エピローグ 終幕にて嗤う
場所はウラナ大森林。山の中腹といった辺り。
大森林とは言うが、現状その場を森林と言うには、語弊があった。
なぜなら、木々のほとんどが無事でなかったからだ。
高熱で燃えた木は炭と化し、暴風を浴びたものは薙ぎ倒されている。
災害が通ったあと、というのが相応しい場所であった。
バギリ、と炭化した枝が折れた。
一定の速度で鳴る。それは、人の足音。
「ふっふふーん、ふふっ」
災害跡地には不釣り合いな美しい少女が、その場に不似合な鼻歌を歌う。
ステップを踏みながら、薙ぎ倒された木々を避け、時には跳び越えながら進む。
汚れ一つない、新雪のように白い肌。
風に靡く純白の髪。
白い喪服のような服装。
一〇代半ばの、白い少女だ。
ただ二点。青い瞳と、首元に下げた赤い結晶のネックレスだけが、その『白』の例外であった。
「『ムスペルヘイム』なんか使っちゃてぇ、歩くの面倒にしてくれちゃってぇ、ふふっ」
機嫌がよさそうに微笑み、軽やかに踊る。
嬉しそうに目を細め、頬を赤らめる。少女の幼さを残した顔立ちも相俟って、背徳的な妖艶さを醸し出していた。
もしここに人がいれば、その全てが目を離せなくなるくらいに。
少女の存在感は、世界に痕を刻んでいた。
だが、彼女は薔薇。
不用意に触れば傷を負う、美しい棘だ。
「見~っけ!」
最後に立ち幅跳びのように跳ねて、倒木の上に着地。手を広げたポーズで立ち止まった。
彼女の視線の先には、ただ木々があるのみ……だった。
待つこと数分。
空気中に、突如として歪みが発生した。
現れたのは、拳ほどの肉塊だ。臓器を寄せ集めたような臙脂色であった。
ぐちゅりぐじゅりと、湿った粘り気のある音。すると、一気に肉塊が膨張する。
円柱の形態から、五つの突起が膨れ上がる。それは徐々に形を成していった。
大雑把に全体が形成され、次いで細部が整えられていく。
突起は首や腕、足となる。
顔には目や口など、顔にあるべき部位が作られる。
そうして出来上がったのは、肉の人形であった。
仕上げに髪が生え、肌が全身を覆う。未だ覚醒しないこの者を守るための、死の黒衣が纏わり付く。
現れたのは、白髪混じりの黒髪を持った、中性的な少年。
ミコト・クロミヤ――《黒死》の使徒と呼ばれる存在だ。
『再生』が終われば、意識は復帰する。彼はそういう風にプログラミングされていた。
目蓋が開かれ、底なし沼のように深い闇の瞳が、世界を睥睨する。
「やぁやぁ、こっちだよー、ミコトお兄さん!」
蒸気から『再生』したミコトに向けて、少女は大きく手を振った。
彼我の距離は一五メートルといったところか。ミコトの視線が、少女に固定された。
「だレ、だ」
「ありゃりゃ、憶えていたりしませんか? 王都の下層北区で、お話したんだけれどもなぁ」
「わガ、ンなィ、死らない、どウでもイイ」
「あはっ。では、改めて名乗らせて頂きましょう」
その場でくるりと回ったあと、左手を胸に、右手を後ろに、お辞儀をひとつ。
気負うことなく、自然に微笑み、言った。
「ボクの名前はシェルア・スピルス。魔王教の創設者にして幹部。――《虚心》の使徒、なんだよ?」
次の瞬間。
一五メートルの距離が、ゼロとなる。
「ケキィァ!!」
動いたのはミコトのほうだ。
『変異』によって強化された身体能力は、人間の限界を容易く超える。秒未満でシェルアで接近し、膨張した右腕を振り被る。
《虚心》の使徒はバーバラ・スピルスではなかったのか……そのような疑問は、殺したあとで考える。
一切の躊躇がない動作。殺人の忌避がまったく存在しない。
目の前の存在は、敵だ。敵は殺すべきだ。殺すべき者は即刻殺す。
瞳を黒から血色に変えて、怪物の腕が振り下ろされ――瞳を青から血色に変えて、シェルアが詠う。
「――『ヴィル・イグニスト』」
十秒間、秒間十発。合計百発の火弾。
瞬時に発動した魔術が、ミコトに向けて放たれる。
最初の一秒目で怪物の腕を止め、二秒目で壊す。
三秒目から六秒目までは避けられ、七秒目で足に着弾、動きを止める。
八秒目で黒衣を穿ち、『変異』しようとしたところを九秒目で阻害し、最後の十秒目で全身を破壊する。
