第二三話 叫喚地獄
皮膚がなく、膨張した肉を剥き出しにした肌。
それは、生物としての体を持っていない、超巨大な肉塊だ。
手足の代わりに生えていたのは、無数の肉でできた触手。
触手を地面に突き立て、肉塊が空に上がる。
バキリと、至るところで肉が切開された。その隙間から覗いたのは、猛獣のように鋭い牙だ。
肉塊の隅々、触手の先まで、数多の口が絶叫する。
「―――― アア ァ アアァ ァ アァァ ――――――――ァァアア !!!」
大気が震えた。振動する空気に、飛翔するハエの動きが揺らいだ。
そのハエの大群に向けて、空気が押し退けて触手が迫る。
触手は巨大かつ重厚、それでいて高速。
百を超える薙ぎに、大群はその数を一気に減らした。
ただし、焼石に水。ハエは次々と湧いて出る。
ハエの注意が肉塊に向いた。飛翔する方向を変え、肉塊に纏わり付く。
食い破り、肉塊の中へ侵入する。
重圧な肉の壁を突き破り、肉塊の奥へと突き進む――自身の小さな体を溶かしながら。
怪物の血液は普通ではなかった。
『変異』で作り変えられた体液が、侵入物を殺す。
ハエが開けた傷穴から血液が垂れ、木々に降り掛かる。
蒸気を登らせた木は、急速に溶け、枯らしていった。
怪物の体液は、溶解液と化していたのだ。
触手の先端が爆ぜた。それはハエの成果ではなく、肉塊の意思によるものだ。
破裂とともに爆炎と溶解液を撒き散らして、ハエを殲滅していく。
どちらも傷付きながら戦っていた。だが、ハエに減る様子がないのに対して、肉塊は急速に傷を負っていった。
攻撃は最大の防御とも言うが、肉塊はやり過ぎた。ハエに付けられた傷より、捨て身でできた傷のほうが、圧倒的に多い。
見上げるサーシャには、その光景が、ただの自壊に見えていた。
ハエの殲滅などどうでもよく、自滅こそが目的に感じたのだ。
戦いの場は、少しずつ封魔の里に近付いてきていた。ハエは意思統率を、完全にはできていない。
飛翔するハエを、肉塊が追い縋る形だった。
触手は焦るように早くなり、乱雑になっていく。
ハエの数は、一向に減らない。里に着くのは時間の問題だ。
だが。
里の者たちに、逃げる力は残されていない。
魔獣はすでに殲滅している。邪魔するモノは、険しい山道くらいだ。
それでも、きっと逃げ切れない。長時間の戦いは、皆を疲弊させるのに十分だった。
逃げ出せない。見捨てられるわけがない。
だから、サーシャは左手を構える。
この力を使うことに、躊躇はあった。
封魔を縛り続けてきた《操魔》の呪いが、この胸の奥にある。それを自覚し、行使しようと思うと、震えが止まらなくなった。
再封印の歯止めがなくなれば、自分は――イヴは暴走する。
恐ろしい。こんな力、放り出してしまいたい。
母――ナターシャはいつ、自分の宿命を知ったのだろうか。
いつも微笑んでいた母。楽しそうに料理する姿が、目蓋の裏に浮かぶ。
自分が死ぬとわかっていながら、あんなに幸せそうに。
強いな、と思う。すごく、憧れた。
「だから……」
この瞬間だけは、恐れを忘れよう。
この一瞬だけは、強く在ってみせよう。
「わたしは、おかあさんの娘なんだから……!」
決して、逃げはしない。
力を。勇気を貸してください、おかあさん。
「使わせてもらうよ、イヴ!!」
――『操魔』。
魔力を支配する魔王の力が、世界に広がる。
残留する魔力と瘴気が、掲げた左腕に収束する。
急速に集まっていく青と赤は、常人にも可視化できるほどに輝きを強める。
以前を上回る支配力を、全力行使。
土地に満ちた魔力は膨大。
「くぅ……っ」
あまりに膨大な出力に、心臓の疼きが増す。
でも、まだだ。今はまだ、一つの手順を終えただけに過ぎない。
次に、集めた魔力に形を与える。
威力よりも、範囲を優先して。全てのハエを消し炭にできるくらいに。
「シェオル・リライト……イグニス・アルタ……スカンディ・ナヴィア・サウスコーチ……!」
心と魔力だけでは遅い。
声に術式を乗せて、世界を書き換える手順を踏んでいく。
魔力の形が与えられていく。
青い、何重もの円。中にはいくつも交差した四角や三角、無数のルーン。
複雑かつ繊細でありながら、巨大で強大。
直系は人の背どころか、家屋や木々の高さを超え、直径三〇メートル。いや、それ以上か。
掛かった時間は、一分と少しぐらいか。
巨大魔法陣は整った。
あとは魔力を十分に溜め込み、放つだけ。
(それにしても……)
余裕ができ始めてようやく、サーシャは疑問を持った。
(あれは、なんなんだろう?)
