第一二話 托生と嫉妬
ウラナ大森林のどこかに、邪晶石と呼ばれる瘴気の結晶体がある。
ラカはミコトに、そう説明した。しかし態度は、余所余所しいものだった。
あの姿が変わる狂人は、ラカの姿にも変じた。おそらくアレは、ミコトが思うラカなのだ。
オーデの死を、ミコトのせいだと責め立てる、ラカの姿だ。
そういう恨む気持ちがないと言えば、嘘になる。つい最近までそれに悩み、結論を出すのはミコトが正気に戻ったあとだと、答えを出したばかりなのだ。
その、できれば遠ざけたい憎悪を、掘り返された気分だった。
目を逸らすラカに対し、ミコトはなんの反応も返さず、目を閉じて知覚範囲を広げていた。
ミコトはすでに、魔獣の進軍が起きる直前に、認識阻害に気付いている。
認識阻害は、気付いた者には効果を発揮しない。ミコトの生命探知、そこから来る桁外れの魔力感知能力が、瘴気の流れを辿っていく。
「……なぁ、アンタ」
テッドに声を掛けられ、ミコトは軽く目を開け、テッドを横目に見た。
散々迷い、何度も躊躇しながら、テッドは口を開く。
「アンタが、兄貴を殺したのか?」
「正確に言うと、殺したのは俺じゃない。けど、俺のせいでもある」
ミコトは訥々と言葉を紡ぐ。思考のほとんどは知覚能力に注がれ、会話に充てられていないのだ。
それでも、話すことに迷いはない。
「アイツは魔王教に所属していた。俺たちに襲い掛かってきた。だから殺した」
口調に後悔はなく、言い訳染みた口振りでもなかった、が。
狂人の口から叫び散らされた、ミコトの慟哭を聞いたあとでは、嘆いているように見えた。
オーデの死が、自分のせいだと苦しんでいる。
ジェイドが仲間の知り合いだった知り、悔いている。
なのに、その嘆きを一切、誰にも見せてくれない。
沈黙したテッドに代わって、ラカが言葉を紡ごうとする。
その直前に、ミコトは顔を逸らした。
「見つけた。おそらく邪晶石だ」
ミコトが見つめる先は、森の奥深く。
「二人は里に戻れ」
そう言われ、ラカは一瞬だけ躊躇して、首を横に振る。言葉にはしなかった。
ミコトは数秒沈黙してから、あっさりと頷いた。
足元の亡骸に、ミコトが鋭い顎門で喰らい付く。
ミコトに偽装したまま死んだ狂人が、噛み砕かれ、ミコトの糧となる。
バキバキ、メリメリと、ミコトの肉体が『変異』していく。
そうして出来上がったのは、巨大な肉色の獣だ。
「 ノ れ 」
ラカは逡巡しながら、獣の背中に跨った。そのラカに倣い、テッドも飛び乗る。
と、ミコトの背中から新たに、骨の腕が生え、二人が動かないように固定した。
ウラナ大森林を、怪物が疾走する。
鈍重そうな見た目に反し、その足は速く、素早い。立ち並ぶ木々を軽々と避け、時に足場にして森を駆けるその速度は、馬を容易く超える。
大気の壁が肌を叩く。怪物の背に乗り、身を屈めている二人は、息をするので精一杯だった。
そんな過酷な時間が、どれくらい過ぎただろうか。ラカの体感時間では、一〇分も経っていないと感じていた。
顔を上げたテッドが、何かを目にして眉根を寄せた。目を細め、その姿を捉えて、驚愕する。
「なんだ、あのデカブツ!?」
青い月明かりに照らされ、その姿が浮き彫りになる。
太く長い巨体、強靭で青い鱗。
爛々と輝く血色の瞳。大蛇の頭が、木々の頭より高くから、ラカたちを見下ろしている。
「シュゥ……ワタシは魔王教、《ラ・モール》所属、レヴィ。――オマエら、喰うゥ!」
直後、周囲の木々が、ごっそりと薙ぎ倒された。
大蛇――レヴィの尾による薙ぎ払いが、迫りくるミコトを押し潰さんと迫る。
