第八話 一週間の成果
一週間、つまりこの世界における八日のときが流れた。
ミコトが異世界シェオルにやってきて九日経った、その日の早朝。
バタン、と扉が閉まる音。それを聞いて、ミコトの意識は覚醒した。
窓から差し込む朝日が眩しい。
目を逸らして隣のベッドを見るが、グランの姿はなかった。
「ちょっと、遅かったか……」
この一週間、ミコトは朝食の時間――だいたい六時、七時――に起きるようにしていた。しかし今日はさらに早い、五時起きだ。
正確な体内時計を持たないミコトであるが、睡眠時間だけは正確無比に当てられるのだ。
ミコトがなぜ、この時間に起きたのか。
それは、グランとともに修行するためであった。
ミコトはこの一週間で、生活級魔術を使えるようになった。
サーシャいわく、とっても才能がある、とのこと。
しかしレイラいわく、術式演算はへっぽこ。その欠点を、気持ち悪いほど精密な魔力制御能力で補っている状態らしい。
評価はともかく。
生活級魔術は宿で練習できたが、初級魔術は町中で使っていいものではない。
グランが修行で町を出ると言うし、ならば内緒でご一緒しよう、と考えた次第であった。
ミコトは被っていた毛布ごと跳ね起きると、寝間着を脱いだ。
白黒の服(ちゃんと自分の魔術で洗っているのだ!)に着替え、魔術教本を持てば、準備完了。
ミコトは意気揚々と、部屋から出ていった。
宿から出て、街へ。五時だというのにちらほら人がいるのを見るに、異世界人は相当な早寝早起きらしい。
ミコトは自分も早起きであることを棚に上げて思った。
しばらく歩いて町の出入り口である、馬車二台分の横幅の橋に着いた。
ファルマの町に防壁はないが、堀と柵があった。堀の深さは一メートルほどで、ガルムの谷に流れる川から引っ張ってきた水が流れている。
堀の幅は二メートルだが、柵があるため簡単には跳び越えられないようになっている。その柵も、二メートルの高さもない小さなものだが。
この近辺には魔獣や魔物、盗賊もおらず、角熊などの野生生物も人里には滅多に降りてこないので、堅牢な守りは必要ないのだ。
やる気がなさそうに欠伸している警備員に挨拶して、ミコトは町の外へと踏み出した。
町の外は、膝丈ほどの草が生えた草原だった。石造りで整備された道の名は、確かバルム街道だったか。少し先を見ると、街道はガルム森林へと入っていった。
ミコトはあらかじめグランに、修行している場所を教えてもらっていたので、迷うことなく歩き出す。
数分、町の外周を歩む。しばらくすると、目的地に辿り着いた。
ここ一帯は、最近に踏み均されたのか、青々とした草が綺麗に折れていた。その中心に、上半身裸になった巨漢がいた。
燃えるような赤い短髪に、赤みがかったブラウンの瞳。左頬にある火傷と褐色の肌をした男を見ていると、まさに歴戦の戦士だと感じた。
グラン・ガーネット。
《ヒドラ》という通り名を持つ傭兵で、ミコトのルームメイトだ。ルームメイトが傭兵とかちょっと笑えないが、もう慣れてしまった。
首には、普段は服の下に隠れていたのか、首輪を通したネックレスが下げられている。
「おっはー。いい天気だこと」
「……おはよう。なぜここに?」
「ま、ちょっとした修行だよ」
グランはミコトが来たことに、もう気付いていたようだ。クレイモアを下げてこちらを見ている。
ふと、ミコトの視線が、グランの左腕に向く。
その左腕は、ひどく焼け爛れていた。爆発を引き起こしたミコトの状態に似ている。
あまりの生々しさに過去の出来事を思い出し、ミコトは思わず呻いてしまいそうになった。そうしなかったのは、グランに失礼だと、自制心が働いたためだ。
代わりに出たのは、疑問の声。
「その、腕……?」
「ん? ああ、醜いものを見せたな。すまん」
「いや、そういうことじゃなくて……」
言いかけて、追求するのを躊躇った。気にはなるが、グランにとっては訊かれたくない話題なのかもしれない。
ミコトは出す言葉を変えた。
「んじゃ、俺は横で魔術の修行でもしてっから」
「ああ」
ミコトは近くにあった、ちょうどいい大きさ岩に座り込むと、魔術教本を開いた。
グランはミコトを一瞥すると、素振りを始めた。
振っているのは、グランの身の丈ほどもあるクレイモアだ。重量も、かかる遠心力も相当なはずだが、グランは見事に操ってみせている。
俺も頑張ろう、と開いたページを覗き、自室で演算するだけに終わっていた術式を復習する。
