第四話 シェオルという世界
この世界にはシェオルという名前がある。世界を作り出した、創造神シェオロードからもじったらしい。
名付けられたのは、魔神説が提唱された新世歴三五年。現在が新世歴九九五年だから、九〇〇年以上昔となる。魔術という技術が誕生した、そのすぐあとだ。
次に月や日付だが、これが少し特殊であった。
一年は上春・下春・上夏・下夏・上秋・下秋・上冬・下冬、この八カ月しかなく、日数は三六四日。上の月が四五日で、下の月が四六日である。
また週も、赤・青・緑・黄・銀・金・白・黒の順で、同じく八つある。ちなみに黒の日は、地球で言う日曜日だ。
グランに訊いたところによると、今日は上春・赤の二六日らしい。つまりこの世界に来たのは、上春・黒の二五日となる。
次に大陸だが、食堂でわかった通り、このシェオルという世界には四つの大陸が存在する。
今ミコトがいる大陸で、国家が存在する唯一の大陸――中央大陸。
神族の聖地であり世界最高の霊地で、あらゆる霊脈の源泉、世界樹が存在する大陸――霊泉大陸。
霊脈が届いていないため、地質が悪く植物も育ちにくい砂漠の大陸――無霊大陸。
魔力を汚染し、瘴気へと変える地。澱んだ霊脈と霊地によって、魔族を生み出し続けている大陸――魔大陸。
中央大陸しか国家がない理由は、リースに教えられた通り、ほかの大陸が危険だからだ。
魔族たちは狂気の塊のようなもので、神族はプライドが高くて認められた人間しか入れないのだとか。無霊大陸は作る利点がないだけだが。
霊脈というのは、地中深くに流れる魔力の通り道のことだ。わざわざ区別するならば、マナ――世界の生命力、と呼ばれるもの。
その霊脈が地上に吹き出す場所が、霊地だ。
霊地は魔鉱石という、石に魔力が取り込まれた鉱石(『ノーフォン』にも使われていた)が、大量に採掘できる。そのため、その地を中心に魔術が発展していく。つまり、強い霊地があるほど、国家の力も強まるというわけだ。
逆に、霊脈がまったくない無霊大陸では、魔術がまったく発展していない。それどころか、そこに住む民族《無霊の民》は、魔術を使うことすらできないらしい。その分、身体能力は強いそうだが、魔術には敵わず次々と奴隷になっているのだとか。
現代日本育ちでは馴染みのない『奴隷』というワードに、陰鬱な気分になってしまったが、気にしても何かできるわけでもない。その思考を、頭の奥に沈めておく。
シェオルでは、異世界では定番と言った感じに、いくつかの種族が存在する。
まず、普通にそこらで見かける人間の、人族。これが、特殊な霊地で何世代も過ごすことで、さまざまな種族に派生していく。
もう名前を出したが、霊泉大陸で生まれた神族が当てはまる。そして、グランのような獣族という、中央大陸の南部で生まれた種族。北東で生まれた、爬虫類に似た外見の鱗族。霊地で炭鉱夫をしていたために環境に合わせて生まれた矮族、などなど。
魔族だけは特殊で、『魔族』というのは総称だ。魔族化した人間以外にも、魔獣や魔物のことも指す。さらにほかの種族の誕生方法とも違い、汚染された魔力――瘴気を浴び続けていると、世代を跨ぐことなく魔族化してしまう。
ちなみに魔物は、魔力に宿っている思念が瘴気によって形になったもので、魔獣は生物が変異したものだ。
そして――
「…………」
――魔族はすべて例外なく、赤い瞳を持っている。
サーシャも、赤い眼をしていた。彼女自身、魔族の瞳だと言っていた。
魔族というのは、人類の敵だ。その敵と同じ瞳を持っているのだ、サーシャは。
ミコトはまだ、魔族がどういった扱いを受けているのか、本以上の知識はない。サーシャの過去など、想像すらできない。
しかし、平和な日本ではありえないような、そんな経験をしてきたのだろう。あの洞穴での一幕が、ありありと脳裏に浮かぶ。
命を狙ってきた、ラウスの姿が脳裏によぎる。瞳が赤く、マナを操れるだけで命を狙われるなど、理不尽だ。
純粋に、可哀想だと思った。次いで、なんとかしてやりたいと思った。
サーシャが。あの優しい少女が。なぜ、どうして、彼女が苦しまねばならないのだ。
「…………」
けど、俺に何ができる?
