第一五話 夕焼けの襲撃
レイラは馬車の中にいた。目の前には本を読むフリージスと、腕を組んで目を閉じたグランが座っている。
フリージスの横に座っているはずの人物は、今ここにいない。先ほど、排尿すると言って離れたのだ。
レイラは馬車の外を眺めた。夕食を取った場所で、サーシャとリースが片付けをしている。見たところ、もうすぐ終わりそうだ。
もしアイツが残っていれば、もしかしたらサーシャたちを手伝っていたのだろうか、と考えた。料理では手を出さなかったが、家事はそれなりにできるらしい。
言動に反し、妙に真面目なところがあるミコトだ。お礼の言葉をさらっと流して手伝う彼の姿が、なんとなく想像できた。
まあどうでもいい。
レイラは嘆息した。
「っていうか遅いわね、アイツ。どこまで行ったのかしらね」
「ミコトくんかい? ……ふむ、そうだね、確かに。もしかしたら、でかいほうなのかもね」
クツクツと笑うフリージスに、レイラは白けた眼差しを向けた。
「そういう下の話はいらないのよ。でも、本当に遅いわね。どこまで行ったのかしら? ……いえ」
――もしかしたら、誰かに連絡を取っているのだろうか。
レイラの中で、ミコトに対する疑惑が膨らんだ。
ミコトは正体不明の人物だ。トイレに行くというのは嘘で、誰かと連絡を取っているかもしれない。
ミコトと戦えば、十中八九勝てる。だが不確定要素が多すぎる。確実に勝てるとは頷けない。
「もしも……」
レイラは躊躇しながら、フリージスに向けて、
「もしも、アイツが裏切ったら……そのときは、どうするわけ?」
それは、他者への決断の放棄であった。
レイラは自己嫌悪を感じながらも、止めることはできなかった。
果たして、フリージスの答えは、
「殺すよ――と、言いたいところだけどね」
サーシャを救った人物だ。そこまでひどい扱いにはいないらしい。それでも最低、犯罪奴隷になることは確実か。
どうしてかレイラは、安堵のため息をこぼした――直後、
「彼には『再生』がある。どこかで廃棄するのも選択肢の一つだけど、やはり目を離すのは不安だ。――達磨にしようか」
なんの躊躇もなく、普段の飄々とした仕草から放たれたそれは、どこまでも冷酷で。
きっと本気で言っているのだと悟り、レイラは息を飲んだ。
これだ。
フリージスのこういうところが、不信感を抱かせていた。
内心を読み取らせない雰囲気。どこか道化めいた仕草で、飄々と残酷な行動を取る。
それらはどうしても、レイラの疑惑を生む。
信じられない。信じるのが怖い。
結局、彼女の中にあるのは、他者に対する不信なのだ。
「……でもアイツは、サーシャに慕われてるわよ」
サーシャがミコトに慕っているのは、傍から見て簡単にわかった。
そこに恋愛感情こそないが、奇妙な信頼関係があった。
「裏切り者に容赦する必要はないね」
わかっている。もしもミコトが裏切ったとしたなら、その関係は偽りのものでしかないのだと。
それでも、なぜかレイラは庇ってしまう。
少し考えて……なんとなく、わかってしまった。
共感だ。共感によって、どうしても非情になれない。
しかし同時に、同族嫌悪のような感情も覚えていた。なぜだろう?
