表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
118/187

第二三話 叫喚地獄

 皮膚がなく、膨張した肉を剥き出しにした肌。

 それは、生物としての体を持っていない、超巨大な肉塊だ。


 手足の代わりに生えていたのは、無数の肉でできた触手。

 触手を地面に突き立て、肉塊が空に上がる。


 バキリと、至るところで肉が切開された。その隙間から覗いたのは、猛獣のように鋭い牙だ。

 肉塊の隅々、触手の先まで、数多の口が絶叫する。


「―――― アア ァ アアァ    ァ  アァァ ――――――――ァァアア !!!」


 大気が震えた。振動する空気に、飛翔するハエの動きが揺らいだ。

 そのハエの大群に向けて、空気が押し退けて触手が迫る。


 触手は巨大かつ重厚、それでいて高速。

 百を超える薙ぎに、大群はその数を一気に減らした。


 ただし、焼石に水。ハエは次々と湧いて出る。

 ハエの注意が肉塊に向いた。飛翔する方向を変え、肉塊に纏わり付く。


 食い破り、肉塊の中へ侵入する。

 重圧な肉の壁を突き破り、肉塊の奥へと突き進む――自身の小さな体を溶かしながら。


 怪物の血液は普通ではなかった。

『変異』で作り変えられた体液が、侵入物を殺す。


 ハエが開けた傷穴から血液が垂れ、木々に降り掛かる。

 蒸気を登らせた木は、急速に溶け、枯らしていった。


 怪物の体液は、溶解液と化していたのだ。


 触手の先端が爆ぜた。それはハエの成果ではなく、肉塊の意思によるものだ。

 破裂とともに爆炎と溶解液を撒き散らして、ハエを殲滅していく。


 どちらも傷付きながら戦っていた。だが、ハエに減る様子がないのに対して、肉塊は急速に傷を負っていった。

 攻撃は最大の防御とも言うが、肉塊はやり過ぎた。ハエに付けられた傷より、捨て身でできた傷のほうが、圧倒的に多い。


 見上げるサーシャには、その光景が、ただの自壊に見えていた。

 ハエの殲滅などどうでもよく、自滅こそが目的に感じたのだ。


 戦いの場は、少しずつ封魔の里に近付いてきていた。ハエは意思統率を、完全にはできていない。

 飛翔するハエを、肉塊が追い縋る形だった。


 触手は焦るように早くなり、乱雑になっていく。

 ハエの数は、一向に減らない。里に着くのは時間の問題だ。


 だが。

 里の者たちに、逃げる力は残されていない。


 魔獣はすでに殲滅している。邪魔するモノは、険しい山道くらいだ。

 それでも、きっと逃げ切れない。長時間の戦いは、皆を疲弊させるのに十分だった。


 逃げ出せない。見捨てられるわけがない。

 だから、サーシャは左手を構える。


 この力を使うことに、躊躇はあった。

 封魔を縛り続けてきた《操魔》の呪いが、この胸の奥にある。それを自覚し、行使しようと思うと、震えが止まらなくなった。


 再封印の歯止めがなくなれば、自分は――イヴは暴走する。

 恐ろしい。こんな力、放り出してしまいたい。


 母――ナターシャはいつ、自分の宿命を知ったのだろうか。

 いつも微笑んでいた母。楽しそうに料理する姿が、目蓋の裏に浮かぶ。


 自分が死ぬとわかっていながら、あんなに幸せそうに。

 強いな、と思う。すごく、憧れた。


「だから……」


 この瞬間だけは、恐れを忘れよう。

 この一瞬だけは、強く在ってみせよう。


「わたしは、おかあさんの娘なんだから……!」


 決して、逃げはしない。

 力を。勇気を貸してください、おかあさん。


「使わせてもらうよ、イヴ!!」


 ――『操魔』。

 魔力を支配する魔王の力が、世界に広がる。


 残留する魔力と瘴気が、掲げた左腕に収束する。

 急速に集まっていく青と赤は、常人にも可視化できるほどに輝きを強める。


 以前を上回る支配力を、全力行使。

 土地に満ちた魔力は膨大。


「くぅ……っ」


 あまりに膨大な出力に、心臓の疼きが増す。

 でも、まだだ。今はまだ、一つの手順を終えただけに過ぎない。


 次に、集めた魔力に形を与える。

 威力よりも、範囲を優先して。全てのハエを消し炭にできるくらいに。


「シェオル・リライト……イグニス・アルタ……スカンディ・ナヴィア・サウスコーチ……!」


 心と魔力だけでは遅い。

 声に術式を乗せて、世界を書き換える手順を踏んでいく。


 魔力の形が与えられていく。

 青い、何重もの円。中にはいくつも交差した四角や三角、無数のルーン。


 複雑かつ繊細でありながら、巨大で強大。

 直系は人の背どころか、家屋や木々の高さを超え、直径三〇メートル。いや、それ以上か。


 掛かった時間は、一分と少しぐらいか。

 巨大魔法陣は整った。

 あとは魔力を十分に溜め込み、放つだけ。


(それにしても……)


 余裕ができ始めてようやく、サーシャは疑問を持った。


(あれは、なんなんだろう?)


