第四一話 歿
「サヴァラ……さん?」
呆然と、レイラが呟いた。
サーシャも、同様に絶句していた。
彼女たちの視線の先。
白髪混じりの黒髪をした少年がいる。
ミコト・クロミヤが、そこにいる。
サヴァラの服装をして、そこにいる。
サヴァラ・セレナイトはいない。
もう、存在そのものが上書きされて、いなくなった。
先ほど起きたことは、信じがたいことであった。
サヴァラがミコトの心臓を喰らった。
それだけでも信じられないのに、途端、サヴァラがミコトになったのだ。
いや、彼女たちにはわかっていた。
『サヴァラが』ではなく。
ミコト・クロミヤが、サヴァラを『変異』させたのだ。
「お父さん! ミコト!」
動けないレイラの代わりに、駆け寄ったのはサーシャだった。
顔を蒼白にして、ミコトの体を揺する。
ミコトは目を閉じたまま動かない。
だが、確かに生きている。鼓動がある。温かさがある。
しかし。
サヴァラ・セレナイトは、どこにも感じられない。
感じられるのは、僅かに周囲を漂う、魔力の残りカスだけ。
「起きて! 起きて――!」
『彼』が誰なのか、確認しなければならない。
中身を知ったとき、安堵するのか、悲嘆するのか。そんな思考から、必死で目を逸らして。
ミコトの体を、大きく揺すろうとした。
――その、直後のことだった。
爆音とともに、瓦礫の山に何かが着弾する。
山は崩れた。
旧城壁の瓦礫でできた山は、内側に大量の隙間がある。
それらが、先ほどの着弾によって埋まり、陥没する。
サーシャはミコトの襟首を掴み、飛行魔術を行使。
レイラも回収し、空へと退避した。
サーシャは、三人分の体重を支え切れるほど、飛行魔術に熟練していない。
瓦礫の範囲から逃れたところで、サーシャは地面に降り立った。
「ありがとう、助かったわ」
「うん。それにしても、いったい、」
言い切る前に、砂埃が衝撃波によって払われる。
瓦礫だらけのそこで、二人の人物が戦っていた。
それは戦闘と呼べるものではなく、一方的なものだった。
「お、ぉぁぁああッ!」
一人は、赤い髪にブラウンの瞳の、獣族の傭兵――グラン・ガーネット。
傷だらけでの姿は、見ただけで満身創痍とわかる。
「きゃくふ、ふひひゃきゃ、あはふっ!」
対するは、薄青髪の幼い少女。
狂笑を発する姿は、とても正気には見えない。
その姿を、サーシャは見たことがあった。
だがその瞳は、青い瞳だったはず。
今の彼女は、血のように赤い色をしていた。
「ぁ……、ぅ……」
背後で、微かに呻き声がした。
振り向くと、ミコトの目蓋が薄っすらと開き、戦闘へ目が向けられている。
「はふ、きひゃはあぁ!!」
狂笑に、サーシャはハッとして、戦闘へ目を向ける。
《聖水》の使徒――アクィナが腕を振るう。
すると、爪の隙間から赤い刃が飛ぶ。それは血液の凶刃だった。
グランがクレイモアを振るう。血刃と激突し、押し負け、吹き飛ばされた。
身体強化による赤いオーラも、魔力の不足によって消失する。
もはや、グランに反抗するだけの力は残されていない。
「グランっ!」
サーシャは水の刃を射出した。
初級とは言え、直撃すればただでは済まない一撃。
アクィナは避けない。ただ、真正面から刃を握り潰した。
ぐりん、とアクィナの首が傾く。
視線がこちらに向けられる。口角が、吊り上がる。
「ソぉぉぅぅウ、マぁぁアアアアアアア――――ッ!!」
憎しみと嫉妬で、赤い瞳が彩られている。
右腕を地面と水平に。爪の先から、五本の鉤爪が生まれた。
「お、まぇ……が、いた……からァァッァアアアア!」
「行かせん!」
怒号を上げ、アクィナが迫り――その背後から迫る、赤い姿がある。
グラン・ガーネットが、クレイモアを振り上げる。
「――――ァァアッッッ!!」
苦痛は漏らさない。
絶叫すらない。
体の至るところから血を流し、それでもグランは戦う。
全身全霊。生命を削って、グランは使徒に反逆する。
刺突。
確実に心臓を刺し穿つ一閃。
アクィナはそれを、まともに食らった。
背後から、剣の中ほどまで、突き刺さった。
――だが、貫通はしない。
それは、奇妙な現象だった。
アクィナの背中から胸まで、二〇センチもない。
対してクレイモアは大剣である。刃の全長は一メートルに近い。貫通しないはずがないのだ。