ハエの侵攻を防ぐ肉塊は、いったいナニなのか。
囮になってくれたから、この魔法陣も間に合ったわけだが、その存在がわからない。意思があるのかどうかも定かではない。
このまま魔術を放って、大丈夫なのだろうか。
巻き込んでいいものなのか。ハエとともに殲滅すべき対象なのか。
「……んぅ」
墓場には里の者たちが集まっていた。
彼らの視線は、怪物の戦いか、巨大魔法陣に釘付けだった。
「レイラ、おとうさん。あれ、なんだかわかる?」
「わかるわけないでしょ。魔族同士の仲間割れじゃないの?」
「……いや、肉塊のほうは魔族じゃないな。とんでもない魔力だが、瘴気とは違う」
サーシャの感覚は、全て『操魔』に掛かり切りだ。
魔力を探る余裕はないが、サヴァラが言うならそうなのだろう。
そういえば、こういう時に頼りになりそうな人がいた。
諜報を趣味とする奇人。知識の豊富さでいえば、間違いなくこの場で一番のはず。
「イシェル、あれがわか……、イシェル?」
返答はなかった。
サーシャは魔法陣から視線を逸らせない。代わりに見回したレイラが、焦りが混じった声を張る。
「いない……どこにもいない! ユミルも!!」
「まだ墓場に来てないだけじゃないの!? おしっこしに行ったんじゃ!」
娘の発言に「ぶっ……!」と吹いた父サヴァラは、慌てて気を引き締めて、広場のほうを見て確認する。
「墓場以外に人影はない。イシェルって奴は知らないが、どんな馬鹿でもこの状況で森に入らないだろ。いくら尿意が限界でも……っ」
サヴァラとしては、娘の発言に合わせたつもりだったのかもしれないが。
「サヴァラさん、下品」
レイラは白けた呆れ声で、義父を撃沈させたあと、歯噛みした。
「やっぱりあの女、信用するべきじゃなかった……! クソくらえ!」
「おしっことかクソとか、お父さんはデリカシーがない発言にカンカンだよ!」
「久しぶりの再会で気が昂ってるんだろうけど、状況わかってるセレナイト一家さん!?」
ナディアのツッコミは聞き入れられない。
緊急事態に次ぐ緊急事態に、皆どこか心のタガが外れていた。
ユミルのことは心配だったが、サーシャは集中を切らさず、魔法陣を構えた。
魔力の充填が、完了した。
ハエと肉塊の戦いの場は、もうすぐ里に着こうとしていた。
見上げれば、触手が真上で振られている。一刻の猶予もない。
肉塊の正体は依然としてわからない。守られた形だが、そんな意思があったのかも知らない。
だが、このままでは里が巻き込まれる。それだけは防がなければならない。
「行くよ……!」
魔力の輝きが膨れ上がる。
だが。
そのとき、危険を察知したのか、ハエが急に肉塊から離れた。
ハエが向かう先は、魔法陣の手元――サーシャのほうだ。
時間が足りない。詩を紡ぐ暇がない。
ハエはあまりに大量だ。サヴァラであっても侵攻は防げない。
「……っ」
サーシャが暴発を覚悟で魔術を使おうとした、次の瞬間だった。
肉塊の動きが格段に変化した。それまで乱雑に振るわれていた触手が、音を超えてハエの中心に送られたのだ。
里の上空で、大爆発が発生した。
爆炎と溶解液が降り注ぐ、と身構えた。だが爆炎はハエだけを巻き込み、溶解液が撒き散らされることはなかった。
代わりに落下してきたのは、爆ぜて千切れた触手の先端だ。
触手はビクリと跳ねる。分離されても尚、それは生きていた。
だが、やはり活動していられるのは僅かのようだ。
肉が腐ったように、地に崩れ落ちていく。
「なんだ、アレは……」
誰が言ったか。里の面々はどよめいた。
