第二話 黒い熊もどき
「クリスマス~、森の中~、熊さんに~、出会った~」
尊は空元気を出して笑おうとしたが、口から出たのはため息だった。
現実はいつだって、逃避を許してくれないのだ。
――それは、熊のような何かだった。
体の大きさは、熊としてはそれほど大きくない。せいぜい一メートルぐらいしかない。
色は真っ黒。一度目を離せば、すぐに見失ってしまいそうだ。
それだけなら、普通の熊と同じだろう。
問題は、頭から生えた一本の『角』だ。
(角の生えた熊なんて、聞いたことねえけど……)
尊も熊に関してあまり詳しくないが、角の生えた熊など聞いたことがない。
だが、実際目の前に存在するのだから、どうしようもない。
異世界だから、の一言で済まそう。それで大丈夫だと、安心できるわけではないが。
「こりゃあ、やべえんじゃねえか? まさかの『魔物』って奴かよオイ」
ただの熊であってもまずいのだが、それは置いておいて。
魔物とは、よくフィクションで見られる生き物のことだ。
基本的に敵として、作品によっては味方として活躍していたりする。
総じて、普通の獣よりも強いのが常だ。
それにしても、どうしてこんなときにエンカウントしてしまうのか。
異世界でのファーストコンタクトが熊もどきだなんて、真剣に笑えない。
尊は一歩後退り、湿った音が響いた。
このとき、血の匂いが熊を引き付けたのだと気付いた。
(最悪だ……)
尊は内心で悪態をついた。不良相手の喧嘩なら負けはしないが、熊相手に勝つ自信はない。
記憶の中から熊の対処法を探る。
――熊と接触しないように気を付ける。
もう出会っている。なう。
――死んだフリをする。
これは俗説だ。意味がない。そのまま食われるのがオチだ。
――木に登る。
これもデマだ。熊は木登りが得意なのだ。
――持ち物を投げて気を逸らす。
そう、確かこれが正解だ。
尊は体を探った。が、持ち物なんて財布や携帯電話(折り畳み式)ぐらいしかない。
なら、着ている物か。
尊は白黒のジャージの上に、黒いジャンパーを着ていた。
熊から目を逸らさずに、ゆっくりとジャンパーを脱ぐ。血が染み付いていて、ずっしりとした重さがあった。
使えるかはわからないが、携帯電話や財布はジャージのポケットに移しておく。
そして、尊はジャンパーを熊の横に放り投げた。横と言っても、刺激して怒らせるわけにはいかないので、そこそこ距離は開いている。
熊は興味を持ったらしく、ジャンパーへと歩いていく。――尊から、目を逸らした。
尊は後退る。音を立てないように、しかし熊が何かのアクションを起こすよりも前に、速く。
そうして広場の中心から離れ、ついに木々の近くまで移動できた。
ふう、と安堵のため息を漏らし、木々の影に隠れてもたれかかった。
だが、安心はできない。尊にはまだ、血がこびり付いているのだ。気を付けなければ、ほかの獣にも見つかってしまう。
尊は息を吐くと、もたれかかった木に力を加え、体勢を戻そうとして――できなかった。
「……あ?」
思わず、間抜けな声が出る。が、そんなことは気にならなかった。
尊の体が、徐々に後ろに崩れていく。
木にもたれかかっているはずなのに。現に今も、背中に感触がするのに。
だというのに、尊は夜空を見上げるように、仰向けに倒れていく。
バキバキ、という音を聞きながら、
(……バキバキ?)