力なんてない。せいぜい喧嘩レベルだ。役立つ特技もない。
記憶力や知恵にはそこそこ自信はあるが、人並みを超えるとは決して言えない。
自慢だった身体能力だって、魔術を使っていないラウスに手も足も出なかった。
あるのは謎の『頭痛』と、生き返る『再生』だけ。肉壁にでもなれと言うのか。命を投げ出す勇気なんて、ないというのに。
(落ち込みやすいのは、俺の悪い癖だな……)
自嘲したミコトは、暗い思考を頭の奥底に仕舞いこんだ。いずれ答えを出さなければならないだろうが……まだ、しなくていいはずだ。
気分転換も兼ねて、『勇者伝説』の本を手に取った。薄いし、小説や童話のような感じだから、楽々と読めるはず。
そして、ミコトはその本を開いた。
◇
『勇者伝説』
神々の世界。シェオロードはその世界でも、特別な力を持った存在でした。
シェオロードは強大です。命を、心を、空間を、時間を、力を、水を、大気を、形を、シェオロードは創り、操ることができました。
シェオロードの名を騙る偽物がたくさん現れ、悪行を働きました。だから神々は、シェオロードを狩り始めました。
シェオロードはそれほどに強大な存在だったのです。
そんな世界を憂いたシェオロードは、新たな世界を創ることにしました。シェオロードが望む、シェオロードが中心の世界を。
何もない場所。命も、心も、空間も、時間も、熱も、水も、大気も、形もない、何もない場所。でも、確かに存在する場所に、新たな世界が誕生しました。
それが、シェオル。
この世界のことです。
シェオロードは、空間を創りました。その空間に、時間を流しました。
でもこれだけじゃ、世界には何もありません。
大地を創りました。大気を創りました。力を創りました。水を創りました。
でもこれだけでは、世界には何も生まれません。
命を創りました。その命に、心を吹き込みました。
植物が生まれました。生物が生まれました。人間が生まれました。
そうして世界は、回り始めました。
けれどシェオロードは失敗してしまいました。シェオル不純物が混ざり込んでいたことに、芽が出るまで気づけなかったのです。
シェオルが生まれて幾億年。ついにそれは芽吹きました。
それが、魔王。双頭の魔王、《神喰い》エデン。
シェオロードの命を喰らい、神の座を奪わんとする邪悪の化身。
シェオロードは慌てました。
このままでは、自分の世界が壊されてしまう。自分も殺されてしまう。
世界をやり直すことはできません。シェオルをやり直そうと一度破壊した瞬間、魔王に喰われてしまうからです。
だからシェオロードは、これから生まれる命に、神の力を与えることにしました。
それが、勇者。
勇者はそれぞれの属性に分けられて、八人が生まれました。
自身から湧き出る想いに従って動く者――《白命》のメシアス。
人の願いを聞き入れ動く、慈愛の者――《虚心》のスピルス。
冷静に世界を見渡し、的確な判断を下す者――《時眼》のシリオス。
気ままに旅をし、目の前の悲劇を払い除ける者――《千空》のテンパス。
人を信じ、心を信じ、情熱のままに戦う者――《浄火》のイグニス。
人の苦しみを理解する、癒しの者――《聖水》のアクエス。
襲いかかる理不尽を薙ぎ払う者――《風月》のエアリス。
神のため、世界のため、使命を守らんとする者――《地天》のグロウス。
彼ら、彼女らは結集しました。
神のため。世界のため。人々のため。
幾多の困難が待ち受けていました。
それでも勇者たちは、神から授かった力を使い、ときに力を合わせて戦いました。
それでも、勝てなかったこともありました。
魔王の仲間。神を、世界を憎む者――《黒死》の魔女。
彼女はその力で、世界の一画を殺しました。