 ハエの侵攻を防ぐ肉塊は、いったいナニなのか。

 囮になってくれたから、この魔法陣も間に合ったわけだが、その存在がわからない。意思があるのかどうかも定かではない。


 このまま魔術を放って、大丈夫なのだろうか。

 巻き込んでいいものなのか。ハエとともに殲滅すべき対象なのか。


「……んぅ」


 墓場には里の者たちが集まっていた。

 彼らの視線は、怪物の戦いか、巨大魔法陣に釘付けだった。


「レイラ、おとうさん。あれ、なんだかわかる?」


「わかるわけないでしょ。魔族同士の仲間割れじゃないの?」


「……いや、肉塊のほうは魔族じゃないな。とんでもない魔力だが、瘴気とは違う」


 サーシャの感覚は、全て『操魔』に掛かり切りだ。

 魔力を探る余裕はないが、サヴァラが言うならそうなのだろう。


 そういえば、こういう時に頼りになりそうな人がいた。

 諜報を趣味とする奇人。知識の豊富さでいえば、間違いなくこの場で一番のはず。


「イシェル、あれがわか……、イシェル?」


 返答はなかった。

 サーシャは魔法陣から視線を逸らせない。代わりに見回したレイラが、焦りが混じった声を張る。


「いない……どこにもいない! ユミルも!!」


「まだ墓場に来てないだけじゃないの!? おしっこしに行ったんじゃ!」


 娘の発言に「ぶっ……!」と吹いた父サヴァラは、慌てて気を引き締めて、広場のほうを見て確認する。


「墓場以外に人影はない。イシェルって奴は知らないが、どんな馬鹿でもこの状況で森に入らないだろ。いくら尿意が限界でも……っ」


 サヴァラとしては、娘の発言に合わせたつもりだったのかもしれないが。


「サヴァラさん、下品」


 レイラは白けた呆れ声で、義父を撃沈させたあと、歯噛みした。


「やっぱりあの女、信用するべきじゃなかった……! クソくらえ!」


「おしっことかクソとか、お父さんはデリカシーがない発言にカンカンだよ!」


「久しぶりの再会で気が昂ってるんだろうけど、状況わかってるセレナイト一家さん!?」


 ナディアのツッコミは聞き入れられない。

 緊急事態に次ぐ緊急事態に、皆どこか心のタガが外れていた。


 ユミルのことは心配だったが、サーシャは集中を切らさず、魔法陣を構えた。

 魔力の充填が、完了した。


 ハエと肉塊の戦いの場は、もうすぐ里に着こうとしていた。

 見上げれば、触手が真上で振られている。一刻の猶予もない。


 肉塊の正体は依然としてわからない。守られた形だが、そんな意思があったのかも知らない。

 だが、このままでは里が巻き込まれる。それだけは防がなければならない。


「行くよ……!」


 魔力の輝きが膨れ上がる。

 だが。


 そのとき、危険を察知したのか、ハエが急に肉塊から離れた。

 ハエが向かう先は、魔法陣の手元――サーシャのほうだ。


 時間が足りない。詩を紡ぐ暇がない。

 ハエはあまりに大量だ。サヴァラであっても侵攻は防げない。


「……っ」


 サーシャが暴発を覚悟で魔術を使おうとした、次の瞬間だった。

 肉塊の動きが格段に変化した。それまで乱雑に振るわれていた触手が、音を超えてハエの中心に送られたのだ。


 里の上空で、大爆発が発生した。

 爆炎と溶解液が降り注ぐ、と身構えた。だが爆炎はハエだけを巻き込み、溶解液が撒き散らされることはなかった。


 代わりに落下してきたのは、爆ぜて千切れた触手の先端だ。

 触手はビクリと跳ねる。分離されても尚、それは生きていた。


 だが、やはり活動していられるのは僅かのようだ。

 肉が腐ったように、地に崩れ落ちていく。


「なんだ、アレは……」


 誰が言ったか。里の面々はどよめいた。


 触手は、跳ねただけに収まらなかった。

