第三話 お姫様抱っこ
そんなこんなでしばらく経ち、サーシャも含めて全員が食事を終えた。
たが、サーシャはテーブルに突っ伏して寝ていた。
「なんなんこの子? すごい低血圧なん?」
訊くと、レイラは仏頂面をミコトに向けた。
「サーシャ、アンタが寝てからも心配して、なかなか寝ようとしなかったのよ。……アンタのベッドで寝てたのを、なんとか連れ出したんだから」
「うぇ?」
サーシャがものすごく寝不足というのはわかったが……この子、危機感が足りないんじゃなかろうか。
心配してくれたのは純粋に嬉しいし、妹ができたようで微笑ましくはあるが、自分が美が付く少女であるという自覚がないのは如何なものか。
ミコトに裸を見られかけたときも気にした様子を見せなかったし。ビッチではなくて、無垢の方向性で。
レイラは鼻を鳴らすと、買い物してくると言って宿を出ていった。
ミコトはすることもないので、ミコトはフリージスに、この世界に関することを訊き出すことにした。
ミコトが質問しようとすると声をかけると、フリージスはリースを呼んだ。何か言われたのか、リースは二階に上っていき、バッグを背負って降りてきた。
フリージスはバッグを受け取ると、中から数冊の本を取り出した。次いで取り出したのは、大きな一枚の地図だ。
「僕は異世界人に何を教えればいいのか、まったくわからない。知識のほどを知れないからね。だからとりあえず、自分で学んでくれないかな? わからないところがあれば訊くからさ」
フリージスは「これらの本は貸すよ」と告げると、さらに取り出した本を読み始めた。リースはその横に座り、静かに目を閉じた。
何から何まで世話になるわけにもいかないし、ある程度は自分で学ぶというのも、理解できる理屈だった。
目の前には地図と、数冊の本。どれもこれも分厚い。辟易とするが、読まないわけにはいかない。
幸いと言うべきか、ミコトは本を読むのは早い。中学の厨二病真っ盛りな時代、何か特技を憶えられないかと、速読をマスターしようとしていたことがあるのだ。
結局、完全修得はできなかったが、普通より早くなった自信はある。
(そういや、俺って字ぃ読めんのか?)
とにかく、試してみないことにはわからない。
テーブルに積まれた本の、一番上のものの表紙を見た。書かれているのは、アルファベットに似た、しかし見たことのない文字で、
――知っている――
「ぐっ……!」
強烈な頭痛がミコトを襲った。本を手落とし、頭を抱える。
また、この『頭痛』だ。頭の中をかき混ぜられるような不快感を、歯を食いしばって耐えようする。耐えられず、ミコトはテーブルに頭を打ち付けた。
ガン、とテーブルが揺れる。
「みこと?」
声がした。赤に歪んだ世界の中で、寝惚け眼でこちらを見つめるサーシャの姿を見つけた。
痛みが唐突に消えた。ミコトは息を荒くして、咳き込んだ。
「いたいの?」
「……いや、パンが咽喉に詰まっただけだよ」
「……そう」
まだ心配げにミコトを見ていたサーシャだったが、しばらくすると再び夢の世界へ旅立っていった。
心が騒めく。不快感に似た、気持ち悪い感覚だ。
どうしてサーシャに心配されるとそんな感情を抱いてしまうのか、わからなかった。
ふと前を見ると、興味深げにこちらを見てくるフリージスと目が合った。
ミコトは顔を顰め、手を振って『なんでもない』というジェスチャーを送ると、フリージスは観察をやめて読書を再開した。
溜め息をこぼして、もう一度目の前の本に目を移す。表紙に書かれた文字を見る。
相も変わらず、アルファベットに似ているだけの文字。しかしその意味が、今は理解できるようになっていた。
やはりこれは、『頭痛』のせいなのだろう。