「『血界』――」
瞬きの間もなく、世界は赤く塗り替えられた。
その生温かさは生物のよう。
その血生臭さは血液のよう。
全方位が肉壁に囲まれた、血色の世界。
ここは『人』の、何もかもがあった。
魔力も瘴気も、記憶も命も。
ここは、アクィナの『中』だった。
「のむ! たべる! すする! かじる!」
剣が突き刺された、アクィナの背中にある傷口から、赤い蒸気が噴出する。
それは剣を包み込み、瞬く間に溶かしていく。
剣が柄を残して溶けたとき、アクィナの傷は、すっかり塞がっていた。
武器を失ったグランは、身体強化の赤いオーラを絞り出す。
生命すべてを振り絞る最期の一撃が、右拳に集約される。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――ッ!!」
「きりわける、ね? ……たべやすい、ようにぃ!」
アクィナが、グランの右拳を掴み取る。――引き千切る。
グランが、なんの強化もされていない左拳で、殴り掛かる。――捩じり切る。
蹴り上げる。――踏み潰され、千切れる。
頭突きを放つ。――逆に額を粉砕する。
「おしょくじの、じかんだよぉ!」
アクィナの両手を合わせた貫手が、グランの腹部に突き刺さった。
合わせた両手を、思いっきり広げる。
――グランの上半身が、宙を舞った。
ぶぢゅりと、グランの体が墜落した。
血肉の世界は、彼の血を啜り、体を食べていく。
残ったものは、グランの衣服だけだった。
あまりに脈絡なく、一方的に、残す言葉もなく、
グラン・ガーネットは、死んだのだ。
「ぁ……あ……」
これが使徒の本領。
今の光景を目の前にして、サーシャは何もできなかった。
足が震える。
後ずさりもできない。
圧倒的な実力の差を、見せ付けられた。
グランの無残な死を見せ付けられたことも、サーシャを動揺させていた。
どうすればこの状況を切り抜けられる? 考えがまとまらない。
ミコトとレイラだけでも? そもそも、ここからどうやって出ればいい?
『操魔』ですべてを支配する――駄目だ、ここを構成しているのは魔力だけではない。
記憶、思念、情動。それらは《操魔》ではなく、心を狂わす《悪魔》の分野だ。
――勝てない。
「そぉぉぉ、まぁぁぁ……っ」
グランの血のシャワーで全身を赤く染めて、アクィナは嗤う。
瘴気に穢れた、血色の瞳が向けられる。
血肉の混じった唾液が、だらりと赤い地面に垂れた――直後、アクィナが疾駆する。
「く……っ、『エアリスト』! 『アクエスト』!」
弾かれる。砕かれる。
通用しない。サーシャ・セレナイトの何もかもが。
「あぁぁっぁああああああああああああああああああああああああ――――!!」
『操魔』を全力で行使する。
この場の魔力と瘴気をごちゃ混ぜにし、巨大な魔法陣を構築し、
「『ムスペル――」
だが、間に合わない。
アクィナの貫手が、放たれる。
――後ろから、フードを引っ張られた。
サーシャは体勢を崩して、後ろに倒れていく。
代わりに、サーシャの前に出る者の姿があった。
ぶちゅり、という音がした。
胸を貫かれた。その人の血が、サーシャの顔に降りかかる。
どうして。
なんで。
「なん、で……」
そうならないために、ここに来たのに。
傷付いてほしくないから、戦ったのに。
その人を故郷に帰すために、死ぬ覚悟もしてきたのに。
なのに。
また、こうして――。
「み……こ、と……」
いつものように傷だらけになって。
いつものように誰かを庇って。
彼は、
――ミコト・クロミヤが、そこにいた。
◆
剣の音がしている。
誰かが戦っている。
男の咆哮が聞こえた。
少女の狂笑が聞こえた。
聞き慣れてしまった、傷ができる音がする。
だけど、傷付くべき自分は微睡みの中で。きっと、違う人が傷付いている。
肩代わりしないと。
それが、俺の役目なのだから。
ゆっくりと、目を開けた。
太陽の光に眩む。同時に、赤くて綺麗だと思った。
なんだか、久しぶりに太陽を見た気がする。
懐かしい色な気がした。
夕日のように、宝石のように、綺麗なもの。
思い出せない。
そんな赤い景色の中、二人が戦っている。
アクィナ。
と、赤い男。
その男を知っている気がした。
名前……。名前は、なんだっけ?
