第二二話 父と娘
場所を移して、そこは墓場だった。
先導するサヴァラが、立ち並ぶ墓石の脇を抜けていく。
その後ろでサーシャは、複雑な眼差しを父に向けていた。
サヴァラが立ち止まったのは、ある墓石の前だ。
刻まれた名は、『サヴァラ・セレナイト』『ナターシャ・セレナイト』。
「状況が状況だったからな。誰かもわからない遺体も多かったし……そりゃ、死んだと思われて当然か」
サヴァラは呆れた口調で、墓石を撫でる。
妻の名に触れたときの表情には、深い懺悔の感情が浮かんでいた。
「昔、ナターシャと結ばれる前、村長宅で文献を見つけてな」サヴァラは娘に背を向けたまま、空を見上げる。「この里の、成り立ちについてだ」
夜闇の中、一陣の風が吹き抜ける。
数秒の沈黙。サーシャは全身を強張らせて、言葉の続き待った。
「四〇〇年前。《操魔》イヴを殺すため、エインルードは当時の《虚心》の使徒と協力し、生命搾取『ライヴ・テイカー』を完成させた」
その話は、ミコト伝いに聞いたことがある。ひとつ憶えがないことを挙げれば、《虚心》の使徒が関わっていたことだ。
いや、それは今、関係ない。サーシャは気を引き締めて、話に集中する。
「結果は、失敗だ。魔力を掌握するという点において、イヴに敵うはずがなかった。純度の高い聖晶石を器にしても、一時的……三〇秒と封印は持たなかったらしい」
サーシャは疼きを感じて、胸を押さえた。
短い間だったが、イヴに乗っ取られた瞬間の全能感を憶えている。あれで、本来の一割にも満たないのだ。
あまりにも圧倒的で、三〇秒も耐えた『ライヴ・テイカー』のほうこそ、サーシャは驚嘆していた。
驚嘆であって、賞賛ではないが。
「どうにかして『ライヴ・テイカー』を利用できないか……そう考えたエインルードは、《操魔》に耐え得る人材を見つけ出した。それが俺たち封魔の、クソみたいな始祖サマだ」
「どうして受け入れたのかな……」
サーシャにはわからなかった。
恐れられる存在を身に宿すことに、躊躇はなかったのだろうか。
「金が欲しかったらしい。食べ物も碌にない孤児で、金があればなんでもできると考えていたそうだ。まぁ、結局は後悔したらしくてな、文献は文句たらたらだったが」
サヴァラは苛立ちを抑えるように、溜め息をひとつ。「始祖サマが記した文献は、エインルードを半端なく罵っていたよ」
エインルードの異常性。
使命のためなら他を顧みず、外道や邪道にも手を染める、狂った血。
かつてエインルードの者の保護を受けていたはサーシャは、複雑な思いを抱いた。
裏切りで傷付けられた心が疼く。
「あぁ、始祖のことはどうでもいい。問題は、エインルードと封魔が交わした、一方的な契約だ。――いずれイヴを殺す手段を編み出した時、《操魔》の宿主を差し出せ、というな」
つい先ほどまで、仲間だった二人を思い出していたからか。
それを聞いた瞬間、頭の中で何かが繋がった。
フリージスという、凄まじい魔術の天才が生まれた。
リースという無属性魔術師が生まれた。
彼らの活用方法を――イヴの殺害方法を、エインルードは考え出したのだ。
「じゃあ、おかあさんは……」
その瞬間から、死ぬ運命が決まっていたということなのか。
「ああ。もし魔王教に襲われていなくても……やはり今頃、ナターシャは生きていなかっただろう」
「っ、なんで!?」
なんで――、その先は口にできないのに、言葉は内心で次々と湧いてきた。
なんで、守ろうとしないのか。
なんで、守れなかったのか。
なんで、なんで、なんで。
「話は少し変わるが」サヴァラが足元に視線を落とす。「不満に思うだろうがな」
そう言うサヴァラは、ひどく話し辛そうだった。
やがて、引き伸ばすにも限界が訪れる。サヴァラは観念した風に、しかし、やはり視線は足元に落としたまま、
「使徒の継承方法を、知っているか?」
「えっ、と。よく、知らない……」
サーシャの返答に、サヴァラは緩慢な動きで、握った右拳を胸の前に上げた。
「まず一つ目」と右の人差し指を立てて、
「使徒の死亡だ。そいつの力は、世界樹の元で眠る勇者に還元される。その後、勇者は未だ子宮の中の適合者を見繕い、霊脈に乗せて力を届ける……といったもの」
サヴァラが言いよどむような要素は、そこには見当たらなかった。
となれば、残り一つが……。
「そして、二つ目」と中指を立てて、
「――適合者が、生きた使徒の心臓を喰うこと。……同じなんだ、使徒と《操魔》の継承方法は」
サーシャは下唇を、血が出るほどに噛んだ。
ただただ、悔しかった。死にかけだった自分のために、そうしてくれたのはわかっている。
だが、どうしても。何か、ほかに選択肢はなかったのかと、思ってしまう。
「一つ目……死亡が条件というのは、使徒も《操魔》も似ている。違うのは、《操魔》には意思があって、還元されることなく彷徨うということか」
ああ、でも、きっと。
