断章 果たせぬ風月の復讐鬼
――夢を、見た。
◇
そこはシェダル帝国の、とある片田舎だった。
名を、ティーラ村と言った。
見下ろすと、海が見えるような丘に作られたティーラ村は、風を多く受ける。
そのためか、至るところに石垣や、風車が設置されていた。
この一帯は晴天の日が多く、温暖な気候に恵まれている。太陽光は空から直接、また海や石垣で反射し、丘を照らしている。
そうした環境が適していたのだろう、この村ではミカンが栽培されていた。
丘の斜面にずらりと並ぶミカン畑は、オレンジ色の果実が実り始めていた。
ミカンは種類によって収穫期が変わる。ここで栽培しているミカンは、下秋の初旬が最も美味しい。
現在の季節は上秋の中旬、そろそろ収穫期だ。
村では収穫準備の真っ最中であり、老人から子供まで、農具の手入れに駆り出されていた。
もっとも、全ての村民が、精力的に取り組んでいたわけではない。
世の中には、どこにだって不真面目な輩は存在する。特にそういう者は、思春期真っ盛りな子供に多く見られた。
私は、そんな不真面目な者の一人だった。
「お姉ちゃーん!」
幼い少女の声に、私は立ち止まり、溜め息をこぼして振り返る。
そこにいたのは案の定、見覚えのある姿だった。
私と同じ緑の髪に、緑の瞳。
彼女は走ってきたらしく、今は荒い息を整えていた。
ネイト――今年で一〇歳になる、私の妹だ。
「サボりはだめなんだよっ」
「それを言うためだけに、わざわざ追いかけてきたの? 村に戻って来いって?」
「お姉ちゃんだけズルい! わたしも連れて行って」
どうもネイトは、私のことを慕っているらしかった。
そこが少し、不可解だった。
私は愛想がなく、協調性もない。
冷めた思考で、会話が面倒と思ってしまう。
早熟すぎて、無自覚に周囲を見下している。
それが私。今年で一五歳となる、ヘレンという『普通の少女』だった。
「わぁ、すっごーい!」
ネイトが感嘆した。
場所は石垣の上。目の前に木々はない。
ずっと先まで続く青い海、広い青空。
そして、白い港町。白壁の家屋は、遠目なら汚れが目立たない。
その距離感、視界を埋める空、海、街の割合。
それが、最も映えるこの場所が、私のお気に入りだった。
ネイトと石垣に腰掛けながら、ぼうっとその光景を見続ける。
時の流れに身を任せて、ただぼうっと。
とても好きで、なぜか懐かしいと思う。
この時間が、ずっと続けばいいのに――、
「お姉ちゃん」
気付くと、ネイトが私の手を握っていた。
訝しがる私を、ネイトが不安そうに見上げていた。
「どこにも、いかないよね……?」
「なに、それ?」
「その、うまく言えないんだけどね……。お姉ちゃんが、消えちゃいそうな気がして……」
容量得ない言葉に、思わず苦笑する。
手を軽く握り返して、そして――どんな表情を浮かべればいいのだろう。
悩んだ末、たまに夢に出る女のような不敵な笑みを、慣れないながらも浮かべた。
「私は、どこにも行かないよ」
「――そっか。よかった」
心底安心したように、ネイトは安堵していた。
そう、私はここにいる。ここが大好きなのだ。
……大好き、だったのに。
翌日も、そのさらに翌日も、ネイトともに、あの石垣に行った。
時間帯が少し変わるだけで、この景色は大きく変化する。
明るい世界、静かな世界。
見ていて、飽きることはなかった。
ただ、絶対に決めていることがある。
――夕方にだけは、この場所に来ない。赤は、大嫌いな色だったから。
しかしその日は、ネイトの強い要望もあり、夕方の景色を眺めることになった。
◇
初めてこの場所に、夕方に来た。
しかし、絶景に簡単することはなかった。そもそも今回この場所に来たのは、景色を見るためではない。
周囲の大人とともに見る、眼下に広がる光景に、ただただ呆然とした。
町から煙が上がっていた。破壊され、崩壊している。
白濁したような色彩の、巨大な蛇がいる。否、あれは伝説に聞く龍と称するのが相応しいだろう。
離れていてもわかるほど、巨大。どぐろを巻いて、町ひとつを押し潰している。
純白を貶めるように白濁した、一対の翼が空を覆っていた。
