第一九話 悪党と復讐鬼の最期
放たれた瘴気が、左腕に触れる。
圧縮された邪悪な魔力は、左腕を伝ってラウスの生命力に打撃を与えた。
「あぐっ、がはぁ……っ」
狭い空間を走り回り、必死に回避していたラウスの体から力が抜ける。
風の身体強化を使った空中疾走は終わり、移動の勢いを保ったまま、地面に墜落した。
まともな受け身はできない。
瘴気のせいで動かなくなった左腕を、落下に合わせて下に向ける。
「ぎ、ぃィ!」
ぐぎり、と骨が折れる音と、激痛が走った。左肩の骨が粉々に粉砕された。
落葉と落枝、砂利に肌を擦り付けながら、ラウスは山の斜面を転がっていく。
「がっ、ぶふぐっ、ぎがっ、がっ、あぎ……っ」
このまま転がっていけば、ハエの大群に飲み込まれる。
ラウスの勘は告げていた。あれに飲み込まれれば、命はないと。全て喰われてしまうと。
「チクっ、ショぉ……がぁ!」
地面を蹴って、転がる方向を僅かに変える。木に体をぶつけ、ようやく動きが止まった。
荒い息を吐き、肩で息をする。体力が回復しないまま、ラウスは力を振り絞って立ち上がった。
一人分の足音。バキリと踏み締めた枝が折れる。気配を隠そうともしない。
斜面の上には、ラウスを見下ろすように、二つの存在がいた。
「ようやく動きを止めてくれたね。無駄にすばしっこくて、とっても面倒だったよ」
黒い肌と眼球、白い髪と瞳の、奇妙な容姿の少年――ロト・アパシー。
人の心を読む者。
「『あはは、ごろごろ転がっちゃってぇ、無様ねぇ』『そうだなリリス。なんて醜いんだろうな。そう思わないか、リリム』『無様とか醜いとかわかんないけど、よわっちいことはわかる!』」
瘴気の体に三つの顔を浮かべる魔物――アィーアツブス。
物理攻撃が通用しない魔族。
「嘗め、やがって、くそが」
アィーアツブスが現れてから、戦闘は一方的だった。
悪霊から生まれ落ちた魔物には、一切の物理攻撃が通用しない。慣れない魔力弾を放とうとすれば、ロトに心を読まれて動きを察知される。
さらに、ハエに囲まれたこの空間だ。
逃げることも。狭すぎて満足に動くこともできない。
このハエに意思疎通が可能なのかは、ラウスは知らない。
ただ、もし可能だったら。たった一言の命令でラウスを殺すことなど、容易いことだろう。
その場合、ラウスは手加減されていることになる。
実際に、侮られているのは事実だろう。
アィーアツブスもロトも、本気で殺しに掛かってはこない。ラウスに対抗手段がないことを、彼らもわかっているのだ。
歯が折れそうなほど、噛み締める。
今ラウスが生きているのは、敵が抱く慢心と悪意のお蔭。そう思うとむしゃくしゃして、ひどい無力感に襲われる。
「じゃあ、本題。――話をしよう」
「あぁ?」
「ああ、きみが声を出す必要はないよ。疲れてるんでしょ? 大丈夫、きみが口に出さなくても、ぼくが心を読んであげるから」
無自覚な傲慢、人の心を考えない無感動な人格。
小さい体で、とんだクソッタレだ。
(調子のってんじゃねぇぞガキが、殺すぞ)
この殺意も伝わっているだろうに、ロトは無感動そうに微笑むだけだ。
気に入らない。気に入らないのに殺せない。
「ふぅん。きみ、《風月》の使徒に懸想してるんだ」
「……っ」
「でも、自分は悪党だから、場違いだって思ってる」
「て、めぇ……」
「一緒にいたい。でも話せない。嫌われちゃう。愛してる。共にいたい。でも、悪党であることは変えられない……葛藤だねぇ」
「この、クソガキがッ!!」
羞恥と憤怒、憎悪と殺意で、顔が真っ赤になる。
殺したくて堪らない。その腹にレイピアを刺し込んで、内臓を掻き混ぜてやりたい。
