エピローグ Dead Start
――ミコト・クロミヤが死んだ。
サーシャは血に濡れることも厭わず、ミコトに抱き付いて泣き叫んでいた。
綺麗な顔を血で汚し、滂沱のような涙を流している。
レイラは呆然と、彼が息を引き取る瞬間を見ていた。
安堵に頬を緩ませ、少し寂しそうに笑って、しかしその眼に未練を残して死んだミコト。ふざけた雰囲気はなくて、本当にただの、儚げな少年に見えた。
奇妙な少年だった。高いテンションで騒いでいるのに、空気を読んで、本当に踏み込んでほしくないところには踏み込まない、意外と真面目っぽい少年。
レイラが自分を犠牲にしようとしたときも、引き止めようとしてくれた。
結局彼は逃げることを選んだようだったし、レイラも足止めすらできなくて、意味はなくなってしまったが。
だが、レイラを引き止めようと手を伸ばしたミコトの表情が、ひどく苦しそうで。
たぶんあれが、レイラが見た、ミコトの激情だったのだ。ふざけた仮面を被って、内心を読み取らせなかった彼が、心の底から表した感情だったのだ。
それを見て、せめて今だけは絶対に守り通そうと、そう誓ったのだ。
だが、そのミコトは今、目の前で死んだ。
「…………」
そこまで悲しんでいるわけではない。ミコトに友情や愛情なんてものは、ほとんど抱いていない。己の力不足を嘆くぐらいだ。
ただ、期待はしていた。サーシャを救ってくれるのではないか、と。もしかしたら自分も、と。
だから落胆にも似た感情だけが生じた。
次に感じたのは恐怖だった。
ミコトはサーシャを救おうとしていた。命を懸けて死んだ。その姿が、自分に重なって――いつか自分も、同じように死んでしまうのではないかと、そう恐怖したのだ。
今、サーシャに抱かれて死んでいるのがミコトではなく、自分だったら。そんな嫌な想像が頭に浮かんで離れない。
頭を振って、その思考を振り払う。
いつ死のうと、どんな死にざまだろうと、自分はサーシャを守るだけだ。
サーシャは妹だから。妹を守りたいから。
サーシャは恩人の娘だから。誓いを嘘にしたくないから。
(……アタシは、馬鹿ね)
レイラは痛みをこらえて立ち上がった。
ラウスに切り裂かれた右肩を押さえ、爆風に吹き飛ばされたときにできた傷を我慢して。
谷は爆発で大きく抉られていた。爆発は地形を変え、爆風はすべてを薙ぎ払い、震動は谷を崩した。ミコトとラウスの間に起こった爆発は、それほどにすさまじいものだった。
あのとき、ミコトが何かを呟いていた。おそらく詠唱したのだろうが、よく聞こえなかったので、なんの魔術かはわからない。だが、起きた現象から考えれば、火の上級魔術。
魔術の『ま』の字も知らなかったミコトが、どうしてそんな魔術を使えたのかはわからないが――ミコトが死んだ今、考えても意味はない。
そういえば、呆然として頭から消えていたが、ラウスはどこだ。
辺りを見回して、すぐに発見した。レイラたちとはずっと離れた位置で、何もなくなった右肩を押さえて呻いている。いい気味だ、と嘲った。
サーシャを慰め、ミコトの死に顔を拝む前に、トドメを刺しておこうと判断した。弱った今ならば、レイラでも殺せる。
腰に差したナイフを引き抜き、無事な左手で構えた。確実に殺すなら、魔術よりも実体がある物の方がいい。
散々レイラたちを苦しめた怨敵で、ミコトの仇だ。情けをかける理由はない。
一歩一歩、歩いていく。
苦しみ転げまわるラウスは、レイラに気付く様子はない。気付いたところで、命乞いをして無様に逃げることしかできないだろう。
怨敵が失禁し、泣き喚く姿も見たかったが――やはりどうでもいい。
ラウスという男に、そこまで関心はない。
苦しむ間もなく、一瞬で命を刈り取ってやる。
「――死ね」
口から漏れた、冷徹な声。それとともに、ナイフが振り下ろされて、
――突如発生した風に、体が吹き飛ばされた。
「……ぁ?」
疑問を口にする間もなく、レイラは地面に背中を打ち付けた。受け身を取るための思考の余裕はなく、衝撃をそのまま受けた。
肺から漏れた空気と、吸おうとした空気がぶつかって、大きく咳き込んだ。
横を見ると、倒れたミコトと、驚き目を見開くサーシャがいた。
