第一八話 焦熱地獄
「ぃが……な、きゃ」
両腕を壊され、右脚を砕かれて。両目を潰され、耳を削ぎ落とされ、鼻を折られ、舌を切り取られて。脇腹には刺し傷があって。
それでも、ミコトは進む。
進まなきゃいけない。
止まってはいけない。
立ち止まることは許されない。
躊躇するなんて以ての外だ。
強くならなければならない。
強く在らねばならない。
弱さは罪だ。
自身の弱さに甘んじて足踏みするのは、罪人の行いだ。
だから。
「が、ぁふ……」
命を、心を、熱を削ってでも進む。
『強い自分』の仮面を被って、自身の何もかもを摩耗させても、強く在り続ける。
『弱い自分』であることを捨てる。
そして。
「ま、てろ……」
変えるのだ。
目指したものをつかむのだ。
そのために。
「さ、しゃ……」
動かなくてはならない。
助けなくてはならない。
救わなくてはならない。
そうすることで、ようやく俺は――――
「――――」
幸い、物の位置は把握できた。
ミコトが見るのは、光を失った闇の世界ではない。青い光が充満する世界だ。
木々や水、大地や大気にも青い光は存在した。
だから、ミコトは進むことができた。
この感覚は、視覚のように物の色までは識別できないが、本来見ることのできないものを視る。たとえば、透視のように。
だから、迷うことはなかった。
頭ががんがんと痛んだ。
強烈な『頭痛』が、逆にミコトの意識を明瞭にさせる。
シュトーノという麻薬の効果か、それ以外の要因あってか、気分は高揚していた。
だから、躊躇うことはなかった。
「ぜ、だいに……おれ、は」
弱いことは自覚していた。
この状態で戦況に加わったところで足手纏いになるぐらいのこと、しっかり理解していた。
けど、止まることは許されないから。心だけは、強く在らねばならないから。
虫けらのように這ってでも。
絶対に。
「…………!」
新たな感覚が、異物を捉えた。青い体に、赤い線が血管のように広がる人影たち。
ミコトはそれらに、『視線』だけを向けた。
『頭痛』に促され、スロット内で術式を組み上げる。
魔力を精製する。『バート・アクエモート』の使用後であるため、それはそのまま命を削る行為であった。
――それでも。
倒れるミコトの眼前で、人の身長ほどの火弾が創造された。
そして、射出するためのルーン組み込んだ。
まずはこちらに近付いてくる、誰よりも青い体と赤い瞳を持った存在からだ。
頭が痛い。脳内がぐちゃぐちゃに掻き回されるような不快感。
――俺はあいつを知っている?
どうでもいい。
火弾が射出される。ミコト本来の実力を超えた魔術が突き進む。
しかし、《炎》の小規模な爆炎が火弾だけを潰した。
相手が火を使うなら、こちらは水を使えばいい。
今度は水弾を創造しようとして、ミコトは声を聞いた。
「ぇ……? ぃ、ぁぅ……。は、ははハヒャフヒキャ、あははははハハはははハハハハはははハあはハハハハアはははははははははははははははははァ!」
歓喜を哄笑を上げる《炎》。
体を揺らし震わせ、狂った笑みで近付いてくる。
ミコトは水弾を射出した。大気を切り裂き、《炎》へと迫る水弾。
《炎》は爆炎を生んだ。先ほどよりも小規模な爆炎。ミコトが放った水弾と同程度の規模だ。
果たして、二つは激突する。
しかし、拮抗することはない。
水弾は呆気なく消滅した。
ミコトは呆然とする。今までにない消失の感触だ。
先ほどの火弾を放ったときは、数瞬の拮抗があった。だが、今回は何もない。爆炎が触れた箇所から、無抵抗に魔術が削られたのだ。
嫌な推測が頭を過る。
まさか、と。
そんな馬鹿な、と思った。
ミコトは悪い推測を、頭から振り払う。
風弾を射出。爆炎と激突。無抵抗の消滅。
岩弾を射出。爆炎と激突。無抵抗の消滅。
再び、火弾を射出。爆炎と激突。数瞬の抵抗のあと、消滅。
嫌な推測は、成り立ってしまった。
(こいつ、火属性以外の魔術を無効化しやがる……!)
