第一四話 《操魔》イヴ
邪晶石は、クロミヤミコトの『黒死』によって、内包する全ての瘴気を失い、消滅した。
しかし、すでに生み出された魔獣が、消えるわけではない。
魔獣の群れの先駆けは、大多数が麓に行った。その他、封魔の里を襲った魔獣は、里の面々が撃退した。
しかし、これはあくまで、先駆けに過ぎない。
この異常事態が始まり、おおよそ一時間後。
封魔の里に、魔獣の本隊が到達する――――。
ラウスを回収したヘレンは、ウラナ大森林を上空から見下ろし、顔を顰めていた。
彼女の瞳には、山を下る黒い波――魔獣の行進が映っている。
殺意。怒気。憤怒。憎悪。
ヘレンが魔族に向ける感情は、それら全てが敵意であった。
同時にその目は、強い同情と憐憫が宿っている。
それらの感情を向けるのは、魔獣の進行に抵抗し、故郷を守り抜こうとしている、里の面々に対してだ。
訥々と、ヘレンは語り出す。
「……私は、シェダル帝国の片田舎で生まれた」
シェダル帝国。
中央大陸の最南部に位置する国である。
「豊かとは言えなかったけれど、私は両親や妹と、幸せに暮らしていた」
過去形だ。
もう二度と、取り戻せない、昔の話。
「ある日、魔族の襲撃を受けた。……村は、滅んだ。お父さんも、お母さんも、ネイトも。みんな、いなくなった」
中央大陸の最南部にあるということは、最も魔大陸に近いという意味でもある。
ある村が、あそこの町が、魔族に襲われた。そんな話は、まだ故郷があった頃、何度も聞いた。
そしてそれは、ヘレンの故郷にもやってきたのだ。
「まだ使徒ということを自覚していなかった私は、逃げることしかできなかった。――もう駄目だって絶望して、みんなが死んで、復讐心を抱いた途端に覚醒したのは……なんて皮肉」
助けたい命があった。けれど、失ってしまった。ヘレンに力がなかったから。
殺したい命があった。だから、力を手に入れた。もっと早くほしかったのに。
使徒としての心は、守りたいという意志を取り除いていく。代わりに埋められていくのは、何もない空白と、止めどない憎悪だけ。
誰かを守りたい、大切に思おうとする、人としての心は。殺戮を願う鬼の復讐心に、徐々に変貌していく。
殺したくないのに、殺したい。
守りたいのに、手を離してしまう。
けれど。
だけど。
僅かに残った、守ることを尊いと思う憧れだけは、まだ。
ヘレンの中に、強く残っているから。
「ラウス、ごめんなさい」
空の上で頭を下げられたラウスは、気まずそうな笑みを浮かべ、ひらひらと手を振った。
「おめぇが――ヘレンの意志で何かするときぁ、昔語りで復讐心に折り合いを付ける。そうなったお前は梃子でも動かねぇってことは、俺もわかってらぁ」
さっさと行けと、ラウスは言ったのだ。
ヘレンは申し訳なさそうに微笑み、風を操った。
風に乗り、ラウスは地上に降りていく。ラウスが頭上を見上げれば、ヘレンは里へ飛翔するところだった。
「ありがとう、ラウス」
里の近隣に、ヘレンは浮遊して留まった。
魔獣の本隊が里を蹂躙するまで、もう時間はない。
「さぁ。それじゃあ行くわよ、魔族ども」
大気が。空気が。風が。
荒れる。渦巻き、暴れ狂う。
「巻き上げろ、風よ。荒れ狂え、風よ」
とんでもない風量、途轍もない風力。
月まで届くほど、巨大。
全てを粉砕するほど、強大。
里全体を覆う竜巻が、顕現する。
「風よ――!!」
◆
封魔の里が、突如として巨大な竜巻に覆われた。
しかしその内部は、不自然なほど静かだった。台風の目のように、なんの影響もなかった。
謎の減少に、里の面々も騒めく。
そんな中でも、男とサーシャは睨み合っていた。ほんの一瞬、視線を風へ逸らすのみだ。
「だれ?」
サーシャが警戒しながら問うた。
「名乗るようなモンじゃねえさ。けど、あえて名乗るなら、そうだな……」
男は小さく、自嘲しながら答えた。
「守ると誓っておきながら、何もできなかった……弱っちい男だ!」
それが、激突の合図だった。
男が精製した魔力を、スロットの術式に流そうとする。その直前、男が魔力を制御する瞬間に、サーシャが『操魔』を発動した。