これに襲われるたび、ミコトは知らないはずのことを理解できたり、感覚が鋭くなったり、体が勝手に動くのだ。
気味が悪いが……役立つし、今後調べていく方針でいいだろう。
「…………」
ミコトは、すべての表紙が見えるよう、テーブルの上に本を広げた。
目立って目に映ったのは、『魔神説』、『魔術教本』、『禁術目録』、『勇者伝説』だ。
……約一冊、あってはいけないものがあった気がする。『禁術』とか、明らかにヤバい。
『勇者伝説』も興味はあるが、小説か伝記のようなものらしく、読んでも役立つとは思えない。
ほかの本も読むには時間がかかりそうだ。
もう本は保留にして、地図を見ることにした。テーブルの上に、約1×1メートルサイズの世界地図を広げる。
覗き込むと、地球とはまるで別物なのだとわかった。
大きな違いは、大陸が四つしかない点だ。小さな島々はあるものの、大陸に寄り添う形でまったく目立たない。
北半球から赤道にかけて存在する、もっとも大きい大陸が、中央大陸。
中央大陸の南東に位置する、霊泉大陸。丸い形で、全大陸でもっとも小さい。
中央大陸の南に位置する、魔大陸。中央大陸に次いで大きい大陸だ。一面真っ黒に塗り潰されている。
最後に、中央大陸の南西に位置する、無霊大陸。見た感じ、砂漠らしい。
「なあフリージス?」
「うん?」
「この地図、どうなってんの?」
無霊大陸と霊泉大陸には細部が書かれておらず、国も中央大陸しか載っていない。魔大陸なんて、製作者の『だいたいこんな感じだろう』という考えが透けて見える。というかこれ、絶対に調査に行っていない。
「うーん、今いいところでね……。《魔法使い》イル・ペドファーが新魔術を思いつく、歴史的な場面なんだ」
ミコトは尋ねるが、フリージスは本から目を離そうとしない。
「……リース、頼むよ」
「かしこまりました」
結局、メイドに任せた。
ミコトとしては、教えてくれるなら誰でも構わない。できることならサーシャに教えてもらいたいが、その彼女は今、ミコトの横でだらしない顔で眠っている。
ミコトは横に立ったリースに、頭を下げて教えを乞う。
「中央大陸しか国がねえの?」
「はい、そうでございます」
リースは淡々と、考える間もなく答える。
「なんで?」
「中央大陸以外の大陸では、人が住み、国を築き上げるのは不可能、もしくは無意味だからでございます」
「んぅ?」
「無霊大陸は砂漠ばかりで水がなく、霊脈も届いていません。霊泉大陸は神族の聖地で、魔大陸は魔族が蔓延っておりますので」
ミコトが疑問げに眉根を寄せると、尋ねる前にリースが答えてくれた。
だが、余計に知らない単語が増える。頭がこんがらがって、何から訊けばいいのかわからなくなる。
「んじゃさ、今いる場所ってどこさ」
「ここ……ファルマでございます」
リースの白く細い指で差されたのは、中央大陸の南東にあるアルフェリア王国。その北西の端にあるファルマという町だ。
近くに載っているガルム森林とガルムの谷は、おそらく先日、ミコトたちが逃亡劇を繰り広げた場所だろう。
「なあフリージス。これ、部屋に持っていってもいいか? さすがにこの量はつらい。食堂にあんまり長居すると、宿に迷惑がかかりそうだし」
「そうだね。僕も自室で読もう。……ああそうだ、服を取りに来るといい」
「おっけー」
ミコトは頷き、立ち上がった。だがその前に、テーブルに突っ伏しで寝ているサーシャを思い出した。
さすがに一人放っておくのも可哀想だし、不安だ。せめて部屋には戻らせなければ。
「おいサーシャ、起きろ。起きるんだ。起きなさーい」
「ぅ……ん、おきてるょ。ぁれ、みことが……さん、にん」
「俺が分裂した、だと……?」
体を揺すっても、起きる気配がない。意味不明な寝言も微笑ましいが、ちょっと困る。
