺りにいた魔王教徒も、ミイラ化すらできず枯渇し、風化して散った。


『黒死』はさらに、老女や火傷の男にも死を送ろうとして――爆炎が広がった。

 炎以外を焼き尽くす『浄火』と、死そのものとなった『黒死』が激突する。


 果たして、『浄火』は『黒死』を払い除けた。

 世界の改変結果そのものと、改変させるエネルギー。その軍配が、前者に挙がったのだ。


「ああ、これが《黒死》の力……なんと、素晴らしい」


 バーバラは教徒たちの被害に目を向けず、恍惚と空を見上げていた。

《浄火》はぶつぶつと呟くだけで動かない。

 混乱する魔王教徒たちは、そもそもこちらに目を向けない。


 だから、『彼』は動いた。周囲が混乱しているうちに、逃走を図る。

 朦朧とする意識を『頭痛』で強制的に覚醒させ、ガルム森林へと跳び込む。


「《黒死》のお兄さん! 申し訳ないのだけれど《操魔》に、あの姉貴分気取った娘は生かしておく。三日間だけガルムの谷で待っている……、って伝えておいて!」


『彼』の背に、熱を帯びた声がかけられた。


「そのときは、貴方も来てくださいね! ボクたちは盛大に歓迎するよ!」


『彼』はなんと声をかけられたのかも理解できないままに、夜の闇に染まっていく森に踏み入った。



     ◇



 ――死ぬ。


 己の名もわからない『彼』は、夜の森の中、ひたすら前に進む。

 元通りになった直後だから、怪我は負っていない。だが、木々の枝が『彼』の肌を擦り剥く。


 肺が痛い。長時間の全力疾走は、『彼』の体力を奪い去っていく。

 根に引っかかり、勢いよく転んだ。

 体が痛い。それでも、止まることはない。


 理由は単純、死にたくない。

 誰かを守ると誓ったことも、変わるのだと息巻いたことも、頭にない。ただ、醜い自分可愛さが、『彼』を動かす原動力であった。


「はあっ……あぐ、ぅはあっ……はあっ……は、ぁあっ……」


 走りながら、『彼』の心が再構築されていく。

 己が何者であったのか。名前はなんだったのか。どんな人格だったのか。どんな人柄だったのか。どんな性格だったのか。

 顔が、髪が、眼が、どんな色、形をしていたのか、徐々に浮かび上がってくる。


 ――ミコト・クロミヤ。

 黒目と、若白髪の生えた黒髪を持つ、一六歳の日本男児。

 おちゃらけた性格だが、努力家。内に熱い心を持つ義理堅い人間で、誰かのために必死になれる。


 ――黒宮尊。

 鬱屈した感情を抱え込む愚か者。しなければならないことをできず、ずるずるずるずる逃げ道に逸れるクズ。


 あれ? どっちだっけ?


