第三五話 VSミコト - 鬼 -
「あっ、らぁちゃんだ!」
能天気なチアの声が遠く聞こえる中、ラカは呆然と呟いた。
「なん、で……。テメー、ここに……?」
下層北区の貧民街に《ラ・モール》が現れたと聞き、チアとチュアーテが心配になって駆け付けた。
駆け付けて、彼女たちの家から出てきたのは、予期しない人物だった。
ミコト・クロミヤ。
白髪混じりの黒髪を持った少年。
その彼は、呆然と佇むラカとテッドに、胡乱げな目を向けてくる。
テュアーテは、妙な雰囲気に勘付いたのだろう。
チアを胸に抱えて、訝しげに様子を窺っている。
「……誰か知らねえけど、失礼するぞ」
どうでもいいと判断したのか、ミコトの目がラカから逸らされる。
まったくの気負いなく、ラカたちの横を通り過ぎていく。
「ま、待てよオイ、ミコト!」
「はぁ……また知り合いか。そろそろ面倒になってきたな」
ミコトが振り向く。
煩わしそうな目は、語る。お前らなんてどうでもいいのだと。
完全に他人を見る目だった。
記憶喪失だとは、伝え聞いていた。その実感が、遅れてラカに襲い掛かる。
彼は、何も憶えていないのだ。
ともに旅をした半年間を。何もかも。
「……ッ!」
ラカは下唇を噛む。痛みとともに血が流れた。
気付けばラカは、ミコトの前に回り込んでいた。
「ラカ! オレの名前だ、わかるだろ!?」
「知らねえっての。こちとら、テメェらを気にしてる余裕なんかねえんだよ」
ラカは拳を握った。
ミコトは、どうあってもラカたちの相手をする気はないらしい。
そしてラカは、どうあっても、このままミコトを通すわけにはいかない。
なら、どうすべきか。
そんなのは簡単だ。
「殴ってでも――」
と。
ラカが意を決した、そのときだ。
ミコトが唐突に、その場で反転。
回し蹴りを放った。
ミコトの背後にいたテッドは、舌打ちして飛び退く。
蹴り飛ばされた短刀が、地面を滑っていった。
「隙を突いたつもりだったかは知らねえけど、馬鹿か。俺がいつ、テメェらに気を許した?」
ラカが呆然としていた、その一瞬。
彼女の懐に、ミコトが深く潜り込む。
「しまっ……!?」
「沈め」
とんでもない衝撃が、ラカの腹部を襲った。
お腹と背中がくっついたようだった。
胃が圧迫される。
骨を軋ませる。
ラカは地面と平行に吹き飛び、建物の倒壊によって生まれた、木材の山に沈む。
意識が飛びかける。
なんとか意識を保てたのは、激しい嘔吐感に襲われたゆえ。
吐血しながらも、ラカは明滅する視界にミコトを映した。
「ラカぁ!?」
テッドの絶叫に、彼に突撃しようとしていたミコトは、一瞬だけ動きを止めた。
僅かに残った記憶?
傷付いた相手への温情?
否、そんなことはありえない。
ミコトが動きを止めたのは、テッドの声に、聞き覚えがあったがため。
それは希望への道のりなどではなく。
「――そうか。テメェら、俺の敵か」
ミコトの目に。
今度こそ、本当の殺意が宿った。
「馬鹿、言うんじゃねー! オレたちは、テメーの仲間だ!」
ラカは瓦礫から這い出つつ、叫ぶ。
ミコトは嗤う。その笑みは嘲笑だ。
「仲間を背後からブっ刺すのが、テメェらのやり方ってわけだ?」
「それは……!」
「それに知ってんだぜ? テメェらが、俺を殺す算段を立ててた、ってことはよ」
ラカの思考が、完全に凍り付いた。
なぜミコトが、そのことを知っているのか。
どうやって、なぜ知られている。
その答えは簡単だ。
――聞かれていた。
「まぁ、どっちだっていいんだよ。俺が記憶を失う前の知り合いが、どんな野郎でも構わない。どうでもいい」
殺気が、広がる。
「たった一つの真実さ。――テメェらは、俺の敵だ」
◆
上秋の下旬のことだから、二カ月は昔のことになるだろうか。
エインルードの一件が終わってから、封魔の里に辿り着くまでの、旅の途中でのことだ。
テッドは嫉妬していた。
ラカが気に掛けている、ミコト・クロミヤという少年に。
どうしてそんな奴がいいのだと。
あんな男の何がいいのだと。
ミコトは、エインルードの一件を通して、変貌したのだと言う。
以前の彼は、ウザい奴だったと、ラカが楽しそうに言う。その後、悲しげに顔を歪めるのだ。
信じられるわけがない。
テッドが知るミコト・クロミヤは、どこまでの残忍で残酷で、人の命をなんとも思わない外道だ。
実際彼は、襲い掛かってくる盗賊に対し、拷問めいた行為を行う。
後悔させるように。
しかし、どんなに謝罪しようと、彼がもたらす断罪は『死』だけ。
――《黒死》の使徒。
どんなに殺されようと生き返る『再生』と、肉体を変化させる『変異』。
