第二〇話 嘲嗤う
ヘレンの胸を、レイピアが刺し貫いた。
「……………………は、ぁ?」
意味が、わからなかった。
「がはっ」
ヘレンが血を吐き、膝を付く。
竜巻は消え、徐々に風が穏やかになっていく。
勇者以上の力を手に入れたヘレンも。
仲間から攻撃されるとは、夢にも思わなかったのだ。
敵を前に、風の防壁がなくなる。
そんなことはどうでもよかった。そんなことに気を回す余裕がなかった。
「なんだよ、これ……」
なぜ、彼女は傷付いた。なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。
なぜラウスは、ヘレンに剣を向けた?
どういうことだ。
何が起こった。
こんなことがあっていいはずがない。
ラウスの手で、ヘレンを傷付けたなどと。
「意味、わかんねぇよ……」
ラウスの右腕を中心に、血管が膨張していた。心臓の鼓動に合わせて、肌を盛り上げて血管が脈打つ。
麻痺に似た激痛が、右腕から全身に広がっていた。
突然のことだった。
さあ、これから戦おうと、剣を握り直したところであったはずだ。
なのに、なんで自分はヘレンを傷付けた。
意味がわからない。わかるはずがない。わかって堪るものか、こんなのが自分の意志であるはずがない。
「なんだよぉ、これぇ!?」
叫ぶラウスの体が、勝手に動く。
ヘレンの胸からレイピアを引き抜く。両手で、刃の部分を握る。
握り込む力に、手の平が切れる。
なのに、痛みはなかった。
構える。自身に向けて。
抵抗できない。とんでもない、けれど気絶できない激痛が、ラウスを支配する。
「ラウス……!」
ヘレンの悲鳴と同時に、剣は勝手に振られた。
ラウスの首を、レイピアが貫いた。
「なん……だよ、これぇ…………」
呆気なく。唐突に。これから、全てが始まるはずだったのに。
自身の手で、首を貫いて。
ラウス・エストックは、死んだ。
「あは、あはははははっははは、あはっはっはっはっははっはははははは!!」
この場に似合わない、愉快げな笑い声が木霊した。
純白の少女が、右手の『ノーフォン』を振り回しながら、嗤う。
「すごいすごいすごーい、超愉しいぃ! 見てた? ロト、アィーアツブス。何か起こったのかわからないっていう、呆然とした顔ぉ? 最高に愉快って言ったらないねぇ!」
「『とても無様だったわぁ、うふ』『惨めで醜かったな、ははっ』『超楽しかったぁ!』」
「うん。新しい心を知ることができたよ」
「うんうんうんうん、楽しんでもらえたようで何よりだよ!」
ひどく、気持ち悪い。
醜悪で、邪悪で。この世界のモノを、なんとも思っていない。
彼らにとっては、ヘレンとラウスの逆襲も、ただの茶番に過ぎなかったのだ。
シェルアが『ノーフォン』に向けて、愉しそうに言う。
「ありがとうアクィナ! 本当にいいモノを見せてもらったよ! やっぱり君の『水』は最高だ!!」
『う、ん……。よろこん、で。もらえて、その。よか、った……』
「お礼は帰ってからするね? たぶん、素晴らしく素敵な手土産を持って帰れると思うんだっ」
『うん。たのし、みに……して、る』
シェルアが『ノーフォン』を切り、「さて」とヘレンに向き直った。
貫かれた胸から、大量の血が漏れる。
心臓が潰されていた。
今のヘレンは、強大な生命力で、なんとか命を紡いでいるだけに過ぎない。
「ヘレン。君にも、ありがとうと言っておこうかな。とってもイイものを見せてもらったからね。……なるほどなるほどなるほど、四〇〇年も生きてるボクだけれども、使徒が勇者を超える瞬間は初めて見たなぁ。参考になったよ、本当にありがとう!」
先ほどの会話で、ヘレンはある予想をしていた。
「ラウスの……あれ、は……。《聖水》、の……?」
いや、予想ではなく、確認だった。
ヘレンは確信しているのだ。ラウスが自身を殺すはずがないと。
「そうだけれども、それが? もうすぐ死ぬ君に、意味ないでしょ?」
「……ッ!! シェルアぁぁぁアアア・スピルスぅぅぅぁぁぁぁあああああアァァァア――――!!!!」
この瞬間。
ヘレンの中で、確かに終わったはずの復讐鬼が再生して、
「だから、意味ないってば。ほいっ、『イラヴィティ』からのぉ……」
復讐の力で風を生もうとしたヘレンを、重力が地面に縛り付ける。
