第一〇話 Second Dead End
プチ――と、皮が破ける音。
ブチュ――と、肉が貫かれる音。
ガリ――と、骨が削られた音。
背中から凶刃が突き出した、気味の悪い感触。
命が消えていくのを感じた。
死が近付いてくるのを感じた。
腹部を貫かれた。だが、痛みは感じなかった。
誰かの叫び声も、誰かの嘲笑う声も、頭に入らない。
ただ、酩酊感を誘う、鈍い頭痛だけを感じていて、
――世界から、色彩が消滅した。
すべてモノクロに変わり、色褪せていく。
――時間から、意識が切り離された。
有限が無限に、刹那が永遠になる。
何も動かない。誰も、自分も。熱も、水も、風も、土も、空も、時も、心も、命も、何もかも。
何も感じない。ただ、頭痛だけを感じる世界で、誰かの声が響いた。
自分の声のような気もするし、女性の声のような気もする。聞き覚えがある、知らない誰かの声。
――世界を視ろ――
――命を認識し、力に変えろ――
――心を認識し、掌握しろ――
――世界に干渉しろ――
唐突に、世界に色が戻った。同時に、時間も元に戻る。
いつの間にかミコトの手には、レイピアを持つラウスの手首が握られていた。
「なっ、てめぇいつの間に……!」
ラウスが振り解こうともがく。だが、ミコトは放さない。力を込めているつもりはないのに、手は固くラウスの手首を掴んで放さない。
「ミコト……!」
サーシャの叫び声。聞こえているのに、頭に残らない。
頭がくらくらする。夢を見ている気分だ。
ああ――世界が赤い――。
声が聞こえる。誰の声でもいい。どうでもいい。なんでもいい。ただ、頭痛だけを感じて、ただ、ただ、ただ――。
――そして、言葉に式を乗せて、詩を紡げ――
「……『イグニスリース』」
世界が書き換えられる。
基点はミコト自身の右腕だった。ラウスの手首を掴んで放さない、右手だった。
そして、それは現出する。
炎だ。すべてを焼き尽くす業火だ。あらゆるモノを無に帰す劫火だ。
レイピアを溶かし、ラウスの腕を燃やし、ミコトの腕を焼き尽くす。
そして――爆ぜた。
その爆発は、近くにあったモノすべてを吹き飛ばした。
岩も、木も、サーシャも、レイラも、ラウスも、ミコトも。
色が消滅した。音が消失した。
時間の感覚さえ消えて――気付いたとき、ミコトは膝を付いていた。
右腕が、肩から先がなかった。爆発で消し飛んだのだ。
血は出ていない。焼かれて止血されたのだ。
火傷は体中にあった。左半身は焼け爛れ、ボロボロになった服の裏には、痣がそこら中にあった。
なのに、痛みは感じなかった。今は、頭痛も感じなかった。
何も感じなかった。ただぼうっと、己が作り出した光景を見ていた。
右横を見た。そこに、サーシャは倒れていた。呻いて、起き上がろうとしている。不思議なことに火傷一つなく、サーシャの辺り一帯も爆発の影響を受けていないようだった。
ミコトが咄嗟に、爆発に指向性を与えたのだろうか。ああ、そうだ、そんな気がしてきた。確かにそうだ。
レイラは谷の壁近くで倒れていた。右肩を押さえながら、目の前の光景の呆然としている。爆心地から離れていたためか、吹き飛ばされただけで火傷はないようだ。
ラウスは前方にいた。ミコトの視線の、ずっと先。
ミコトと同様、右腕がなくなっていた。何もない右肩を押さえつけて、呻き声を上げて叫んでいる。
敵を倒した。たが、喜びはなかった。
右腕をなくした。だが、絶望はなかった。
もう、何もかもが、どうでもよかった。
体が傾いていく。そのままだと岩に頭をぶつけるのに、耐えようとは思わなかった。
そのまま、仰向けに倒れた。
――寒い。
ゴツゴツとした岩場の上で、ミコトはぼやいた。
周囲は爆発で熱いはずなのに、浅い呼吸をするたびに、体温が失われていく。
体温、それだけではない。もっと大事なモノも抜け落ちていく。
せっかく異世界トリップしたのにな、と思いながら、辛うじて動く左手を頭上に掲げた。
