第一八話 《虚心》のシェルア
酒場街に空間の断裂が広がる、その直前のことだ。
サーシャと離れ離れとなってしまったサヴァラは、酒場街に辿り着くことができないでいた。
その理由は、サヴァラの目の前で立ちふさがる人物のせいだ。
それは鱗族の男だった。
針金のように硬化した深緑の髪。縦に割れた血色の瞳は、狂気を孕んでいる。
体のところどころは、爬虫類のような深緑の鱗に覆われている。
「やあ、君がサヴァラ・セレナイトだね?」
「……テメェは、魔王教徒か」
「うん、なるほど、とても恵まれているようだ。優れた魔力、強靭な肉体、戦う才能――あぁ、これは『公平』じゃぁない」
一見、冷静。しかし会話にならない。
彼に言葉を交わす意志はなかった。
鱗族の唇が弧を描く。
両手をバッと広げ、彼は高らかに名乗りを上げた。
「すべてを『公平』に『平等』にッ! それこそ、この俺に与えられた使命! この俺こそが《公平卿》――ドラシヴァだァ!!」
「話にならねぇ――なッ!!」
直後、両者は激突する。
サヴァラの得物は斧槍、ハルバードだ。担い手はそれを用いて薙ぐ。
ドラシヴァの得物は、強靭な自身の肉体。狂笑を上げ、爪で切り裂かんと振り下ろす。
斧槍の刃が横、鉤爪のように鋭い爪が縦。
その接触は、ドラシヴァを一方的に弾き飛ばした。
ドラシヴァが着地する寸前、サヴァラはすぐさま接近する。
今度の交錯、ドラシヴァは速さを重視する。
相手の体を削り取ろうと右爪を振れば、ハルバードによって逸らされる。
返す刀でハルバードを振れば、ドラシヴァは左手で斧槍の柄を掴み取ろうとする。
得物がハルバード一本のサヴァラに対して、ドラシヴァは全身だ。
もちろんサヴァラとて、無手での戦いができないわけではない。だが、サヴァラの手数には劣る。
よって、サヴァラは一撃を受け入れた。
左肩の肉が、浅く削がれる。その痛みを耐え、ハルバードを力強く突き出した。
右腕を振り抜いた形となっているドラシヴァ、防御の手段は左手一本。
強烈な一撃に、ドラシヴァは堪らないとばかりに後退した。
一泊の停滞。
それこそが、戦いが長引けば不利だと判断したサヴァラが、待ち望んでいた時間だった。
――魔力を精製する。
一瞬の油断が死に繋がる近接戦闘で、魔術を発動させる暇はない。
だがこの瞬間なら、
「『イグニモート』、『アクエモート』、『エアリモート』、『グロウモート』」
脳の制限を緩め、肌が薄い黄色の光を灯し、赤いオーラが体を包み、その外側を風が覆う。
四種の身体強化の重ね掛けだ。
サヴァラは改めて、ドラシヴァと対峙した。
その佇まいを見やったドラシヴァは、大きなため息をこぼした。
「せっかくこの俺が公平にしようとしているのに、どうして拒むのか、理解できないな」
「目的を成し遂げるのは、それと同等の労力って奴がいるのさ。つまり、テメェの労働力じゃぁ、俺に届かないってことだ」
「なるほど、よくわかった。ではこの俺も、労力を割くとしようか」
ドラシヴァが纏う雰囲気が変わった。
瘴気に覆われ、その体がビキビキと唸る。
肉体が変質していく。人型から、異形へと。
――その、直前のことだった。
「こ、ここここ、ここう《公平卿》ゥゥゥゥゥうううううォォォォオオオオオオオオオオオ――――ッ!!」
まだ変化の途中の、全身が鱗に覆われたドラシヴァに、襲い掛かる者がいた。
サヴァラではない。
乱入者は、背中から一対の白い翼を生やした、羽族の男だった。
その容姿は美しく、金髪と碧眼が見る者を感嘆させるほど。
顔面左上を覆う白い仮面すら、彼を美術品として引き立てていた。
しかし、端麗なはずの容姿を、彼は憤怒に歪める。
