第一九話 ワイプ - 歯車は回る -
酒場街に戻ろうとして、ユミルやサンに止められて、屋敷の中庭で待つこと数十分。
ミコト・クロミヤが見たのは、傷だらけになったアクィナの姿だった。
「なっ……」
「アクィナちゃん!?」
「大丈夫だよ、簡易的な治癒魔術を掛けておいたから」
絶句するミコトとユミルに対し、アクィナを連れてきたシェルアは、安心させるように言葉を紡ぐ。
シェルアの言う通り、アクィナの傷は表面的なものばかりだ。
とはいえ、心配なことには変わりない。
ミコトがある程度平静でいられたのは、バッサの存在があったからだろう。
彼女は自分以上に顔を青くし、取り乱していた。
「アッァァァアアアア! アァあ、シェルア様が付いていながら、なんということです!? アクィナ様が、アクィナ様から血がぁぁああ!?!?」
「……ボクはあっちに行ってくるから、この子をお願いね、ミコトお兄さん」
シェルアは、アクィナをミコトに預けると、バッサを鎮めに向かった。
バッサに語り掛けるシェルアは無表情で、その心内を押し留めているように見えた。
二人の会話から意識を外して、ミコトは腕の中のアクィナを見る。
血だらけだった。痛ましくて堪らない。
「大丈夫か、アクィナ」
「……みぃ、くん?」
ミコトが声を掛けると、アクィナはゆっくりと目を開いて、表情を喜色に染めていく。
抱き着いてくるアクィナを……戸惑いながらも、抱き返す。
「えへへぇ……みぃくん」
「体は、大丈夫なのか? こんなに血を流して……」
「う、ん。これ、くらい……なら。だい、じょーぶ」
言うと、アクィナの傷口から赤い蒸気が噴き出した。
すると、みるみるうちに、傷口が治っていく。蒸気が収まると、傷一つないアクィナの姿があった。
「治ってよかった……」
「ああ、そうだな、ユミル。けどアクィナ、今のそれは?」
治ったことの安堵もあったが、謎の現象への疑問を抱いた。
アクィナは、どう説明するか迷っているようだった。
ちょうどそのとき、シェルアが戻ってきた。
「それはアクィナが、《聖水》の使徒だからだよ」
「《聖水》?」
それは確か、勇者の呼び名ではなかっただろうか。
「まぁそれはともかく、この娘には固有の能力があってね。超回復力もそのひとつさ」
落ち着いたのか、バッサは涙を拭いながら戻ってきて、アクィナの代わりに説明を加える。
「その超回復力も、『血界』の副産物に過ぎません。軽傷で済んだのも『血界』があってこそでしょう」
「アクィナの体内空間は、見た目以上に膨大だからね。でも、肉まで届いたのは驚いたよ」
ミコトは二人の会話に、ほとんど付いていけていなかった。
断片的な情報から推察するしかない。
「つまるところ、アクィナと魔道バッグは同じってことか?」
見た目、人の胴体くらいの大きさのバッグに、大量のものが入る理由。
それはバッグの中で、空間が圧縮されていたためだ。
「まぁ、そんな感じだね」
「……ばっぐ、じゃない」
シェルアは軽く頷いたが、アクィナは不満そうだった。
ミコトは「悪い」と苦笑し、アクィナの髪を撫でる。
色素の薄い、綺麗な青い髪は、真っ赤な血で染まっている。
「バッさん、アクィナを頼む」
「承りました」
ミコトから受け取り、バッサはアクィナを抱き上げる。
「みぃ、くん?」
「ちょっと先に、屋敷に戻ってくれ。ちゃんとあとで行くからさ」
「……ん」
屋敷に戻っていくアクィナとバッサを見送って――ミコトは右拳で、地面を殴り付けた。
ズドン、と地面が鈍く振動する。
横にいたユミルは驚き、シェルアは目を細める。
ミコトの拳が赤いのは、アクィナの血が付いている、というだけではない。まして、地面を殴って出血したわけでもない。
あまりに強く握りしめたことで、真っ赤になっているのだ。
それは、強い怒りを感じたから。
「許さねえ……!」
茶髪の少年と、銀髪の少女の、悲しそうな目など、どうとも思わない。
この胸の痛みはきっと、いや間違いなく、彼らへの憎しみなのだから。
◆