悲痛と絶望の絶叫を上げさせ、死ぬまで生を懇願させ。最後には、やっぱり死にたいと喚かせたい。
「――そうところが、悪なんだ」
「ぉぉ、おぉあおおおぁああああああああああああ!!」
ぼろぼろの体を押して、ラウスは駆ける。
しかし、乱れた生命力では魔力を紡げない。ラウスの魔力資質は、それほど高くないのだ。
歩くことさえ儘ならない。斜面を登りきる前に、地面に張った根に足を取られ、転んでしまう。
情けねぇ、敵の元にも辿り着けない。
「悪党がやめられない? 改心すればいいじゃん。慈善活動でもすれば? そうすれば、認めてくれる人もいるんじゃない? 今のきみを見たところ、自己満足で終わりそうだけどね」
「ハッ、自己満足にもならねぇよ、ぼけ」
「でも、続けていれば、いつかは本物になるかもよ? それまで苦痛かもしれないし、邪魔したり糾弾する人も出てくると思うけど、きみなら大丈夫だよ。本物の愛があるなら、頑張れるでしょ?」
他人の心の内を無理やりひけらかして、無感動に糾弾して、人格者でもないくせに批判して、勝手に道を指し示して。
どこまでも傲慢で、自分勝手なロクデナシ。奴の言葉を聞かなきゃいいのに、核心を突く言葉の数々が、ラウスを抉る。
「『ねえロト』『次は俺たちに』『変わってよぉ』」
「……うん、もういいや。この人のことは、だいたいわかった。あとは任せるよ、アィーアツブス」
ロトが一歩下がると、不定形の浮遊体が前に出てくる。
女の顔が微笑し、男の顔が愉悦に歪み、子供の顔が狂笑した。
「『じゃあ私たちが変わりまして、ふふ』『これは俺たちの持論なんだがな』『僕たちが特別に話してアゲルぅ!』」
「お断り、だ」
と言っても、もちろん無視される。
「『愛っていうのはね、ちゃんと伝えなきゃ駄目なの』『でないと後悔するのは間違いないからな』『まぁ? 玉砕するかもしれないけどねーぇ? でも、場違いを免罪符にしちゃダメじゃん? 子供な僕にもわかるよ?』『だから、言っちゃえばいいと思うよ、私は』『抱きたい、犯したい、凌辱したいってさぁ! さぁ、俺のあとに続いて言ってみな?』『だきたい、おかしたい、りょーじょくしたーいぃ!』『ちゃんと言えたねぇリリム、お姉さん嬉しいわ!』『さすがは俺たちの家族だ!』」
気持ち悪い。
狂気に染まった言葉の数々が、瘴気に乗って届けられる思念が、心身を侵していく。
頭がぼうっとしてきて、だんだんと思考が薄まっていく。
「カゾクって、なんだよ……」
「『愛よ』『愛さ』『愛だねっ!』」
「愛……」
「『『『ほら、復唱!』』』」
「あい……あ、い……?」
「『『『ほら、もっと大きな声で!』』』」
体から何かが出入りする。
気持ち悪い何かが入ってきて、心が抜けていく。
ラウスは今、アィーアツブスの一部にされようとしていた。
「あ、ぃ――――っ!?」
そして、本当に取り込まれてしまう。
その、直前であった。
竜巻が、天空から落ちた。
凄まじい威力だった。衝撃波だけで木々を薙ぎ倒し、風はあらゆるものを薙ぎ倒す。
それは、瘴気でさえも例外ではない。ラウスの身を包んでいた瘴気が、薙ぎ払われた。
正気を取り戻したラウスの周囲を、風の壁が囲っていた。
目の前に、絶世の美女がいる。
「大丈夫? ラウス」
「……ああ」
《風月》の使徒――ヘレン。
誰よりも強い風使いが、地面に降り立った。
竜巻がやみ、辺りの様子が明らかになる。
壮絶な景色が広がっていた。個人で自然災害を起こす力は、たったの一撃で周囲の木々を取り除いた。
地面には死骸と化したハエの大群が、山を成して転がっている。
しかし、血の赤が見えない。魔物の瘴気も健在だ。
何より、あの敵が立っていた場所には、先ほどまではなかった、半球形の土のドームがあった。