 思考の停滞。次の瞬間、足を踏み外した。急な坂を転げ落ち、体の節々を強打する。

 ようやく坂下まで落ちた。

 足を止め、思考を動かし、『彼』は一つの結論に至った。


 ――こんな弱い男、黒宮尊に決まっている。


「はは……」


 乾いた笑みを漏らし、尊は頭上を見上げた。夜の闇の先、木々と葉の向こうに、青い月が浮かんでいる。

 この情景。この空、この月。どこか、既視感を感じる。


 思い出した。この世界に来たときも、こんな感じだった。

 あのときは何が起こったのかもよくわからず、困惑していたのだったか。


 異世界に来たのだとわかったとき、どう思ったんだっけ? 寂しい? ああ、そうだ。悠真や玲貴に会えなくなるのは、けっこうつらい。

 帰りたい? ……いや、俺は確か――――、


「……ん?」


 茂みから物音。

 尊は目を細めて、闇の奥を見る。


 茂みから現れたのは、角の生えた黒い熊であった。

 角熊。このガルム森林に生息する、野生生物だ。


 尊は内心で鼻を鳴らした。心境としては、ここまで一緒なのかよ、だ。

 異世界に来た直後、尊は角熊に散々甚振られた。殺される寸前の写真が、現在壊れている携帯電話に収まっているはずだ。

 サーシャに救われたのは、そのときだった。


 しかし今この場に、サーシャはいない。

 朦朧とする意識の中、麟馬に縛り付けられて逃がされた彼女の姿が、しっかりと目に焼き付いている。


 助けはない。

 なんだ、いつも通りか。


 尊はゆっくり立ち上がった。


 ここにいるのは弱い黒宮尊、ただ一人。

 だが、無力なわけではない。今の尊には、魔術がある。

 水弾一つで無力化可能な生き物だ。より効果的な火弾を放てば、楽々と撃退できるはずだ。


 ……それなのに。

 どうしてこんなに、体が震えている?


「――――っ!」


 怖い。恐ろしい。逃げたい。

 勝てるであろう状況でも、ヘタレて満足に動けない。

 それが黒宮尊だ。ミコト・クロミヤではない。


 角熊の咆哮。せっかく立ち上がれたのに、腰が抜けて倒れこみそうになった。

 そうならなかったのは、勇気でもなんでもなく、生存本能にほかならない。


 スロット内で術式を演算すると同時、練習していた魔法陣を展開。魔力を精製、供給完了。角熊に向けて突き出した右掌の先に、火弾が創造される。

 そして、最後にルーンが込められた詩を紡ぐ。


「『イグニスト』……!」


 火弾が射出された。

 精神状態がある程度冷静に戻ったのと、精神状態の良し悪しによらない魔法陣を使ったため、術式の構成に不備はない。

 そのまま火弾は、跳びかかってきた角熊に直撃した。


 形を与えられた炎は、相手を燃やすと同時に打撃も与える。

 直径一メートルほどの鈍器が減速もなく、野球ボールを投げたときと同じ速度でぶつかったとなれば、その威力は強烈だ。

 角熊は火弾に焼かれながら、数メートルも吹っ飛んでいった。そして木に頭をぶつけ、気絶したのか動かなくなった。


 サーシャが角熊を撃退したときと、同じような倒し方になった。

 そのことに、歓喜とも苛立ちがない交ぜになった、言葉にしがたい感情が荒れ狂う。


 火弾が消え、術式が霧散する。角熊に張り付いていた火は、その大半を消滅させた。

 残りの火は、すべて二次的な自然現象であって、魔術ではない。だから術式を霧散させても、完全に消えることはないのだ。


「はあ……」


 尊は深く、安堵のため息をこぼす。

 生きている。そのことが、たまらなく嬉しくて、惨めだった。


 ――もう、死にたくない。あんなに暗いのは、もう嫌だ。


「……ここから、離れよう」


 尊は踵を返し、森の闇の先へと進もうとして――背中に鋭い激痛が走るとともに、地面を転がされた。

 再び、恐怖が全身を支配した。


「な、に……が?」


 うつ伏せの態勢から、四肢をついて起き上がる。首を回して、辺りを見回す。

 何が襲ってきた? 角熊は気絶している。まだ起き上がっていない。では、何が?