「こンの僕ぅ、美しいぼぉくの顔に、よぅくも傷をォォォ!!」
「ルシャくんじゃないか、久しぶりだね色男!!」
ドラシヴァはルシャと呼ばれた乱入者と対峙すると、瘴気を引っ込めて戦いを始めてしまった。
サヴァラを放置して、だ。
突然現れたルシャだが、サヴァラを助けようと思ってのことではないだろう。
彼の台詞を聞く限り、私怨での復讐か。
協力して戦うことはできないだろう。
というより、サヴァラのほうに協力する気がなかった。
どちらも魔王教徒か、その関係者に違いない。
サヴァラのほうが、協力することを拒んでいたのだ。
サヴァラは戦闘を放置することに決めた。
激情の哄笑、憎悪の咆哮を背後に、サヴァラは酒場街へと向かう。
そこで見たものは――倒れ伏す娘と、嘲笑する白髪の少女。
「あ、アアアアアアアアアアァァアアアアアア……!!」
サヴァラの心内が憎悪に染まる。
少女を切り裂かんと、ひたすらに走った。
――空間の断裂が広がったのは、この時点でのことだった。
まるで世界が崩壊していくかのような光景に、逆にサヴァラは冷静になった。
それは、己の娘を守りたいという想いがあったがため。
火、水、土の身体強化を解き、スロットの演算をすべて風へと回す。
まさに風の速さとなったサヴァラは、掬い上げるようにサーシャを担ぎ上げた。
白髪の少女は、サヴァラの存在に気付いていたようだったが、見逃した。
世界が壊れていく光景に、彼女は頬を紅潮とさせていた。くるくると回るように、上空から降りてくる罅を回避する。
空間が甲高い悲鳴を上げる。
先ほどまでサーシャがいた景色に、一本の亀裂が入る。それは地面の底まで延び――亀裂が修復された瞬間、大地に穴が開いた。
防御に意味はなく、回避だけが選択肢だ。
サヴァラは亀裂の雨を潜り抜け、腕の中に抱え込んだサーシャの無事を確認した。
「おいサーシャ、しっかりしろ! サーシャ!!」
生きている。が、安堵はできなかった。
顔色は悪く、血の気が引いている。体は小刻みに震え、正常な状態ではなかった。
「やぁやぁやぁ、サヴァラ・セレナイトじゃないか。久しぶりだねぇ」
必死に呼びかけるサーシャに、声を掛ける者がいた。
それは先ほど、サーシャを嘲笑していた白髪の少女だ。
世界に亀裂が入った、そんな異常な光景の中で、少女は恍惚としている。
景色の亀裂が修復するのは早かった。元通りの世界、しかし辺りの建物は傷だらけだ。
少女の興奮は、次第に収まっていった。彼女は改めて、サヴァラの前に立つ。
「……誰だ?」
記憶を探るが、彼女のことはわからなかった。
似た容姿は知っている。しかし、彼女個人に会った覚えはない。
「ふふふ、ふふふふふふっふふふ、わからないんだねそうなんでねぇ。では、自己紹介させてもらおうかな、もらっちゃうよ。いいよね、いいよー」
そして、彼女は。
ずっと伏せてきたことをネタ晴らしするように。
誕生日の終わり間近に、プレゼントを渡すような笑顔を作って。
「今回の『憑依』先の体は、フィラム・スピルス! 中身は、あるときはシェルア・スピルス! でも今はシェルア・クロミヤって呼んでね? それでそれでその正体はぁ――《虚心》の使徒、ってわけさァ!」
サヴァラは、スロットに謎の不快感を覚えた。
何かの干渉を受けた、そうわかった直後、身体強化魔術が暴走する。
自身の『エアリモート』によって、サヴァラの肉体はずたずたに切り刻まれた。
◆
――酒場街での空間断裂、その後に到着したのは、ラカとテッドの組が最初だった。
辿り着いたラカは、さっそく辺りを探る。
その光景は、すぐに見つかった。
「得意の魔術を封じられてぇ、足手纏いを抱えてぇ、どぉんな気分かなぁサヴァラ・セレナイトくぅぅん!」