ミコトは動揺し、術式の構築に乱れが生じた。
笑みを浮かべた《炎》が、こちらへ歩いてくる。
「グ、そぉ……!」
無理やり広げたスロットで、荒々しく術式を演算する。
脳の血管が切れるのではないかと思った。頭が爆発しそうだった。
それでもミコトは、術式を完成させた。必要になった魔力を、残り少ない生命力から強引に引き出す。
「ぁぁぁあああああああああッ!『イグニスリース』ぅぅぅァァァアアアア!」
ガルムの谷で引き起こした爆発。火災魔術を発動した。
ミコトと《炎》の間の地面を起点に、世界が改変されていく。
世界を改変するエネルギーが、座標へと集まり――呆気なく霧散した。
あまりに強すぎる魔力をきちんと制御せずに流したため、術式が崩壊したのだ。
スロット内で行き場を失った魔力が精神を犯し、心に一瞬の停滞を生んだ。
《炎》の手が伸びる。ミコトは髪をつかまれ、強引に立たされた。
目の前に《炎》がいる。手を伸ばせば届く距離にいるのに、ミコトは茫然と動けなかった。
体が、『最適化』でなんとかなる限界を超えたのだ。
眼前、笑みが浮かぶ《炎》の顔が寄ってくる。
首筋にざらざらとした感触。べたべた湿り気がする感覚。数瞬後、まるでソフトクリームのように舐められていることを悟った。
生理的嫌悪感が込み上げた。ミコトはどうにか突き飛ばそうとして――首筋に鋭い痛みが走る。
「あ……はぁ。めぃあ、うぅう」
歯を突き立てられている。ごりごりと肉を削ぎ落とされていく。
《炎》の口が首筋から離れた。くちゃくちゃと音を立てて、『ナニか』を咀嚼している。
肉だ。
《炎》が、ミコトの肉を食べていた。
カニバリズムの、被捕食側に回った獲物の気分は、こんなにも気持ち悪いのか。
もしミコトが通常の状態ならば、間違いなく嘔吐していただろう。
意識が朦朧とする。
止まってはいけないのに。
進まなきゃいけないのに、体から力が抜けていく。
このまま、また死ぬのだろうか。
ミコトは諦め、楽に死を甘受しようとした。
《炎》がミコトの髪から手を放し、今度は首をつかんだ。
いったい《炎》はどうするのか、わからない。もうすぐ死ぬのだ、どうでもいい。
ミコトは最後の力を抜いて。
暗転――。
黒宮尊は目を覚ました。寝起きの意識はいつも通り、明瞭だ。
目の前に、青い空が広がっている。地面はなんだかゴツゴツしていて、寝心地は最悪だ。
外で寝ていたのだろうか。風邪をひいたらどうするんだ、と自身を窘める。
いったいなぜ、外で寝ていたんだろう。考えつつ、尊は違和感を感じ取る。
なんだか、体がべたべた湿っている。生臭い鉄の匂いが、鼻を刺激した。
妙な既視感を感じた。
そう、前にも同じことがあったような……。
尊は吐息をこぼし、ひとまず辺りを見渡す。
右を向いた。森が広がっている。森? 東京に森なんてあったっけ?
左を向いた。そして、見た。
焼野原と、戦闘の風景、穿たれた地面と、自分の首が――
「……え?」
抉られて空っぽになった眼窩。半端に削がれた耳。白髪混じりの黒髪は強引に毟られ、頭皮から血を流している。
散々な状態になっている、自身の生首が、そこにあった。
信じられなかった。……それでも、自分の顔を見間違うことなどありえない。
なぜ? どうして? なんで目の前に、俺の頭がある。
ドッキリか? なんて悪趣味なんだ。企画した奴からの賠償金を欲する。
え、ちがう? なんで? だってこれ、本当に俺の頭だったら、なんでその俺は生きてんだ?
