第一話 青い月
――満天の星が広がる空に、青い満月が浮かんでいる。
「うがー……」
時刻は不明。だが、確実に真夜中だと言える頃。
若白髪の目立つ少年――黒宮尊は、仰向けて空を眺めて、間抜けた呻き声を上げた。
今まで眠っていたためか、ひどい酩酊感が尊を襲っていた。それはショートスリーパーである彼にとって、ずいぶんと久しぶりに感じる感覚だった。
ショートスリーパー。短眠者とも言われていて、短い睡眠時間で健康を保っていられる人間のことだ。
尊は中学校に入った頃にはすでに、三時間睡眠で問題なくなっていた。たとえ一時間睡眠でも、気だるさを感じるものの活動できた。
だというのに、今は起きるのがつらい。
もしかしたら、これが低血圧の人の感覚なのだろうか。だとしたら、毎朝このつらさを耐える人たちは尊敬に値する。
いや、それは今、別にいい。
尊は目を細めて、空を見つめた。
――満天の星が広がる空に、青い満月が浮かんでいる。
(何度確かめても、変わんねえよなぁ……)
気付いたが、普段見てる月よりも一回り大きい気がする。
ほかの黄色っぽい星はちゃんと見えるので、色覚異常というわけではなさそうだが。
尊は内心、ため息をこぼした。
地面に寝転がって見るタイプの、特殊なプラネタリウムとか。――そんな馬鹿な。
これは夢だろうか。もしや、これが明晰夢なのか。――こんなにハッキリした夢があるものか。
では、幻覚の類か。低血圧の人特有の現象だったりするのだろうか。――そんなわけがない。
(ああ、そういや、ブルームーンっていう現象があったっけか)
ブルームーン。それは月が青く見える現象のことだ。
特殊な気象で発生する稀な現象で、大気中の粒子の影響によって起きるらしい。
なんにしろ、そんな『希少』なモノを見られるなんて、珍しく運がいい。
(『気象』だけにな!)
…………。
「はあ……」
ブルームーン。その可能性もない。
ここから見える景色に、塵なんてものはない。
というか、東京よりずっと澄んでいるのではなかろうか。星がとても綺麗で、写真やテレビで見るより美しい。
(あと考えられる可能性は、俺の頭がおかしくなったか……)
できればご遠慮願いたいが、その可能性が高いというのだから笑えない。
では、ほかに何が……、
(……あったわ)
それは、ないと信じ切っていたモノ。
それは、非現実的なモノ。
それは、非常識的なモノ。
「…………」
正直、本当に頭がおかしくなったんじゃないのか、と思う。
だが、頭がおかしくなった以外の可能性は、貧相な頭脳ではこれしか浮かばない。
頭がおかしくないと願って出した結果が、さらに頭がおかしくなったのではないかと思わせるとは、これいかに。
尊はため息をこぼして、決定的なそれを告げた。
「――異世界、って奴だな」
尊の中で、何かが当てはまったような気がした。まるで、それが答えなのだというように。
うへぇ。
◇
日本のサブカルチャーに、いわゆる『オタク文化』というものがある。
一般的には、アニメ・ゲーム・漫画・小説などが有名だろう(同人というものもあるらしいが、尊はよく知らない)。
それでその中に、『異世界もの』という一大ジャンルがあった。
異世界もの。
それは、地球とは異なる世界を舞台にした作品だ。
一口に異世界ものと言っても、種類は多岐にわたる。
地球の要素が出てこない、純粋な異世界もの。
なんらかの切っ掛けで地球人が異世界に行ってしまう、召喚ものや転生もの。
だが、尊には召喚者がおらず、生まれ変わったわけでもない。
ということは、トリップや迷い込み、と呼ばれる類か。
(なーに真剣になって考えてんだか)
尊はぼやくが、どうにもここが異世界なのだと、心のどこかで納得している自分がいる。
とにかく、頭がおかしいのか、本当に異世界なのかは別にして、現状を確認しなければ。
尊は夜空を見上げた。
月以外は、一見すると変わらないように見える。まあ星座の知識なんてないので、結局よくわからないが。
今度は辺りを見回す。そして尊が寝ているここが、森か林かにぽっかりと開いた、広場のようなところだとわかった。
尊から少し離れて、木々が乱立している。草はあまり生えていないようだ。
斜面はでこぼこで落ち葉が敷かれており、地面がゴツゴツして違和感がある。もしかしたら山かもしれない。
とりあえず、起き上がろう。
尊は息を吐き、足を振り下ろすように勢いよく跳ね起きようとして――手が滑って背中を地面に叩き付けた。
「ぐべぇ……っ」
尊の、珍しい運動面での失敗。
衝撃で肺から空気が漏れ、尊は咳き込んだ。
運動神経はよかったはずだ。跳ね起きなんて、体育の授業に一発で成功したのだ。
起床後の酩酊感に続いたせいか、尊は余計にショックを受けた。
いや、違う。
跳ね起きに失敗したのは、急に尊が運動音痴になったせいではない。
体に付いた、粘着性のある液体のせいなのだ。と、言い訳をして、
(……水?)