 その思考は森の奥へ視線を向けた瞬間、小さな叫び声とともに結論へ至った。

 青い光が淡く照らす、森の闇の中に、何対もの眼光が鋭くこちらを睨みつけている。


 単純な話だ。

 ここは一対一などというルールのない、完全にサバイバルな空間だ。

 集団で獲物を襲うくらい、当然のことだ。


「……っ」


 尊を囲むように、角熊の群れがいた。

 わかったからといって、どうすることもできない。

 今の尊は、魔術の連射ができるほど強くない。集団で襲われたなら、やられるのは必至だ。


「なんだよ、これ。くそ、なんでこんな……」


 弱音ばかりが口から漏れる。足が震えて、満足に動けない。

 これが俺だ。黒宮尊という人間は、こんなちっぽけな男なのだ。


 ……けど。

 それでも。


 ――『彼女』のところへ、帰りたい、と。


「は…………ぁ」


 吐息。直後、『頭痛』が全身を支配する。

 何を考えていたのか、思い出せない。それがとても大切なことであったはずなのに、想いは痛みの中へ埋もれていく。

 残るのは、起源が判然としない衝動だけだ。


「『バート』……『アクエモート』ぉおおおおおおおおおおお!」


 人と獣の咆哮が重なる。両者は同時に跳び出した。

 ぶちん、と何かが切れた感覚とともに、全身から力が漲ってくる。


「能無しの獣どもが、うざってえんだよテメェら、全部ゥ……」


 戻らなきゃ。帰らなきゃ。

 頭の中で繰り返し呟き、尊――ミコト・クロミヤは、


「そこを、どけぇぇぇぇぇええええええええええええええええええええええええええええええ――――!!」


 爆発が、ガルム森林を揺らした。






 理由のわからない使命感が、命を脈動させる。

 起源のわからない衝動が、心を突き動かす。

 体温も、体液も、呼吸も、体も、すべては想いを遂げるための道具で、歯車だ。


 ……どうして、がんばっているのだろうか。


 なんのために、こんなに苦しんでいるのだろうか。

 なんのために、自分を抑えつけて震えているのだろうか。


 ……わかっている。


 やらなければいけないことが、あったはずなのに。

 やらなければいけないことを、しなかったからだ。


 知っていたのに。見ていたのに。動かなかったのは、臆病だったからだ。

 きっと見間違いだと、疑っているくせに今を壊すのが怖くて、何もできなかった。


 ……だから。


 苦しんでいるのも。

 自分を抑えているのも。

 今、自分を縛り付けているものは、すべて自業自得だから。


 ……そう思っていて、また間違えて。

 そして――異世界に落ちた。


 幸運だと思った。

 こんな俺でも、変われると思ったんだ。


 けど…………。



     ◇



 まだ日も出ていない、辺りが若干明るくなる程度の早朝。

 プラムの出入り口付近で、言い争う三人と人影があった。

 言い争う……いや、一人が強く主張するのをもう一人が諭し、残る一人は諭す側に寄り添っているだけだ。


 主張しているのは、銀髪赤眼の少女――サーシャ・セレナイトだ。


「ミコトとレイラを助けに行く!」


 どうして今そう主張するのかというと、彼女が目を覚ましたのが先ほどだったからだ。

 二一時ごろ、彼らはプラムに到着。と同時、リースがサーシャの意識を落としたのだ。

 そうでなければ彼らは、深夜に言い争いをしていただろう。


「と、言ってもさ」


 それ対し、長めの金髪と青い瞳を持つ青年、フリージス・G・エインルードが、飄々と返す。


「どうやって助けるんだい? バーバラは僕よりも強い。その気になれば、特級魔術でも使えるだろうね。《浄火》の使徒も同様だ。グランを軽く打ち倒した相手に、勝てると思っているのかな?」


「……っ」


 フリージスが視線を向けた先には、一件の宿屋があった。その一部屋に、グランは寝かされている。

 今回の件でできた傷は、治癒魔術で回復済みである。


 傭兵の《ヒドラ》グラン。その名は、傭兵の間では有名だ。

 実力至上主義の傭兵の中で有名ということは、それは即ち強いというのと同義だ。

 そのグランが、呆気なく負けた。誰かのサポートがなければ中級魔術師以下の戦闘力しか持たないサーシャでは、太刀打ちできるわけがない。


「それでもわたしは、助けに行く。一人でも」


 それでも、サーシャの瞳から力強さが抜けることはない。

 恐怖していないわけではない。恐怖に打ち勝つ覚悟と勇気が、前へ前へと進ませているのだ。

 レイラとミコトを救えと、心が叫んでいるのだ。


「それはいけない。認められない。……リース」


「かしこまりました」


 だが、フリージスとってサーシャの都合など、関係ないのだ。

 命令を下されたリースが、素早い動きでサーシャを組み伏せた。


「さて」


 いつ魔王教徒が攻めてくるかわからないのに、一泊この町に留まったのは、グランとサーシャがいたからだ。反抗するサーシャと、負傷したグランを連れては、遠くまで行けない。