『操魔』は依然として、他人の魔力、オドを十全に操ることはできない。しかし、エインルードでの一件を経て、相手の制御を狂わせられるぐらいにまで成長していた。
精密な魔力制御を必要とする身体強化は、これで封じられた。これがこの男でなければ、一切の魔術を使えなくなっただろう。しかし、四属性の身体強化を同時に操る腕は、その程度ではない。
男が『操魔』による阻害を乗り越え、作り直した術式に魔力を通す。
対し、サーシャの左手の先で、魔力と瘴気が混じり合った魔力が束ねられ、魔法陣を作り出す。
「『アルタ・アクエスト』……!」
「『アルタ・グロウスト』っ!」
同じ強化術式を組み込んだ、強力な中級魔術であった。
先に発動したのはサーシャ。巨大な水弾が射出される。
遅れたのは男。その岩弾の威力も、サーシャの水弾に劣る。
拮抗する。それも一瞬のこと。
岩弾が打ち破れた。幾分か弱まった水弾は、ハルバードの一振りに払い落とされる。
魔術の撃ち合いではサーシャが勝る。持久戦に持ち込まれても、魔力を消費しないサーシャには問題ない。
だが、接近戦では別。男の動きに、サーシャは注視する。
「サーシャ! 何やって……!?」
里を覆う風に戸惑っていたレイラが、ようやく我を取り戻した。
戦う二人を目にして、制止を掛けようとする。しかし、戦いは止まらない。
この男はまずい。そんな根拠のない確信を、サーシャの中の何かが抱いていた。
サーシャが放つは、強力な水弾と、細かな風弾。
男が放つは、属性も系統も様々な、統一性のない魔術。
威力で攻めるサーシャに対し、男は技術で追い縋っていた。いや、完全に追い越していた。
多種多様な魔術は、徐々にサーシャが対処し辛い弾道を辿り、効力を生じ始める。男がサーシャの弱点を、急速に暴いているのだ。
それどころか男は、魔術の使用を減らしている。サーシャの魔術は、ほとんどが回避されるようになってきた。
サーシャの動きが、思考が、完全に読まれている。
「く、ぅ……っ!?」
男に異能はなかった。だが、サーシャとは決定的に違っていた。
それは経験の差。戦闘の才能。
そもそもサーシャは、戦いに向いていない。
『操魔』がなければ、碌に戦えもしないのだ。
「くぅ……!?」
足りない。
こんなものじゃダメだ。
もっと、もっともっともっと力が――
――《操魔》の力がいる。
「あああああああああああああああ!?」
《操魔》が浸食する。心が汚染されていく。瞳が血色に輝く。
イヴが心を埋めていく。
「あだ……むぅ」
サーシャが呻くような言葉を発した。
否、それはサーシャの声であって、サーシャの言葉ではない。
サーシャの中にいる、異物の言葉。
「さみ、しぃ……よ、ぉ。はや、はやっくぅ。わたし、のぉ右に、いてよぉ……」
空っぽなのだ。半身が。右側が。《悪魔》がいないのだ。
ここには左しかいない。《操魔》しかいない。
「めし……ぁ、すぅぅぅ。たす、けてぇ。もどって、きてぇ、ぇぐ。みこ、とぉ……」
《黒死》のメシアスは、ここにいない。魔大陸の奥で、《悪魔》の左を埋めてくれている。
だから、ここにいない。
だけど、孤独じゃない。寂しいけど、独りじゃない。
ここには《黒死》がいる。《操魔》の右を埋めてくれている、メシアスの使徒がいる。
だけど、足りない。《黒死》だけでも、《悪魔》だけでも駄目。
《操魔》と《悪魔》が共に在った頃から、ずっと寂しかった。たった二人しかいない城で、世界が終わるのを見届けていく毎日。
そこに彼女が現れた。《黒死》が来てくれた。
寂しくなくなった。毎日が楽しくなった。《黒死》がいてこそ、この人生を幸せだと思えるのだ。
「一体不離! 一心同体! 三位一体! わたしたちは、ずっと一緒! 一緒じゃなきゃ駄目なの! だから帰らなきゃいけないんだよ、あの場所にッ!」
封魔の里が故郷? そんなはずがない。わたしはずっとこの場所に閉じ込められていただけ。
帰りたい場所があった。なのに、なのに、なのに!!
勇者の末裔どもは、わたしをこの一族に封じ込めた。
何が《封魔》だ。末裔の言いなりになった、気持ちの悪い一族め!
いずれ来る日に、家族を生贄として差し出す契約をした、クズの外道どもめ!