「あぁ、妬ましい! ニンゲンっ! その肌が、その髪が、その顔が、ワタシは妬ましい!!」
地面に擦りながら、豪速で迫りくる尾に対し、ミコトは跳躍することで回避した。
木々を跳び出し、ほんの数秒の空中浮遊。上昇し切り、落下する寸前の、短い停滞。
眼前。
ミコトのすぐ目の前で、レヴィが蛇面を歪めて嗤った。
すぐさまミコトは、背中のラカとテッドを、骨の腕を使って放り出した。
空中に放り出され、落下していく二人の頭上で、二体の怪物が激突する。
一方は、人の背丈を超える、肉色の獣――ミコト。
もう一方は、全長三〇メートルは超える、大蛇の魔獣――レヴィ。
「シュゥ――ルルァ!!」
空中で動けない獣に、レヴィは巨体を活かした、重い突進をする。同時に巨大な顎門を開き、ミコトを飲み込もうとする。
顎門に捕えられる前に、ミコトの肉体が『変異』する。獣の体躯から、肌のない巨人へと姿を変える。
大蛇の顎門が閉じられる。その隙間で、巨人は押し返そうと力を入れる。
「 グ ガ 」
しかし、ただでさえ体格の差がある上で、足腰の力で顎門に勝てるはずもない。
鋭い牙に挟まれ、巨人の肉体が砕かれていく。
唐突に顎門が開かれた。その理由は単純、拘束の必要がなくなったから。
次の瞬間、巨人が大地に叩き付けられた。
荒々しい暴力に、巨人の骨は砕かれ、肉は潰れる。
しかしこのようなもので、クロミヤミコトという怪物がやられるはずもない。『変異』があればこのような傷、『再生』するまでもない。
ミコトは肉体の損傷を無視して、地に降り立ったラカとテッドに向け、叫んだ。
「邪晶石はすぐそこだ、走れぇ!!」
魔力感知に劣る《無霊の民》にも、その強烈な違和感は、肌に感じられた。
邪悪で、気持ちの悪い気配。浴びていると、叫びそうになる狂気が、魔力として叩き付けられる。
これが瘴気。
世界を侵す、魔王の魔力。
その源へ、ラカとテッドは走った。
数多の魔獣が立ち塞がった。
テッドの拳が、ラカの蹴りが、道を切り開く。
しかし、数の差は圧倒的だ。
進んでいるのか退いているのか、だんたんとわからなくなっていく。
「 ア ア ア ア ア ァ ァ ァ ァ ! 」
おどろおどろしい叫びが上がった。
ラカとテッドの上を跳び越した爆炎が、木々を燃やし、魔獣を焼く。
レヴィを無視して、ミコトが魔術を行使したのだ。
「 イケェ! 」
隙を生み、今度こそミコトが、レヴィの顎門に砕かれる。
咀嚼音を背後に、ラカは歯を食いしばって、ミコトが切り開いてくれた道を疾走する。
レヴィが寄り添うように守っていた、途轍もなく巨大な大樹。
その根本に、血色に輝く結晶体がある。――アレが邪晶石。この世界に生きる生物としての勘が、ソレをこの世にあってはならないモノだと警邏を鳴らす。
一体の魔獣が、邪晶石までの道を阻んだ。
巨大化しただけでなく、体躯が鱗で覆われていた。
その他の魔獣よりも姿を変えたそれは、中期の魔族であった。
初期と中期では、力の差は圧倒的だ。
魔獣が二人に向けて跳び掛かる。地を抉る跳躍は、初期の動きを超えて素早い。
ラカは大きく飛び退き、テッドは魔獣の横に回り込む。幾度となく魔獣を葬ってきた突きが放たれるが、テッドの拳は鱗に塞がれて通じない。
舌打ちし、テッドが叫ぶ。
「こいつは僕が引き付ける。お前は走れぇ!」
「だがっ」
「さっさと往けェ!!」
テッドの怒号を受け、ラカは拳を強く握り、走り出した。
邪晶石の元まで、あと一〇歩。
強烈な瘴気を浴びて、魔力に慣れていない体が痺れてくる。
あと七歩。
あらゆるものを狂わせる邪悪に、心の防壁が軋む。