酒場街での戦闘、その翌日。
王都下層北区にある貧民街の一角は、ひどく鬱屈した空気に支配されていた。
建物と建物の隙間にぽっかりとできた広場に、五人。レイラ、グラン、ラカ、テッド、サヴァラが、情報共有のために集まっていた。
そして、サーシャとユウマだが、二人はここにいない。
サーシャはテュアーテたちの家の二階で、布団に潜ったまま。
ユウマは行方知れずという状態だ。
今、集まっている面々も、顔色がいいとは言えない。
エインルードの一件以前から旅をともにしている者は、特に気分が悪そうだった。
それも、仕方ないのかもしれない。
「まさか、ミコトが記憶喪失なんてな……」
重々しい空気の中、胃の中のものを吐き出すように、ラカは言った。
ミコト・クロミヤは、全てを忘れていた。
一年近くともにした旅も。おそらく、異世界でのことも。
「時間が経てば思い出さねーか?」
ラカの言うそれは、楽観的で最も望ましいが、希望はないだろう。
その点、特にレイラは絶望的だと考えていた。いくらでもアプローチを掛けられた、サーシャが記憶喪失のときも、思い出したのは最近だ。
「それはないだろう」
否定したのはサヴァラだ。レイラの推測と同じだったが、そこには勘とは違う、確信めいたものがあった。
「《虚心》の使徒がいたんだ。三年半前、里を焼いた奴だ」
「馬鹿な。バーバラ・スピルスは半年前に殺したはずだ……!」
グランは大きく動揺していた。レイラも同様に絶句している。
殺したはず。命が尽きた姿を、この目で確かめたのだから。
まさかミコトのように『再生』を持っているわけではないだろう。それは命属性の範囲だ。
新しい《虚心》の使徒が生まれたにしても、半年ではまだ赤子のはずだ。
レイラから旅の経緯を聞いていたサヴァラは、使徒殺しの偉業に驚くことなく話を進める。
「確かに昨日現れた奴は、バーバラじゃない――体は、な。奴は名乗るとき、体はフィラムだと言ったんだ。憑依先の、と付け加えて」
レイラは眉を寄せて、バーバラの言葉を思い出していく。
そうだ。あの老婆は名乗るとき、妙にまどろっこしくはなかっただろうか。
「……まさか」
いくつかの可能性が思い浮かぶ。信じたくない可能性が。
レイラは生唾を飲み込んでから、ひとつひとつ挙げていく。
「他人の心を上書きしたか、取り憑いたか……」
「上書きはないだろう。使徒の力は魂に宿る。心を上書きして同一人格の存在を作ろうと、魂が別物では力が宿らない。となれば、」
「取り憑いた――本当に本当の、『憑依』……ね」
誰ともなしに、重い溜息をこぼした。
サヴァラは頭痛を覚えたように、くすんだ銀髪の頭を抑えながらぼやく。
「しかもバーバラのときとは違って、スロットに干渉できると来た。演算を狂わされては、魔術が使えない」
魔術を使うための術式演算領域は、心の内に存在するスロットにある。
なるほど、心の範疇だろう。最悪だ。
実力が圧倒的に上の相手に、魔術を使わせてもらえない。
加えて、万が一にも肉体を殺せたとして、『憑依』されれば意味がない。
「魔王教が台頭したのは、およそ四百年前。《虚心》の使徒が設立したのだと聞いていたが……まさか、そのときから生きてるんじゃねえだろうな」
暗い空気をぶち壊したのは、今まで黙っていたテッドだった。
手を鳴らし、注目を集める。
「話を戻そう。サヴァラさん、なぜ《虚心》の使徒がいると、ミコト・クロミヤが時間経過で記憶を取り戻せないんだ?」
「……《虚心》は心属性を司る。どこまで心を操れるかはわからないが、手元に置いた者の記憶に干渉するくらいならできるはずだ」
「根拠は?」
続けざまのテッドの質問に、サヴァラは一度レイラのほうを窺ってから、続ける。
「サーシャが記憶を失ったのは、《虚心》の干渉を受けたからだと考えている。ユミルという子も、記憶の混乱が見られたそうだな? そして、今回の件だ」
「多いな。それも、不自然なくらいに」
腕を組んだラカの呟きに、サヴァラは頷いた。