わからない、わからない、わからない。
「…………」
レイラは何も言えずに俯いた。フリージスの興味深げな視線を、意識的にカットする。
何も考えたくなかった。思考を回すのが、ひどく億劫だった。
レイラが深いため息をこぼした――そのときだった。
「……何か、いるな」
今まで黙っていたグランが、目を開いて言った。組んでいた腕をほどき、脇に置かれていたクレイモアを手に取った。
頭にかぶっていたフードも取る。獣耳が周囲の音を拾うため、ピクピクと動く。
雰囲気が変わる。周囲に溶け込む雰囲気は、大気を燃やす熱へと変じた。赤みがかったブラウンの目が、鋭く細められる。
明らかな戦闘態勢だ。
「うそ、でしょ……?」
グランとフリージスが馬車から出ていって、レイラも呆然とあとを追った。
サーシャとリースは、もう片付けを終えたらしい。道具類を魔道バッグに入れて、こちらに歩いてくるところだった。
「どうしたの?」
肌に感じただろう。ピリピリとした闘争の雰囲気に、サーシャは訝しげに尋ねてきた。
それに答えたのはグランだった。厳しい視線で、周囲を見渡している。
「おそらく襲撃だ。森の中で、数人の気配を感じた。……一〇人以上は確実――来たな」
森の奥から黒装束の集団が現れ、あっという間に馬車もまとめて包囲された。
魔術の気配を感じないので、あの速度は自前と考えられる。恐るべき身体能力だ。
「一〇人……これ、明らか三〇人はいるね」
「以上、と言った」
グランは憮然とした表情で、フリージスに返した。フリージスはわざとらしく肩を竦めた。そこに必要以上の緊張感はない。
三〇人。しかし絶望的な状況ではない。
ここには《ヒドラ》グランと、アルフェリア王国最強の魔術師フリージスがいるのだ。これくらいなら対処可能だ。
その横で、レイラの思考は真っ白になっていた。
考えるのは、どうして今。なぜ、このタイミングで。ミコトがいないこの瞬間に、襲撃が起きたのか。
ああ、そうか――と、どこかで納得がいった。
やはりそうか、と落胆した。仄かな期待は失望へと変わった。
答えは、すぐに出た。
――ミコト・クロミヤが、裏切ったのだ。
「……っ」
裏切られた。また裏切られた。
期待するんじゃなかった。信じたいなんて、思うんじゃなかった。
レイラは深く、深いため息を吐いて――その横で、サーシャが叫んだ。
「ミコトは!?」
ああ、この子は今も信じているのだなと、冷めた思考で思った。
いや、きっと、疑ってすらいない。サーシャの赤い瞳は、ミコトに対する心配で埋められている。
「このタイミングで襲ってきたのよ。アイツが裏切ったに決まっている」
「ミコトはそんな人じゃない!」
白い少女だ。美しく、純白で、新雪のようで、まるで汚れを知らない。それが、とても妬ましかった。
抱いてはならない感情だ。忌避すべき感情だ。しかしレイラは、それを抑えられなかった。
「どこに証拠があるっていうのよ!」
「じゃあ、ミコトが裏切ったっていう証拠はなに!?」
「……っ。そ、それは……」
状況だけで考えても、ミコトが裏切ったと決めつけるのは早い。それどころか見方を変えれば、ミコトが敵の手に落ちた可能性だってある。
それでも、疑ってしまう。信じられない。一度決壊した信頼関係を修復するにはミコトは正体不明で、レイラは人間不信すぎた。
だが、ここで反論して、どうなるというのか。敵に隙をさらすだけだ。
レイラはそう言い訳をして、サーシャに背を向けた。
悲しげに表情を歪ませるサーシャに、わざと気付かないふりをした。
状況は進展していなかった。相も変わらず襲撃者たちは、レイラたちを取り囲むだけだ。
フリージスとグランは自然体だ。しかし、フリージスはいつでも強力な魔術を放てるよう、スロットに術式を展開しているのだろう。グランも同様、身体強化の術式をスロットに展開し、すぐにでも戦闘に入れるようにしているはずだ。
ちっとも無表情を崩さずに襲撃者を眺めているリースも、戦闘技能は非常に高いのだ。
グランの獣耳が、ピクリと動いた。視線を森へ向けた。
そして、言う。
「叫び声だ。ミコトの」
「……っ!」