仕方ないのでサーシャの膝裏に左腕を、腰に右腕を通して支え、ゆっくりと持ち上げた。
人を抱き上げる方法の一種、横抱き。――いわゆる、お姫様抱っこである。実践すると気恥ずかしい萌えシチュエーションの一つだ。
それを実行したミコトだが、少し申し訳なさそうなだけで気負った様子はない。
本当は腕に負担がかかるのだが、長年の鍛錬(幼馴染の要求)と、サーシャが軽かったおかげでそこまで疲労しない。
サーシャは寝ているため、首がかくんと落ちている。ずっとこのままでは肩が凝りそうだ。それに髪が長いから、地面に付きそうになっている。ミコトはできるだけ、サーシャの体を高めに持ち上げる。
「リース。わりぃけど本、運んでくれね?」
「かしこまりました」
ずっと変わらない興味深げな笑みでミコトたちを眺めたあと、フリージスは二階に上げっていく。ミコトはサーシャを抱えて続き、リースは本を抱えてミコトの後ろをついていく。
ミコトとグランの部屋は、一番奥から三番目だ。その一つ奥がサーシャとレイラ、一番奥がフリージスとリースらしい。
リースが前に出て、サーシャの部屋を開けた。ミコトの両手が塞がっていることを配慮したのだろう、実に気が利くメイドである。
リースも本を持って片手が塞がっているというのに、器用なものだ。
内装はミコトの部屋と変わらない、質素なものだった。
(内装はないそ……やめとくか)
ミコトは一番近いベッドにサーシャを下ろした。
と、女の子の甘い香りがミコトの鼻を刺激した。香水の匂いもない、純粋で飾らない、甘い香り。
一応これでも、ミコトは一六歳の健全な青少年だ。二歳年下で童顔だが、サーシャは美少女。さすがに意識してしまう。
が、ミコトはぽわっとした感情を振り払う。勝手に意識したことを申し訳なく思いながら、部屋を出た。
向かったのはフリージスとリースの部屋。同棲は如何なものかと思うが、口には出さない。
中に入る。やはりこの部屋も、ミコトやサーシャの部屋と変わらず質素なものだ。
「あれなんだけど」
フリージスが指差した方を見る。小さな丸テーブルの上に、ぼろきれが無理やり感たっぷりな状態で畳まれている。でかい雑巾みたいだった。
手に取って広げると、それは確かにミコトのジャージだった。だが、すっかり様変わりしてしまっていた。
至るところに穴が開き、破れ、ほつれている。白黒の服の白い部分は血によって赤と赤黒い色に染められ、右袖がなくなってしまっていた。
「マジかよ、けっこう気に入ってたのに……。おおおん!」
着心地のいい、お気に入りの服だったのだが、こんなボロ雑巾は着られない。
これでは修繕さえも無意味だろう。焼け石に水なのは明らかだ。
「……もう、捨てるよ、これ。さすがにもう使えねえだろ」
「ふむ、そうかい」
携帯電話に続き、今度は衣服だ。異世界は徹底的に、ミコトと地球の繋がりを奪い去っていく。それに寂寥感を覚えないでもなかったが、気にしても仕方ないと早々に頭の奥に仕舞い込んだ。
ミコトからボロ布を受け取ったフリージスは、迷うことなく窓から捨てた。
「不法投棄!?」
叫び、窓に駆け寄る。だが、ボロ布はミコトの予想に反して、天高くへ舞い上がっていく。その動きはどこか不自然で……。
宿屋よりも高く上昇すると、ボロ布は突然発火した。一瞬で灰になって、風に運ばれてどこかへ飛んでいった。
「…………」
残っていた僅かな寂寥は吹き飛ばされた。ミコトは小さな溜め息をこぼす。
今の現象は、おそらくフリージスの魔術だろう。詠唱はしていなかったが、無詠唱とか詠唱破棄とか、そんなものだろうかと考察する。
「あ、本、どもっす」
「いえ」
リースから本を受け取る。ずっしりとした重みがミコトの腕にかかった。両手でなければ、少しつらい。
