第二〇話 彼らの選択
あれは半年前の、下春の中旬。王都に向かう、その道中だったと思う。
まだ、フリージスとリースが裏切っていなくて。
ラカやオーデと出会う、少しだけ前のことだった。
そのとき、鱗馬を休ませるために、馬車は一旦停めていた。
わたしは馬車の上に登ろうと、屋根に手を掛けた。
懸垂の要領だ。
なんとかして体を持ち上げ、なんとかして、こう、ふわっとだ。
「ふんっ」
ふわっと。
「く、ふっぅ」
ふ、ふわっと……。
「ん――っ!」
登れない。
もはや半泣きになっていたとき、先に屋根に登っていた人は、
「サーシャお前、筋力ねえなぁ」
そう呆れた風に言いつつも、引っ張り上げてくれた。
荒い息を吐いて、その場にへたりこむ。
「あ、ありが……はぁっ、はぁ……とう」
「体力もねえなぁ」
体力を整えながら、彼のほうを見る。
黒髪に、疎らに白髪を生やした少年が、腰を下ろすところだった。
「み、ミコトと違って、慣れてないんだよ……」
「いや、これって慣れの問題か?」
ミコトはそう言うが、屋根の角は丸まっていて、滑りやすい。
登ろうとすると力が入らなくなるのだ。
「……次に登ることがあったら、窓枠に足を掛けたらどうさ?」
「あっ、そっか」
わたしは胸の前で、ポンと手を打つ。
ミコトは苦笑すると、大きく伸びをした。わたしも一緒になって伸びをする。
「それにしても、お前がここに登るなんて珍しいじゃんか。なんかあった?」
「……ちょっと、ミコトが暗そうに見えたから」
そう言うと、ミコトは少し驚いたようで、目を丸くしていた。
それからすぐに、「サーシャは騙せねえなぁ」と苦笑い。
「なにかあったの?」
「いんや、別になんもねえよ。……何も、できねえんだよ」
「訊いてもいい?」
「積極的になったなぁ」
ミコトは困ったように後ろ髪を掻いたあと、屋根の上で寝転んだ。
それからしばらく経って、ゆっくりと口を開き始めた。
「俺がこっちの世界に来た日って、一二月二五日……こっちの日付けで言うところの上春二五日な」
彼は何やら計算し始めたようで、虚空を見つめながら、
「で、今って下春二五日じゃん」
「ちょうどミコトがこっちに来て、一ヶ月が経ったんだ!」
「あっ、そういやそうか。感慨深い気もするけど、ひとまずそれは置いといて……なぜにドヤ顔?」
ミコトはその事実に気付いていなかったらしい。
それを教えてあげられたことが嬉しくて、手を腰に当てて胸を張った。
「……まぁいいや。んで、それを地球換算すると、二月八日なわけよ」
ミコトがいた世界は、一年八カ月で一ヶ月四五日のこっちとは大きく違うらしい。
それをミコトは、「計算めんどくせぇな」とぼやいてから、
「誕生日なんだよ、幼馴染の」
「ぁ……」
わたしにとっては、ミコトと出会えて一ヶ月の記念日だ。
だけどミコトにとっては、故郷を去ってから一ヶ月なのだ。
不謹慎だったかもしれない。
謝ろうとして、その前にミコトは言葉を続けた。
「伊月玲貴って言うんだけど、コイツが世話の掛かる奴でな。朝に弱くて、毎朝起こしに行かされたもんだ。目覚まし代わりにしやがって」
幼馴染のことを語るミコトは、とても楽しそうで、誇らしそうで。
「勉強も苦手で、やらなきゃいけないことは後回し。悠真と一緒になって『宿題見せろー!』って迫ってくるくらいだからな。七月中に夏休みの宿題を終わらせる俺とは格が違うのだよ、ふはは!」
だけど同時に、ミコトは懐かしそうに、寂しそうに。
そして、後悔しているように。
「明るくて、人懐っこくて、コミュ力高くて。……ほんと、なんで俺なんか、好きになったんだろうな……」
ミコトがその人のことを、とても大切にしていることが、わかって。
――どうしてこんなに、胸が苦しい。
◆
胸が痛かった。切ない激痛だった。
ずっと昔、ミコトが幼馴染のことを語ってくれたときと、よく似た痛み。
けど、あのときとは違う。
この感情を、こんなに胸が張り裂けそうになるほど抱いたのは、これが初めてだった。
封魔の里が、魔王教の手によって焼かれた時とも。
傷付くレイラに、何もできなかった時とも。
レイラが魔王教に囚われた時とも。
ミコトの慟哭を前にした時とも。
フリージスとリースに裏切られた時とも。
オーデが死んだと、知った時とも。
