第一八話 ラウス・エストックという悪党
自身は生まれながらの悪人である。その自覚が、ラウスにはあった。
出身は知らない。彼は孤児だった。物心付く頃には下層北区のスラム街で、あくどいことをしていた。
初めは生きるためだった。そのためなら窃盗、殺人、なんでもやった。そのために剣を手に取った。
生に余裕が生まれた頃、生存行為は欲望を満たす行いに成り下がっていた。が、別に構わなかった。
倫理など関係ない世界に生きていたし、どうでもよかった。
ウザい奴を斬り殺した。面倒な奴を突き殺した。犯したい女がいれば剣で脅し、無理やり奪った。
楽しかった。なんでも思い通りだった。
だが、満たされることはなかった。
性の目覚めと同時期に傭兵業を始め、世間から悪逆非道の《カザグモ》と呼ばれるようになった頃。
ラウスはある男と出会い、戦うことになる。
切っ掛けは、ラウスの強姦だ。
女を脅し、路地裏に連れて行こうとしたとき、奴に出会った。
「やめろ」
体格の大きい、褐色肌の獣族だった。
年齢はラウスとそう変わらない。精々が一、二歳年上といった辺り。
その少年こそが近い未来、《ヒドラ》という通り名が付けられることになる、グラン・ガーネットという少年だった。
ラウスが悪党で、今まさに悪党が犯そうとした女がヒロインで、グランが正義。
集まった野次馬はこの構図を見て、当然のようにグランを応援する。
(気に入らねぇ)
戦う勇気も、力もない、さっきまで見捨てようとしていた野次馬どもも。
正義面して、手元の女を奪おうとする正義の味方も。
ラウスに退く気がない以上、戦いは避けられないことだった。
決闘と言えるほど、正々堂々としたものではない。石の投擲、砂で目潰し、卑怯な手段を取った。
けれど、負けた。
あと一歩のところで、敗北した。
野次馬の歓声。女は悪党の手元を離れ、正義に感謝する。
負けて奪われた悪党に、居場所はなかった。
ラウスは捨て台詞を吐き捨て、路地裏へと逃げる。
「ここなら勝てたんだ、この路地裏ならっ!」
その言い訳を聞く者はいない。
路地裏に反響し、自身の元に戻ってくるのみ。それが、さらに虚しさを加速させた。
「くそったれ! 全部、くそったれだ……!」
その日からラウスは、傭兵界隈で嘲笑されるようになった。
ガキが粋がるからだ。
これで奴も大人しくなるだろうよ。
そろそろ痛い目を見るべきだって、思ってたところだぜ。
よくやったな、新人! さぁ、飲め!
……どーも。
はははっ、無口だなお前!
(うるさい、うるさい、うるさい!)
ラウスは町を転々とした。どこに行っても嘲笑が聞こえてくるようで、ウザいッたらありゃしなかった。
他人の声を気にする内に、ラウスの背はいつの間にか伸び、一〇代も終わりに近付いてきた。
時が経っても、ラウスの本質が変わることはなかった。いや、より悪化したと言ってもいい。
ムカつく奴に暴力を振るい、優越感に浸り。気に入った女を、肉欲に乗り切れないまま貪り。
別に、暴力が特別好きなわけじゃない。女に興味があったわけじゃない。この行き場のない感情を発散させたかっただけだ。
本当はやりたくなかった、などとは言わない。愉しんでいたのは事実なのだから。
だが、全てをやったあとの、この虚しい感覚だけは、大嫌いだった。
「はぁ、なんかねぇかなぁ」
変わり映えのない日々。
つまらない日常。
クソッタレな、悪党の毎日。
中身がない、虚しい人生。
そんな中でラウスは、ある出会いをする。
悪党の人生を変える、人生最大級の出会いを。
◆
その日は傭兵業でちょっとしたミスをして、ヘトヘトの疲労困憊だった。
路地裏の家屋を奪って手に入れた、小さなアジト。そこに帰る道中、路地裏で倒れてしまうくらいには、体力の限界だったのだ。