その上で、シェルアは無慈悲に詩を紡ぐ。
「――『ギルティーン』」
上空に創造された巨大な岩の刃が、風の防壁を突破して、地面に突き立てられた。
当然、その間にいた者が、無事であるはずがなく。
ころころと転がっていく、球体に成り切れない、でこぼこの物体。
それは表面を傷付けながら、止まることもできず、下へ下へと落ちていく。
「うん、こんなもんかな」
無詠唱で生み出した、対象のみを燃やす炎が放たれる。
首を自身の剣で貫いた男と、首から上のない女の亡骸が、ともに燃やされていく。
それは、最後の慈悲ではない。
なんとく火葬しておこうと思い、別々に焼くのが面倒だから、一緒くたにした。
それだけに過ぎない。
自身を乗り越えたはずの二人は、呆気なく死んだ。
「……で? キミはいったい、いつ出てきてくれるのかな?」
ヘレンとラウスの始末を終えて、シェルアは何者かに語り掛けた。
数秒後、木の裏から一人の少女が現れた。その背中に、幼い少女を背負って。
「あらー、気付いてたんですねぇ」
黒目黒髪の、十代半ばといった少女であった。表情は無気力そうに弛んでいたが、瞳には好奇心が満ちていた。
そんな少女に背負われているのは、一〇代前半と思われる、純白の童女だ。その顔に、シェルアは見覚えがあった。
「おやぁ? おやおやおやおや、その子はもしかしたらなんだけれども、ユミルちゃんだったりするのかな?」
「あっ、やっぱり知り合いだったんですねー? いやぁ、その反応を見るに、手土産になりましたかねー?」
「ふむふむふむ……手土産って? うん、その前にさ、キミは誰?」
シェルアの問いに、その少女は微笑みを浮かべてから、仰々しく頭を下げた。
「これはこれは、申し遅れました。本官はイシェル。趣味で諜報員をおります。現在本官は魔王教に興味を持っておりまして、見学とかできたらいーなー? って考えてるんですよ、はい」
「うん、いーよいーよ、歓迎するするぅ」
即答だった。
考える素振りすらないシェルアに、少女――イシェルも戸惑う。
下手に訊いて、じゃあやっぱり駄目、なんて言われたら困る。
そんなイシェルの思考を読み取って、シェルアは薄く微笑んだ。
《虚心》の使徒にとって、人の心を読むことなど、ひどく容易いことなのだ。
「まっ、今は状況が状況だからねぇ。見学してもいいけど、ちょっと危ないし。とりあえず……ロト、アィーアツブス。この子の護衛をお願いね」
シェルアの命令に、イシェルのそばにロトは寄った。
「知識に貪欲な心……うん、ここまでキてるのは初めて見た。よろしくね、イシェルちゃん」
アィーアツブスは、イシェルに纏わりつく。
「『了解しましたシェルア様ぁ』『というわけで、俺たちが護衛するわけなんだが』『これからよろしくねー?』」
奇妙な二つの存在にも、イシェルが狼狽することはなかった。
特にアィーアツブスに対しては、「魔物なんて初めて見るよー」と呑気に呟いている。
「さて」
シャルアの一言に、全員が注目する。
全員の視線を浴びて、シェルアは言葉を続ける。
「この森に接地した邪晶石は壊された。魔族化実験も、途中で実験体を皆殺しにされちゃった。まぁ、それはいいんだよ。こんな遊戯を邪魔されたくらいで、お兄さんを怒るつもりはないし。――けれども」
感情の窺えない微笑みを浮かべていた、シェルアの赤い瞳に、強い意志が宿る。
「《封魔》の皆殺しか、それか――――。うん、このどっちかは達成したいんだよ。というわけで、」
シェルアが再び『ノーフォン』を取り出し、起動する。その向こうにいる者に話しかける。
「バッサ、パアルに伝えて。ブルゼを動かして、ってね」
そして『ノーフォン』を切り、シェルアは何かを待ち望むかのような期待の笑顔を浮かべた。
「じゃあこれから、ボクとキミたちは別行動だ。ちゃぁんとイシェルを、山頂に連れて行ってね」
山頂に向かうイシェルたちを見送ってから、シェルアは森へ振り向く。
どこかへ歩き始めたシェルアの先に、無数のハエが飛んでいく。
◆
「……ん」
殺害対象が一人、消えた。
生命を探れば、それはラウス・エストックであった。
まぁ、だからなんだという話だが。
クロミヤミコトはグランを背負い、ラカとテッドの元に戻ってきた。
「もう大丈夫だ。こいつに憑いていた魔物は殺した」
無表情のミコトに、ラカもテッドも、何も言えなかった。