それでも、勇者は戦いました。戦い抜きました。
そうして魔王は、勇者たちに討たれましたとさ。
めでたしめでたし。
◇
「とっぴんぱらりのぷう、と」
その後のことは、書かれていない。次のページをめくると、それぞれの勇者の簡易的な人物紹介が載っているだけだ。
小説というには短く、童話というには違和感がある。簡潔な昔話のようだった。
人物紹介を飛ばして後書きを見て、それは確信に変わる。この『勇者伝説』、実話らしい。この、魔王が討たれた年から、新世歴が始まったのだと書かれている。
こんなファンタジー全開の物語、とても実話だとは信じられない。が、もともとファンタジーな世界だったな、と思い直す。
もしトリップしたのがこの時代なら、さらにハードになっていただろう。それだけは幸運と言えた。
後書きでは、《黒死》の魔女が世界の一画を殺したときの説明がされていた。
魔女の一撃は無霊大陸の半分と、中央大陸の南部を一〇〇年の間、死の土地にしたのだそうだ。
誇張が入っていると信じたい。
「はあ……」
息抜きのはずが、戦慄するような物語だった。
すっかり体が凝ってしまった。肩を回してほぐす。窓から外を見ると、街が活気づいてきていた。太陽もけっこう昇ってきている。
昼までまだあるが、すっかり疲れてしまった。このあと魔術関係の本も読まなければならないから、余計憂鬱になる。
振り向くと、グランはいなかった。本を読んでいる最中、どこかへ出ていったのだ。
行先を訊くと町の外と言っていたが、何をしに行くのだろうか。まあ、グランが帰ったとき、気がむけば訊けばいいか。
ミコトは一休みのため、目を閉じてベッドに寝転んだ。
眠気はない。睡眠に関する妙技を持つミコトであるが、早寝の能力はない。
と、そのとき、コンコンとノックの音が聞こえた。
誰が、なんの用事だろうか。僅かな煩わしさを覚えながら扉を開けて、扉の向こう側にいた人物を見て、嫌な気分は消え失せた。
サーシャ・セレナイト。
フードを目深に被った、銀髪赤眼の美少女。
そしてミコトが、守ると決めた恩人だった。
あれだけ眠り込んでいたサーシャだが、今はスッキリした様子だ。すっかり眠気は取れたらしい。
「どしたの? まあ入りんさい」
「それじゃあ、お邪魔するね」
「おう。茶も出せず、すまんね」
一人、扉の外に立たせるのは申し訳ない。とりあえずサーシャを、部屋に招き入れた。
レイラはいない。てっきり、サーシャと一緒にいるかと思ったのだが。
廊下から覗くと、隣の部屋から顔を出しているレイラと目が合った。
手招きしたが、レイラは部屋に引っ込んでしまった。
心配なら、付いて来ればいいのに。
いや、もしかしたら、聞き耳を立てるつもりなのかもしれない。コップを壁に当ててたりして。
部屋でレイラがどうしているか気になったが、サーシャを待たせるわけにもいかない。ミコトは早々に自室へと戻った。
サーシャは人目につく心配がなくなったからか、フードを取っていた。流れるような美しい銀髪に、目を細める。
サーシャはミコトのベッドに腰掛けていたので、ミコトは椅子に座った。サーシャと向かい合う形にする。
「んで、どしたん? ゴキブリでも出た?」
「あ、あの、えっと、んと……」
サーシャは言いよどんで、なかなか言おうとしない。
相手が親友辺りなら苛立っただろうが、目の前にいるのは不思議な雰囲気を纏うか弱い少女だ。
ミコトは心を穏やかにして待ち続けた。
頬が紅潮している。その表情は不安げだ。
揺れていた赤の瞳が、真っ直ぐミコトに向いた。ミコトと目を合わすのに、もう躊躇いはないようだった。それが、とても嬉しかった。
そしてついに、サーシャが言った。
「……ごめん、なさい」
