幕間 Empty Mind
戦いが終幕を迎え、下冬の一三日が終わりに近付く、そのときだった。
下層北区にある屋敷の地下で、それは起きていた。
「ぁ……っぁぁあぁぁぁぁぁあああああぁぁぁあああぁっぁぁぁぁぁぁっぁあああああああ!!」
少女の叫びが響く。
精神を侵される恐怖と苦痛、流れ込む他人、自身の喪失感。それは、死にも等しい絶望だった。
彼女の名前はユミル・スピルス。
クロミヤ家の従妹であり、この屋敷の居候……。
――違う。
記憶の斧正が解かれた今、ユミルは真実を思い出すことができる。
『名無しの森』で暮らしていたら、《浄火》の使徒と《虚心》の使徒に襲われ。
祖母のバーバラに続いて、姉のフィラムまで乗っ取られて。
なんとか逃げ出すも、再び捕まえられて、偽物の記憶を植え付けられて。
――そして、今、この体さえも奪われようとしていた。
「ぁぐ、ぅぅぐぐぁっぁ、あああああああああ……!」
四肢の先から感覚が消えていく。否、他人のものへとなっていく。
絶叫が小さくなるのは、疲労からではない。叫ぶ咽喉さえ、自分のものではなくなろうとしていたから。
「ぁ……ぁぁ……、……」
体が奪われて、心が奪われて、魂が侵される。
そうして、ユミルの意識は、その身の奥へと押し込められていき――――
「――『憑依』完了、と」
ユミルは……否。ユミルの体を被った偽物は、その身を手で撫で、確認していく。
「うん、問題なし。ただ、咽喉がちょっと痛いかな。叫んでたしね、仕方ないよね」
体を動かしにくいのは、やはりこの体が他人のものだからか。
「肉体年齢、一二歳。精神年齢、四〇〇越え。ユミル・スピルス改め、シェルア・スピルスの再誕~!」
お調子者のようにふざけた彼女――シェルア・スピルスの目は、しかし苛立ちに彩られている。
その理由は、『憑依』間際のことにあった。
にこにこと、貼り付けたような笑顔のまま、シェルアは本棚の中身を勢いに任せて引っ繰り返した。
「《操魔》ァ……!」
お互いに魔術戦を得意とするにも関わらず、肉弾戦に持ち込んできた暴虐さ。
想定通りとは言え、ミコト・クロミヤを奪い返されたこと。
《操魔》の心臓を穿ったバッサの功績――目的には沿わないものだったが――も、のちに戻ってきたミコトによって、無意味にされた。
屈辱、憤怒、憎悪。
それは、戦争に敗北した一組織の長として、当然の感情であった。
しかし、
「まぁ、所定の道筋から離れてるわけじゃないし、いっか別に」
その一言で、それまでの負の感情が消え失せる。
作り笑顔の裏に隠したのではなく、本当に、どうでもよくなったのだ。
シェルアは、首に下がっていた邪晶石を握り、瘴気を体に巡らせる。
瞳は血色に変じ、ユミルの生命は狂気に侵される。
肉体の劣化は早まるが、ユミルの体に早く慣れるには、こうするしかない。
魔王教の本拠地が潰された今、捕獲した《虚心》の末裔は、すべて保護されるだろう。彼らの首に下げられた邪晶石も回収される。
そうなれば、もう『憑依』のストックはない。この肉体が、最後の『憑依』先となる。
本来なら、ユミルの体は大切に扱うべきところだが。まぁ、もう半年もしないうちに、目的は達成される。
その間くらいは大丈夫だろう。
「さて、と。バッサはどこにいるのかなー?」
扉を開けると、地下通路が広がっている。
一番奥から一つずつ開けていく。その途中で、その女を見つけた。
それは、修道服を着た女の――バッサ本体の死体だった。
魔術の酷使による寿命の欠如により、老婆のような姿になっていた。
ぎりぎり心は回収できたので、『世界』に納めておく。
彼女には、偽りのセカイで、幸福に生きていてもらおう。
「んー……。それじゃあ、どうしようかなぁ」
何しろ、現状が把握できない。
ミコト・クロミヤの暴走時、シェルアは《操魔》と戦っていた。その間のことが不明だ。
だがきっと、魔王教には凄まじい損害が出たことはわかる。
なら、どうするべきか。
「そういえば、ロトがいたね」
ロトは、シェルアの実験によって作り出された存在である。
赤ん坊の心に、シェルアの心の一部を植え付けた。だからこその読心能力だ。
彼に対して行えるようになったことは、感情の一方的な共感だ。
シェルアは好きなときいつでも、ロトの感情を読み取ることができる。その逆はありえないが。
副次的に、その居場所も把握する。
その能力で以て、ロトの所在を割り出した。
「上層北区の監獄かぁ……。前にドラシヴァが捕まったところだね」
シェルアはあくどい笑みを作って、屋敷を後にする。
後日、訪れるであろうミコトに向けて、手紙を残して。
『ミコトお兄さんへ』
『お兄さんがこの手紙を見ている頃には、ボクはユミルの体を乗っ取って、王都から出ているだろうと思う。たぶん、エインルードが面倒になるからね。まぁ、ちょちょいと撒いてくるよ』
『追伸』
