第二一話 餓鬼界
《ラ・モール》とは、魔王教の内部で作られた、小さな部隊である。
構成員は、最近は一三だったが、別に人数に決まりはない。これ以上増えることもあるし、減ることもある。全ては状況と、シェルアの気分次第だ。
所属の条件は二つ。
シェルアに気に入られること。役立つ力を持つこと。
このどちらかを満たしていれば、所属するのは簡単だ。
役立つ力といっても、戦闘とは無縁ということもある。
例えば諜報力であったり、特異な無属性魔術であったり。
ロトという、シェルアに改造された人間は、人の心を読むことができる。
しかしその戦闘能力は、特別優れているとは言えない。
メレクという、『顔』を変える偽装魔術を持つ者は、無属性魔術師でありながら通常魔術も使えた。また、『顔』の持ち主の技能も行使可能であった。
しかし戦闘力は、オリジナルの半分にも及ばない。他者の無属性魔術や、勇者の力もコピーできない。
まぁつまり、《ラ・モール》に所属しているからといって、必ずしも強いとは限らないということだ。
そんな中で、マモンという獣族の戦闘力は、かなり高いものであった。
別に無属性魔術があったわけじゃない。彼にあったのは、特異な体質だ。
魔力による身体変化が制御可能という、ただそれだけのものだ。
魔力を浴びた。
喜びの、幸せの残留思念を浴びた。
瘴気を浴びた。
憎しみの、不幸の残留思念を浴びた。
人生で受け続けてきた魔力が、そのままマモンの体内に蓄えられ、彼の糧となる。
現在の彼が、その真の力を発揮したなら、後期の魔族をも凌駕する。
強欲に魔力を蓄える。
それが、マモンという存在であった。
そんな彼は、黒い少年の特異な残留思念を浴びて、さらなる進化を遂げようとしていた。
めきめきと、マモンの身体が変化する。
ただでさえ三メートルを超えていた肉体は、木々の高さを超える。黄ばんだような毛並みはクッションのように、あらゆる衝撃を吸収する。
「俺っちにィ……! 寄ォ越ォせェ――!!」
九本に増えた尾が、槍となって少年に突き出された。
少年は避けようとはしなかった。
四本が四肢を破壊し、四本が胴体を薙ぐ。
芋虫のように地に転がる少年に、最後の一本が襲い掛かる――首と胴体が、血を吹いて分離した。
「奪う! 奪ってやった! 俺っちがっ、奪ったのさァ!!」
「――アァ」
勝利宣言の直後。
聞こえるはずのない、声。
「奪 のは――俺だァ ア ッ !!」
カウンターの余裕はなかった。回避の暇はなかった。受け流す隙はなかった。防御に意味はなかった。
闇より暗い漆黒の泥が、マモンの左足を殺した。
「あぎっ、がぐぁぁ……!」
木々を薙ぎ倒しながら、狐の巨体が斜面を転がり落ちる。
軋みを上げる木を背にして、ようやく動きを止めたマモンは、痛みを堪えて顔を上げた。
――目と鼻の先で、怪物が嗤っていた。
姿は人間と変わらない。だが、その者は異質に過ぎた。
赤い獣族に執着し、少年を羽虫としか捉えていなかったマモンは、遅れて理解する。
こいつは、化け物だ。
「この世は弱肉強食。強者は搾取し、弱者は搾取される。奪い、奪われるセカイぃ!」
少年が怪物らしく、顔面を猛獣のものへと変える。
鋭い牙が、マモンの毛皮の鎧を破って、肉に食らいついた。
「あぐ、ぅぅぅぅぁぁあ!」
尋常ではない咀嚼力に、マモンはたちまち噛み砕かれ、少年の胃の中に送られる。
冗談ではない、喰らうのは俺っちだ。そう叫ぼうとして、声帯はすでに喰われていた。
「生者は勝ち! 敗者は死ぬ! テメェは今から負けるんだから、すでに死者ということでファイナルアンサー? よぉし決定、テメェは死者だ!!」
最期にマモンが聞いたのは、自身の心臓が咀嚼される音だった。
喰って。
喰って。
喰って。
喰って。
喰って。
オイシイがわからない。
食感もわからない。
だが、もっと要る。
もっと食べなきゃ。
『食事』だ。
暴食しなければ。
あぁ……この肉は、サイコウだ。
まず量だ。この巨体を食べきるには、もっと『変異』が必要だ。
次に味だ。肉に染み込んだ膨大な魔力・瘴気が、食べるたびに流れ込んでくる。
力が湧いてくる。
もっと、もっと、もっともっともっともっともっと、力が要る。
全てを殺せるくらいに。
神にも手が届くくらいに。
喰って。
喰って。
喰って。
喰って。
喰って。
嗤え、嗤え、嗤え。
◆
◆
――ああ、これは夢だ。
目の前の光景を前に、サーシャはそう悟った。
仰向けの状態で、首を回して周囲を見渡す。
炎。
燃えていた、見知らぬ地が。
否、憶えている。
ここは故郷。自身が生まれ育った、封魔の里だ。
燃えている。
家々が、畑が。
死体が転がっている。
ずっと忘れていた。その人は、自身の知り合いだ。
サーシャの心は訴えかけていた。
これは、失ってしまった記憶の再生。
確かに起こった、変えられない出来事だと。
地獄のような世界で、サーシャは自身の体を確認した。
血。
左肩から先が、存在しなかった。