「へ?」
まさか、謝罪が来るとは思わなかった。
思わずきょとんとしてしまう。
「こんな、危ないことに巻き込んで」
「俺から飛び込んでいった感が、なきにしもあらず」
「ちがう!」
サーシャの強い語調。ミコトは息を飲む。
「……わたしなんかのために、ミコトは――」
「んなこと、言うなよ」
ミコトは真剣な口調で、サーシャに返した。
「臭いセリフだけどさ……」
少し言いよどみ、それでも言葉として紡ぐことはやめない。
レイラが聞き耳を立てているかも、なんてこと、どうでもよかった。
「俺はお前に、救われたんだよ。ほかの誰でもない、サーシャに救われたんだ。『なんか』とか、『ごめん』とかさ、言うんじゃねえよ。『ありがとう』って言ってくれたら、それでいいんだよ」
歓喜と悲哀と、いろいろな感情をない交ぜにした表情をしたサーシャ。
葛藤があっただろうし、戸惑いもしただろう。
けれど彼女は、ミコトの言を聞き入れた。まだ少しぎこちなさの残る、けれど綺麗な笑顔を浮かべた。
「――ありがとう、ミコト」
「……おうさ」
ミコトは顔が熱くなってくるのを自覚して、頬を掻いた。
本当、我ながら臭いセリフだ。厨二の卒業は、まだまだ先らしい。
けど、これでいい。
嘆息して、ミコトは目を閉じた。
あのときのことは、目を閉じればいつでも思い出せる。
ミコトが車に轢かれて、死にかけて――玲貴に、自己満足の謝罪だけ告げて、死んだときのことを。
憶えている。鮮明に思い出せる。
あのときの、内側から弾けそうな悲しみを。我が身を引き裂いてしまいたくなるほどの自己憎悪を。咽喉を掻きむしってしまいたくなるほどの、張り裂けそうな後悔を。
サーシャがそうなるとは思わない。ただ、謝罪をされるのは、我慢ならなかった。
告げた言葉に嘘はなかったが、自己満足がなかったと言えば嘘になるだろう。ほんの少しの、自己嫌悪が湧いた。
「ミコト?」
「……いんや、ちょっと目が疲れただけだよ。眼球が弾け飛びそうになった」
「それ一大事だよね!?」
ぽわっとしているくせに、人の感情の機微には聡いようだ。ミコトの感情の変化も感じ取ったのだろう。心配した様子で、こちらを見てくる。
(気を付けないとな……)
ミコトは明るい声で誤魔化した。それから咳払いをする。
「んで、用はこんだけ?」
「あ、そうだ。ミコト、買い物に行かない?」
「買い物ぉ? なぜゆえ?」
「ミコトの服とか、揃えないと。それ、合ってないでしょ? グランのだもん」
確かに、今着ている茶色の服はぶかぶかだった。あの巨漢の衣服だというなら当然と言えた。
それに、ところどころに穴が開いて、すごく着心地が悪い。
ファッションに興味はなく、買い物も面倒に思う性質だが、せめてまともに着られる衣服はほしい。
ミコトはサーシャの提案に頷いた。魔術についての学習の時間は、帰ってからでも取り返せる。
「じゃ、フリージスとレイラに言ってくる! ちょっと待っててね!」
嬉しそうに言うと、サーシャはバタバタと部屋を出ていった。
忘れずフードを被る姿を少し不憫に思ったが、それ以上にどうしてあんなに嬉しそうなのか疑問だ。
わからなかったので、とりあえず待つ間、身嗜みを整えておく。
と言っても、やることはボロ雑巾のような服装をできるだけ正すことと、指で髪を梳いて寝癖を直すぐらいだ。
しばらくすると、またバタバタと音を立ててサーシャが扉を開けた。
バン! と勢いよく開かれ、ミコトはビクッとしてしまう。
「行こう、ミコト!」
「お、おお、おう」
サーシャの綺麗な左手に右手を掴まれた。優しく温かい感触に、ちょっと照れて頬を掻く。
そんな経緯でミコトは、サーシャの手に引かれるままファルマの街へと繰り出した。