火弾の集中砲火を浴びたミコトは、その肉体を壊される。
四肢は損壊し、胸から下は焼失。残りは焼け爛れ、醜い様相と化す。
「 ケ、キ 砉 キャケ クケ キ」
間違いなく致命傷であったが、ミコトは死ねない。
『変異』は彼に超常の肉体を齎した。それゆえに、本懐である『再生』にまで届かない。
「ゲァァァアッ!!」
血反吐を撒き散らし、失った下半身から触手を生やす。そして、無数の触手をシェルアに向かわせる。
それに対し、シェルアは一言、詠う。
「――『イラヴィティ』」
直後、ミコトに掛かる重力が激増した。
伸ばした触手はもちろん、本体であるミコトも地に押し付けられる。
動けない。他力で死ねない。
なら、すべきことは決まっていた。自死である。
スロット内で構築するは、火属性の上級魔術『イグニスリース』。
ミコトの『変異』した肉体も合わさって、爆炎と溶解液を同時に撒き散らす、凶悪な自爆技となる。
最後にミコトは、スロットに魔術を送り込み、
「……アァ?」
発動の間際に、術式が崩壊した。
行き場をなくした魔力が、空気中に霧散する。
再び術式を練るが、これも崩壊する。
何かが紛れ込む。ウィルスのように、術式の構成を阻害する。
たった一つの深刻なエラーが、あらゆる魔術の行使を許さない。
それに似た現象に、憶えがある。――術式解体『ブレイク』。
「悪いんだけれども、魔術は使えなくさせてもらったよ」
ミコトの前に立つシェルアが、ニッコリと微笑んだ。
「さて」と切り出して、じっくりとミコトを観察し始める。
時間にして、一分もない。
シェルアは大きく一回頷く。
「うんうんうんうん、だいたい『読』めた。敵を殺して仲間を守る。自分を犠牲にして死を背負う。どこまでの自己犠牲的で、自分勝手で自分本位だ。そういうの、ボクはとっても大好きだよ。――ただ」
フィンガースナップのあと、人差し指をミコトに向ける。
微笑みを一変、深い失望の顔で。
「――お兄さんのそれ、全部演技だよね?」
それまで、殺意に顔を歪ませていたミコトが。
時間を切り取ったかのように、完全に停止した。
「お兄さんは狂ってない、狂ってるフリをしているだけ」
「…………」
「狂態は敵を恐怖させる。冷静さを失った奴を殺すのは、とっても楽だろうからね」
「…………」
「狂言は他人の感覚を麻痺させる。殺人を忌避する者に、それを行わせるくらいに」
「…………」
「狂人は正常な人に、こう思われる。――アイツを救う価値はない、って。そうして仲間に、クロミヤミコトという犠牲を許容させるのが目的かな」
ミコトは否定しなかった。
表情は、『無』。一切の感情を取り払った、完全な無表情。
「お兄さんは、まるで絡繰りだ。ココロなんてない。設計に従って動いているだけの人形。生きるフリをすることもやめた、生ける屍だ」
ミコト……否、ミコトを模した怪物は、人であることをやめた。
人間という枠を飛び越えた瞬間、その『変異』はそれまでの出力を上回った。
その形態は合成獣、キマイラと称するのが相応しい。
あらゆる動物の長所を細胞単位で再現し、混沌の怪物が顕現する。
この瞬間。
クロミヤミコトの肉体スペックは、この世界に存在するあらゆる者を凌駕した。
演じることをやめた怪物は、狂言を吐き散らすこともない。
咆哮はなく、無言でシェルアに襲い掛かる。
「それはね、お兄さん。狂人じゃなくって、廃人と言うんだ。……使徒の力は、心の在り方で変わる。心がないとね、資質が格段に下がるし、気に入らない。だから――」
対するシェルアは、余裕を崩さない。
ただ、一瞬だけ。失望の表情が、怒りで染まる。
「――その虚心を、ボクだけは許さない」
そして、彼女は詠う。
『ムスペルヘイム』――と。
とんでもない熱量を秘めた火柱が、空に向かって駆け抜ける。
大気を焼きながら突き進む。暴風は雲を蹴散らし、天高くへと昇る。
巻き込まれたモノは、すべてが蒸発した。
べちゃりと、シェルアの足元に何かが落ちる。それは、クロミヤミコトの右腕、たった一本だけ。
「見るのはさっきので二回目だけど……けっこう使えるもんだね、これ。出力を落としても、すごい威力だ」
先ほど、ブルゼを焼き払った二回目。