 ぐちゃぐちゃと蠢き、緩慢に形を変えていく。まるで、最後の力を振り絞るかのように。


「まさか、テメーは……!?」


 ラカの絶句。その意味を、サーシャはすぐに知ることになる。



「 ケ キ 」



 肉が独りでに切開されたかと思うと、傷口から舌が覗いた。

 口が、開く。



「 ア、ケキャ アァ 。サ ァ シァ 」



 触手としての体を崩れさせながらも、歯が生え、口としての形が整えられていく。

 しばらくすると、べちゃべちゃという湿った肉と音は消え、ハッキリとした言葉を紡げるようになる。



「サーぁ……シャぁ……」



 少し高めの、男の声。その、まるで少年のような声に、聞き覚えがあった。

 忘れるはずがなかった。忘れられるはずがなかった。


 今だけは、忘れていたかった。




 ミコト・クロミヤという、少年のことを。




「あ……、ぁ……っ。みこ、とぉ……」


 ミコト・クロミヤとの記憶が、脳裏で再生される。

 意図して思い出さないようにしていた、イヴに浸食されていた間の彼との記憶を、思い出してしまう。


 彼は死にながら、嗤っていた。

 その光景を前にして、自分が何を考えていたのかを。


 ――嬉しい、だ。


 あろうことか、喜んでいたのだ。幸せを感じていた。

 大切な人が守ってくれている。身を、命を削って頑張っている。


 愛されている。守られている。大切にされている。

 それを実感して、微笑んで見守っていたのだ。


 すぐ目の前で、ミコトは死んでいたというのに。


「ぅ、ぁ……ぉ、ぉえぇ」


 吐き気は感じなかった。というより、気付けなかった。

 我慢する暇もなく、サーシャは地面に吐瀉物を吐き出していた。


 精神の乱れに、魔法陣が崩れそうになる。

 なんとか形を保てているのは、未だ吐き気を自覚できない脳が、行動を無意識に続行しているだけに過ぎない。


 だが、自覚してしまったら、もう駄目だ。意識が薄くなっていく。

 レイラとサヴァラの気遣いなど、サーシャの意識になかった。吐瀉物の上に倒れる――その直前に、声。


「おレなら大丈夫ダよ、サーシャ」


 気遣うような声音に、サーシャの意識はギリギリで保たれた。

 触手を見れば、口は微笑みを浮かべていた。


「俺は、大丈夫ダ。苦シくなンかねエよ、こンなもン。どウッてこたァなイ。だカら、気にスルな」


「みこ、とぉ……っ」


「泣くナよバカ。さッさと涙拭って、立ち上がレ。ンで、魔法陣を構えロ」


 サーシャは言われるまま立ち上がり、魔法陣を構えた。


 ミコトに対する罪悪感はある。自身に対する嫌悪感も健在だ。

 だが、忘れてはいけない。この里には、守りたいものがたくさんあるのだ。


 いっぱい謝らなきゃいけない。償わなければならないことが、たくさんある。

 だがそれは、今は後回しだ。


 魔力の乱れが消え、魔法陣の形が整う。


「もう大丈夫だよ。だからミコトも、早くあそこから離れて」


 ミコトの本体は、この死に掛けの触手ではなく、未だハエと戦っている肉塊だ。

 離れてくれれば、いつでも撃てる。


 サーシャはニヤリと笑みを浮かべ、ミコトの返答を待って――、



「何イってんダ、おマエ」 



 ミコトの冷めた声音に、最初、サーシャは意味がわからなかった。理解して、凍り付いた。

 いつの間にか、触手からは微笑みが消えていた。今は、無表情というのが近い。


「え、と……。ミコ、と? なにを言って……」


「だァから、何度も言ってルダろ? 俺は大丈夫だっテ。苦シくねエよ、死ぬコトなンか。だから気にスルなよ。さッさと撃テ」


「ま……待ってよ! できるわけないよ! ミコトがまだ!!」


