第一七話 ゼンマイ切れ
『こいつ……赤い瞳だぞ!』
『邪悪な魔族め、消えろ!』
『汚らわしい化け物が、人間の振りをするな!』
『早くどっかに行け、この薄汚れた存在が!』
大切「違う」な妹「違う」に向けられて放たれた、心ない言葉の数々。
『この子は人間よ!』
アタシは大事「違う」な義妹「違う」を背に庇い、人々の悪意を真正面から受け止める。
だって、大好き「違う」だったから。守りたい「違う」と思ったから。
『どうやって証明するっていうんだ!?』
『赤い瞳は魔族の証だぞ!』
『出ていけ、化け物!』
『化け物の味方も化け物だ、出ていけ!』
『出ていけ!』『出ていけ!』『出ていけ!』『出ていけ!』
投げられる石に身を痛めて、人々の前から姿を消して。
二人っきりの夜闇の中で。
自分に残された、たった一人の家族「違う」が、アタシを治癒しながら言うのだ。
『もう、いいから。わたしのことなんて、気にしないで。わたしは、大丈夫だから』
精一杯苦しいのを我慢している、明らかに強がりだとわかる笑顔で、アタシを気遣う妹分「違う」に。
『アタシはアンタの姉で、アンタはアタシの妹でしょうが。大丈夫よ、絶対に守ってみせるから』
アタシも『誰か』と同じように、強がったのだ。
「違う――――っ!!」
◇
「…………ぁ」
意識を取り戻す。
いや、それは本当に、戻ったと言えるのか。
ぼんやりと開いた眼は虚ろで濁り、口から唾液がこぼれる。
体は弛緩し、だれしなく揺れていた。
正気には見えない。事実、正気ではなかった。
世界はぐちゃぐちゃで、滅茶苦茶で、気持ち悪くて、自分の中の何もかもが砕かれた。
そうして、力なく呻く姿はまるで、糸の切れた人形のようだった。
ゼンマイ仕掛けの人形が、決められた動作の繰り返しをやめたのだ。
「レイラを放して!」
バーバラの左右から水弾が迫る。軌道を操作されたそれは、レイラの向こう側からサーシャが放ったものだ。
それに対して、バーバラは何もしない。少なくとも、動作に現れるようなことはなかった。
バーバラの左右の地面から、岩弾が飛び出した。岩弾は正確無比に、あっけなく水弾を砕く。
術式が壊れて、空中で霧散する。虚空に消える寸前の水飛沫すら、しわがれた老女の肌に届かない。
バーバラは笑みを浮かべて、言葉通りに手を放した。瞬間、すくい上げるような風がレイラを打ち上げた。
吹き飛ばされたレイラを、サーシャは風魔術を併用した受け止めようとする。しかし勢いを止められず、後ろに転がった。
それでも、レイラを腕の中から放したりはしない。絶対に。
「レイラ! 大丈夫、レイラ!」
声をかけられて、それが聞き覚えのある声だったから、レイラは虚ろな瞳でサーシャを見た。
それが誰だったのかを確かめて、レイラの唇が震えた。
微かに口を開いて、掠れた声を紡ぐ。
「ち……ぅ」
レイラがいったい、何を伝えようとしているのか。
サーシャはそれを聞き逃さないよう耳を澄ませて――聞いた。
「じゃ、ない……」
え、と。
サーシャは咽喉を詰まらせて……その間に、レイラが暴れ出した。
抱えるサーシャの腕から逃れ、地面に倒れ込む。地を這って転がり、下からサーシャを睨み付ける。
その瞳に宿っていたのは――狂乱と憎悪だった。
「アタシはアンタの姉なんかじゃない! アンタはアタシの妹なんかじゃない! アタシは偽物なんかを守るために、生きているんじゃない!!」
その、言葉とともに。
サーシャが咄嗟に伸ばした左手を、レイラは振り払った。
「れい、ら……?」
その声はもう、届かない。
レイラは幾度も転げるように駆け、サーシャの元から離れていく。
レイラの向かう先には、バーバラがいるというのに。そのままでは危ないと、わかっているのに。
サーシャは呆然と、動けなくて。
そして。
「おめでとうございますお姉さん! ようやくココロを曝せたね! 解き放たれたね! やったねやったよやったんだ君は、ァハハッ! 素晴らしかったよ、すごく、とても! ……さてさてさて、じゃあ、もういいよ。お休みなさい」