ようやく、尊は気付いた。
木が折れて、倒れようとしているのだ。いや――今、倒れた。
ドン、と後頭部に衝撃を受けた。地面から木、木から頭へ、衝撃が伝わったのだ。
後頭部の激痛で、尊は頭を抱えて悶えた。
――熊の存在など、頭から消して。
ハッとして、尊は痛みをこらえて立ち上がった。
熊を探して、すぐに見つかった。
熊はジャンパー置いたところから、真っ直ぐこちらを睨んでいた。
尊の視線が、熊の持つジャンパーに向く。憐れ囮となったジャンパーは、熊の手によって無残にも引き裂かれていた。
咽喉が一瞬で干上がった。
尊の中で、明確なイメージが浮かんだ。――熊に四肢を押さえ付けられ、生きながら食われる自分の姿を。
――死。
恐怖で感情が支配され、心が真っ白に染まる。
気付けば軽口を叩くこともできず、尊は熊に背を向けて走り出していた。
これが悪手が好手かなんて、考えていなかった。
ただ、目の前の死から逃げたかった。
背後で熊が吠えたのが聞こえた。
血が染み付いたジャージが重い。足が絡まって転がりそうだ。
足が地面を這う根に引っかかった。
体が投げ出され、空中で体が半回転する。なんとか頭を守ろうと体を丸めて、背中から地面に打ち付けた。
それでも、止まるわけにはいかない。
斜面をゴロゴロと転がって、体中の痛みに耐えながら立ち上がった。
そのまま急斜面を転がり落ちるように走るが、目に汗が入ったせいで、思わず目を閉じてしまった。
直後、右肩に衝撃が走った。木にぶつかったのだ。
左半身が前に出た。足を止めたせいで、そのまま地面に倒れた。
痛い。苦しい。けれど、止まるわけにはいかない。死にたくない。
尊は歯を食いしばって、手を地面に付けながら走り出した。クラウチングスタート、なんて綺麗なものではない。もっと泥臭く、意地汚いものだ。
「はあ、はあ、はあ、はあ……!」
そうして、どれくらい走っただろうか。
かなり長い間走った気がする。
もうそろそろ、大丈夫なんじゃないか。
熊だって、諦めているだろう。
尊は意を決すると、首だけ回して後ろを振り向いた。
――すぐ目の前に、黒い影があった。
夜の闇、ではない。
何かが尊の視界を遮っている。
呆然した思考の中で、尊はその正体を突き止めた。
影の正体は、二本の足で立って尊に襲い掛かろうとしていた――真っ黒い、熊。
そもそもの話、人間が科学の叡智もなく、熊から逃げられるはずがない。
尊はただ、弄ばれていただけだったのだ。必死に命を守ろうとする人間を、無様に逃げ回るその姿を、上位者の位置から嘲笑っていたのだ。
「……ぁ」
熊が振り下ろした右前脚が、尊の左肩を叩いた。それだけで、地面に体を打ち付けた。
遅れて感じる、強烈な激痛。
「ぐぁ、がぁぁぁぁあああああああああああああ!?」
全身が痛い。特に左肩がひどい。
まるで熱だ。真っ赤になるほど熱した鉄が、体の内側に入れられたかのようだ。
骨が砕けたのだ。
「い、だぁ! が、がふ、ぐえぁ……!」
痛みで悶える尊の腹部を、熊は無情に踏み付けた。
体重が加えられ、肺から空気を漏らす。苦しいのに、熊が乗っているせいで呼吸できない。
息が、苦しい。
――死ぬ。
突如、強烈な頭痛が尊を襲った。
脳に直接刃を突き立てられたのかと思うほどの激痛だ。ほかの痛みを感じられなくなるぐらいに、脳みそをぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
耳鳴りがうるさい。黒板を引っ掻いた不快音を、何百倍にも圧縮したかのようだ。
不意に、頭痛が消えた。まるで最初から、頭痛などなかったかのように。
体は相変わらず痛い。だが、耐えられる。
不思議な感覚を覚えていた。頭が冴え渡っていくのを感じた。
死に際の錯覚などではない。
尊は右手を、ジャージのポケットに突っ込み、引き出した。その手には、携帯電話が握られている。
携帯電話の側面に付けられたポタンを押して自動で携帯を開かせ、素早く指を動かして操作する。
そして、カメラを熊へ向け、最後の操作を終えた。
眩い光が、夜の森を照らした。