「シェルア・スピルスぅぅぅァァァァアアア――!!」
「チッチッチッ、クロミヤのほうだよサヴァラくん。あぁ、キミの刃は決してボクに届かない。愛した《操魔》の宿主のために戦い続けた半生も、里が焼かれてからの三年半も、これから続く短い一生も、永遠にねェ!!」
戦いがあった。
サヴァラと、憎々しげにシェルアと呼ばれた、見知らぬ白髪の少女が戦っている。
戦況は圧倒的に、サヴァラが不利だ。
全身から血を流すサヴァラに対し、シェルアは悠々と、余裕をもって魔術を放つ。
サヴァラはそれを、魔術なしに対応する。
ハルバードと火弾が接触。
弾いた瞬間、魔術は爆ぜる。爆風に晒され、サヴァラは吹き飛びそうになる。
それでも踏み止まるのは、彼の背中に娘の姿があったからだ。
サヴァラが逃げることなく戦っているのは、サーシャを守るためだ。
「サヴァラ!」
「サーシャを頼む!」
ラカの呼び声に対し、サヴァラは視線を向けることなく、サーシャを託す。
サヴァラの助けに入りたい気持ちを我慢して、ラカはサーシャの元に駆け寄る。
テッドは駆ける。体の軽いサーシャを担ぐのは、ラカ一人で十分だ。
崩壊した建物を蹴り、シェルアの背後から拳を振るう。
「なっ!?」
しかし、その攻撃は届かなかった。
テッドの顔面近くで、空気が炸裂したからだ。
離れた座標で魔術を発動させる、高度な技術であった。
魔力感知に優れていたなら避けられただろうが、テッドに魔力資質はない。
その衝撃に、まったく対処できずに吹き飛ばされた。
幸いなのは、衝撃波に殺傷力がなかったことか。
テッドは空中で体勢を立て直すと、膝を屈めて衝撃を殺し、着地した。
テッドは鼻血を拭い、シェルアを睨む。
シェルアはテッドのほうを見ることなく、サヴァラに注視することもない。
彼女は、ラカに肩を貸してもらって立ち上がった、サーシャのほうを向いている。
「そろそろ終わりにしようかな。アクィナも大変みたいだしね」
次の瞬間、シェルアを中心に数多の魔術が展開された。
どれも初級、しかしあまりに数が多い。五十、いや百はある。
「どうぞ生き残ってね。そして、利用されることを幸運に思うといいよ。まぁ、そこの《操魔》は仕方なく生かしてあげるけど――それ以外は死んじゃったらそれまでってことで、ゴメぇンねェ?」
瞳が青から、血色へと。
シェルアの唇が、愉悦に弧を描く。
「逃げろぉおおおおおおおッ――――!?」
絶叫に近いサヴァラの声に、ラカたちは決死の逃走に入った。
その瞬間にはすでに、魔術の嵐は掃射されている。
降り注ぐ炎が、酒場街を完膚なきまでに破壊し尽くしていく。
まさに雨、暴雨。
人は雨を避けられるだろうか。
隙間なく落ちてくる雨粒を、地面からの水飛沫を。
当然ながら、不可能だ。
だからサヴァラたちが避けられたのは、別の要因が絡んでいる。
暴雨に対し、比喩ではなく暴風が吹いた。それは、暴雨を止めるには至らなかったが、勢いを緩めることには成功した。
その間にサヴァラたちは暴雨の圏内から逃れることができた。
振り向いても、シェルアが追ってくる様子はない。
余裕の表れか、傲慢か。どちらにせよ、言葉通りに見逃されたらしい。
「サヴァラさん!」
声のほうに向けば、レイラとグランが走り寄ってくるところだった。
どうやら先ほど暴風は、レイラの魔術らしい。
成長したなと、サヴァラは誇らしい気持ちになりながら、同時に疑問に思う。
(なぜシェルアは、レイラの魔術を乱さなかった? すでに興味を失っていたか、それとも――)
思考は続かなかった。
戦闘が終わったことで訪れた安堵が、サヴァラの意識を闇へ引き込んだ。