自分はそういうことを、聞きたいんじゃない。
「どちらにせよ、他者の思惑で宿主を選べないし、胎児の時にしか宿ることができない。この方法で、お前に宿るはずがなかったんだ。二つ目しか、なかったんだ……!」
「そうじゃ、ない」
叫んだのは、無意識だった。
「そうじゃ、ないよ!」
サヴァラはわかっていない。
なんで。なんで、なんで。
「なんで、おかあさんが死ぬ前提で話してるの!? なんでエインルードから守ろうとしないの!? なんで魔王教から守れなかったの!? なんで、なんで、なんで……!」
自分はひどいことを言っているのだろう。
ひとつ疑問を吐き出すたび、父の表情が悲痛に歪んでいくのに、止められなかった。
サヴァラは反論しなかった。きっと、どうしても覆せない理由があるのだろうに。それを一言も、言い訳として口にしない。
だから、というわけでもないが。
サーシャはついに、言った。
「なんで、わたしを見捨てなかったの……!!」
心臓を喰わされたことに、憤ってるわけじゃない。
ただ、自分の今が、母の犠牲で成り立っているということに耐えられなかった。
「見捨てられたはず、ないだろうが!!」
張り裂けそうな叫びだった。頭に血が上っていたサーシャは、冷水を浴びたように体を硬直させた。
「お前は俺たちの願いだ! 光だった! 封魔の宿命に囚われることのない、新たな時代の子だったんだ!!」
言ってから、サヴァラは首を力なく横に振った。
「いいや、そんな理屈はどうでもいい。結局最後には、お前に継がれてしまったわけだしな。だから、こんなことを言う資格はないのかもしれない。だが、それでも言わせてくれ」
サヴァラが顔を上げる。
真摯な眼差しだった。
「――サーシャ。お前を、愛しているから」
「……ぁ」
言葉が見つからなかった。
文句はたくさんあったのに。言い足りないと思っていたのに。
なのにそれらは、吹き飛ばされてしまった。
胸の内から湧いてきた、喜びの感情に。
でも、それを素直に認めるのが、どうにも恥ずかしかった。
「ちゃんと、言い訳して」
だから、また傷付けるかもしれないとわかっていても、
「おかあさんを、守ろうとしなかったのは、なんで?」
「……エインルードに敵うはずがなかった。《地天》や最強の魔術師を相手にして、勝てるわけがない。それに、封魔の皆は人質だった」
そこにいたのは、力不足に嘆く、ちっぽけな男だ。
「おかあさんを守れなかったのは、なんで?」
「お前を救いたかった……いや。お前が死ぬことに、俺たちが耐えられなかった」
そこにいたのは、母と娘の板挟みで苦しむ、人並みの父だ。
彼はまだ、炎の地獄に囚われているのだ。
サーシャは溜め息をこぼした。
落ち着けば、やっぱり文句は湧いてきた。けれど。
もっと、伝えたい言葉がある。
「ありがとう」
解放してあげたかった。
あんな地獄に囚われたままなんて、辛すぎるから。
「――――あぁ」
サヴァラは空を見上げ、顔を片手で覆った。
声が震えていた。月明かりに照らされた煌めきが、頬を伝う。
「こちら、こそ……。生きていてくれて、ありがとう」
あの地獄で、サーシャは命を救われて、サヴァラは心を囚われた。
そして、三年半もの月日が流れて。
ようやくサヴァラは、地獄から解放されたのだ。
「……なんだ、アレは」
呆然とした呟き。
目元を拭ったサヴァラは、山の頂の方角を見ていた。
サーシャは釣られて、その方向に顔を向けた。
黒い煙。
否、違う。小さな物体が無数に集まったことで、そう見えていただけだ。
羽音が聞こえた。
だが、それは羽の音というのに、あまりに騒音染みていた。
重なり、響き、増幅し合った音が、空気を弾く。
その大群が、凄まじい勢いでこちらに迫っていた。
先行しててきた飛翔物体を、サヴァラがハルバードで叩き落した。
地面に転がったものは――赤い複眼の、黒いハエ。
「サーシャ!!」
憶えのある、少女の声がした。
上空から視線を下ろすと、森から抜け出す三人の人影が見えた。
テッドとグラン。そして、ラカ。
三人が生きていたことに、サーシャは安堵した。が、その様子がおかしいことに気付く。
グランを背負うテッドは、一言も発せられないほどに疲弊していた。墓場の入り口に辿り着いたところで、小石で躓いて転んでしまう。
サーシャの元にやってきたラカは、肩で息をしながら、張り裂けそうな叫びを上げた。
「ハエが……っ、くる……! 早く、逃げ――!!」
言葉は、途中で遮られてしまう。
声は発していたのかもしれないが、それは掻き消された。
「―――― アア ァ アアァ ァ アァァ ――――――――ァァアア !!!」
この世のものとは思えない。その咆哮はラカの声量を上回るどころか、ウラナ大森林全体に広がり、人の鼓膜を破らんと大気を振動させた。
次の瞬間、遠く山の中で。
山の高さを優に超えるモノが、現れた。
――本物の怪物を、見た。