赤いオーラを纏ったバーバラの右拳が、レイラの腹部を殴り飛ばした。
レイラは勢いのままにバーバラの頭上を越えて、落下。どしゃりと、地面に叩き付けられた。
レイラを中心に、どろりとした赤い液体が、地面に広がっていく。
「れ……ぃ、ら?」
ただ呆然と、見ていることしかできなかった。
サーシャは小さな呟きを漏らし、遅れて左腕を伸ばす。
もう、届かないというのに。
もう、起きたことは変えられないというのに。
手を、伸ばせなかった。
心が停止して、踏み出せなかった。
その果てが、これだ。この結果だ。
「レイラ……!」
名を呼ぶ。
大切な、姉貴分の名を呼ぶ。
その声に応えるように――バーバラがレイラを踏み付けた。
「……っ!!」
「いやぁ、素晴らしく爽快な茶番だったよ! 溜まりに溜まった心の闇、ココロが解放された、その瞬っ間! ねえ《操魔》ぁ、君はずいぶんと嫌われていたみたいだねえ、慕っていた姉にぃ。それを知ってどう思った? ねえ、今どんな気持ちかなぁ?」
サーシャから憤怒の視線を受けても、バーバラは笑みを深して、レイラの肌を、亜麻色の髪を、泥と土と血で汚していく。
サーシャの怒りが臨界点に達し、衝動的に限界まで『操魔』を発動する――その直前、レイラの体がピクリと動いた。
慌てて、レイラを確認する。ぼろぼろであったが、呻き声を上げて、気絶しているだけのようだった。
動かないのではないか、と思っていた。
あのとき、ガルムの谷で、ミコトが息を引き取ったときのように。
不安だった。悲しかった。怖かった。
――でも、生きていてくれた。
サーシャの左手から、水弾が放たれた。風を切って進むそれは、火弾によって相殺された。
愉快げにレイラから離れたバーバラを、サーシャは決意と覚悟で睨み付けた。
荒れていた心は冷静になり、サーシャの瞳に硬い意志が宿る。
「――なら、大丈夫だよ」
「……んぅ?」
「うん、そう。そうだよ。レイラを助ける。仲直りをする。したい。それが、わたしの気持ち!」
バーバラの表情が能面のような無表情へと変わった。次いで、嫉妬と嫌悪と憎悪へと変貌する。
「……くだらないなぁ。ああくだらない、くっだぁらない。どうしていつの代でも、《操魔》ってこんな感じなんだろうねぇ。先代もさ、わざわざ君を救うために命を捧げちゃったりしてさ。……ああ、《操魔》だからか。――気に入らない気に入らない気に入らない!」
「貴女がどう思おうと、どうでもいいよ。でも――レイラは助けてみせる。助けたいの」
サーシャの決意を聞いて、バーバラはあからさまなため息をこぼした。深く、深い、息を吐く。
そんなバーバラの前に、ガルム森林から出てきた魔王教徒が一人、片膝ついてひれ伏した。
どういうわけかその男の顔は、血に染まって膨れ上がっていた。さらに右腕が折れている。
バーバラが不機嫌を隠そうともせず、男の右腕を治癒しながら尋ねた。
「そのザマはなに? どうしたのかな?」
「……少々油断し、反撃を受けてしまいました。ですが、問題はありません。あの若白髪の少年は十分に甚振った上、眼球を抉って放置してきました。じき死ぬでしょう」
サーシャの息が詰まった。
若白髪の少年。そんな人物、サーシャは彼以外に知らなかった。
「ミコト……?」
その呟きに反応し、バーバラが笑みを深くした。
「だそうだよ、《操魔》。その少年は、死ぬんだ。死ぬんだ死ぬんだ死ぬんだ! 君と一緒にいたばっかりに死ぬんだ、惨めに! この少女と同じように、無残な! あっははははははは!」
「――――ッ!!」
サーシャの胸に痛みが走る。
わたしさえいなければ……、そんなこと、何度考えたかわからない。
痛みは、自己嫌悪のような感情だけではない。
ミコトは『再生』というらしい、生き返る能力を持つ。だから真の意味で死ぬことはない。しかし、それとこれとは話が別だ。