これから使うのは、四つある自然属性の弾丸魔術だ。
たとえば火属性ならば、レイラが使った火弾『イグニスト』。水属性ならば、サーシャが使っていた水弾『アクエスト』。
風属性なら風弾『エアリスト』。地属性なら岩弾『グロウスト』が有名どころだ。
創造系統、干渉系統の区別はないが。火・水属性は創造系統。風・地属性は干渉系統が効率的だと言われている。
それは弾丸魔術でなくとも同じこと。その場にあるものを使ったほうが効率的か、作り出したほうが効率的か、という話なのだろうだ。
復習したミコトは、一番最初に創造系統・水属性・初級の『アクエスト』を使うことにした。
理由は、これはミコトが見た、初めての魔術だったからだ。
今でも鮮明に思い出せる。角熊に襲われ、死にそうになっていたときのこと。
青い世界の中心に立つサーシャ。放たれた水弾が、角熊を吹き飛ばす、そのシーンを。
だから、魔術教本に載っているのを見た瞬間から、一番最初に使う初級魔術は『アクエスト』と決めていた。
ミコトは目を閉じ、内面に落ちる。スロットを展開する。
初めの工程は、術式演算だ。
なんのアレンジも加えない基本的な『アクエスト』は、ルーンを最低一〇使う。
『水』『創造』。座標設定で二つ。形状設定で二つ。速度設定で二つ。計八つのルーンを演算する。スロットの中に、ルーン特有の奇妙な文字と数字が組み上がっていく。
座標は自身から離れるほど難しくなるので、利き手である右手にする。形状もシンプルな球体。速度を上げると、現状の力量では術式が演算できないので低めだ。
次は魔力注入だ。
ミコトの魔力制御の腕前は、もうすでに意識するだけで魔力精製できるほどにまで上がっていたが、これが初めての初級魔術なのだ。気は抜かない。
ゆっくりと慎重にゲートを見つける。それを、開放する。
瞬間、魔力が体外に放出……することはない。
魔術そのものは魔力ではない。
スロットに流し込むことで、術式で定めた現象を引き起こす、一種の技術だ。だから体外に出す魔力は余分だし、余分な魔力は精製しない。
必要なだけ魔力を精製し、魔力を無駄なくスロットに流し込み、術式に通すこと。これが一流の魔術師に求められる必須技能だ。
あの青い世界が無駄なのかと落胆するミコト。
そんな彼も、魔力制御に関してならすでに、一流の領域に手をかけている。薄らと体表面が青くなるだけだった。
スロットが魔力で満たされる。術式に魔力が注入される。瞬間、右手の先に直径五センチほどの、水の塊が形成された。
これで、準備は整った。あとは詠唱するだけだ。
逸る心を抑えて、口を開く。咽喉を鳴らし、声に『前方』『射出』のルーンを込めて、詠う。
「……『アクエスト』」
直後、水弾が射出された。速度は遅く、緩く投げた程度。形状設定も甘かったのか、形も波打って不安定だ。
レイラが見たら嘲笑するような出来。それでもそれは、地味な生活級魔術か自爆しか使わなかったミコトにとって、初めての使えた魔術らしい魔術だ。
「っしゃあ」
と言うのも束の間、水弾は狙っていた木に当たることなく、空中分解した。気を抜いたのもあり、術式は呆気なく崩壊する。
地面に溜まっていた水は、すぅっと消えていった。
「……ぁぁ」
今回の失敗は、術式演算が甘かったことだろう。魔力制御に関しては、なかなかよくできていたと思う。
最初からなんでもできるなんて思い上がりは、もともとない。
感覚は掴んだ。次は必ず、成功させてみせる。
「――――」
もう一度『アクエスト』の術式を演算する。先ほどよりも丁寧に、確実に形成する。
魔力を精製し、スロットに注入する。
直後、ミコトの右手の先に、再び水の塊が生まれた。
視線を前方に移す。ここから一〇メートル先の木に、右手を向ける。
そして――詠う。
「――『アクエスト』」
水弾が射出された。今度は形状も問題なく、綺麗な球体だ。
木の幹に水弾がぶつかる。形状設定が強かったため、すぐには弾けない。しかし一瞬の均衡のあと、水弾は弾けた。
散った水が、木の根本に溜まる。形状が崩れた今、術式は崩壊する。
ミコトが消すまでもなくスロット上の術式が瓦解し、水溜まりは消失した。
――木の幹には、小さなへこみがあった。
「……一応、成功か」
サーシャのものより、ずっと拙いものだった。それでもこれは、大きな一歩だ。
感動していた気持ちを、すぐに切り替える。ほかの弾丸魔術を使わなければならない。
気合いを入れ直したミコトは、再び右手を構えたのだった。