そして、一撃必殺の魔術『黒死』。
羨ましいと思った。
そんな力があれば、僕だって――。もっと上手く使いこなしてみせるのに――。
我慢ならなかった。
ミコト・クロミヤが、我が物顔で『死』を体現している様が。
だからだろう。
少しばかり仲間から離れたミコトに、テッドは宣戦布告を叩き付けた。
「貴様は危険だ。ラカには今後一切関わるな。でなければ――」
拳を握る。
実力で敵わないことをわかっていながら、そうせずにはいられなかった。
だが。
ミコトが振り向く。どこまでも空虚な、血色の瞳が、テッドを見据える。
殺気はない。敵意もない。そのはずだ。
なのに。
テッドは、全身の震えを止められなかった。
立ち向かおうと思うことさえ烏滸がましい格の違いを、ハッキリと自覚する。
認めたくなかった。
ミコト・クロミヤに負けることを、どうしても受け入れられない。受け入れたくない。
もし、ここで引いてしまったら。
ラカの隣には、二度と立てない気がするから。
「あぁぁあぁああああああああ!」
それは蛮行だった。
恐怖に陥ったゆえの錯乱かもしれない。
だがテッドは、ミコトを顔に一発拳を叩き込めて、誇らしい気持ちを抱いたのだ。
圧倒的実力を持つ相手に、立ち向かえている。
そのことが、嬉しかった。
しかし。
「…………」
変わらない。
どこまでも空虚な瞳が、テッドを見据えている。
否、テッドを見ていない。
彼は、何も見ていない。
どうでもいいのだ。
テッドなど、まったく相手にされていない。
ミコトは赤くなった頬に、触れる。
頬から、手を下ろしていく。顎へ、そして首。掴む。
次の瞬間、ミコトの首が飛んだ。
死ぬ。生き返る。
赤くなった頬は、すっかり元通りになっていた。
テッドはその場で膝を付いた。
そんなテッドを、ミコトは軽く一瞥してから、仲間たちの元に歩いていく。
そこには、ラカ・ルカ・ムレイもいる。
テッドは一人残され、歯を食いしばる。
(相手が使徒なんていう、デタラメな存在でなければ……!)
決闘にすらならない。
ミコトにとっては、日常とさして大差のない、平穏な日。
チアとチュアーテが、静止させるために叫ぶ。
皮肉にも、それが開戦の合図となった。
「フッ――!」
一息溜めて、ミコトが拳を突き出した。
高速の殴打を、テッドは紙一重に避けた。見切ったのではなく、余裕を以て対処できなかった。
拳が空を切る。
巻き込まれた大気が、テッドの肌を震え上がらせた。
『ただの拳』だなどと、侮っていられない。
直撃すれば致命的だ。
ミコトは一切魔術を使っていなかった。
魔力精製による身体活性化すら行わない。
特異の能力『変異』を用いる様子さえ見せなかった。
純粋な接近戦で、テッドはミコトに押し負ける。
悪夢を見ているようだった。
ミコトの怪力は、『変異』の影響かもしれない。
ただそれは、身体強化が掛かった戦士と比べると、一段劣るものでしかない。
だというのに、テッドは膂力において、ミコトに敵わない。
「でも……!」
だが、何一つとして敵わないわけではない。
テッドがミコトに勝るもの――それは手数と技だ。
理由は不明だが、ミコトに左腕がない。
たった一本の拳で、技で勝るテッドの相手をしなければならないのだ。
また、ミコトの体術は、洗練されていない我流のもの。
その場その場での機転は大したものだが、流れというものをわかっていない。
テッドが、ミコトの顔面に向けて左拳を振るう。
ミコトは右腕で払うが、そのときにはもう、テッドの右腕が振るわれている。
閉ざされた視界、ミコトはテッドの攻撃を視認できない。いや、勘付いているが、右腕は顔面に防御に回していた。
ミコトの腹部に、テッドの右拳が突き刺さった。
「ぐ……アァ!!」
しかし、ミコトは怯まなかった。
動きを緩ませることなく、右腕を振るう。
接近したテッドには避けられない。
受け流すように、腕で受ける。ミシミシと、骨が軋む音が聞こえた。
ミコトが拳を振り抜いた。
テッドは吹き飛ばされ、態勢を整えながら着地する。
「――――」
「――――」
近接戦闘では、膂力と直感以外の点においては、テッドが限りなく有利だった。
だからこそ、強力な力を持つミコトに、テッドは苛烈に攻める。
ミコトとテッドの違い。
それは、魔術資質の有無だ。
ミコトが近接戦闘から魔術戦闘に切り替えた瞬間、テッドの敗北は決定する。
だが、そんなことをさせる気はない。
テッドは口角を吊り上げた。
自覚がないのか、今のミコトは使徒の能力を使わない。
『異変』や『黒死』がなければ。
たった一度殺すだけなら。
――僕でも、ミコト・クロミヤに勝てる!