イヴに乗っ取られた時とも。
狂ったミコトを前にした時とも。
ミコトの行方がわからなくなった時とも。
違う。
こんな痛みを、自分は知らない。
――ミコトと少女が、口付けを交わした光景。
目をぎゅっと閉じて、忘れようとしても。逆に意識してしまって、その光景は脳裏から離れない。
目蓋の裏に焼き付いて、消えてくれない。
喪失感に近いのかもしれない。
でも、どうしてそんな感情を抱いたのか、自分でもわからない。
「……」
ミコトの幸せを望んでいたはずだ。
幸せになってほしいと、願っていたはずだ。
そういう意味でなら、ミコトと少女の仲を引き裂く行為は、正しいはずだ。
ミコトは記憶を失っていて、少女はその隙に付け込んでいるに過ぎないのだから。そのままでは幸せになれないと、確信している。
だけど、ミコトを連れ出そうとした、あのとき。
自分はそんな理屈を考えていただろうか。――いいや、考えていない。
衝動に任せただけだ。本当に、ごく自然に、ミコトと少女を引き剥がしたいと、思ってしまったのだ。
あのとき自分は、ミコトの幸せを、一瞬でも考えただろうか。
「……っ」
浅ましく、醜いと思った。
自分の中にこんな感情があるなんて、知りたくなかった。
ミコトのそばにいたい。そばにいてほしい。
この眼を見て、また綺麗だと言ってほしい。
もう一度、ずっと、手を繋いでほしい。
何度でも、笑いかけてほしい。
――ミコトに会いたい。
ミコトが隣にいると、なぜだか安心できた。
いない今、とても不安で仕方がない。
ミコトの言葉に救われた。
彼に自覚はなかったかもしれないけど、その言葉にわたしは、ずっと支えられていた。
ニヤリという不敵な笑顔に、何度救われただろうか。
立ち向かうと誓い合ったあのとき、なんだってできる気がした。
「――――」
どうして、そう思ったんだろう。
レイラは頭がいいし、器用だ。
ミコトも同じだけど、レイラと違って、すぐに周りが見えなくなってしまう人だった。
グランは強くて、頼りになる。
ミコトも強いけど、グランと違って危なっかしくて、心配で、近くで支えたいと思う。
ラカは勇気があってすごいと思う。
なんていうか、すごく男らしい。ミコトと違って、正しく己を貫いているように思う。
テッドとは付き合いが短いけど、悪い人じゃないことくらいはわかる。
ミコトと同じ男性、歳も近い。でも、ミコトとは違う。
お父さんは……ミコトと似ているところがある。
自分を蔑ろにしてしまうところとか、背負い込んでしまうところとか。
支えたい――そう思うけど、ミコトへの感情とは違う。
フリージスやリースにだって、こんな感情を抱いたことはなかった。
『……ほんと、なんで俺なんか、好きになったんだろうな……』
幻聴。
だけどこれは、確かにミコトが言っていたこと。
あのときわたしは、何も言えなかったけど。
今なら言える。
ミコトは人格者というわけじゃない。聖人みたいに、心が清いわけじゃない。
よくふざけるし、人もおちょくることもある。
でも、わたしを助けてくれた。
赤い眼を綺麗だと言ってくれた。
手を繋いでくれた。
笑いかけてくれた。
ミコトを好きになる理由なら、もっとたくさん――――、
「…………ぁ」
ふと、思った。
ミコトが元の世界に帰ったら。
彼を好きだと言った人に、どう返事をするのだろう。
ミコトは微笑んで、それを受け入れて、それはなんて素晴らしくて、
「――ゃ、だな」
ミコトのそばにいるのが、わたしじゃないと嫌だ。
ミコトが見つめる先に、わたしがいたい。
ミコトと手を繋ぐ人は、わたしがいい。
ミコトが笑いかける人に、わたしはなりたい。
「わたしは、」
やっとわかった。
これは、
この感情の正体は、
「わたしは――ミコトが、好きなんだ」
だけど同時に、ミコトも幸せじゃないと嫌だ。
だから。
ミコトのそばに、わたしはいられない。
ミコトが見つめる先に、わたしがいちゃダメだ。
ミコトと手を繋ぐ人は、もっと素敵な人がいい。
ミコトが笑えるように、わたしは――――。
「――わたしは、ミコトを救う」
ミコトがいつも、自分を蔑ろにしてでも、わたしを助けてくれたように。
今度はわたしが、自分の心を置き去りにしてでも。
◆
ピピピピ。甲高く鳴り響く電子音。
