第三八話 邂逅
「な、んだよ、クソ! なんだってんだよ、アレは!?」
出血する腹部を、たった一本の手で押さえながら、ミコト・クロミヤは逃走する。
背後から追ってきているのは、追跡速度という意味では『最強』よりも厄介だ。
物理的な障害は意味を成さず、それはゆらめきながら迫ってくる。
それは、赤い靄――瘴気のようだった。
その瘴気の中には、三つの顔が浮かんでいる。
女性と、男性と、子供。それらが一様に、嘲笑を浮かべて。
「『アハハハハ、逃げなさい足掻きなさい、惨めにみっともなく、ねぇ!』『そうだねリリス。もっとも、俺たちから逃げられるわけがないんだがな。そうだろ、リリム』『そうら、鬼ごっこだよ! 逃げろ逃げろー、追いかけるからーァ!』」
魔物。
物理的な攻撃が効かず、魔力のみで倒すしかない存在だ。
ミコトは歯を食いしばり、魔力を精製する。
ごっそり生命が減る感覚に、体がふらつきそうになる。
それを耐えて、魔力弾を放つ。
が、それはあっさりと避けられてしまった。
「く、そ……!」
本来であればミコトは、魔物との相性が非常にいい。
ミコトの魔力資質は凄ましい。魔力変換効率、魔力制御、どれもが優れている。
だが、元となる生命力が激減していたら、話は別だ。
腹部の出血が致命的だった。
ただ単に裂傷があるだけではない。確実に内臓を損傷していた。
この状態で、どれほど走っただろう。
もはやミコトに、魔力を精製する余力はない。
「『その程度かな、ねぇ、私を愉しませてよ! リリトも何か言いなさいよ』『そうだね、俺から言わせてもらおう。そろそろ飽きてきた!』『そろそろ捕まえちゃおうかなぁ!』」
「死にかけのところで出てきやがって、調子に乗ってんじゃねえぞ!!」
そう吠えつつも、ミコトには逃げることしかできない。
さらに目の前には、旧城壁の行き止まりが迫っていた。
舌打ちしようとしたそのとき、旧城壁の異変に、ミコトは目を見開く。
旧城壁の大部分が、大きく削れているところがあった。
そういえば、旧城壁は都城壁と違い、劣化が進んでいるらしい。
それが何かの影響で、一部が崩れてしまったのだろう。
すでに精製済みの魔力を、体中に回す。
原始的な身体強化によって、建物の屋根によじ登ったミコトは、崩れた旧城壁を飛び越える。
下層北区から、中層北区へ。
旧城壁の瓦礫の上に乗った彼は、さらに驚愕することになる。
「なんだ、これ……?」
まるで、災害が起きたようだ。
下層北区から王城に向けて、一直線にすべてが蒸発し、蹂躙され、破壊されている。
上級魔術では起こし得ない大破壊。
まさか、特級魔術なのか。
「……っ」
と、呆然としている暇はない。
背後から迫る魔物を避けるため、ミコトは瓦礫の山から跳び下りた。
周囲の瓦礫を足場に、落下の勢いを殺しながら着地。
着地の衝撃を殺し切れず、腹部からの出血が増える。
ただでさえ体勢を崩していた上、足場が悪い。
ミコトは耐えきれず、その場に倒れ伏した。
そんなミコトの周囲を、赤い靄が覆う。
瘴気に全方位を取り囲まれて、完全に逃げ場を塞がれた。
瘴気の中に、三つの顔が浮かぶ。
それらがミコトを嘲笑しながら、口を開く。
「『もう終わりですかぁ、はー』『まぁまぁ、リリス。人間にしてはよくやったほうじゃないか。リリムもそう思うだろ?』『鬼ごっこ終わりー! ありがと、楽しかったよ! ……えーっと』『そういえば、まだ自己紹介してないわ、リリム』『そういえばそうだった。まぁ、最期の手向けということで、』」
口々に紡がれる言葉が、ひどく鬱陶しい。
ミコトは歯を食いしばる。
犬死にだけはしたくない。
なら、最期の力を振り絞ってでも――こいつらは、殺す。
「『俺はリリム』『私はリリス』『僕はリリム』『俺たちは《ラ・モール》――アィーアツブス』『さぁ、君の名前を僕に教えてよ!』」
全生命力を魔力にしようとした。が、彼らの名乗りに、ミコトは驚愕する。
「《ラ・モール》……?」
それは、魔王教の内部にある部隊のはずだ。
つまりは仲間なのだ。
なのに彼らは、自分のことを知らないという。
まさか、間違えて襲われた?