「生憎、ハエのほうガ早くてなァ。おレも逃げ切れねえ死、たぶん囮がいナくなッたラ、真っ先にココが襲われルぜ?」


「でも……っ!」


 意味がわからなかった。ミコトの言葉が、わからない。

 思えば。エインルードでの一件以降、イヴの浸食をうけることなくミコトと話したことは、一度もなかった。


 これを。この状態のミコトを、一カ月近くも放置して、傍観していたというのか。

 そして、サーシャは強要されているのか。ミコトに、巻き込んで殺せと。


「できない……できないよ!!」


 できるわけがない。

 サーシャにミコトを殺せるはずがない。仕方ないから、なんて受け入れられるはずがない。


「――ヤレよ」


 最初のミコトの微笑みは、きっと演技だった。

 冷めた無表情の次は、牙を剥いた威嚇と、絶対零度の命令。


「さッさと殺せッて言ってンだろウがよ! なァんでそれガわかラないィ! そウすりャ解決するンだっつの! 俺は死なナいって、なンで理解しようと死ない!! 殴ってイイんだ、蹴ったッて構わナい。イイからァ、殺せよぉ……!!」


 頭がくらくらとしてくる。

 気持ち悪い。また胃の中のものを吐き出しそうになる。


「誰だってアルだろ、優先順位ってモンがさぁ! 自分の身を守った上で、全員守ろウなんざ虫のイイ話だってんダ! だっタら、一番価値が低い奴が、全部の死を請け負えばイイ! だから死なない俺が一番死んで当然なんだ!! テメェだって守りたイだろぉ!? レイラやラカも、グランもテッドも、そこの里の奴ラもミンナぁ!! 守る行為は罪か!? 誰も失わないのに!? 違うダロぉ!? 誰も死なないなら、全然まったく問題ないだろうが!!」


 守らなきゃいけない。

 姉を。父を。仲間を。故郷を。


 ……ミコトも守らなきゃいけないのに。

 こんなにも強く、守りたいと思っているのに。


「俺が弱イのが悪いンだ、力が足りなインだ、ごめんなさイぃ……! 謝りまスから、死にますカラ、誰も死ナナいでぇ……っ。頼むよ、ナぁ!? 俺は生き返る、死んでイイ! 死にたイんダ! だから、殺してイイんだ! 殺さナきャいけないンだ! 殺せ、殺しテぇ、どんどん殺せ、殺せェ――――ッ!!!!」


「ぁぁ……あ、あ ぁあぁぁあ……!! ごめ、な……ざぃ!! ぃゃぁ、ああ アアアぁ っぁぁぁ ぁぁアああ ぁあ ぁ…………ッ!!!!」


「こォォォろせェェェエぁぁあアアアアアアア――――!!!!」


 気付けば、サーシャは言い訳の言葉を考えていた。

 理由はうまく纏まらなかった。だが、この切羽詰まった状況で、それは最後の一押しになった。


 そして、その魔術を。


 かつての仲間「殺せ!」と協力して編み出し「殺せ!」たそれを。

 大切な「殺せ!」人を守るために「殺せ!」作ったはずの「殺せ!」それを。



「『ムスペル――」



 特級の火属性魔術を、守りたい人「殺せ!」に向けて。

 詩を、「殺せ――ァ!!」紡ぐ。




「――――ヘイム』ぅぅぅうううう――――ァァアア!!」




 世界を震わせ、顕現した炎の力が、解き放たれる。

 超巨大な炎の柱が、山を薙いだ。


 温度だけで木々を燃やし、着弾した大地は穿たれる。


 しばらくして、炎の柱は姿を消す。

 後追いのように駆け抜けた暴風が、木々を薙ぎ倒し、炎を掻き消した。


 怪物の戦闘は終わっていた。

 ハエはどこにも見当たらなかった。あんなに巨大だった肉塊は、影も形もない。


 サーシャの手によって、ミコトはその生命を終えたのだ。


 ミコト・クロミヤは、蒸発した。

 気化という意味はもちろん――行方不明という意味でも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