ドームの壁が剥がれていき、中身が現れになる。
そこにいたのは、ロトとアィーアツブスだけではなかった。
一〇代半ばに見える少女だった。
純白の髪が風で靡く。開いた目蓋の奥にあるのは、血色に輝く赤い瞳だ。
首元に掛けた、邪晶石のペンダントを弄りながら、少女は嗤った。
「やぁやぁやぁ、《風月》の使徒……ええと、ヘレンだっけ? 話には聞いていたのだけれども、会うのはこれが初めましてになるのかな?」
愉悦げな嗤いは、美しくも異様であった。
それは、その少女が浮かべてはならないような。人形ごっこで、人形の頬を引っ張って、無理やり作ったかのような笑みだった。
「誰、貴女?」
纏う雰囲気による威圧は、ヘレンに勝るとも劣らない。
互角か、それ以上。つまりは、使徒にも並ぶ存在ということ。
警戒するヘレンの問いに、少女はくすくすくすと嗤う。
「ごめんごめんごめん、そうだそうだねそうだった。《操魔》を殺すことしか頭にない猪突猛進が、ボクらを碌に知っているはずがないよね、うんうんうん」
機嫌がよさそうな口調で、しかし空虚さを瞳に宿しながら、少女は続ける。
「じゃあ、名乗らせてもらおうかな。魔王教の創設者、かつ幹部。シェルア・スピルス――《虚心》の使徒だよ」
《虚心》の使徒。
《風月》の使徒であるヘレンと、同一の存在。
勇者に力を与えられた、人智を超えた怪物。
「貴女が――」
「――そう、ボクさ」
「魔王教……使徒なのに、なぜ?」
「ボクら使徒は、勇者に精神誘導を受けているんだけれども、勇者によって強弱が違う。スピルスは虚心だからね、誘導はほとんどないんだ。だから、好き勝手やらせてもらってる」
高まる戦意。
魔王を殺したい者と、魔王の復活を目論む者。そんな二人が、わかりあえるはずがないのだ。
「決めた。貴女を殺す――」
再び、竜巻が発生する。それは外界と、竜巻の目を遮断する。
強大な大気の渦の中で、ヘレンとラウスが向かい合う。
こんな状況だというのに。
ラウスには、どうしても彼女に訊きたいことがあった。
「なぁ、ヘレン。……聞いて、いたのか?」
ラウスの言葉が差しているのは、ロトやアィーアツブスとの会話だ。
ヘレンは攻撃性を持って、ラウスの元に現れた。それは、彼女が戦闘を察知したからだ。
音は大気を伝う。ヘレンは風使いだ。
あの会話は、きっと聞かれていた。
「俺、ずっと黙ってたんだけどよ」
「……」
「昔っからさ、せこいことして生きてきてさ。お前が見てないところも、変わんねぇ。この右腕だって、奴隷から無理やり奪ったんだ」
ヘレンは何も言わなかった。
ラウスの言葉を、黙って聞いていた。
「ついさっき、若白髪と《無霊の民》がいただろ? あいつら、その奴隷の知り合いなんだ。因果応報って奴だ、いっつも復讐される側なんだよ、俺は」
ヘレンは復讐する側で、ラウスは復讐される側。
釣り合うはずがなかった、一方的な関係。そんなの、わかりきっていたことなのに。
「お前のそばに、俺は相応しくなかった。居場所なんか、どこにもなかったんだ。場違いだってのに、馬鹿みてぇだな」
どこまでも愚かで、まともになろうともしないクズで。
変えようともしなかった。
「ずっと騙していたんだ! 本当の俺は蹂躙が大好きだ、風俗だって利用する、まともな恋愛なんてできやしない! 不誠実で、不真面目で、クソッタレのロクデナシだ……!」
嘘だらけの関係に縋り付いた自分が、一番情けなくて、虚しい。
この虚しさを、孤独を、埋め合わせてくれる何かがほしかった。恋愛でなくとも、本当はよかった。
だけど、手を伸ばせば伸ばすほど届かなくて、さらに虚しくなっていく。