「待、て……」
「『命乞いかしら?』『僕は何も聞こえなーい聞かなーい聞いてなーい』『さぁ、俺たちの中へ沈むがいい』」
ミコトの言葉、聞く耳を持たず、瘴気の壁が迫る。
狂気の魔力に、触れる。
その瞬間、電気が流れるような衝撃が、ミコトの中に突き抜ける。
正気を削られていく。
理性が失われていく。
本能と狂気が心内を犯し尽していく。
堪えるのは苦痛で、狂気に身を任せるのはきっと、とてつもない快感なのだと悟る。
それは、身に覚えのある感覚だった。
いつ?
どこで?
憶えていない。
失われた記憶の中にも、それはない。
ミコト・クロミヤではない――女の情念が、流れ込む。
『俺は――――…………』
守りたかったのだと。
彼女は憎む。
殺したいのだと。
彼女は泣く。
堕ちろと。
彼女は強制する。
堕ちるなと。
彼女は願う。
相反し、矛盾する殺意、狂気。
それらの波に、押し流されそうになり――――、
――突如、赤い靄が晴れる。
狂気の魔力から解放され、ミコトは荒い息を吐く。
そんな彼の目の前に、一人の少女が降り立った。
「よかった……。やっと会えた……!」
長い銀髪に、赤い瞳。
目尻に涙を溜めて、その少女は、ミコトと向き合っている。
見覚えがあった。
それは、敵のはずの人間だった。
「待っていて、ミコト」
そして、彼女は背を向ける。
少女が睨むのは、赤い瘴気の魔物――アィーアツブス。
遠ざかる背中に、ミコトは知らず、手を伸ばす。
その意味が、彼にはわからない。大切なことのはずなのに。
「すぐに、あなたを救うから」
サーシャ・セレナイトは、魔物と対峙する。
イシェルからの情報によると、名前はアィーアツブス。
三つの主人格と、シェディムという呼称で纏められた、数多の霊を内包した強大な魔物なのだという。
サーシャは試しに、高速の魔力弾を射出する。
それは避ける暇も与えず、アィーアツブスの一部を吹き飛ばした。
「『ヒャハハ、効かないなぁ!』『そんなものじゃあねぇ!』『まったくぅ!』」
情報通り、一発の魔力弾では、まったく通用しない。
シェディムをひとつ犠牲にして、彼らは生き残っている。だから彼らは、シェディムが尽きない限り死なない。
つまり彼らは、百を超える命のストックがある。
(でも、)
アィーアツブスは、記憶を取り出すことを非常に苦手としていると、イシェルは言っていた。
シェディムを記憶領域とすることで、アィーアツブスは大量の記憶を保存できる。しかし、それらの情報を、咄嗟に取り出せないのだ。
そのためか。それとも、単に知らされていないのか。
アィーアツブスは、サーシャに――『操魔』に注意していない。
その相性の悪さを考えれば、真っ先に逃げなければいけないというのに。
「魔力よ――」
左腕を掲げる。
ぞ、と世界の魔力を動き出す。
全身が瘴気で構成された、アィーアツブスも巻き込んで。
「『思い、出したわ!』『そんな、いやだ、やめてよ!』『まさか……こいつが、《操魔》!?』」
魔力が収束するに従って、魔力は青い輝きを増していく。
理不尽なまでの青に、赤は揉み消されようとしていた。
「『やめろ!』『やめて!』『離せ、離してぇ!!』」
逃れようと足掻くが、青い奔流から抜け出すことは叶わない。
双頭の魔王の半身、《操魔》イヴの、ほんの少しの力の一端。
個人のオドも、世界のマナも、化け物の瘴気も。すべて纏めて、あらゆる魔力を支配する。
『操魔』が、アィーアツブスに牙を剥く。
たった数百の命を纏め上げただけの存在に、敵うはずがない。
「――散れ」
極限まで圧縮された魔力。
物質化し、聖晶石になりかけたそれが、砕ける。
アィーアツブスの姿は、どこにもない。
不安定な存在は、圧倒的な魔力に押し潰されて、一片すら残せず消滅した。
青い輝きが舞う中、サーシャは振り向く。
そこには、呆然とこちらを見上げる、ミコトの姿がある。
「……久しぶりだね、ミコト」
「テメェ、は……」
そして。
ようやく、二人は出会った。