それからしばらく。
ミコトは自然属性の弾丸魔術を一通り実践した。ちゃんと『イグニスト』は、フリージスにもらった火鼠の革手袋をはめてからだ。
全属性の弾丸魔術を使ってみて火属性、次いで水属性が使いやすいと感じた。逆に風・地属性は上手くできなかった。
だからこれから修得するなら、火・水属性の魔術が中心となる。
火属性は攻撃性が高く、水属性には治癒魔術がある。風・地属性よりも便利そうだと、ミコトは笑みを深くした。
そうして今、ミコトは自分用に弾丸魔術のカスタマイズをしていた。
カスタマイズと言っても、新たなルーンを足すようなアレンジではない。詠唱と演算の配分と、速度の設定を弄るくらいだ。
一流魔術師ならば戦闘中にそれらの設定もできるが、ミコトは演算能力はまだその領域にないのだ。
形状はそのまま球体。座標も右手。速度だけを、現状なんなく使えるぐらいの、ボールを普通に投げるときの速さにする。
本気で投げた速度にもできるが、使うのは戦闘中である。ギリギリの状況で平静を保っていられる自信がない。
魔力精製には体力を使う。新陳代謝でも活発にしているのかもしれない。
荒くなった息を整え、ミコトは空を見上げた。額を流れる汗を拭う。
太陽の位置を確認した。宿を出たときより、かなり位置が変わっている。
ミコトはけっこう長い間修行していたことを自覚した。だいたい今は、六時くらいだろうか。朝食の準備が整う時間だ。
サーシャは低血圧だが、レイラによって規則的な生活を義務づけられているため、もう起こされているだろう。
ミコトもそろそろ戻ろうと、グランに一声をかけようと振り向き、。
「……っ」
しかし、声をかけることができなかった。
グランはもう、素振りをしていなかった。素振りの次元ではなかった。
目にもとまらぬ速さでクレイモアを操るグラン。その体は、仄かに赤い膜で覆われている。
魔術教本にも書かれていた、有名な魔術――身体強化だ。
グランが使っているのは、身体干渉系統・火属性・中級の身体強化魔術『イグニモート』だろう。ラウスが使っていた『エアリモート』の、火属性版だ。
効力は体の周囲に、力の膜を張ること。装甲魔術とも呼ばれ、防御の際には相手を吹き飛ばし、攻撃の際には破壊する、攻防一体の魔術だ。
クレイモアにも、同じように赤い膜に覆われている。『イグニモート』をただの干渉系統にした、『イグニエント』。効力は『イグニモート』と同じだ。
しかしミコトが注視したのは、目にも留まらぬ剣捌きでも、オーラのように立ち上る赤い膜でもなく。
グランの、眼。
鋭い目に浮かぶ、赤みを帯びたブラウンの瞳。
覚悟に燃える色を。
燃え盛る憎悪を。
炎のような光を宿すその眼に、ミコトは息を飲んだ。
前に軽く殺気を当てられたときの比ではない。
いや、あの憎しみが宿った眼は、見たことがある。
一週間前。最初の朝食で。
グランが《浄火》の使徒とやらのことを尋ねたときも、確か同じ眼をしていた。
ミコトがしばらく黙っていると、そんなミコトに気付いたのか、グランは剣を下ろした。
グランは息を整えるため。ミコトは安堵のため、大きく息を吐いた。
「もう、朝食の時間か」
「あ、ああ」
剣を鞘に入れ、布で汗を拭きながら、歩み寄ってくるグラン。その瞳にはもう、憎しみの色は見えなかった。先ほどの触れれば斬られそうな雰囲気は、完全に消えていた。
左腕に包帯を巻きつけ、グランが服を着る。首に下げられた、指輪を通したネックレスが、服の下に隠れる。
ミコトはグランと揃って、宿に向けて歩き出した。
「なあグラン……いや、いいや」
ミコトは口を開きかけ、やめた。
しかし、グランはミコトが何を言いかけたのか、理解したようだった。少しの沈黙のあと、切り出してきた。
「……気になるか?」
「……まあ気になるよ。そりゃなぁ」
「そうか……」
二人の間を、沈黙が包む。
それを破ったのはグランだった。
「――殺したい奴がいる。たとえこの命に代えても、果たさねばならないことがある」
グランから漏れる気迫は、間違いなく本気の殺気だ。
彼の眼には、抑えきれない憎しみがあった。
鬼気迫る顔付きは思いつめられているようにも見える。それだけ復讐を渇望しているのだ。
「……それだけだ」
グランは歩み続ける。
ミコトはしばらく独りで、その場から動けなかった。
強い――と。
そう思って、憧れた。
その思考が自身の歪みであることに、ミコトは気付こうとしない。