ひどい有様だった。
人差し指と小指があらぬ方向に曲がり、爪は剥がれて肌は焼け、血がべっとりと付いていた。
車に轢かれたときよりも悪い状態に、ミコトは失笑した。
左手の血が垂れて、左目に入った。青い空が赤く染まる。そこでようやく、空が晴れていることに気付いた。雲一つない、真っ青な空だ。朝日が眩しくて、ミコトは目を細めた。
ミコトの状態とは真逆の、綺麗な空。まるで、世界が今のミコトの死を祝福しているに思えたが、どうでもいい。
そう、どうでもいい。
掲げていた左手から力が抜け、地面に落ちた。
ミコトは自分がもうすぐ死ぬのだと、なんとなくわかっていた。
死にたくない、とは思う。
だが、これでよかったのだ、とも思った。
そもそも自分は、地球で車に轢かれ、野垂れ死ぬはずだった人間なのだ。
そんな命が、誰かのために散るのなら、まあよくやったほうじゃないだろうか。
「み、ミコト! 大丈夫、ミコト!」
声が聞こえた。最近ずっと聞いていた、ミコトのよく知っている声だ。
綺麗な銀髪の少女が、ミコトと空の間を遮った。
サーシャ・セレナイト。
ちょっと特殊な力を持った、優しく可愛らしい少女。
ミコトの命の恩人で、ミコトが助けてあげたいと思った少女。
ようやく、ミコトの中に安堵の感情が芽生えた。
彼女を守れた。彼女が無事だった。
それだけで、頬が緩むのがわかった。
サーシャが、手が血に汚れるのも厭わず、ミコトの左手を握った。彼女の手は温かいはずなのに、今は何も感じない。
それがとても悲しいはずなのに、その感情さえもこぼれ落ちていく。
(――ああ、これが死ぬってことか)
二回目だから、簡単にわかった。
命がこぼれ落ちていく感覚。思考が鈍り、感情薄くなり、感覚が消えていく。
寝不足のときのようだ。目蓋が重く、気を抜けば眠ってしまいそうになる。
「待ってて、すぐに治癒魔術をかけるから!」
切羽詰まった、悲痛な声。それはもはや、悲鳴と言っても過言ではない。
必死に紡がれた、サーシャの詩。青い光が、ミコトを包んだ。
それでも死は、サーシャの必死な努力を無視して、近付いてくる。
止めようと口を開いた。無駄だと告げようとした。
だが、漏れたのは掠れた吐息だけだった。
サーシャがいくら頑張ろうが、自分はきっと助からない。
申し訳なさでいっぱいになった。
せめて一言だけでも、声をかけたかった。
「さ……し、ゃ」
必死に出した声は、とても弱々しかった。
体の内側から、何かがこみ上げてくる。耐え切れずに口から溢れたそれは、真っ赤な血液だった。
経験したからわかる。おそらく、内臓が潰れたのだろう。腹部をレイピアに貫かれたのだ、当然か。
「喋っちゃダメ!」
サーシャの顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。可愛い顔がもったいない。
だが、そんな光景も消えていく。
視界が暗くなっていく。
まだだ。まだ、何も告げていない。すべてが消えてしまう前に、何か。
最後の力を振り絞って、口を開く。
感覚の通っていない左手で、サーシャの手を握り返す。
何を言えばいい。
何を言うべきだ。
何を言わなければならない。
「……ぶじで、よかっ……た……」
必死に絞り出したのは、安堵の言葉。
『前』と違ってちゃんと言えた、本心から出た言葉。
ぼやけた視界の中で、サーシャの顔が悲痛に歪んだ。
欲が出た。もっと、ずっと、話をしていたい、と。
口を開こうとした。肺から空気を絞り出し、咽喉を震わせようとした。
なのに。
誰かの絶叫が聞こえた。誰かの名を呼ぶ声がした。
それでも、体はもう、ミコトの制御から離れる。
思考が。
感情が。
心が。
命が。
消える。消えていく。
最後に残った意識は、ただ落ちる。
先の見えない闇の中へ。
落ちて、
落ちて、
落ちて、
落ちて――、
――――ミコト・クロミヤは、死んだ。