仲間同士での殺し合い。
実際に、グランは何度もミコトを死に追い込んだ。未遂で終わったが、ミコトも本気でグランを殺そうとした。
あの魔物が、グランの体内にあった邪晶石を取り出していなければ、確実にグランは死んでいただろう。
「その、魔物……。グランの、知り合いだったんじゃねーのか?」
女の魔物は、グランを守ろうとしていたように、ラカには見えた。
魔物は幽霊などといった、残留思念から発生すると聞く。もしかしたら、グランの知り合いだったのかもしれない。
殺す以外に手段はなかったのだとしても。割り切れるものではなかった。
「そうかもしれない」
ミコトは背中のグランを見やって、
「だから?」
ひどく冷酷に、切り捨てた。
「俺とその魔物の間には、なんの関係性もありはしない。グランの大切な人? 余裕があれば助けてやらないこともないが、優先順位ってもんがある。それに、アレはすでに死んでいる。死者だ、死人は死ぬべきだ。死なない死体は俺だけで十分だろう?」
沈黙。文句や反論も引っ込む言葉に、誰も、何も言えやしない。
無表情で自身の死が当然と語るミコトには、気負いが一切ない。彼にとって、それが常識で、当たり前なのだ。
そのミコトが、唐突に顔を上げた。
視線は山の頂へと向けられる。瞬きひとつしない目が、軽く細められた。
釣られて見上げたラカとテッドは、黒い煙のようなものを見た。
煙は揺らめきながら、こちらに迫って来る。次第に、その姿がハッキリと目に映る。
それは煙ではなかった。
小さい物体が集まった無数に集まったことで、そう見えていただけ。
その内のひとつが、先んじて彼らの元に飛来する。
テッドにグランを預け、前に立ち塞がったミコトが、それに対して左手を翳した。
ぐちゃり、という音。
しかしそれは、飛来してきた何かが潰れる音ではない。ミコトの肉が突き破られるものだった。
一センチ未満の物体が、手の平から侵入した。手の肉を食い破りながら、それは腕へと登って来る。
その侵攻は、肘のところで急停止する。ミコトの体内で発生した『変異』が、異物を押し止めたのだ。
ミコトの右手が左肘に減り込み、異物を摘出する。
そうすることで、ようやくその正体が明らかになった。
赤い複眼の、黒いハエ。
「おいおい……まさか、アレ全部がハエってんじゃないだろうな!?」
テッドの恐怖は、まさしくその通りだった。
近付いてくる無数のハエ。その数、万は下らない。
一匹一匹では煩わしいだけの羽音は、今や凄まじい騒音を撒き散らしている。
人体を突き破る脅威が、あの数。
巻き込まれれば、確実に命はない。
「ッ、走れ!!」
ラカの掛け声に、全員が一斉に駆け出した。
向かう先は封魔の里だ。
殿のミコトが逃走中、腕を何度か振るった。ハエが地面に叩き付けられる。
まだ数匹だから対処できる。だが、ハエの本陣が到着したら……。
『再生』があるミコトは、決して死ぬことがない。しかし、そんなことに意味はない。
自分が死んでいようと生きていようと、仲間が殺されたら、全て終わりだ。
そして。
走り始めて、すぐのことであった。
ズガン! と、何かがその場に着弾する。グランを背負ったテッドとラカ、殿のミコトが分断される。
後追いのように吹いた風が、土煙を晴らし、その姿を現す。
それは巨大な狐であった。
黄色い毛並みは、赤い血で濡れている。真新しい傷があった。
細目が開かれて、その瞳が露わになる。
爛々と血色に輝く眼が、殺意を持ってグランを睨み付けていた。
「よぉくも、俺っちをぉぉぉオオオオオ――――ぉぉぉぁぁぁあああああああ!?」
人狐の咆哮と、ミコトの突進は同時であった。
二メートルにも満たない人間と、三メートルは超える獣の激突。身体の差で不利なはずのミコトは、そのハンデを物ともせず、人狐を森の奥へ押し返す。
「こいつは俺が殺す! お前らは急げェ!!」
ラカが文句を言おうと口を開いた頃には、ミコトと人狐の戦いの場は、森の奥へと移動していた。
意地を張りたかった。できることなら、肩を並べて戦いたかった。
だが……。
「行くぞラカ!」
「チッ……ああ、わかってる!!」
ミコトをひとり残していくのは、確かに不安だ。だが、そんなことを言っている場合ではなくなった。
テッドとラカは、封魔の里に向けて急いだ。