聞いた瞬間、サーシャは森に向けて走り出した。その左手を、レイラの右手がつかんだ。
「どこへ行く気? 何しに?」
「ミコトのところ! 助けなきゃ!」
「――見捨てなさい」
レイラは放つ。冷酷非情で、最も正しい選択肢。
そう、これが正しい選択だ。
実際、本当に生き返るのかまだまだ信じられないが……ミコトは『再生』を持つ不死身だ。不死身のために、生者が危険を冒す必要などない。
レイラは自身の本心を見ないようにして、道理でサーシャを諭そうとする。
そのときだった。
「まあどちらにしたところで、行かせるつもりなんてないのだけれどもね」
しわがれた、この場に不釣り合いなほどに気楽な、老女の声。
レイラたちの視線が、その声がしたほうへ向く。
襲撃者たちの間を通って、その老女は現れた。馬車の近くに立って、サーシャたちに視線を向けている。
真っ直ぐ伸ばした、しわしわの顔に似合わぬ純白の綺麗な髪は、あまりに長すぎて地面に引きずって、先端を汚していた。
しわしわな顔には、ニッコリと笑みが浮かんでいる。完璧に張り付いた表情は、いっそ狂気的であった。
そして、最も注目したのは、その目。宝石のように輝く――赤い瞳。
狂気の瞳。欲望、嫉妬、強欲……さまざまな負感情の具現、瘴気を宿す者――魔族の瞳。
「魔族!?」
「残念無念、間違いです外れです。魔族の定義は、瘴気を浴びて体が変質していることだ。そこら辺、無知な人が多いなぁ、なーんてボクは落胆するばかりだよ。ほらこの通り、人の姿をしているだろう?」
サーシャの叫びに、老女は軽い口調で答えた。
張り付けたような笑みと、普通にしていれば気のいい老女に見える顔、しゃがれた声には、まったく似合わない口調。
吐き気がするほど、似合わない。
「なるほど……容姿でわかる。君は《虚心》の末裔かな?」
「不本意で幸運ながらね。さてさてさてさて、そういう君もそうみたいだ、血は違うけど一緒なんだ、バーバラと。けれどボクとは違うから、どうでもいいかな」
フリージスの問いに、老女はわざとらしく唸りながら言った。
「さっそく自己紹介でもしましょうか。自己紹介、自己紹介。あ、君らの自己紹介はやらなくていいから、いらないし興味ないから」
老女は首にかけたネックレス、それに付けられた赤い水晶を、手の中で転がしながら、
「ボクは《虚心》の使徒。魔王教の幹部をやってるんだ。あんまり好きな体じゃないから、名前はこいつのを借りようか……バーバラ。バーバラ・スピルス。《虚心》の末裔で、『名無しの森』の長老……だったかな。まあ、憶えなくてもいいよ」
魔王教幹部、《虚心》の使徒――バーバラ・スピルス。
その仕草、口調、笑み。どこかで見たことがある。目にしたことがある。
レイラは警戒を続けながら、記憶の海に沈む。
「『名無しの森』……そういえば一〇年ほど前に滅ぼされたんだったかな?」
「うん、正確には七年前のことだね。ボクが滅ぼしたんだよね、懐かしいなぁ」
「……滅ぼされる前に、なんとかコンタクトを取りたかったよ」
「ムーリ無理無理無ぅ理無理ぃ。『名無しの森』には《虚心》の末裔がいたんだよ? 見つけるなんてできっこないよ。もっとも今はもう、ボクの手元にしかいないけれども」
当人たち以外、意味の通じない会話だった。その果てに、フリージスはため息を吐いた。深く吐いて――
「本当、残念だ」
――次の瞬間、バーバラが立つ周囲で、大地が歪んだ。
大地から飛び出した岩槍が絡まることなく、幾重にも分裂し交差しながら、バーバラへと突き進む。
絶対に避けられない。隙を突いたその攻撃は、阻まれることなくバーバラに迫り。
――バーバラの笑みが、裂けた。
岩槍が、慣性を無視して停止する。それまでの勢いもすべて消え、直後に弾け飛んだ。
岩弾となってフリージスに突き進むそれらは、紫紺の光が宿ったリースの右手に消滅させられた。
「無属性……その、作り物か。ああ、なんて空虚。虚ろで空っぽなココロ、何もない人形……ムカつくなぁ、そのココロ。今すぐ脳みそをかき混ぜたくなる」
心底侮蔑したという目を、バーバラがリースに向ける。
バーバラは深々とため息をこぼした。