この音を目覚めに聞くと、日本に帰ってきたという実感が湧いてくる。
目覚まし時計の針は、午前七時を刺している。スイッチを押してアラームを停止して、ベッドから起き上がる。
「頭、いってぇ……」
少し寝すぎたのかもしれない。逆に頭がくらくらとした。
昨晩は、どうして早く起きたのだったか――。
寝惚けたまま学生服に着替えようとして、今来ている服がパジャマではなく外出用の衣服だと、ようやく気付いた。
さらに言えば、家の中だというのに靴を履いている。
――あぁ、思い出した。
俺は昨日、大きく消耗してでも、異世界から日本に帰ってきたんだ。
自室に『転移』して、そのまま寝てしまったらしい。
思えば、帰ってくるのは一ヶ月ぶりになる。……その間、アラームの設定は解除されていなかったのか。
どうやら両親は、二人とも自宅にいないらしい。七時前に出かけているのか、そもそも帰ってないのか。
「……」
本来なら一週間に一度は帰り、進級のために学校に通うつもりだったが、《操魔》と協力関係になったことで計画が崩れてしまった。
「流石に留年だろうなぁ」
少しだけ、周りと一歩遅れてしまうことになる。
憂鬱だ。
少しだけ、放置してくれる両親に感謝する。
きっと普通の親だったら、説教のひとつやふたつはあるだろうから。
「まぁ尊は、俺以上に遅れるわけだから、大変だろうなぁ」
アイツは帰ってきて、しなきゃいけないことが多すぎる。
蒼白になる親友の顔を想像して、小さく苦笑する。
その苦笑は、長く続かなかった。
独り言で誤魔化してきた苛立ちが、急速に湧き上がってくる。
「クソッタレが」
記憶喪失だと? ふざけるなよ。俺がどれだけ探したと思っている。
魔王教のDQN集団め、ウザいんだよ。生きていても意味がない存在だって自覚しろよ負け犬ども。
《操魔》の宿主と、その周りの奴らもだ。散々尊を利用しておいて、助けたいなんてよくもほざける。
《黒死》の魔女も、《千空》テンパスも、勝手に他人を使徒にして、人生を弄ぶな。
シェオルのどこがいいんだ。危険に満ちた血みどろの、醜い世界が。
シェオロードなど、魔王に喰い殺されてしまえ。創造神が死のうが知ったことか。
湧き出る怒りに、拳を強く握る。
だが、それでも。殺意を抱いてしまうことだけは、どうしても避けた。
「――――ぁ」
家を出かける寸前になって、スマートフォンの電源を入れて、ようやく気付いた。
今日は日曜日。つまり、学校は休みだ。
私服に着替えた俺は、街を適当にぶらついていた。
目的地があったわけじゃない。気の赴くままに、散歩していた。
見知らぬ地に出歩くことはしなかった。知っている道を歩きたかった。
そうしたら当然のこと、自分がよく歩く道のりを辿ってしまう。
廃校となった小学校。
尊と出会ったのは、ここが最初だ。俺が転入してすぐのことだった。
もうずっと昔のことだ。
懐かしい。
中学校。
尊の様子がおかしくなり始めたのは、ここに通っていた頃だった。
中学校を去ろうとして、ふとグラウンドが騒がしいことに気付いた。
学校の周りを歩くと、フェンス越しにグラウンドが見えるところがある。日曜日だというのに、サッカー部は練習試合らしい。
決着がつくまで見届けて、俺は再び散歩に戻った。
母校が勝利したことに、若干の誇らしさを覚えながら。
尊が中退することになった、高校。
もっと説得を粘ればよかったな、と今さらに後悔する。
ここでの思い出はあまりないので、早々に立ち去ることにした。
行く当てのない散歩だが、もう徒歩で行けるところは少なくなってしまった。
長くこの町で生きてきて、初めてこの町のことをよく知らないことに気付いた。
いつもは尊が引っ張って、いろんな場所に連れて行ってくれたものだが、そこは遠出しないと行けないところばかり。
思えば、尊はけっこう旅行が好きだった。
一人で岬まで叫びに行ったり、富士山まで叫びに行ったり。
叫んでばっかりだな、アイツ。
「…………ぁ」
気付けば、黒宮家の前までやってきていた。
『誰もいないはず』なのに、掃除機の音が聞こえる。
塀が低いおかげで、背伸びすれば中を覗ける。
そうすると、窓から一人の人物が見えた。
明るい茶髪の少女だ。それは、俺もよく知る人の姿だ。
「玲貴……」