(あー、しんど。一睡すっか)
季節は上秋。まだまだ夏が終わったばかりで、寒くもない。
物取りに気を付けてさえいれば、ここで一眠りするのもいいだろう。
そう思っていたら、頬に冷たい感触。
雨が降ってきた。次第に雨脚が強くなっていく。
今寝れば、間違いなく風邪を引く。
ラウスは億劫そうに立ち上がろうとした。
しかし、体勢を崩し、その場に倒れ込んでしまう。
(おいおい、嘘だろぉ? 洒落になんねぇぞ)
ラウスが思っていた以上に、体力が失われていたのだ。
これは風邪確定だな。諦念の溜め息を吐き出し、不貞寝しようとする。
けれど、徐々に失われていく体温を自覚して。
もしかしたら、このまま死ぬんじゃないかと思って。
(…………)
生きたいとは思わなかった。
ただ。このまま、誰にも看取られずに逝くのは。
それは、すごく虚しかった。
助けてくれる者はいない。
どう見ても浮浪者で、薄汚れていて。
剣は血に濡れていて、目付きは悪くて、実際に悪党で。
誰も構ってくれない。声など掛けてこない。むしろ避ける。
それが当然だ。当然のはずだった。
なのに、彼女はなぜ。
身を打つ雨が、遮られた。
「貴方、大丈夫?」
聞いたら、脳みそが蕩けてしまいそうな、美しい女性の声。
目蓋を開けると、そこにいたのは、絶世の美女だった。
年齢は同じくらいだろうか。
宝石のような青い瞳に、雨の中でも美しい緑の髪。
ラウスが生まれて初めて見惚れてしまうくらい、綺麗な女だった。
ハッと我を取り戻し、ラウスは気付く。その女性は、一切雨に濡れていなかった。
風が吹いていた。頭上に展開された大気の壁が、雨を逸らしていたのだ。
ラウスは風の加護の内側にいた。だから雨が降ってこないのだ。
「立てる?」
ラウスは再び立ち上がろうとするが、先ほどより動きが鈍い。
知らぬうちに、かなり体温を失っていたらしい。
「貴方、帰るところはある?」
聞かれ、思わずラウスはビクついた。
情けねぇ、と自嘲。この女が聞きたかったのは『居場所』ではなく、『自宅』だと言うのに。
「あぁ、あるぜ」
「そう。じゃあこうしましょう? 運んであげるから、私をそこに泊めて」
はあ? と、思わずそう返した。
どうしてわざわざ、こんな奴の自宅に泊まろうとする。危険だとわからない、鈍い奴なのだろうか。
「私、この町に来たばかりなの。でも夜だから、宿はどこも閉まってるでしょう? だから、ね、一泊だけでいいから」
「……ああ、もちろん。構わねぇよ」
内心で、馬鹿な女め、と嘲った。
どこの貴族様かは知らない。そんなのどうでもいい。権力など知ったことか、始末はどうとでもできる。
蜘蛛の巣に飛び込めばどうなるか、教えてやる。
「ありがとう」
その笑顔に、ラウスは目を逸らした。
ところで、どうやって移動するのだろうか。自分は動けないのに。そう疑問に思っていると、突然浮遊感に襲われた。
「な、なんだぁ!?」
体に風が纏わりつき、浮き上がっていた。
魔術の発動を感知できなかった。詠唱さえない。
女を盗み見れば、悪意のない微笑みがそこにあった。
どこぞの高名な魔術師だろうか。
自分より強いのだろうか。この余裕は自信の現れか。
ラウスの口元がヒクついた。襲える気がしない。
女――ヘレンとの生活は、予想よりも長く続いた。
引き止めたのはラウスだ。この女を逃がすのは、あまりに勿体ないと思ったのだ。
住まいはボロボロだったが、ヘレンは文句のひとつも言わなかった。
ラウスは傭兵業を一旦やめて、ヘレンの隙を窺った。
ヘレンは何やら調査しているらしく、昼間はどこかに出掛けていた。聞き取り調査をしているらしいと、後を付けたラウスは判断した。
人の多いところで襲うのは不味い。人気の少ない路地裏か、住まいが望ましい。