痛みを感じないわけじゃない。恐怖を感じないわけじゃない。そんな彼を、悦楽のためだけに甚振ったのだ。
「ねえ、ジェイド・エイド・ムレイ。その少年はどんな反応だった?」
バーバラがわざらしい大きな声で、サーシャによく聞こえるように言った。
ジェイドと呼ばれた魔王教徒の男も、バーバラの意図がわかったのか、愉悦に笑みを歪める。
「……とても醜いものでした。激痛に泣き叫び、恐怖に震えるその姿は、まさにか弱き存在! その身も心も、何もかもを蹂躙して参りました」
「そう、それはさぁぞ愉しかっただろうね、愉しかっただろうな! 自信あるちっぽけな強者を絶望に落とすのも愉しいけど、弱者を甚振るのも一興ってものだよね! ……さてさてさてさて、《操魔》ちゃぁん? どうかな、今どう思った? ねえ、今どんな気持ちぃ?」
サーシャは表情を歪めて、泣きそうになるのをこらえて、左手の先に水弾を創造した。
◇
襲い掛かる魔王教徒を捌きながら、フリージスは周囲を観察していた。
グランは倒れ、レイラを発狂の果てに地に伏している。
その近辺で、サーシャとバーバラが魔術の応酬をしている。
《浄火》の使徒は、グランにトドメを刺す気はないらしい。というより、意識すら向けてはいない。
幽鬼のように俯いて、ぶつぶつと何やら呟いているだけだ。
サーシャとバーバラの戦いは拮抗している。いや、あれはバーバラが遊んでいるだけだ。
何せバーバラは、サーシャの水弾を火弾で相殺しながらも、フリージスへ中級規模の魔術を放つ余裕まであるのだから。
フリージスがバーバラの魔術を防ぐ傍らで、紫紺に輝くリース右手が、魔王教徒の首をなぞった。
光が触れた箇所は消滅し、必然、首を切り落とすことになる。これでようやく、一〇人目。しかし、あと二〇人もいる。
フリージスは、落ちた生首を砲弾代わりにしつつ、この状況からの脱出を考える。
逃げるのに必要なものは『足』だ。それはこの場において、麟馬しかいない。
飛行魔術を使えるフリージスならば、麟馬なしで逃げられる。
だが、それでは駄目なのだ。フリージスの使命はサーシャがいなければ頓挫し、リースがいなければ破綻してしまう。
つまりこの状況の打開には、馬車の近くにいるバーバラを移動させる必要がある。そして麟馬を確保し、リースとサーシャを乗せるのだ。
麟馬の体格を考えれば三人までなら乗れるので、可能ならグランを回収したい。そして自分は、飛行魔術で逃げる。
それしか、ない。
「こんなことになるのなら、少数精鋭なんて言わずにエインルード総出で来るべきだったかな」
「あまりに目立ちすぎる、と反対派に回ったのはフリージス様です」
「ああ、そうだった。最近は物忘れがひどくて困るよ」
軽くため息をこぼしつつ、フリージスは悩んだ。どうすればバーバラを移動させられるのか……。
このままサーシャに任せて進展するとは思えない。ならばフリージスがなんとかすべきなのだろうが、フリージスもバーバラには勝つのは難しい。
詰んでいる。
どうしようもなかった。
それでも、どうにかするしかない。
フリージスが再度ため息をこぼしそうになった、そのときだった。
今まで呻いていた《浄火》が、唐突に顔を上げた。
とうとう、絶望的か……。最初はそう思ったが、どうにも違う。
《浄火》が、ガルム森林を向いている。その先にいる、何かを見つめている。
フリージスは戦いながらもその方向を見て、納得した。
ああ、そうか、と。
あの方が語ってくださったお話から考えて。
推測していた彼の正体を顧みて。
――《浄火》は、ミコト・クロミヤという存在を無視できない。
そして、ガルム森林から、少年が姿を現した。地を這う虫けらのように、無謀ながらも激戦区の中心へと向かう。
完全に眼窩を露出させ、鼻も折られて舌も切られて。
腕も潰され、脚も砕かれた状態で。マシな左脚と、顎を使って前進する。
その、放っておいても息絶えるだろうミコト・クロミヤの前に、《浄火》の使徒が立ち塞がった。