触手は、跳ねただけに収まらなかった。
ぐちゃぐちゃと蠢き、緩慢に形を変えていく。まるで、最後の力を振り絞るかのように。
「まさか、テメーは……!?」
ラカの絶句。その意味を、サーシャはすぐに知ることになる。
「 ケ キ 」
肉が独りでに切開されたかと思うと、傷口から舌が覗いた。
口が、開く。
「 ア、ケキャ アァ 。サ ァ シァ 」
触手としての体を崩れさせながらも、歯が生え、口としての形が整えられていく。
しばらくすると、べちゃべちゃという湿った肉と音は消え、ハッキリとした言葉を紡げるようになる。
「サーぁ……シャぁ……」
少し高めの、男の声。その、まるで少年のような声に、聞き覚えがあった。
忘れるはずがなかった。忘れられるはずがなかった。
今だけは、忘れていたかった。
ミコト・クロミヤという、少年のことを。
「あ……、ぁ……っ。みこ、とぉ……」
ミコト・クロミヤとの記憶が、脳裏で再生される。
意図して思い出さないようにしていた、イヴに浸食されていた間の彼との記憶を、思い出してしまう。
彼は死にながら、嗤っていた。
その光景を前にして、自分が何を考えていたのかを。
――嬉しい、だ。
あろうことか、喜んでいたのだ。幸せを感じていた。
大切な人が守ってくれている。身を、命を削って頑張っている。
愛されている。守られている。大切にされている。
それを実感して、微笑んで見守っていたのだ。
すぐ目の前で、ミコトは死んでいたというのに。
「ぅ、ぁ……ぉ、ぉえぇ」
吐き気は感じなかった。というより、気付けなかった。
我慢する暇もなく、サーシャは地面に吐瀉物を吐き出していた。
精神の乱れに、魔法陣が崩れそうになる。
なんとか形を保てているのは、未だ吐き気を自覚できない脳が、行動を無意識に続行しているだけに過ぎない。
だが、自覚してしまったら、もう駄目だ。意識が薄くなっていく。
レイラとサヴァラの気遣いなど、サーシャの意識になかった。吐瀉物の上に倒れる――その直前に、声。
「おレなら大丈夫ダよ、サーシャ」
気遣うような声音に、サーシャの意識はギリギリで保たれた。
触手を見れば、口は微笑みを浮かべていた。
「俺は、大丈夫ダ。苦シくなンかねエよ、こンなもン。どウッてこたァなイ。だカら、気にスルな」
「みこ、とぉ……っ」
「泣くナよバカ。さッさと涙拭って、立ち上がレ。ンで、魔法陣を構えロ」
サーシャは言われるまま立ち上がり、魔法陣を構えた。
ミコトに対する罪悪感はある。自身に対する嫌悪感も健在だ。
だが、忘れてはいけない。この里には、守りたいものがたくさんあるのだ。
いっぱい謝らなきゃいけない。償わなければならないことが、たくさんある。
だがそれは、今は後回しだ。
魔力の乱れが消え、魔法陣の形が整う。
「もう大丈夫だよ。だからミコトも、早くあそこから離れて」
ミコトの本体は、この死に掛けの触手ではなく、未だハエと戦っている肉塊だ。
離れてくれれば、いつでも撃てる。
サーシャはニヤリと笑みを浮かべ、ミコトの返答を待って――、
「何イってんダ、おマエ」
ミコトの冷めた声音に、最初、サーシャは意味がわからなかった。理解して、凍り付いた。
いつの間にか、触手からは微笑みが消えていた。今は、無表情というのが近い。
「え、と……。ミコ、と? なにを言って……」
「だァから、何度も言ってルダろ? 俺は大丈夫だっテ。苦シくねエよ、死ぬコトなンか。だから気にスルなよ。さッさと撃テ」
「ま……待ってよ! できるわけないよ! ミコトがまだ!!」