『そろそろ時期だし、今度会ったら、とある真実を教えてあげる。それが魔女様の望みみたいだから、さ』
◆
今回の戦いにおいて、下層北区に次いで破壊が激しい上層北区。
魔術の到達点の一つ、特級魔術同士の激突によって生み出された破壊だった。
しかし、爆発的な熱量の余波を浴びた中で、その建物だけは健在だった。
それもそのはず。その建物は、絶対に破壊されるわけにはいかないのだから。
そこは監獄。処刑も間近の極悪人が捕らえられた地下がある。
余波程度で倒壊するような作りにはなっていない。
――だから、天井がぶち抜かれて地下が露わになった現状は、強大な者の手によって、故意に生み出されたものなのだ。
「さぁてと、やぁやぁどうも」
剥き出しになった地下に舞い降りて、シェルアは襲い掛かる騎士を作業的に殺害していく。
今頃、騎士団に救援要請が送られただろう。あまりゆっくりしていられない。
以前ならばともかく、この体は未だ彼女に馴染まない。
もっとも、借り物の体などでは、全盛期に並ぶことはあり得ないが。
ともかく、あまり無茶をしたくない、ということだ。
「シェルアさま、お久しぶりです」
太々しく牢内で座り込んでいたのは、白瞳白髪、黒肌に黒い眼球の少年だった。
「やぁ、ロト。……それと、ルキもいたんだね」
「ユミルちゃ……ぁ、いや。シェルアさま、か……」
牢獄には、ロトのほかにルキもいた。
病的なほど白い肌に、色素が抜け落ちたような白髪。
だが、その様子に、シェルアは少し首を傾げる。
以前の、シェルアを見る彼の赤い瞳は、妄信と希望に満ち溢れたものだったのだが。
今では、妄信はない。ひどく迷い、別の希望を見出しているようにも見える。
その心を覗けば、ルキが境界線上に立っていることがわかる。
この世界での、新たな道か。それとも、新世界への夢か。
「迎えにきたわけなんだけれども……ルキ、キミはどうしたい?」
ルキの瞳が躊躇に揺れる。
やがて彼は、罪悪感に表情を歪めながらも、首を横に振った。
「ご、ごめんなさい、シェルア様……。で、でも、おれ……」
心のさらに奥底を覗けば、《操魔》との接触が原因であることもわかる。
苛立たしい。が、すぐにどうでもよくなった。
実際のところ、ルキが離れようが付いて来ようが、どちらでもいいのだから。
執念を諦めたなら、それは魔王教徒ではない。実際のところ、魔王教徒であってもどうでもいい。
俯いてしまったルキを放置して、シェルアはロトに向いた。
「状況は?」
「エインルード側は不明。王都にいた魔王教徒はすべて殲滅され、《ラ・モール》もぼくだけになりました」
ルキの肩が震えた。
名を呼ばれなかったことに。自分から抜けたというのに、ひどいショックを受けているようだった。
(わからないなぁ)
その苦悩も、逡巡も、心変わりも。
彼の、強い願いを『叩き付けられていた』ゆえに、余計に不思議だった。
「そっか。それじゃあ、さっさと王都を出ようか。騎士団はともかく、エインルードは面倒そうだ」
檻を破壊し、ロトを連れ出す。
騎士が来るのが物音でわかる。さっさとここから出よう。
「シェルア様!」
声に、シェルアは振り向く。
檻の中で、まっすぐこちらを見据える、ルキの姿がそこにある。
ルキのことを思い出して、やはり始末しようか、と思ったときだった。
「――ありがとうございました」
「……そう」
別に、何か思うところはなかったけれど。
やっぱり始末しないでおこう。なんとなく、そう思った。その思考も、すぐに薄れていったけれど。
ロトを率いて、王都の外へ向かう道中、シェルアは空を見上げた。
雨雲の隙間から夜空が見える。数多の星々が瞬き、青い月が闇夜を照らしている。
ピースはじきに揃う。
もうすぐだ。もうすぐ――――、
(何が、したいんだろうね)
ほんの一瞬抱いた想いさえ、虚ろに霞んでいく。
心を司る怪物の、空虚な心。
はい、幕間も終わりました。
これにて、六章『異世怪忌』は終幕とさせていただきます。
さて、中編 『インサニティ・アンデッド』も、残すところあと一章だけとなりました。
地の底というか、地獄に落ちたミコトの主人公力。もはやダークヒーローと呼ぶのも抵抗があるコイツ。挽回の機会あるか!?
それでは、次章のあらすじをちょっろっと公開。
◆
中編『インサニティ・アンデッド』
第七章『異世壊岐』
下冬の一三日に勃発した『魔王教の乱』は、あらゆる者に被害を与えた。
それでも人々は希望を胸に、新たな一年を迎えようと――『新世祭』が開かれようとしていた。しかし、未だ暗闇から這い上がれぬ者がいる。
そんな彼らの前に、一人の少女が接触する。神族、アドレヤ・ゴッドローズ。
アドレヤはミコトたちを、霊泉大陸へ誘う。そこに、サーシャを救う手段があると告げて。
シェオルの極東、霊泉大陸。世界の核たる世界樹が存在する、勇者が眠る地。
そこが次の目的地であり――そして、一つの終着点である。
彼らの旅は、終わる。