どうやら、かなり吹き飛ばされたらしい。
レイラは息を整えて、ラウスの方を見た。先ほどは誰もいなかったはずが、いつの間にか、一人の女がいた。
色気が滲み出る体つきの、絶世の美女だった。体のパーツの一つ一つがこの世のものとは思えないほど整っており、ウェーブがかった緑の髪は纏った風に揺れている。青い瞳は、女が高い魔力資質を持つ証だ。
サーシャに当てはまるの形容詞が『可愛らしい』なら、目の前の女は『美しい』が最適だろう。
レイラは彼女を見たことがあった。極々最近、昨日の話。
レイラが仲間たちと協力して、なんとか足止めしていた女。魔力も消費せず上級の魔術を消耗なく連発していた、理不尽な力を持った風使い――ヘレン。
レイラの中で、絶望が芽生えた。
万全でも瞬殺されかねないのに、消耗した今、勝ち目はゼロと言ってもいい。
先ほど思い浮かんだ、自分自身が死ぬ想像が頭をよぎった。ラウスと対峙したとき以上の汗が流れる。
ヘレンは呻き声を上げるラウスを見て、表情を蒼白にした。次いで、レイラたちを睨んだ。
殺される、と感じるほどの殺気。風の刃が首を刈り取る光景を錯覚した。
だが、そうはならなかった。
ヘレンは目を見開いていた。視線を追うと、弱々しい目をしたサーシャ――ではなく、ミコトに辿り着いた。
まさか、顔見知りなのか。ミコトは異世界から来たと言っていたが。
「メ……ア――」
ヘレンが唇を震わせ、何やら呟いた。そのあと、目を見開いて驚いている。まるで、自分の言葉が理解できていないような……。
ハッとしたヘレンが、声を張る。
「ラウス!」
「……ヘレン、か。へへ、しくじっちまったぜ」
脂汗を流して、唸り声のような言葉を発するラウスの左腕を首に回して、ヘレンは立ち上がった。
ラウスもヘレンに支えられながら、レイラたちを憎悪が込められた眼で睨んでいる。
場の空気が張り詰めたものに変わっていく。ラウス一人のときとは桁違いだ。
レイラ一人では、サーシャを逃がすことすらできない。ヘレンが腕をひと振りしただけで、二人揃って呆気なく死ぬだろう。
と、そのとき。
憎悪を眼光に宿すヘレンに、一軒家ほどの大きさの岩弾が撃ち込まれた。
空気を強引に引き裂くような砲撃は、飛翔するだけで震動を生み出していた。
しかしその砲撃は、幾千もの風の刃に切り刻まれ、岩を砕く。
余波が谷を襲うが、ヘレンたちの周りには一切の影響がない。ヘレンが纏う風が、絶対の盾となって中心部を守っている。
ヘレンの周囲で、地面が隆起する。一〇を超える先端の尖った岩が、ヘレンに襲いかかった。しかしそれも、風によって崩壊した。
腕すら振っていなかった。表情を苛立ちに歪めただけだった。
「……ちょっと、間に合わなかったみたいだね」
レイラのすぐ背後で、男の声が聞こえた。若々しいが、貫禄のある声だ。
振り向くと十数メートル先に、一人の男がいた。男にしては長い金髪と、魔力資質が高い証である青い瞳を持った美青年だ。
フリージス・G・エインルード。アルフェリア王国最強の魔術師と呼ばれる天才は、息をしないミコトを見て嘆息した。そのあと目の前の爆発で抉れた谷を見て、少し目を見張った。常に冷静な態度を崩さないフリージスにとって、それは珍しいことだった。
「これは、その少年の仕業かな?」
サーシャは基本的に攻撃魔術を苦手としているし、レイラは器用なだけで火力がない。フリージスの行き着く答えは、当然とも言えた。
目を細めるフリージスの横に、一人の女が立った。自然豊かな谷には似合わない、メイド服を着た美女だ。
冷たさの感じる紫の瞳と、同色の長い髪を持ったメイドはとても美しく、感情の色が見えない無表情はミステリアスな雰囲気を醸し出していた。
彼女はリース。フリージスに仕えるメイドであった。
「フリージス様。考察している暇はありません」
「わかっているんだけどね。これは性分だし、仕方ないね」
窘めるリースと、肩を竦めるフリージスの横を一人の男が通り過ぎ、レイラたちの前に立った。
赤い外套を纏っている、背が二メートルを超えるほどの巨漢だ。背中に大剣クレイモアを差している。フードを被っていて顔は見えないが、わずかに見える髪は燃えるような赤で、顔には火傷の痕があった。左腕には肌が見えないほど、包帯が巻かれていた。