「生憎、ハエのほうガ早くてなァ。おレも逃げ切れねえ死、たぶん囮がいナくなッたラ、真っ先にココが襲われルぜ?」
「でも……っ!」
意味がわからなかった。ミコトの言葉が、わからない。
思えば。エインルードでの一件以降、イヴの浸食をうけることなくミコトと話したことは、一度もなかった。
これを。この状態のミコトを、一カ月近くも放置して、傍観していたというのか。
そして、サーシャは強要されているのか。ミコトに、巻き込んで殺せと。
「できない……できないよ!!」
できるわけがない。
サーシャにミコトを殺せるはずがない。仕方ないから、なんて受け入れられるはずがない。
「――ヤレよ」
最初のミコトの微笑みは、きっと演技だった。
冷めた無表情の次は、牙を剥いた威嚇と、絶対零度の命令。
「さッさと殺せッて言ってンだろウがよ! なァんでそれガわかラないィ! そウすりャ解決するンだっつの! 俺は死なナいって、なンで理解しようと死ない!! 殴ってイイんだ、蹴ったッて構わナい。イイからァ、殺せよぉ……!!」
頭がくらくらとしてくる。
気持ち悪い。また胃の中のものを吐き出しそうになる。
「誰だってアルだろ、優先順位ってモンがさぁ! 自分の身を守った上で、全員守ろウなんざ虫のイイ話だってんダ! だっタら、一番価値が低い奴が、全部の死を請け負えばイイ! だから死なない俺が一番死んで当然なんだ!! テメェだって守りたイだろぉ!? レイラやラカも、グランもテッドも、そこの里の奴ラもミンナぁ!! 守る行為は罪か!? 誰も失わないのに!? 違うダロぉ!? 誰も死なないなら、全然まったく問題ないだろうが!!」
守らなきゃいけない。
姉を。父を。仲間を。故郷を。
……ミコトも守らなきゃいけないのに。
こんなにも強く、守りたいと思っているのに。
「俺が弱イのが悪いンだ、力が足りなインだ、ごめんなさイぃ……! 謝りまスから、死にますカラ、誰も死ナナいでぇ……っ。頼むよ、ナぁ!? 俺は生き返る、死んでイイ! 死にたイんダ! だから、殺してイイんだ! 殺さナきャいけないンだ! 殺せ、殺しテぇ、どんどん殺せ、殺せェ――――ッ!!!!」
「ぁぁ……あ、あ ぁあぁぁあ……!! ごめ、な……ざぃ!! ぃゃぁ、ああ アアアぁ っぁぁぁ ぁぁアああ ぁあ ぁ…………ッ!!!!」
「こォォォろせェェェエぁぁあアアアアアアア――――!!!!」
気付けば、サーシャは言い訳の言葉を考えていた。
理由はうまく纏まらなかった。だが、この切羽詰まった状況で、それは最後の一押しになった。
そして、その魔術を。
かつての仲間「殺せ!」と協力して編み出し「殺せ!」たそれを。
大切な「殺せ!」人を守るために「殺せ!」作ったはずの「殺せ!」それを。
「『ムスペル――」
特級の火属性魔術を、守りたい人「殺せ!」に向けて。
詩を、「殺せ――ァ!!」紡ぐ。
「――――ヘイム』ぅぅぅうううう――――ァァアア!!」
世界を震わせ、顕現した炎の力が、解き放たれる。
超巨大な炎の柱が、山を薙いだ。
温度だけで木々を燃やし、着弾した大地は穿たれる。
しばらくして、炎の柱は姿を消す。
後追いのように駆け抜けた暴風が、木々を薙ぎ倒し、炎を掻き消した。
怪物の戦闘は終わっていた。
ハエはどこにも見当たらなかった。あんなに巨大だった肉塊は、影も形もない。
サーシャの手によって、ミコトはその生命を終えたのだ。
ミコト・クロミヤは、蒸発した。
気化という意味はもちろん――行方不明という意味でも。