ああ、でも、なんでだ。
どうしてあの戦いが、悲しいものに思えてしまうのか。
どちらにも傷付いてほしくない。
戦ってほしくない。
声は、出ない。
まだこの体は、完全に俺のものじゃないらしい。
綺麗な赤が、汚れた赤に塗り潰された。
血肉の色だ。見慣れている。自分の中に溢れてる。
アクィナに剣が刺さる。
泣き叫びたいのに、涙は出なかった。もう俺は、人間でなくなってしまったらしい。
だけど、アクィナは無事だった。
喜ぶ間もなく、男が上下に割かれる。
下半身から、噴水のように血液が噴射した。
上半身が、血肉の世界を舞う。
赤いマフラーが漂う。
それは持ち主の首から離れて、俺の手元にやってきた。
「ぁ、……」
憶えていない――なんて、言えるはずがない。
思い出せない、わけがない。
ちゃんと、この胸に、この魂に刻み付けてある。
幸せな、取り戻したい世界を。
だけど、もう、遅い。
男は、
グラン・ガーネットは、死んだのだ。
アクィナが迫る。
銀髪の少女が立ち塞がる。
どうして守ってくれる。
俺が守らなくちゃいけないのに。
盾にすればいい。
俺は無価値なんだから。肉壁にでもすればいい。
どうして動こうとしない。
彼女はなぜ。
どうして動かない。
この俺の体。
もう支配したのだ。
この体は俺のものだ。
寄越せよ。
テメェが誰だろうがどうでもいいんだよ。
死ね。
消えろ。
死ね。
死ね。
殺す。
死ね。
殺す。
殺す。
消えろ。
消えろ。
『――どうか、子供たちを――――』
死ね。
「――――」
体が動くようになった。
少女を後ろへ、俺は前へ。
これでいい。
これが、答えだ。
ぶちゅり、という音がした。
心臓を、アクィナの腕が貫いていた。
「みぃ……くん?」
アクィナの瞳が、赤から青に戻った。
そう、それでいい。お前は、そっちのほうが合っている。
「アクィナ」
自分の命が失われていく。
急速に、零れ落ちていく。何もかも。
最期に。
呆然と見上げるアクィナを、ゆっくりと抱き締めた。
「――さようなら」
あぁ、これで。
俺はようやく、終わることが――――。
その瞬間、
ありもしないクロミヤ家の当主であり、
シェルア・クロミヤの兄であり、
アクィナの親友兼幼馴染であり、
ユミル・スピルスの従妹であった、
ミコト・クロミヤは死に、
しかしまだ、彼は終われない。
そして、
歪んだ人格と価値観を持つ、
異世界からの来訪者であり、
魔女が選んだ使徒が、
《黒死》の使徒、ミコト・クロミヤが、
『再生』する――――。