「お、らぁ!!」
突撃するテッドに、ミコトは目を細めた。
雰囲気が変わった。殺気は変わらず、しかし、苛烈さが失われる。
攻撃を繰り出すテッドに、ミコトは防御に回った。
攻撃に転ずることなく、テッドの攻撃を受け続ける。
違和感がテッドを襲う。
だが、立ち止まってもいられない。
テッドは隙を見て、ミコトの顔面に拳を打ち込んだ。
しかし、
――クロスカウンターが、テッドの顔面に突き刺さる。
「ごっ、がぁ!」
浅い。
だが、それでも致命的だ。
頬の骨が砕けたかもしれない。
口から、折れた歯を吐き出す。
そんな状態で、テッドに生まれた感情は、驚愕と恐怖だった。
(完全に、読まれていた……!)
テッドの動きを掴まれた。
攻撃の手を悟られた。
先ほどまで、直感頼りに右腕を振り回すばかりで、ほとんど見切られていなかったはずだ。
それがどうして、こんないきなり。
「ま、ぐれだァ!」
そしてテッドは、苦し紛れに右拳を突き出す。
――その手を、捕まえられた。
「……!?」
「つーかーまーえーたー」
ミコトが口角を吊り上げた。
テッドは左拳で攻撃を繰り出すも、ミコトが腕を振り回すことで、態勢を整えさせてくれない。
「回れ」
枝を振り回しているようだった。
テッドは、振り回される枝になった気分だった。
壁に、地面に、叩き付けられる。
枝が折れるまでとでも言うように。テッドの骨が砕けようと、何度でも。
やがて、テッドは放り捨てられた。
地面を転がる彼は、ひどい有様だ。ミコトに握られていた右拳は砕け、右足は曲がってはいけない方向に折れている。
息はか細く、虫の息であった。
(強すぎる……)
何が、『変異』や『黒死』がなければ、だ。
何が、たった一度殺すだけなら、だ。
何が、相手がデタラメな存在でなければ、だ。
運などで、使徒が選ばれたと思っていたのか。
選ばれたからには、選ばれた理由があるというのに。
ミコトが持つ特異性。
それは才能だ。戦闘――殺し合いの才覚。
戦いの中で伸びる実力に、テッドはあっという間に追い越されたのだ。
(理不尽、すぎる……)
ミコトは、テッドの首を掴み、持ち上げた。
呻き声を上げるテッド、ミコトは睨む。
「答えてもらうぞ。テメェらは何者だ? どうして俺を殺そうとする?」
ミコトは情報を欲していた。
テッドたちの目的を、知るために。
「……、――」
隙だと思った。
そして、想像よりも簡単にいった。
「な、ぐ……!」
短刀が、ミコトの腹に突き刺さっていた。
それは、最初にミコトが蹴り飛ばし、地面を滑っていったもの。
短刀を横に滑らせる。
それだけで、ミコトの腹部から脇腹に掛けて、深く切り裂かれた。
テッドは折れた右足で、傷のある腹部に蹴りを叩き込んだ。
ミコトは呻き、テッドの首から手を離す。
無事な左足で地を踏み締める。
折れた右拳を握りしめる。
これは、テッドにできる最後の反撃であり、最後のチャンスでもあった。
この一撃で、ミコトの意識を刈り取る。そのつもりで、テッドは跳びかかる。
技術も何もない、ただ力を振り絞っただけの拳が、ミコトの顔面に突き刺さり、
「あァ?」
――ギラリ、と。ミコトの鋭い眼光が、テッドを射貫く。
拳が叩き込まれたその瞬間、ミコトは白目を剥きかけた。剥きかけただけ。
意識を失う、その一歩手前までは追い詰めた。
だが、そこまでだった。
脳震盪を起こし、体勢は安定していない。
そんな状態で、しかし、ミコトは倒れない。
「ぐ、ぁ……!」
ミコトの拳が、今度はテッドの顔面に突き刺さる。
もはや持ち堪えることもできない。テッドは地面に激突する。
ふらふらと、ミコトが向かう先は、テッドが所持していた短刀のところだ。
彼はそれを拾い上げ、幽鬼のような足取りで近付いてくる。
(そうか……)
ここに来て、ようやくテッドは理解する。
ミコトの特異性とは、《黒死》の使徒であることではない。
その能力である『再生』や『変異』などでもない。
才能は恐ろしいが、そうじゃない。
――執念。
必ず目的を成し遂げる。
そのためなら、どんなことだってする。そんな、鬼気迫る意志。
能力や才能など、おまけに過ぎない。
「――あんたは……鬼だったんだ…………」
ちらと、テッドはラカのほうを見た。
最初にもらった一発が効いていたのか、立ち上がることすらできなかったラカが。
そんな状態で、テッドを助けるために、痛む体を押して駆けてきている。
だが、間に合わない。遅すぎる。
テッドの首に、短刀が突き立てられた。
一閃。大きく裂かれた傷口から、大量の鮮血が噴出する。
テッドはしばらく痙攣したのち、やがて最期には、生きる意志さえ萎んでいく。
「テッドぉおぉおおおおおああああああああああああああああああああ……ッ!!」
ラカの絶叫が、虚しく貧民街で反響する。
この日、このとき、この瞬間、ミコト・クロミヤの手によって、
――テッド・エイド・ムレイが、死んだ。