リースは外見に反して力持ちらしい。見た目、そこまで筋肉があるように見えないが……まあ、ファンタジーだし。
「んじゃ、俺は部屋で勉学に励むとするよ」
「うむ、頑張るといい」
フリージスの励ましを受けて、ミコトは部屋を出た。扉はリースが閉めた。
まず最初にするべきことは、この世界を理解すること。魔術は興味があるが、二番目だ。量があるので時間はかかるだろうが、まあ頑張ろう。
そのとき、自室に戻ろうとしたミコトは、レイラと遭遇した。
「「あ」」
レイラはサーシャの部屋に入ろうと、扉に手をかけていた。なんとも、微妙なタイミングだ。
ミコトは少しばかり、レイラとの会話に居心地の悪さを感じるようになっていた。なんだか真剣に睨まれるし、おちゃらけるミコトとしては付き合いにくい。
洞穴ではそれなりに会話できていたのだが。今は距離感がいまいち掴めなかった。
ふと、レイラの持つ革袋に目がいった。
「よお。なーに買ってきたんだ?」
「……アンタには、関係ないでしょ」
レイラの突き放すような態度に、ミコトは苦笑い。
何か恨まれることでもしただろうか。思い返してみてもせいぜいちょっと弄ったくらいで、恨みを抱かれるほどのことをした憶えはない。
「ま、いっか。俺は部屋に戻るよ」
言って、レイラの横を通り過ぎた。
扉の前に着いたが、両手は本で塞がっている。少しの間なら片手で持てると判断したところで、扉が開いた。レイラが扉を開けてくれたのだ。
目を丸くするミコトに、レイラは憮然とした表情で、
「……サーシャを助けてくれて、ありがとう」
レイラはそう言うと、ミコトの返答も待たずに自分の部屋に戻ってしまった。呆気に取られていて、返事する暇もなかった。
(素直じゃない……って感じかねぇ)
もしくは、不器用なのか。
今の行動で、レイラは恨んでいるわけではないことがわかったが……では、なぜ睨むのだろう。
ツンデレとかそういうのは、絶対ないだろうし。
(……まあ、いっか)
レイラの行動には不自然なものがあるが、考えてもわからないのだから、考えても仕方ない。
もともとミコトは直感頼りで、物事を考えるのには向かないのだから。
ミコトはため息をこぼして、部屋に入る。
開けっ放しの扉を足で閉めてから改めて部屋の中に目を向けると、ベッドに腰掛けているグランが視界に入った。
食堂での一幕を見ていたので、なんとも言えない目で見てしまう。たが、グランがその手に持つ物を見て、ミコトは動きを止めた。
グランが持っていた物。それはミコトの身長は超える大きさ剣だ。クレイモアだろうか。グランはその大剣を手入れしている最中だった。
グランと目が合った。赤っぽいブラウンの瞳が、鋭くこちらを睨んでいる。ゾクリとする悪寒がミコトを襲った。
いきなり斬りかかられたりはしないだろうが、それでもルームメイトが凶器を持っていたら怖い。虎を刺激しないように自分のベッドに行こうかと思ったが、しかし、ここでミコトのふざけ癖が出た。
「いやぁ、食堂でのアレ、すごかったっす! フォークを投げて皿を割るなんて、マジくそリスペクトっす!」
「……それほどでもない」
思いっきり皮肉なのだが、グランは気づく様子がない。それどころか、照れたようにそっぽ向いた。これが美少女なら獣耳属性も相まって絵になっただろうが、生憎と目の前にいるのは筋肉隆々の巨漢だ。
思ってたんとちゃう、とミコトは内心ぼやいた。だが、これで張り詰めた空気が和らいだ。
ミコトは壁にもたれかかるようにベッドに座り、すく横に持ってきた本を積み上げた。その量を見て、やはり読破は時間がかかりそうだと嘆息する。
だが、読まなければ減らない。やらなければ進まない。ミコトは覚悟を持って、本の世界に挑戦し始めることにした。
うへぇ。