こんな自分が、どうしようもない悪党が、温かい何かを望むなんて。
そんな都合のいい話が、あるわけがなかったのだ。
「……俺はもう、お前と一緒には、」
いられない、と。
言葉の続きを言ってしまったら、きっともう、何もかもが終わってしまうのだろう。
仮初の繋がりは消えて。
過ぎ去った時間は戻れない過去となり、記憶は虚しさを加速させるだろう。
躊躇してしまう。
でも、自分から言わなければ。ヘレンから先に拒絶されることだけは避けたかった。
心の傷は、少ないほうがいい。
ヘレンのことなど考えない、自己愛。
ラウスはどこまでも、他人のことを大切にできない悪党だったということだ。
「お前とは、いられな――」
そして、ついに言おうとして。
「知ってた」
え、と。
ラウスは知らず、そうこぼしていた。
「貴方がただの善意で付き合ってくれてるわけじゃないって、わかってた。《カザグモ》という通り名と、ラウス・エストックという傭兵のことを、聞いた。《操魔》を追い詰めるときの、貴方の笑みを見た」
ヘレンの目に、侮蔑はなかった。
慟哭したラウスに対する、慈愛だけがあった。
「ラウス・エストックは、確かに悪人かもしれない。誰かがその行いを聞いたら、顔を顰めて声高々に非難するかもしれない」
でも、と。
ラウスの頬に手を伸ばして、触れて。美しい手を、悪党の血で穢して。
ヘレンは、拒絶しなかった。
「――それでも貴方は、私の大切な人だから」
なんだよ、それは。
ずりぃよ。どんだけかっこいいんだ。
てめぇ、俺は男だぜ。なんでお前のほうがかっこいいんだよ。
「ははっ、すげぇな、お前は。……なぁ、それって恋愛?」
「んー……姉弟愛かな?」
「俺が弟かよ、ったく」
守られてばっかりだ。救われてばっかりだ。
そして、愛されていた。
「ありがとう」
ラウスは生まれて初めて、心の底から、感謝を告げた。
「ん」
ヘレンは背を向け、前に向き直る。
彼女は自然と、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「ああ。繋がりを守りたいって、本気で想える」
同情心なんかじゃない。
自分のために。大切な誰かのために、自分の力を使いたい。
その想いは、世界樹の下で眠る、復讐に狂ったエアリスにはない感情。
復讐心を超えて、精神誘導を乗り越えて、守りたい。
使徒の領域を超えた想いは、勇者との上下関係をも逆転させる。
ヘレンは今、勇者に勝ったのだ。
力が流れ込んでくる。
勇者と使徒で、半分に別けられた力のほとんどが、ヘレンに宿っていく。
ヘレンは、歴代の《風月》の使徒の誰よりも、力を得た。
復讐ではない。大切な者を守る力だ。
「行こう、ラウス!」
ラウスはレイピアを握り直して、ヘレンの横に並んだ。
場違いかもしれない。ここはお前の居場所じゃないと、誰かに糾弾されるかもしれない。
なら、こう言ってやる。
「そんなの、知ったことか」
ああ。昔、同じようなことを言った奴がいたな。
『場違い? 知るかよ! 俺は勝手にやってやる!』
あの若白髪、あの時と随分変わったな。何があったのやら。
ま、お前も頑張れ。俺も勝手に、こっちでやってやらぁ。てめぇに殺される気は、さらさらねぇがな。
「あぁ、こぉいう感じかぁ……」
これが繋がり。
よくわからないが、これが愛というものなのだろうか。
心地よい何かが、心に満ち溢れていた。
今なら、なんでもできそうだった。
「行こぉぜ、ヘレン!」
ヘレンはようやく、復讐心から解放される。
復讐鬼の人生は、これで終幕。
ラウスは、人生で初めて、悪党以外の何者かになれた。
悪党の人生は、これで終幕。
鮮血が、風に乗る。