ここにきて、尊は初めて体に感じる違和感に気付いた。
体を動かすと、ねちゃねちゃと湿った音がした。
体中、特に背中に、妙な液体の感触がする。少し生温かい。
そういえば、変な匂いもする。生臭い鉄の匂いだ。
(なんだ……?)
尊は焦らず、ゆっくりと上体を起こして胡坐をかいて座り、背中側の地面に右腕を付け、もたれかかった。
ゴツゴツとした地面で寝ていたせいか、体中が凝っている。首を回すと、骨が鳴る心地よい音がした。
そのまま、気負うことなく左腕を掲げた。そして、青い月の光に照らされ明らかになった、眼前に翳された左手を見て、目を見開いて驚愕した。
「ち、血ぃ……?」
――どう見ても、それは血だった。
「な、なんで……!?」
怪我なんて一つもしていない。骨が折れているなんてこともないし、そもそも痛いところもない。
なら、どうして……。
そういえば、俺は何をしていたんだ……?
「……あ」
震えていた左手を、眼前に掲げる。
傷一つない、血まみれた手。そこから感じる、妙なデジャヴュ。
そして、『光景』がフラッシュバックする。
――あらぬ方向に曲がった人差し指と小指。剥がれた爪と肌。べっとり付いた血。
「思い……出した」
クリスマスの日。
バイトの帰りに出会った幼馴染、伊月玲貴に告げられた想いを。
それを受け入れるでも拒むでもなく逃げた、愚かな自分のことを。
自分が下した、選択のことを。
感じた衝撃を。苦しさと後悔を。死に落ちる、凍えるような寒さを――。
「ああ、そうか……」
震えた左手で、顔を覆う。顔が血に濡れることも気にならない。
今、自分がどんな顔をしているのか、尊自身わからなかった。
そして、ひどく霞んだ声で、耐え切れない現実を、口に出す。
「俺、死んじまったのか……」
その言葉が口から漏れ、耳に届いた瞬間、足場が崩れ落ちたような気がした。
暗く澱んだ感情は出てこない。深く冷たい絶望だけが、尊の心の中に、薄く広がっていく。
「は、はははは、はは」
死んでもいいと。そう考えていたはずなのに。思い返せば、やり残したことがたくさんあった。まだまだ、やらなければならないことが、たくさんあった。
なのに。
なのに……。
って、
「……あれ?」
顔を覆っていて右手を離し、握り、開き、握り、開き。
沈黙。そのあと、頬を抓る。
痛い。夢じゃない。
「生きてんじゃねえか!」
その怒鳴り声は、山彦となって帰ってきた。
尊はぜいぜいと息を荒くした。
なんか、虚しかった。
「……ん?」
森から何か、物音が聞こえた気がした。
尊は目を細めて立ち上がり、その正体を目だけで探った。
すると、木々の裏から影が現れた。
人間――ではない。
大きさは、尊の腰ほどはあるだろうか。
四足歩行で、のしのしと足音を鳴らして歩いてくる。
葉に遮られなくなった青い月の光が、その影の正体を明かしていく。
「おい、おい。マジかよ、これ……」
尊は、少しずつ自分の顔が引きつっていることを自覚した。
影の正体。
それは、熊のような何かだった。