半年前、残留思念の中で見た、《浄火》に向けて行使した一回目も含めて。
たったの二回でシェルアは、『ムスペルヘイム』を解析し、自分のものとしたのだ。
脈動するミコトの右腕を拾い、シェルアは空を仰いだ。すると、その周囲をハエが漂い始める。
「ブルゼとイシェルの情報で、お兄さんのことはだいたい把握した」
ぶぶぶ、とハエが一際羽音を立てる。協同し、仮想の声帯を構成した。
『……お役…ブ…立て…ブ…何より…ブブ…ブブブ……』
ひどくノイズが混じった言葉だった。声の高低はバラバラで、男や女では表せない。
《ラ・モール》が一柱。ハエの魔獣、ブルゼ。『ムスペルヘイム』だけでは一掃できなかった、生き残りだ。
シェルアはブルゼに手を振ったあと、改めてミコトに向き直る。
「賜死の神級魔術は、復讐者が射程にいなければ使えないようだね。今ボク殺しちゃったけれども、まぁそうしないと止められないし、仕方ない仕方ない」
シェルアの手元で、ミコトが『再生』し始める。
それを忌避する様子は、ない。脈動する肉を直に触れて、彼女には一切の動揺がなかった。
「そしてお兄さんは、『再生』のタイミングを残留思念で操れるみたいだけれども……ふふっ、こんなに幸運なことはないんじゃないかなぁ! だってそれぇ、ボクととっても相性がイイんだからぁ!」
シェルア・スピルスの正体は、心属性を司る《虚心》の使徒。
彼女の能力は多岐に渡る。術式演算はアルフェリア王国最強の魔術師を上回り、心を読むのはお手の物。
才あるフィラムの体は魔術の阻害すら可能とし、心の弱い者相手なら洗脳だってできる。
クロミヤミコトは廃人である。心の奥底に封じ込められ、出てくる余地はない。ゆえに、洗脳が漬け込む隙間はない。
「けれどもね、残留思念相手なら簡単なこと」
普段は意味がないからやらないこと。
だが、やろうと思えば手足を動かすよりも簡単だ。
「――『眠れ』」
それは、宙を漂う魔力に対する命令。
意志薄弱の残留思念を支配し、彼らに命ずるは、眠れという一言。
直後、脈動が止まる。
あらゆる死を跳ね除け、何度でも戦闘を可能とする異能が。
無敵の『再生』が。
この瞬間、完全に破られた。
「ふふっ、ふはっ! ははっ、あははっははあははははははははっはぁ!! やった、やったよぉ! やっと手に入れた、やっとボクのところに来てくれた! 《操魔》なんかじゃない、ボクのところへ! 《黒死》が来たんだぁぁ!!」
嗤う、嗤う、嗤う。
シェルアはただ、嗤う。
「どうしてくれようかなぁ! とっても愉しみだなぁ!! とんでもなく興奮して、しまうゥ! どっきんどっきんする気持ちぃ、気持ちイイぃぃ……!!」
封魔の里を壊滅するには至らなかったが、《風月》の使徒は葬り、《黒死》の使徒は手に入れた。
もう《操魔》などどうでもよかった。そもそも本当のところ、《操魔》――魔王なんて大嫌いなのだ。
ただ今だけは、夢のことも忘れて。
一人の少女として、嗤う。
狂騒の劇。最後に嗤ったのは、悪意だった。
ズドン! と、その場に巨体が舞い降りた。
青い月明かり照らされ、深緑の鱗が露わとなる。
ワニ、あるいはヘビ。コウモリのような翼を生やした、巨大な爬虫類のような怪物だ。
縦に割れた血色の瞳が、シェルアを見下ろす。
『やぁ、シェルアさん。帰宅の便はご入り用かい?』
「おお、ドラシヴァ! 気が利くじゃないか、さっすが神父ぅ!」
シェルアの足を、身体強化の赤いオーラが包む。一息でドラゴンの背に跳び上がり、鱗の出っ張りに腰を下ろす。
ドラシヴァの背に乗っているのは、イシェルとユミル、ロトにアィーアツブス。そして、漆黒の修道服に身を包んだ女、バッサの分身体。
ドラゴンの鱗の隙間では、ブルゼたちが羽を休めていた。
「さぁさぁそれじゃぁ帰ろうか、ボクらのアジト――王都アルフォードにさ」
◆
狂騒の劇は終幕を迎えた。
生き残った魔族を掃討しながら、封魔の里の面々はミコト・クロミヤ、ユミル、イシェルの捜索が開始された。
しかし、見つかったのは、ミコト・クロミヤの亡骸のみであった。
次回に幕間を、しばらくしてから断章を投稿します。
それで、五章は終了です。