「 ァ ア ア ァ ッ ! 」
邪龍が咆哮した。
そう認識したのは視覚だ。聴覚はあまりの轟音に麻痺した。
音は振動波だ。大地が震え、木々は騒めいた。
呆然と見ていた私は、あまりの衝撃に尻もちを付いた。
「ま、ぞく……」
たびたび襲撃してくる魔族とは、完全に別格の存在だった。
縦に割れた血色の瞳が、世界を睥睨する。
――『魔法』という、魔術とよく似た技術が存在する。
術式で世界を改変する魔術とは違い、魔力をそのまま現象に変えるのが魔法だ。
使える者は神族などと特殊な種族や、後期の魔族。人間で使えるのは、限られた者だけだ。
その邪龍は、間違いなく後期の魔族だった。
となれば、魔法を使うのは不思議なことではなかった。
翼が羽ばたき、巨体が上昇する。
翼は確かに巨大だったが、あの巨体を上昇させるほどの大きさではないと思えた。滑空すら難しいだろう。
しかし、何らかの力が働いているのか、邪龍は浮き上がってみせた。
突風が吹き荒れ、風の刃が飛び交った。
そのうち一つは、尻もちを付いた私の頭上を通り、後ろに大人が――切り刻まれた。
上半身を切り飛ばされた。血に足を付く下半身と、上空を舞う上半身の断面から、大量の血液が噴出する。
「……え?」
それが魔法であると、そう認識する前に、私は動いた。
慌てて立ち上がり、妹の手を引いて走り出した。
「お、お姉ちゃん! 腕、痛いよ!」
「文句言わず走りなさい、死にたいの!?」
そう言いながら、自分が妙に冷静なことを、私は自覚していた。
頭が痛い。脳が蕩けそうだ。胸の内が沸騰するように熱い。なのに、思考だけは冷たく凍えていく。
この正体不明な感情のまま、邪龍へ突撃しようとしないで済んでいたのは、この手に繋ぐ妹の存在があったからだ。
ネイトを守らなくては――その意志が、感情を抑え込んでいた。
ドン! と、目の前の地面が爆ぜる。
土砂が噴き上がり、地を割って表れたのは、暗緑色の蛇だ。
その頭は、人の頭と同程度。子供である私たちなど、簡単に飲み干せる。
しかも、だ。
ドン! 地面が爆ぜる。何度も爆ぜる。私たちを取り囲むように。
蛇、蛇、蛇、確認できるだけでも十匹はいる。
赤い眼光が、舐め回すように私たちを見ていた。
手からネイトの震えが伝わる。私はネイトを引き寄せ、左手を振るう。
「――『エアリアーム』」
直後、私の手の中で、風が形を持った。
振るわれたそれは、すでに鞭の剣へと変じている。
跳ね飛ばされる十匹の蛇。
しかし、それで終わりではない。地中から現れる蛇は、まだまだいる。
また囲まれる前に、私はその場を脱した。
「なに、あれ……!?」
「考えるのは――」
――あとで。
そう言おうとして、ネイトの動きが鈍った。
手を繋いでいた私は、態勢を崩して転倒する。
「……あぁぁぁあっぁああああああ!?」
ネイトの絶叫が聞こえた。
ひどく痛々しい、今まで聞いたことのない、絶望の悲鳴だった。
「だ、だいじょ……う、ぶ?」
「いたいっ、いた。い……よ、ぉ、ぁ……っ」
ネイトの左足が、膝から先が存在しなかった。
視界の隅に、赤い目をにやけさせ、ネイトの足を咀嚼する、蛇の姿があった。
慌てて手を構えようとして、その手は新たに地中から生えた蛇に捕らえられる。
こきゅ、という音がした。蛇の腹で締め付けられた左腕が、雑巾を絞るように捻られた。
「――大丈夫か!?」
絶体絶命の窮地を救ったのは、私とネイトの父だった。
風を纏ったナイフが一閃。左腕に絡み付く蛇が刈り取られた。
「家に戻れ、母さんのところへ行け、早く!」
「で、でもっ、父さんが……!」
私は知っている。父に戦う才能がないことを。ただ、多少魔術が使える程度なのだということを。
ともすれば、私よりも弱いと思うくらいには。
だが、父は。
私が思っていたより、ずっと強かった。
震える膝を覚悟で鎮め、眼光は鋭く、蛇を睨みつける。
ちらりと見えた父の顔は、何か未練を残しているようで、しかし、優しげな目で。
「結局お前には、父親らしいことはしてやれなかったなぁ」
「とう、さん」
「行けええええ、ヘレンっ!! ネイトを守れ!!」
そうだ。
妹を守らなきゃ。
守るんだ。