「あぁっぁぁあ、ああぁっアァァァァァァぁっぁあアアァ!!!!」
心が軋む。
イヴに心を許した分、サーシャの意識は薄くなる。
何を喋っているのか、何を考えているのか、だんだん朧げになっていく。
知らない景色が、脳裏に浮かんだ。
赤い月。薄気味悪い空気。不気味な空。黒い木々。狂った生き物。ぼろぼろの城。
右で笑う、金髪の少年。白髪混じりの黒い髪をした、ミコトによく似た女性。
これがイヴの記憶なのだ。その中で、銀髪の髪をした少女は、幸せそうに笑っていた。
本当に幸せそうで。こんな場所に帰れるならと、思ってしまうほど。
――それには、目の前の男が邪魔だ。
《封魔》の奴らもいらない。《黒死》だけいればいい、ミコトだけいればいい。
そうだ、ミコトだ。ミコトを探しに行こう。きっとまだ、この森のどこかにいるはず。
イヴとなった今、魔族に襲われることもない。頭の悪い奴が襲ってくる程度なら、命を搾って簡単に殺せる。
そして、彼と一緒に向かうのだ、帰るべき場所へ。
メシアスとアダムの元へ。そこは、幸せだから。
「だから、みんな、邪魔……!!」
魔力が荒れ狂う。
イヴの魔力だけではない。この場にいる生き物は、生命力を無理やり搾り出され、イヴの元に収束する。
イヴは狂笑を浮かべた。勝利を確信した、愉悦の笑みだった。
この体がイヴのものとなった今、『操魔』はより強化された。全盛期の一割もないが、弱者を殺すならこれで十分。
男に魔術は使えない。その魔力、生命力は、イヴの手の中にある。
これが《操魔》の力。魔力を、命を操るということ。
「あはっ、あはふっ、あははははは!」
嗤う。嗤う。嗤う。
嘲笑う。嘲笑する。
お前らは無力だと。お前らには何もできないのだと。
抵抗するだけ無駄だと、そう誰しもに悟らせる異常、圧倒的な力。
取り戻した力のまま、イヴは荒々しく制御する。
――だから、僅かな隙を与えてしまう。
イヴの目前に、男がいた。
あまりに早い動き。それは、魔術の補助がなければ成し得ない速度だ。
そう、魔術が発動していたのだ。イヴの『操魔』を突破して。
荒れ狂い、物理現象にも影響を与える膨大な魔力が、男を覆う包帯を取り払った。
体中を覆う、青い刺青。いや、少し違う。その青は、皮膚の下にあった。
その正体は魔鉱石だ。皮膚の下に、溶かした魔鉱石を埋め込んでいるのだ。
刺青は魔法陣であった。
原理は魔道具と同じ。物に魔法陣を書き加え、それを補助とする、刻印魔術と呼ばれるもの。
これがあったからこそ、『操魔』の隙を突けたのだ。
そして今、イヴの目の前に、男の手が迫る。
イヴは『操魔』の全てを、目前の男に向けた。
「あああああおおおおおおおおお!!」
男が全身から血を流す。暴れ狂う魔力に、体内から傷付けられた。
それでも、男は止まらない。必死の覚悟で、イヴの頭を掴んだ。
くすんだ銀髪の髪。青い瞳。その顔が、間近に映る。
その悲痛に苦しむ顔に、イヴは見覚えがあった。
「サヴァラ・セレナイト!! サヴァラ、だったの!? は、ははは、クズ! 娘を助けるために、妻を殺した外道! 地獄に落ちろ、死ね、死ね死ね殺されろぉ!!」
「…………あぁ。確かに俺は、どうしようもねぇクズなんだろうさ」
追い詰めているのはサヴァラのはずなのに、その悲痛と絶望で歪んだ表情は、追い詰められて逃げ場所がなくなったものだ。
しかし、その瞳には、決死の覚悟がある。
「――だがな。俺が謝るべきはテメェじゃねえよ、乗っ取り女郎」
男の死力を尽くした全力が、『操魔』を突破する。
イヴを掴む、掌に刻まれた魔法陣が、起動する。
それは、ミコトが《黒死》として覚醒する、切っ掛けとなった一つ。
エインルードが長年の研究の果てに開発した、命属性の奇跡。
超巨大な魔法陣を、用途に合わせて縮小、改良した魔術。
生命搾取『ライヴ・テイカー』の派生。
「『ライヴ・シーラー』ァァァア!!」
その力は『封印』。
表出していたイヴを、サーシャの奥底に封じ込める魔術。
「ぃ、やぁ! いやぁ!! まだ、まだぁ! わたしはまだ、ずっと! 帰るの、帰りたいの! 帰してぇ!!」
懇願し、絶望し、涙を流して喚くイヴに対し、サヴァラは目を伏せた。
「テメェに恨みはねえし、同情もするが……俺は、俺が守りたいもんを守る」
「死ね! 死ね、死ね死ね、死ねぇ! 殺す、殺すぅぅぁぁぁああああああああああああああアアアァァァァ――――!!!!」
その絶叫が、イヴの最後だった。