カシャカシャという連続して撮影音が鳴るたび、フラッシュが熊の顔を照らす。
熊は怯んで、尊から脚を退いた。
瞬間、
「ら、ァァアァァアアアアアア!」
携帯電話を放り出した尊の右手で作った手刀が、槍のようにして熊の首に突いた。
熊が苦しんだように、さらに一歩後退る。
だが、貫けない。尊は超人ではないのだ。
だから。
尊は、連続で突きを放った。
爪が剥がれるのがわかったが、止まるわけにはいかない。
苦しみに耐えて、痛みに耐えて、尊は突き続けた。
だが、所詮は人間の膂力。火事場の馬鹿力を起こしたとしても、素手で熊に勝てるはずがない。
熊が尊の頬を殴り付けた。爪を立てていなかったからか、顔は抉れていないが、歯が折れ右目が潰れ、鮮血が飛び散る。首が嫌な音を立てた。
「ぐ、ぐぁ。ぁ……」
立ち上がろうとして、それだけの力すら出ず、地面に倒れる。
熊が、死が近付いてきているというのに、体はまったく動こうとしない。
もう、力尽きてしまったのだ。
(死ん、だな……)
熊が歩いてくるのを見ながら、尊はぼやいた。
もう、諦めた。
「はあ……」
死んだと思ったら生きていて。異世界にいた。
かと思えば、すぐに死にそうになっている。
なんだこれは。いつもよりずっと不幸だ。間違いなく厄日だ。
今日のこの日、クリスマス。どうやら自分は、キリスト様の誕生日に死んでしまうらしい。
強烈な眠気が、尊を襲った。それに抗うことなく、目を閉じる。
もう、いい。疲れた。
休ませてくれ……。
『 』
誰かの声が聞こえた。おそらく、女性らしい高く、綺麗な声だった。
近くに、誰かがいるのだ。
尊の中に活力が芽生えた。
このままでは、女性も危ない。
熊は自分が連れてきてしまったのだ。誰かを巻き込むなんて、真っ平ごめんだ。
歯を食いしばって、四肢に力を入れた、尊は目を開けた。
――青い世界が、広がっていた。
「――――」
尊は絶句した。
周囲の空気中で、青い光の粒子が輝いていた。青い月と同色の、幻想的な輝きだ。
それはまるで、世界そのものが青く染まっているかのようだった。
すべての青い光の粒子が、移動を始めた。それは一点に集まる軌道を描いていた。
どこかに、集められているのだ。
尊は目で光を追って――そして、青い光の渦の中心で、彼女を見つけた。
美しい少女だった。
腰までストレートに伸ばした銀髪は、風でなびくと輝いて見える。優しげに下がった目尻は緊張に震えているが、覚悟に燃えている。真紅の瞳は、まるで宝石を連想させる。
肌は新雪のように真っ白で、汚れなど知らないかのようだ。
服は白を基調としたものを着ていて、銀髪と合わせてよく似合っている。
そんな、ひ弱そうな少女が突き出した左手に、青い光の粒子が収束していき――少女が詩を紡いだ。
『 』
――世界が変わった。
尊が妙な感覚を感じたその瞬間、少女の左手に収束された光が消え、その代わりに直径一メートルは超える水の塊が現れた。
瞬きなんてしていない。いつの間にか、それは存在していた。
少女が何かを呟いた。そして、尊の目にギリギリ捉えられる速度で、水の塊が射出された。
水の塊が、唖然とした尊の頭上を通過した直後、熊の悲鳴が聞こえた。
振り向くと、水の塊に巻き込まれた熊が、木に背中を叩き付けられたところだった。そのまま地面に崩れ落ちて、動かなくなった。
死んだのか、気絶しただけなのか。
どちらにせよ、すぐに起きる気配はない。
(助かった、のか……?)
尊は安堵した。が、力が抜けたせいか、意識が薄くなっていく。
ぼやけた視界の中で、こちらに駆け寄る少女の姿が見えた。
『 』
少女が何かを言っている。
日本語ではない。聞き覚えのない言語だ。英語でもないだろう。
「ぐ、ぅあ……!」
突然、体中の痛みがぶり返してきた。先ほど痛覚を感じなかったのは、アドレナリンの大量分泌だったのか。
『 』
少女が何かを言っている。当然、意味など理解できない。
ああ、もう無理だ。意識を保てそうにない。
そして、尊は目を閉じた。
なぜか、痛みが引いていくのを感じながら。
尊の意識が、闇へと沈んでいく。――鈍い頭痛に後押しされて。
主人公はとことん虐める。