「……もうそろそろ、いいかな? ボク、面倒になったんだ。――《操魔》を捕らえろ。それ以外は、十分に甚振って犯し蹂躙し、殺せ」
バーバラが手を上げる。それを合図にして魔王教徒の集団が、一斉に襲い掛かってきた。
「ハァ――ッ!」
バーバラとは反対側に、『イグニモート』を発動して赤いオーラを纏ったグランが跳び出す。迫る魔王教徒たちの中心に跳び込むと、巨大なクレイモアを巧みに操る。
数人の魔王教徒の首が、腕が、脚が、胸が切り裂かれ、斬り落とされる。血飛沫が舞い、グランの赤い外套をさらに赤で上塗りし、褐色の肌を紅で染め上げる。
「『グロウェイク』……!」
フリージスが両手の先で、魔法陣が構築された。
スロット内で一瞬で術式を演算し、魔法陣を地面に叩きつけて詠う。
干渉系統・地属性・中級魔術『グロウェイク』。
それが発動した直後、大地の嘶きとともに土砂の波が発生した。フリージスを起点に扇形に広がっていく土石流は、バーバラを巻き込まんと迫る。
いくらか避けられたが、魔王教徒を数人巻き込んで、バーバラへと突き進む。
直撃すれば、致命傷は免れられない攻撃だ。細かな砂は肌を、泥は血肉を、石は骨をも削るだろう。
しかし、バーバラの表情に浮かぶのは、愉悦と嘲笑であった。
バーバラは軽く大地を蹴った。
次の瞬間、土石流が発生する。フリージスの『グロウェイク』と、まったく同じ規模の魔術だ。
二つの土石流が激突する。巻き込まれた魔王教徒の肉体が砕かれる。
響く轟音、震動する大地によって、一時的に戦闘が中断されるほどの衝撃が炸裂した。
果たして、二つの力は互角であった。フリージス側へもバーバラ側へも行けないベクトルは、横へと逃れる。
プルームル街道とガルム森林の間に、土砂山の境界線を敷いた。
「覚悟はしていたけど……冗談がきついね。これが使徒の力か」
「この程度で戦慄されてもねぇ。君のスロットに組まれた術式と、見た目の規模から読み取って、完全に同一の魔術を発動させた。それぐらい、ボクにとっては児戯同然なんだけれどもね。……バーバラでは、これが限界なんだよ」
フリージスは珍しく、冷や汗をかいていた。
レイラは周囲を見渡す。思ったよりも、勢力を削れていない。
バーバラは桁違いに強かった。レベルで言えば、つい最近遭遇したヘレンにも迫る。フリージスでさえ、勝利するのは厳しい。
魔王教徒の練度も高い。魔術こそ使わないが、その身体能力と連携技術は非常に高いものだった。グランでさえ、未だ数人しか削れていない。
今でこそパワーバランスを保っていられるが、そこにバーバラが本格的に参入すれば、一気に戦況は傾くだろう。
近接戦闘や乱戦が苦手なサーシャと、火力のないレイラが参入したところで、決して埋まらない差があった。
バーバラが三日月のように唇を笑みで歪める。
「そこの君」
グランに向けて指差したバーバラ。前触れもなく岩弾『グロウスト』が飛び出した。
グランは動かない。その弾丸が、自身に当たる軌道ではないとわかったためだ。
グランに当たる数メートル前の地面に着弾すると、弾け飛ぶことなく地面で散った。
「そうそう、君キミぃ」
「……なんだ?」
「――《浄火》の使徒」
バーバラのその言葉を聞いた瞬間、グランの瞳に憎悪の炎が宿った。
燃やし尽くすような熱に反し、寒気のする殺気が充満する。
グランの様子を見て、バーバラはクスクスと嗤った。
「知っていることすべてを教えろ、今すぐにだ」
「ええ、知ってる。知ってる知ってる知ってるよ。ぜーんぶ知ってる。君の敵なんだろう? 復讐の対象なのだろう? 君の想い人を無残に殺した仇なんだろう? 知ってる知ってる知ってるよ!」
「――――ッ! 今すぐ吐け、奴はどこだ!?」
あまりの気迫に、レイラはグランから後退った。これまでは見てきた限りでは、憎悪を露わにすることはあっても、激昂したことはなかったのだ。
バーバラの語りは、吐き気がするほど邪悪だった。相手の心の底に踏み込んで、愉悦をもって荒らしていく。
殺気を向けられたバーバラは、笑みを深くした。深く、暗く、歪む。
そして、言った。
「――もうそこにいるよ」