あと四歩。
体がふら付き、頭がぼうっとして、何も考えられなくなっていく。
それでも、やるべきことは、魂が憶えている。
あと一歩。
体力も精神力もギリギリな状態で、ほんの少しでも浸食を許せば、たちまち叫んでしまいそうになる狂気に侵されながら。
ラカはナイフを取り出し、振り翳す。
そして、辿り着き。
死力を尽くした突きが、邪晶石に突き立てられた。
――しかし、壊れない。
邪晶石を破壊するには至らなかった。
「あぁ……!!」
それでも、絶望しない。
絶対に屈しない。
ラカは素手で邪晶石を握った。
霊地の魔力を取り込み、途轍もなく膨れ上がった瘴気が、ラカの肉体を浸食する。
ラカの体内に、瘴気が流れる。耐え切れない肉体が悲鳴を上げ、肌が裂ける。
体内を瘴気が循環することによって、ラカの瞳が黄色と血色に明滅する。
もうすぐ狂う。あともう一歩で堕ちる。
その先にあるのは、赤と黒がぶちまけられた狂気だけだ。
だが。
それでも。
「オレは、負けねぇ――ッ!!」
全力で、邪晶石を放り投げた。
頭上へ、木々を跳び越して。
ラカにはもはや、邪晶石を砕くだけの力は残っていない。
なら、できる者に任せればいい。自分は限界だが、託すことならできる。
「やれよ、ミコトぉおおおおおおおおお!!」
ラカの信頼を受けて、大蛇の腹の中で、ミコトが目を覚ます。
死にながらも、周囲の状況は掴んでいた、だから、やるべきことは把握している。
「――『メシアス』」
それは復讐者の力。
自身を殺した者に放つことができる、絶対的な死。
『黒死』の泥が、レヴィの体内を駆け巡る。
レヴィの腹部から、漆黒の泥が跳び出した。それはレヴィを殺すだけに収まらず、あらゆるモノを巻き添えにする。
ぞろぞろと集まって来る魔獣の群れも。
テッドと戦っていた、鱗の魔獣も。
そして、空高く投げられた邪晶石も。
あらゆるモノは、『黒死』の前では無意味。
飲まれた生命は死に絶え、あるモノはミイラと化し、あるモノは砂と化す。
邪晶石もまた、その運命からは逃れられない。
内包していた膨大な瘴気が、殺された。
ウラナ大森林で魔獣が生まれた原因が、消滅した瞬間であった。
「妬ましい」
体躯を殺され、頭部だけとなったレヴィが、ミコトを睨み付ける。
「生き返るなんて妬ましい。死なないなんて妬ましい。その力が妬ましい。ニンゲンのキサマが妬ましい。その肌が、その髪が。ヒトの形も持つなんて……羨ましい」
魔王教と名乗った、大蛇の魔獣が、血涙を流して嫉妬する。
自分にないモノを妬み、嫉妬に狂った怪物が、嘆き悲しむ。
「ワタシにそれがあったなら、きっと愛されていた。ワタシはみんなの人気者になって、誰しもに好かれて、愛されて――」
その慟哭を、ミコトは聞き流す。
くだらないと、彼は言わなかった。無感動の目は、こう語っていた。
どうでもいい、と。
「悔しい、羨ましい、嫉ましい、妬ましい! ワタシにないモノを持つ者が! ワタシにないモノを持ちながら、それが当然のように振る舞う者が! 狂おしいほどに妬まし嫉ましい妬ましい嫉まし妬しい嫉ましい嫉まし妬ま嫉まし妬ま嫉ましい、嫉妬する――!!」
レヴィの慟哭を。
嫉妬に狂った大蛇の嘆きを。
ミコトは一切、聞き入れない。
「死ね」
今度こそ、容赦なく放たれた『黒死』が、レヴィの命を奪った。
二度の『黒死』を受けて、砂と化して崩れたレヴィに、ミコトは一瞥もくれない。
ラカに託したテッドの元へ。
ミコトに託してくれた、ラカの元へ。
ほかの全てを顧みず、後ろを振り向くこともなく、歩む。