「ああ、いきてるいきてるいきてるいきてるいきてるぅぅぅぅぅぅぅぅうぅううううううう!! やっはり、やっぱりやっぱりやっぱりぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃああはやひゃあひゃはやはやはあああ!!」
誰かの狂ったような声。近付く荒々しい足音。
停止した思考が恐怖に変わり、尊はただ聞こえたほうを向く。
赤い髪と赤い瞳。火傷だらけの体に、ぼろぼろの衣服を身にまとった男が、気持ちの悪い笑みを浮かべてこちらを見ている。
どこかで見た笑みだ。尊は記憶を辿って――そして、ミコトは思い出した。
異世界に来たこと。『再生』のこと。襲われたこと。最期の瞬間を。
「……っ!? ぁ、ぁぁぁああああああああああああああああ!?」
ミコトは錯乱のまま、スロットを起動。
滅茶苦茶に術式を演算し、魔力を注入。世界を改変するエネルギーを具現させようとして――しかし、世界は変わらない。
「なん、で!?」
精神の錯乱によって、まともに術式が構築できないのだ。
魔力的にも、精神的にも万全とはほど遠い状態では、魔術は発動できない。
「ああ! ああ! ああああ! オマエは、オマエはオマエはオマエはやっぱりぃ! ぎひぃ、ぎひゃひゃはははああはやひゃあひゃはやはやハハはハあァ!」
生物として根源的な恐怖が、全身を支配する。
『再生』によって体が回復したにも関わらず、まったく動くことができない。
何かすべきことがあったはずなのに、体が震える。
やらなければいけないことがあったはずなのに、心が泣き叫ぶ。
ミコトはただ、無様に地面を這って、この場から逃げようとすることしかできない。
「ああ、なんで、オマエはァ!! なんで、なんでなんでなんでなぁぁぁぁぁんんんんんでぇぇぇ!?」
ミコトの頭を、火傷だらけの男がサッカーのように蹴り飛ばした。男の蹴りは一般男性からすれば弱いものであったが、頭部を刺激するには強すぎた。
脳が揺れる。首の骨から、嫌な音が鳴った。
脳から体に伝わる信号が途絶えた。ただの脳震盪なのか、それとも不随になってしまったのか。
そんなことを考える暇もなく、頭を踏み付けられた。手加減なしで体重を乗せた一撃一撃は、力がなくとも威力が出る。
ミコトの顔のパーツが、ぐずぐずに崩れていく。
「あああああああああ! 死死死死死シシシシシししししししぃぃぃぃ!!」
次に蹴り飛ばされた瞬間、爆炎が迸り、ミコトの体を飲み込んだ。
熱い。痛い。それらの痛覚がきちんと働いたのは浴びた瞬間だけだ。
最期は寒さに変わり、何も感じなくなって、ふいに何もかもが途切れる。
ミコト・クロミヤが死ぬ――そして、『再生』。
◇
「んぅ?」
サーシャの目の前。今まさに水弾を火弾で相殺したバーバラが、訝しげにサーシャの後方を見た。
連られて振り向くことはない。戦いの場で背中を見せるような隙はさらさない。
だが、続けて告げられた言葉に、サーシャは咄嗟に振り向いた。
「白髪混じりの黒髪……あれは、君が放置してきたと言っていた少年だったりする? ジェイド・エイド」
森から出てきた、一人の少年。変わり果てた姿であったが、間違いなくミコトであった。
ぼろぼろな姿で死力を振り絞る姿を見て、サーシャは駆け寄ろうとする。だが、その前方の地面にナイフが突き立ったことで、歩みを止めざるを得なかった。
ジェイドという魔王教徒が投擲したのだ。これは警告だと、はっきり伝わった。
「……ええ、そのようです。動けないと判断していたのですが」
「うん、まあ見ればわかるよ。あの様じゃあ確かに、動けるとは思えないよね。でもどうしてか、前に見たことがある気が……、――――ッ!?」
「使徒様?」