そう。記憶喪失なんて珍しい事例が、こんなに頻発する確率は、そう高くない。むしろ、なんらかの干渉を受けていると考えたほうが納得がいく。
レイラは、サーシャの記憶喪失が故意的に起こされていた可能性を知り、ひどく衝撃を受けていた。
それが、サヴァラが発言を躊躇った理由だ。
テッドも、《虚心》の使徒の所業には不快感を覚えたようで眉根を寄せていたが、話を続ける。
――――
「ということは、シェルアって奴を殺せばいいのか?」
「おそらく、それはない。バーバラが死んでも、サーシャは記憶を取り戻さなかったんだろう?」
『憑依』する《虚心》の使徒を、本当の意味で殺せるか。
そもそもの話だが、サヴァラはシェルアを一度として殺せるとは思っていないのだ。
「サーシャが記憶を取り戻したのは、一度イヴを目覚めさせたから……だったか? 同じような衝撃を与えれば……というのは難しいな」
グランの言葉が曖昧なのは、当時は瘴気に侵されていたために、記憶が朧げなためだ。
後日、サーシャが記憶を取り戻したと知っても、碌な反応もできずに呆けていたことは憶えているが。
「……いや。可能性が、ひとつだけ、ある」
皆の希望の視線が、サヴァラの元に集まる。
レイラは、その方法をサーシャに伝えれば、気力を取り戻せるかもしれない、と思った。
だが、サヴァラが告げたのは、残酷な方法ただひとつ。
「――ミコト・クロミヤの殺害だ」
息を、飲んだ。
「ミコト・クロミヤの記憶喪失が、《虚心》の力を受けているためというなら、一度殺してリセットすれば――」
――――
かさり、と、
物陰で唐突に、物音がした。
「誰だ!?」
グランが広場を跳び出し、辺りを見回す。
閑散とした貧民街には、人の姿がない。
誰の姿も、見えなかった。
微かに一瞬感じていた気配も、もう感じることはできない。
「誰かいた?」
戦闘態勢で家から出てくるレイラたち。
グランは屈み、地面を撫でる。
「誰かは、いたみたいだ」
そこには、走り去ったために付いた靴跡が、くっきりと残っていた。
◆
屋敷の応接間にて、長方形のテーブルを囲むように、三人の人物が座っていた。
一方のソファーには、ミコトとシェルアが隣り合うように。
対面のソファーには、白髪赤眼の少年、ルキが座っている。
彼らは三人とも、テーブルの上に置かれた水晶玉を、睨むように見つめている。
刻印が刻まれたそれは、音を記録する魔道具だ。
魔力を流れて、刻印が淡く光っている。
『――ミコト・クロミヤの殺害だ』
一通りの音声を再生し終わったことで、魔術の効果が切れる。
水晶玉からは一切の音がしなくなり、部屋には沈黙が降り立った。
「なん……だよ、それ」
震えた声で、ミコトは呟いた。
録音の魔道具を届けてくれたのは、ルキだった。
透明化の魔術を使って、敵の動向を調べていたのだと言う。
そして、その内容とは、
「シェルアを、殺すとか……。俺を、殺害するとか……」
録音できた会話は短く、前後で何が話されていたかはわからない。
彼らが具体的に、どういった動きをするかもわからない。
そもそも、彼らが何を目的としているのか。
ミコト・クロミヤの記憶に用があるみたいなことを言っていたが。なのに殺して、どうするというのだ。
もしかしたら、記憶を失う前の自分は、知ってはいけないことを知ってしまったのだろうか。
(いいや、そんなことはどうでもいい)
彼らが通る道には、この屋敷での日常がある。
通り過ぎたあとには、日常が戻ることはないだろう。
「それだけは、許さねえ……!」
ここには大事なものがある。大事な人がいる。
お節介焼きの妹がいて、世話のかかる幼馴染がいて、人懐っこい妹分がいて、頼れる家族がいて。
他にもいっぱい、ここには守りたい者がいる。
大切な日常が。ずっと待ち望んでいた気がする平穏が、ここにある。
それを奪う奴は、誰が相手でも。
「死なす――殺す!!」
ミコトは心を固めた。
微かな違和感を覚えながら、目を逸らして。
その決意が根本的に間違ってることに、ずっと気付かないまま。