彼女の胸の傷は、俺のそれより深いのだろう。
尊に告白して、答えてもらえず。逃げ出したために、尊に庇われた。
そして尊は、この世界から消失した。
玲貴は一般人なのだ。
訳のわからない状況に直面すれば、当然不安定になる。それが、大切な人の消失となれば、なおさらのこと。
彼が死んだのか、どうなのか。
生きていると俺は伝えたが、彼女には根拠のない発言と受け取られているだろう。
わからないから、いつでも帰ってきても大丈夫なように、黒宮家の掃除をしているのだ。
おそらくそれは、尊が死んだとハッキリするか、帰ってくるまで続くのだ。
「あぁ……。俺はここで、何をしているんだ」
尊に会いに行ける手段がある。
連れ戻す力も持っている。
アイツが記憶喪失だからって、それがなんだ。
「――それは俺が、立ち向かわない理由になるはずがない」
すぐに自宅に戻り、異世界での準備を整える。
重すぎない程度の防弾チョッキを着、その上から、破けにくいことが評判のジーパンを着込む。
改造スタンガンを装備して、準備は完了だ。
魔王教なんて怖いはずがない。
《操魔》どもだって利用してやる。
勇者も魔女も、知ったことか。
魔王の事情も知るものか。
「待ってろ」
玲貴、もう少しだ。
「待ってろ」
尊。
俺はお前を、絶対に、
「連れ戻す。必ず――!」
そして空閑悠真は、異世界へと『転移』する。
◆
結局、隠れ潜んでいた何者かは見つけられなかった。
不穏なものを覚えつつも、レイラたちは辺りを警戒しつつ、拠点に戻った。
もし魔王教に居場所がバレたとなると、チアとテュアーテに危害が及ぶ。
早々に拠点を移したほうがいいだろう。
……ミコトをどうするかは、結論を出せずにいた。
生き返るとは言え、仲間を殺すことに肯定的にはなれなかった。
それぞれが内心でどう考えているかは、わからないのだが。
こればかりは、話し合いたい話題ではない。
「会った奴が、自分の意志で決めるほうがいいだろ。誰にも、それを責める権利はないんだからな」
最終的に、話を切り出したのはサヴァラだった。
「ミコト・クロミヤを生かして、記憶が戻るのを待つか。殺して、早々に記憶を戻すか。《千空》に任せるのも選択肢のひとつだ」
つまり、各々の判断に任せる、ということだ。
不安はあったが、誰もそれに意義は出さなかった。
その話を、聞いた者がいる。
階段を降りようとする直前のサーシャだ。
彼女はその意味を噛み締めた上で、何も言わない。
もう決意は、固めたから。
サーシャは何も聞かなかった振りをして、仲間のところへ歩む。
「サーシャ! もう、大丈夫なのか?」
「もう少し休んだほうがいいんじゃない? 顔が真っ青よ」
父と姉が、何かを誤魔化すような笑顔を浮かべている。
二人の『意志』は、なんとなくわかった。
「もう大丈夫だよ。心配してくれて、ありがとう」
「無理してる感は否めねーが、動けるようになって何よりだぜ」
ラカはいつもと変わらない。
隠し事が苦手な彼女に、後ろめたさが見られない。
逆にテッドは、目を逸らしている。
何か後ろめたいことがあることの証左だ。その『何か』を、サーシャは知っている。
二人の別々の『意志』が、なんとなくわかった。
グランは、自分が復帰したことを、素直に安堵していた。
ミコトをどうするかはわからないが……少なくとも、迷いはないように見えた。
「話を聞いて」
皆が静まって、自分に注目している。
思えば、みんなを前に自分の意志をハッキリさせるのは、これが初めてかもしれないと思いながら。
「わたしにひとつ、考えがあるんだけど――」
話し合いの終わったあとに、拠点に現れた者がいる。
日本からシェオルに、世界を跨ぐ『転移』を行った、《千空》の使徒――空閑悠真。
鋭い眼差しに晒される中、彼は深く溜息を吐いた。
『――次は何をする?』
なんで異世界人どもに、指示を仰がなければならないのか。
そんな不満を押し隠して、悠真は協力を求める。
彼もまた目的のために、拒絶感を押し留める。
そうすることで、より尊を取り戻す可能性が高まるのだと、信じて。
たぶんズキュウウンを見せなきゃ、サーシャちゃん気付かなかったから……ごめんよ……筆者にNTR属性はないんだ……。
テッド……? ……NTR属性はないんだ!!(断言)