突然、バーバラが頭を抱えた。痛みに耐えるように、蹲る。
「なん、だこれ。なんで、おかしい! なんでなんでなんで、スピルスが干渉してくることなんて、今まで一度もなかったのに!?」
能面ような表情から、忌々しそうな表情へと変えるバーバラ。
サーシャには何が起こっているのかわからないが、これは逃げ出すいい機会だと感じた。
まずは、バーバラに一撃当ててレイラを、その後ミコトの救出。フリージスとリースを連れて、この場から撤退する。
作戦は練った。サーシャは辺りの位置関係を把握しようとして――視界に最悪な光景が映った。
――《浄火》の使徒が、ミコトの首を食べている。
頭に血が上った。作戦も何もかも放り出して、水弾を射出した。
爆炎が舞う。触れられた水弾は、あっさりと掻き消された。
「無効化された!?」
驚き叫ぶサーシャ。次に魔術を構築しようとして――バーバラの声が上がった。
「そうか、まさか……! メティオ、止まっ――」
次の瞬間、爆炎が迸った。
ミコトの体がバラバラになって、宙を舞う。
ドチャドチャと、赤い肉片が落下した。
「ミコト……!」
サーシャの叫び。応えるように、最も大きかった肉片が脈動する。
骨が形成され、臓器が生成され、神経が張り巡らされ、肉が取り付けられていく。人間の体を形作るすべてのものが、ミコト・クロミヤという存在を『再生』させる。
哀しみと安堵が混ざった、捉えようのない感情がサーシャの心を駆け巡った。
「生き返った……? は、ははは。そう、そうなんだ、そうなんだね、そういうことなんだね。は、はははははははっ」
《虚心》の使徒――バーバラ・スピルスが、狂ったように笑っている。頬を紅潮させ、左手で胸を揉みしだき、右手は股間をまさぐっている。
淫靡なその姿は、老女の見た目と哄笑が相まって、狂人に対する嫌悪感を沸かせる。
今バーバラの視界に、サーシャの姿は映っていない。滂沱と涙を流し、一歩一歩ミコトに近寄っていく。まるで何かに憑りつかれたように、夢遊病にでもなったかのような足取りで。
サーシャもできることなら、ミコトを助けに行きたい。背後で聞こえる爆発音が、嫌な想像を掻き立てる。
だが、この先にバーバラを通すことは、もっとまずいことになる。胸の奥、心臓から湧き上がる衝動が、バーバラを止めろと叫んだ。
世界を青く染めていく。『操魔』の力によって、大量のマナを掻き集める。
バーバラは、なんとしてもここで食い止めなければならない。
資質のない者にでも視覚的に感じられるほどの凝縮された魔力が、徐々に形を成していく。
巨大な魔法陣が形成されていく。ルーンが次々と込められて、効力を絶大なものにしてゆく。
その術式を見れば、明らかに強力な魔術とわかる。だからこそ、阻止しようとする者は出てくる。
ぎらりと眼を細めたジェイドが、短刀を投げた。魔法陣はまだ完成せず、このままでは傷を負う。
魔法陣は、術者とともに移動できないという欠点がある。ここでサーシャが動けば、魔法陣は霧散してしまうことになる。それでも、思考の停滞で霧散する可能性を考えれば、ここは避けるのが最善手。
その、ほんの少しの逡巡が、最後のチャンスさえ奪う。
短刀が迫り――しかし、紫紺の光によって消滅した。
サーシャの眼前に現れたリースが、消滅魔術によって短刀を消したのだ。
ジェイドの舌打ち。サーシャはチャンスが巡ってきたことを確信し――リースに体を抱えられた。
魔術を使っていないとは思えない力だ。サーシャを軽く抱え、素早く移動していく。
「リース、何を!?」
先ほども言ったが、魔法陣は術者とともに移動できない。だが、サーシャは移動してしまった。
『操魔』は周囲から集める、もしくは拡散させるぐらいしか、満足にできない。自身から離れた魔力を精巧に操ることはできないのだ。