 バーバラがミコトに執着していたから、すぐには追ってこないだろうという打算はある。

 だが、いつまでもここにいるわけにはいけない。ゆっくりするだけその分、危機は近づいてくる。


 だから今日、いや今、プラムを出る。麟馬は一頭しかいないが、フリージスが魔術を使えば短時間だけならどうにかなる話だ。


「僕はグランを起こしてくる。治療した今なら、戦力にはなるはずだ」


 サーシャは唇を噛んだ。血が滲み、鉄の味がする。

 どうして自分には、何もできないのか。守られてばかりで、力がないのか。

 それが、とても悔しかった。


「……?」


 ついに唇を噛み切りそうになったとき、妙な感覚を覚えた。これを最近、一度だけ感じたことがある。

 バルマ街道でヘレンとラウスの襲撃に遭い、ガルム森林に吹き飛ばされて、ラウスに追われていたときだ。


 この感覚に従って、サーシャは走ったのだ。その方向に行けば、勝ち目が出てくるわけではなかったのに。

 そうして、彼に出会ったのだ。


「もしかして……ミコト!」


 首を動かし、それを感じたほうを見た。

 目を細めて、霧の先を見る。


 人影が見えた。

 近付くに連れ、その姿が明らかになっていく。


 まず最初に気付いたのか、色だ。

 体中が真っ赤に染まっている。それが血なのだと、彼が遭っただろう状況を考えれば、すぐにわかった。


「放して、リース!」


「……どういたしましょうか?」


「いいよ、放してあげなさい」


 拘束が解かれた。サーシャはすぐさま立ち上がり、走り出す。


 若白髪が生えた黒髪は、血に濡れている。整った中性的な顔立ちは、苦痛で歪んでいた。

 全身ぼろぼろで、身に付けた服装は半ば破れたズボンだけ。

 右手は左肩を抑えている。


 彼――ミコトが、焦点の合っていない虚ろな目でサーシャを見た。

 表情が安堵に変わり、次の瞬間力を失ったように倒れ、


「ミコト!」


 倒れる寸前、サーシャがミコトの体を抱き留めた。

 そして気付く。ミコトが抑えていた左肩、その先にあるはずの左腕が、ない。

 焼かれたためか出血はないが、見ているだけで痛々しかった。


 脳裏に浮かぶのは、ガルムの谷で行われた、ラウスとの戦闘の終着。

 ミコトがサーシャの腕の中で、安心したように息を引き取る姿。


「――――っ!? 『クラティア』!」


 魔法陣を展開し、ミコトに押し付ける。治癒魔術が発動し、傷が癒えていく。

 だが、治癒魔術に身体の欠損を治すことはできない。欠けた部位が手元にあれば話は別だが、治癒魔術による自己治癒能力の強化を受けても、大きな欠損は治らないのだ。

 ミコトの左腕は元通りにならなかった。


「ミコト……」


 眠るミコトが、苦しそうに呻いた。せめて苦しみを取り除いてあげたいと、頬に手を添える。再び安心したように、ミコトは静かな寝息を立てた。


「……ふむ、今から出発というのは、無理そうかな」


 背後から、ミコトが生還したことになんの感慨もない、フリージスの言葉。


「わたくしが運びましょうか」


「……ううん、わたしが背負うよ」


 リースの提案に、サーシャは首を横に振った。

 筋力のないサーシャより、力のあるリースに背負ってもらったほうが合理的というのは、わかっている。

 それでも、ミコトを任せる気にはなれなかった。


 サーシャは手間取りながらもミコトを背負い、リースを背後、フリージスを先頭にして、宿屋へと向かった。


 血が抜けて、さらに左腕がないからか、肉体にかかる負担は少なかった。

 しかし、幾重も複雑に絡まる感情の分だけ、重く感じた。

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