そんな、隙を窺う生活を続けて。
異変が起きたのは、一週間が過ぎた頃だった。
突然、前触れもなく、ヘレンが体調を崩したのだ。
ゴミ山から引っ張り出してきたような、ぼろ臭いベッドの上では、ヘレンが寝ていた。
上気した顔に、苦しそうな吐息。汗は服を濡らし、肌に吸い付き、肌色が露わになっていた。
ラウスは真摯に看病する振りをしながら、ヘレンの様子を窺った。
ひどく扇情的な光景を前に、ラウスは欲望を抑えきれなくなっていた。
「大丈夫か?」
ベッドの横で、ラウスは訊いた。
見たところ、不調のヘレンだが、死ぬほどではない。
無抵抗なら襲い、反抗する力が残っていそうなら襲わない。
そう決めたラウスの手に、ヘレンの手が重ねられた。
ビクリと震え、思わず手を引っ込めようとしたラウスは、その前に、ヘレンの小さな声を聞いた。
「おと……、さん」
ラウスの体が、凍り付いた。
「お……かぁ、さん」
「…………」
「ネイ、トぉ……」
父と、母と、誰かの人名。のちにそれを、妹の名だと知った。
それを教えてもらえるくらいには、二人の関係は長く続いたということだ。
「会いたいよ……っ」
無抵抗のヘレンを前に、ラウスは何もできなかった。
手を握り返すことさえできない。
家族。
ラウスにはわからない。
家族とはなんだ。
父とは、母とは、兄弟姉妹とは。
ラウスには何も。家族と呼べる者は、誰もいなかった。
路地裏で生まれ、生きるのに必死で、周りを蹴落として、這い上がってきた。
守るものは自分の身ひとつで、大切なモノは金で。
なのに。
欲しいと、羨ましいと。そう思ったことは、一度や二度ではない。
家族でなくともよかった。ただ、独りが虚しかった。
夫婦の団欒。ラウスは家の外だった。
恋人と歩く新世祭。ラウスは路地裏だった。
友達との語り合い。ラウスのそばに、友人なんてものはいなかった。
だから、わからない。
わからないのに、ほしいと思った。思っていて、悪行だけでは手に入らない。
暴力の果てには、恐怖による上下関係しかない。
そこに友情は存在しない。
強姦の果てには、強制的な性行為しかない。
そこに愛情は存在しない。
家族なんて、取っ掛かりすら掴めなかった。
率直に言おう。
ラウスは、悪の介在しない繋がりがほしかった。
だけど結局、自分自身が悪だから。
そんなモノは、在りはしないのだ。
なのに、どうして。
なぜ、関わりを持とうと思ったのだろう。
家族のことを尋ねた。
ヘレンの故郷は、魔族によって滅ぼされたらしい。家族も、そのときに死んだのだと。
ヘレンはさらに、自分の正体も話してくれた。
自身は勇者から力を与えられた存在で、自我を保っていられるのは、ほんの少しの間だけだと。
そうなれば、《風月》の使徒となったら、《操魔》を殺しに動き始めるしかなくなる。
だから、もうすぐお別れね。と、ヘレンは言いやがった。
「ふざけんなよ……!」
気付いたら、ラウスは怒鳴っていた。
「勇者とか魔王だとか、自分は選ばれた存在だとか、自意識過剰なんだよ! てめぇどんだけ夢見てんだ、寝言は寝て言えよ!」
違う。そんなことを言いたいんじゃない。
どうして人を傷付ける言い方しかできない。何がしてぇんだ、俺は。
「それでぇ? 使徒とやらになって、魔族やら魔王やらを殺すぅ? ハッ、自分の力にぶるぶる震えてる女が、調子に乗ってんじゃねぇ」
ハッキリと、言葉で伝えることができたら、簡単な話だったのかもしれない。
腐った自尊心さえなければ。ただただ、相手のことを想えたら。
こんな、回りくどい言い方など、しなくてもよかったのに。
「……しゃぁねぇから、しばらく面倒みてやらぁ。報酬は体で返せよっ」
そして、全てが始まり――