よってサーシャが構築していた魔法陣は、霧散して空気に溶けていった。
リースの意図がわからない。
サーシャの詰問に、リースは相変わらずの無表情で返した。
「撤退します」
「て、撤退?」
リースはフリージスのため、もしくはメイドとしての礼儀以外では、能動的に動かない人間だ。ならば撤退というのは、フリージスの指示だろう。
首を視線を動かすと、リースの背後で土石流を発生させているフリージスの姿が目に入った。
《浄火》はミコトを甚振り、バーバラはそれを恍惚と眺めているだけで、こちらにはまったく構う素振りを見せない。魔王教徒だけならば、フリージスだけでも善戦できた。
リースが向かう先には、馬車に繋がれた鱗馬がいた。鱗馬は種族柄か、この状況にも関わらず落ち着いた様子だ。
それはいい。問題は、戦いの中心から遠ざかっていることだ。
「リース、待って! まだミコトもレイラも、グランもいるのに!」
「しかし、これは最高の期であると思われますが」
「見捨てるって言うの!?」
「そうなりますね」
「――っ!?」
サーシャはリースの腕の中で暴れた。しかし、振り解けない。見た目と反する怪力が、逆にサーシャの動きを抑える。
「放して!」
「了承いたしかねます」
片腕だけでサーシャを抑えながら抱え、リースはもう片方の手で、素早く鱗馬と馬車を外す。軽々と跳び上がり、鱗馬の背に跨る。
鱗馬が走り出す。震動が体を揺らす。
「止まって! 止まってよ、リース! 助けるの、みんな、助けて――」
言うと、リースがサーシャから腕を外した。ゆっくりと鱗馬の背に乗せられる。
サーシャはすぐさま降りようとして、
「はい、じゃあグランを頼むよ」
頭上で飛行するグランが、抱えてきたらしいグランを落とす。ちょうどその下にいたサーシャは、飛び降りるのをやめて抱き止めた。
直後、岩の縄が躍る。それはサーシャとグランごと、鱗馬の腹部を通して拘束した。
「フリージス、なんで!? ミコトとレイラが、まだっ!」
「撤退だ。このままプラムまで駆け抜けよう」
「かしこまりました、フリージス様」
鱗馬がプルームル街道を駆け抜ける。戦いを背にして、傷付いた仲間を残して、逃げていく。
「止まって! 止めて、止めてよぉ……!」
こんなことになるぐらいなら。あの闇の中で、レイラと別れるべきだった。
こんなことになるぐらいなら。ミコトと一緒にいたいなんて願わず、早々に別れるべきだった。
こんなことなら、こんなことになるぐらいなら。
こんな愚かな自分は、独りになればよかったのだ。
それを、自分可愛さでできなかった。かけられた優しい言葉に、ずっと甘えていた。
「レイラ……!」
血の中で倒れ伏す少女は動かない。
『アタシはアンタの姉なんかじゃない! アンタはアタシの妹なんかじゃない! アタシは偽物なんかを守るために、生きているんじゃない!!』
彼女の言葉が、脳裏によぎった。
そうだ、偽物だ。だってわたしには、レイラと平和に暮らしていた記憶がない。
「ミコト……!」
泥と血で塗れた少年が、こちらを見た。絶望と失望が宿った瞳が、サーシャを射抜く。
『俺はお前に、救われたんだよ。ほかの誰でもない、サーシャに救われたんだ』
彼の言葉が、脳裏によぎった。
違う、全然違う。まったく、救えてなんていない。今だってこうして、裏切っている。
「ああ、あああああああああああああ……!!」
涙が溢れる。後悔の炎が身を焼いた。
視線の先、爆炎が躍る。
伸ばした手は何もつかめず、何もない宙を彷徨うだけで。
・焦熱地獄
八大地獄の中で、三番目にきつい地獄。
常に極熱で焼かれ続ける。熱した鉄板の上で、鉄串に刺されて、ある者は目・鼻・口・手足などに分解され、それぞれが炎で焼かれる。