痛い。焼けるようだ。でも、どこか他人事だった。
結局、これは夢。さらに言えば、生き残ることは確定しているのだから。
「しっかりしろ、サーシャ!」
地獄の光景を、影が遮った。
くすんだ銀髪と青い瞳の男性が、サーシャの意識を繋ぎ止めようと、鬼気迫る様子で声を張り上げていた。
「お願い、死なないで……っ」
右手を温かいものが包んだ。
美しい銀髪と赤い瞳の女性が、サーシャの右手を両手で包み、必死に呼び掛けていた。
「おと……さん。おか、ぁさん……」
過去のサーシャが発した呻き声に、思い出した。
サヴァラとナターシャ。父と母だ。
未来のサーシャに、過去を動かす力はない。
過去のサーシャは両親を呼んだきり、呻き声すら上げられない。
生命力の限界だ。
ぼやける視界の中で、ナターシャが悲痛に顔を歪めた。しかし、絶望はない。その目には決意が宿っていた。
「サーシャに、《操魔》を継承する」
「なっ……」
絶句するサヴァラを前に、ナターシャは早口で言葉を続ける。
「《操魔》があれば、可能性はあると思う。暴走でもいい、左腕を戻すことができれば……!」
「でも、そんなことをしたら、お前がっ!」
これが、自分に《操魔》が宿ることになった、始まりなのだろう。
嫌な予感がした。このままでは、どうしても思い出したくなかったことを思い出してしまう。
「このままじゃサーシャが!」
「だが……。だが、ナターシャ! それじゃ、お前が……!」
「サヴァラ、お願い!」
この先は見たくない。
思い出したくない。
ああ、なぜ記憶を失っていたのか。その理由がようやくわかった。
弱い心を守るため、自分で胸の奥底に封じていたのだ。
――その記憶が、浮上する。
「くそ、くそくそ、くそぉぉぉぉおおおおお……!!」
胸を引き裂くような、悲痛の絶叫が上がった。
滂沱の涙を流すサヴァラが、身体強化が掛かった右腕を振り上げた。
右手は貫手の形。明らかに、誰かを攻撃する姿勢だった。
しかし、この場に敵はいない。攻撃するべき相手はいないはずなのに。
――いないから。わたしは死んでもいいから、やめて……!
「ありがとう」
ナターシャが慈しみと愛の微笑みを浮かべた。
直後、彼女の胸を、貫手が貫いた。
サヴァラが右腕を引き抜けば、その手には赤いモノが握られている。
未だ抜き出されたことに気付かず、血液を送り出そうと脈動する――心臓。
「生きている内に、早く……」
(いや……)
絶望と狂気の闇を瞳に宿したサヴァラが、熱に浮かされたようにサーシャの元に歩む。
瀕死の少女が、心内でのみ零した拒否に、サヴァラが反応するはずがなく。
「すまない! すまないっ、すまない……!」
サーシャの口内に、脈動する心臓が押し入れられた。
気持ち悪い。苦しい。嫌だ。
なのに。
嫌な、はずなのに。
生きたいと、死にたくないと叫ぶ本能が、母の心臓を喰うという禁忌を許容して――、
――ごくん。
◆
「……ぁ」
そして、サーシャは目を覚ました。
気持ちの悪い酩酊感を覚えつつ、呻き声とともに目蓋を開く。
視界に飛び込んできたのだ、心配そうな眼差しを向けるレイラだった。
「大丈夫、サーシャ!?」
レイラがあまりに心配そうだった。眠っている間に何かがあったのかと、サーシャは寝起きで緩慢な動きであったが、自身の体を確認する。
筋肉痛になって、少々生命力が減少しているくらいで、特に傷は見当たらない。
「どこも変なところはないよ、レイラ」
そう返事しつつも、サーシャはどうして気絶していたのか、思い出そうとして。
胸のずっと奥底に潜む、自分のものとは異なる生命に気付いた。
今なら、その正体がわかる。
魔王の半身――《操魔》イヴ。
(……ああ、そっか)
サーシャは先ほどまで、イヴに体を乗っ取られていたのだ。
そこを、イヴを再封印することで、救われた。
辺りを見渡すと、封魔の一族が集まりを見つけた。咽び泣いている者、笑顔の者。皆一様に歓喜していた。
そんな彼らの中心に、くすんだ銀髪の男がいる。
「あっ、おとうさん……」
「おとうさん。お父さんね、うん。――――お父さん!?」
レイラが驚愕に目を見開き、信じられないと言わんばかりに、サヴァラとサーシャの顔を交互に見やって、
「記憶、思い出したのっ? サヴァラさんのこと、憶えてるの!?」
「……うん。全部、思い出したよ」
そう。すべて、思い出した。
封魔の里での生活を。炎に包まれた里の光景を。
そして母の、心の臓を喰ったことを。
「久しぶりだな。こんなことを言う資格は、ないのかもしれないが……生きていてくれて、よかった」
「……っ」
真っ先に湧き上がったのは、怒りだった。
何年間も放置されたことや、その間そばにいてくれなかったこと。そんな事柄は微々たるもの。
サーシャが本当に憤っているのは、そんなことではない。
「わたしは――っ!」
「少し、ここを離れよう」
遮るように言って、サヴァラは背中を向けた。
一瞬だけ見えた、魔法陣が埋め込まれた顔には、悲痛と悲哀の表情が浮かんでいた。
「全てを、話そう」