グラン・ガーネット――《ヒドラ》という通り名を持つ傭兵だ。
「《カザグモ》か。無様だな」
「《ヒドラ》ァ、てめェ!」
グランの嘲笑を聞いて、ラウスが怒号する。だが、激痛に呻いて言葉が続かない。
ヘレンが心配した様子で、ラウスを支え直した。
「貴方たち……」
「そう睨むのもいいけど、いいのかな? 放っておくとそこの蜘蛛、死んでしまうよ? いくら《風月》の使徒でも、足手纏いを守りながらでは厳しいだろう?」
ヘレンの眼光をものともせず、フリージスは飄々と言った。
歯を食いしばってサーシャを睨んだヘレンは、奇妙なものを見る目でミコトを一瞥したあと、顔を顰めた。
次の瞬間、ヘレンたちは竜巻に包まれた。
「《操魔》――絶対に、殺してやる」
最後に、この世の憎しみのすべてを込めたような、世界が凍える怨嗟の言葉を放って。
竜巻が消えたとき、その場にヘレンとラウスはいなかった。
レイラは安堵のため息をこぼした。
ヘレンなら、ラウスを庇いながらでも戦えただろう。激昂して襲いかかられていたら、もっとまずかったかもしれない。
それでも、ラウスに止めを刺せなかったことが、悔しかった。
もしかしたら、思ったよりもミコトを殺したことを、恨んでいるのかもしれない。
へたり込むレイラの横で、フリージスがサーシャに近付いた。
目に涙をためて俯くサーシャを一瞥したフリージスは、目を閉じて動かないミコトを見た。
「この少年が、ミコトくんかな?」
サーシャが黙って頷いた。
フリージスは片膝を付いた。
「彼は自分の身を犠牲にしたんだね?」
フリージスの質問に、サーシャは肩を震わせた。フリージスはそれだけで、理解したようだった。
「そうか……」
フリージスが、ミコトの胸に手を添えた。血で汚れるが、躊躇う様子はない。
「君が何を想い、なんのために行動したのかはわからない。たが、きっと己の存在を貫いたのだろう。それは、誇れることだ。……とても羨ましい。僕は尊敬するよ、ミコト・クロミヤくん」
言って、フリージスは立ち上がった。ミコトを見るその目には、言葉通り敬意の色があった。
膝の汚れを払って、フリージスは息を吐いた。
「では、ファルマに向かおうか。このままここにいても仕方な……」
「――え?」
フリージスが指示を出そうとして、サーシャが疑問の声を上げた。
サーシャは狼狽えていた。この場の全員に見られたから、などという理由ではない。その視線は、ずっとミコトに向いていた。
レイラも視線を追ってミコトを見て――目を見開いて驚愕した。
寡黙なグランも、無表情のリースも、冷静なフリージスも、このときばかりはみんな同じ反応だった。
「な、んで……」
衣服はボロボロだ。体にも汚れは付いている。血の痕もある。
なのに、どうして。
――なぜ、傷が一つも付いていないのだ。
「う、ぅううんぁ?」
ミコトが呻き声を上げた。息を吸っている。吐いている。――生きている?
レイラの思考は真っ白になった。いったい何が起こったのか、まったくわからなかった。
そして、全員が驚く前で、ミコトが目を開いた。ぼうっとした視線は定まらず、中空を彷徨う。
「み、ミコト……?」
サーシャの声。それとともに、ミコトは億劫そうに上体を起こした。
「あったま、いてえ……」
若白髪の生えた黒髪の頭をガシガシと掻いたミコトは、視線をようやく一点に、サーシャに定めた。
サーシャは目に涙を溜めて、頬を紅潮させていた。しかし表情の色は、呆然や唖然、驚愕と言ったもの。
ミコトは首を傾げて、周りを見た。レイラ、リース、グラン、フリージスと見やって、また首を傾げて。
「えっと、なに……?」
呆然と呟くミコト。
ふとサーシャを見ると、肩を震わせていた。目から涙を溢れさせ、表情に喜色を浮かばせて、ミコトに抱き付いた。
「みごどぉ、よがったぁ!」
「ちょっ、鼻水が付く! あっ、付いた! なにこれ、なんだこれ、なんだってんだぁ!?」
呆然とするレイラと、居心地悪そうにするグラン、無表情に戻るリース、愉快げに目を細めるフリージスに見られる中で、ミコトは叫んだ。
ガルムの谷に、絶叫が響き渡った。