守りたいんだ。
私は歯を食いしばって、父のところに残りたがるヘレンを、なんとか抱えた。
途中、背後から絶叫が聞こえた。
振り向けば、四肢を抑えられて宙に浮き、大量の蛇に喰われる父の姿がある。
「――ッ!!」
同じく振り向こうとするネイトを無理やり前に向かせ、私は走り続けた。
しばらくすると、私たちの家が見えてきた。
扉を開けると、漂ってきたのは血生臭い、異臭。
白濁と、赤。
凌辱され、穢され、死ぬまで犯された母の姿が、そこにはあった。
母の前には怪物がいた。
三メートルを超える人のような体に、牛の頭。
牛頭人身の怪物が、そこにはいた。
怪物が赤い目をにやけさせた。
直後、衝撃。私はいつの間にか、家の外で転がっていた。
少しの間、気絶していたらしい。
ネイトはどこだ。悲鳴がした。
――ネイトが喰われる瞬間を、見た。
父が死んだ。
母が死んだ。
妹が死んだ。
最期に声を交わすこともなく。
理不尽に。
不条理に。
そして。私は思い出した。
そうだ――この感情は、憎しみなんだ――――。
そうして私は、自身が持つ力を自覚した。
家族は失い、故郷も滅び、何もかも手遅れな状況で。
守るのは今さらすぎる。
なら、私にできることはなんだ?
「――殺す」
私が意識を取り戻したとき、魔族の襲撃はやんでいた。
地中から大量に現れた蛇や、巨大な邪龍の行方はわからない。
爪を砕かれ、毛を毟られ、皮膚を剥がされ、肉を潰され。
元が顔面が、いったいなんだったのかもわからないほど壊れた、三メートルを超える巨体を風で粉々にして。
私は、嗤った。
緑の眼を、体に満ちる魔力の影響で、青く変え。
瞳の中には血色の憎悪を宿して。
頬を伝うものは無視した。
◇
時は流れ、彼女は出会う。
孤独に闇を彷徨っていた、一人の男と。
「ふざけんなよ……!」
別れを告げて、怒鳴られた。
彼は、初めて自分が、事情を話した男だった。
「勇者とか魔王だとか、自分は選ばれた存在だとか、自意識過剰なんだよ! てめぇどんだけ夢見てんだ、寝言は寝て言えよ!」
夢など見ていた覚えはない。
いつだって現実を見てきた。悲しく惨い、この世界を。
「それでぇ? 使徒とやらになって、魔族やら魔王やらを殺すぅ? ハッ、自分の力にぶるぶる震えてる女が、調子に乗ってんじゃねぇ」
彼の言いたいことが理解できなかった。
ただの貶しとは感じなかったが、少なくとも激励はされていないのだろう。
そして彼は、そっぽを向きながら言ったのだ。
「……しゃぁねぇから、しばらく面倒みてやらぁ。報酬は体で返せよっ」
そこでようやく、心配されていることを知った。
最後の一言こそ余計だったが、それも照れ隠しと思えば、可愛らしいもので。
彼女は久しぶりに、笑ったのだった。
それが彼らのプロローグ。
たとえ最期が悲惨なものだったとしても。
二人は救い、救われて。
その出会いはきっと、意味が――。
◆
――夢が、覚めた。
(ラウス)
岩の刃が落ちてくる。
(貴方と出会えて、)
それはまるで、断頭台のように。
(よかっ――)
……。
……。
……。
今回出た邪龍は、ケツァルコアトルを参考にしました。この名前には「羽毛のある蛇」という意味があるらしいです。
元々はウロボロスを参考にする予定だったんですけど、ウロボロとかヨルムンガンドの姿がわかんなかったので、結局ケツァルに。
wiki情報ですが、ケツァルも己の尾を噛む描写がされているところがあるそうです。真偽なんぞ知らん。
地中から大量に出現した蛇は、シェーシャが元ネタです。地中で暮らす蛇の一族・ナーガで、1000の頭を持つんだそうです。
原初の竜・アナンタと同一視されてたりします。アナンタの名は「無限なるもの」を意味するそうです。
どっちもレヴィより断然強いです。
当然だね。レヴィは後期魔族だけど、上記の怪物は1000歳越えなんだもの。格が違う。
弱い使徒となら真っ向勝負できるレベルには強いです。
あ、再登場しますよ、こいつら。最終章辺り。
「無限」がキーワード。ミコトと絡ませないわけねえんだよなぁ。
牛頭人身の怪物はミノタウロス。これはまぁどうでもいいです。死にましたし。