第九話 赤に濡れる凶刃
いつの間にか、サーシャは眠ってしまったようだった。今は毛布を被って、洞穴の壁にもたれてかかって寝息を立てている。
そんなサーシャの、赤くなった目元を見ないようにして、ミコトは焚き火を見つめた。パチパチと薪が爆ぜる音を聞きながら、先ほどの会話を思い返す。
(……胸糞わりぃ)
世界の魔力、マナを扱えるからなんだというのだ。サーシャが危険なんて、馬鹿らしい。
赤い瞳がどうしたというのだ。魔族が赤い瞳をしているからと言って、サーシャとは関係ない。
少し天然が入った少女だ。すごく優しい少女だ。とても、暖かい少女だ。
マナを使えて瞳が赤いだけの、ちょっと特殊なだけの少女だ。
――そんな少女がなんで、命を狙われなければならない。
世界に対する、ラウス・エストックに対する、まだ見ぬサーシャの敵に対する憎悪と怒りが、ミコトの中で膨れ上がる。ただしそれは、ぶつけどころのない激情だ。
つい舌打ちしてしまった。それで事態が好転するわけではないというのに。
ミコトは右手の掌を見て、胸を押さえた。中心より少し左にずれた、心臓の位置だ。
目を閉じて、魔術の知識を反芻する。魔力はさっき感じられた。次は、魔力精製だ。
生命力の源と言えば心臓だ。ならば、精製するのは心臓部ではないか、と思ったのだ。
だが、望んだ結果は得られない。自身の内側から魔力が湧く感覚を得られなかった。
腹部を試した。しかし、どうやってもほしい感覚は得られない。
ヘソの下――丹田も探ってみた。それでも、魔力は湧いてこない。
ミコトが頭を悩ませたそのとき、視線を感じて顔を上げた。
視線の先で、レイラが訝しげにミコトを見ていた。
「……んだよ? あんまり見るなよ恥ずかしい。火傷しちゃうぜ?」
「何やってるのか、気になっただけよ」
「どうやったら魔力精製とやらできんのか、試行錯誤してたところだよ。マジでなんか、コツとかねえの?」
「これは本当に、一度使えるようになるまでわからないわよ」
「そうかい、残念無念」
ミコトは落胆した。が、気を取り直して魔力精製法の思索に戻る。
額を指差す。何も感じず。
両手の親指で、頭を挟み込む。痛い。
「いくつか、知ってることを教えてあげる」
レイラの声。ミコトは驚いて見ると、レイラが憮然とした表情で話し出した。
「魔力精製は勘頼り。場所じゃなくて感覚。体の一部で精製されるわけじゃない。お尻とか論外ね」
自分の尻をさすっていたミコトは、そう言われて黙って手を離した。こういう手法では駄目らしい。
「じゃあ、どうやって……?」
「勘頼り、感覚頼り。本当、それは自分でしかわからないから」
口では説明できないほど、感覚頼りらしい。
なるほど。確かに切っ掛けが重要そうだ。
「あと、魔術の才能がなくても、武芸者が一流まで育てば自然と魔術が使えるようになるらしいわよ。アタシの仲間に、そういう人がいるし」
「俺に筋肉マッチョマンになれと申すか。憧れないことはねえけど」
だいたい、そんな時間はない。ミコトは盛大なため息をこぼした。
感覚と言われても、よくわからない。
ミコトは首を傾げて唸った。
「アンタ、寝ないの?」
「あん? いや、眠気が来なくてさ。それにもともと、睡眠とかあんまり取らなくても大丈夫な体だし」
唐突なレイラの言に、ミコトは訝しみながら、
「いきなりどうしたよ?」
「……別に。ただ、アンタの態度が意外だっただけ」
「意外? 魔術使おうと頭捻ってるこれがどうしたよ?」
ミコトは眉根を寄せる。レイラは話すのも億劫という態度で口を開き、しかし首を横に振った。
「別に、なんでもないわよ」
「そか」
まあ、そこまで気にすることでもないだろう。
ミコトは再び、魔力を使おうと頭を捻って。
「――ありがとう」
ミコトは一瞬、何を言われたのかわからなかった。そのあと、礼を言われたのだとわかって、ミコトは目を丸くした。
声の主はレイラだ。間違いない。ただ、彼女からそんなセリフを言われるとは思っていなかった。
「どうしたよ突然? ほんと、マジで」
「……あの子を、サーシャを助けようとしてくれて。あんな綺麗に笑うところ、久しぶりに見たわ」
「い、いっつもぽわぽわしてる気がすんだけどな」
真剣に頭を下げるレイラに、ミコトは慌てた。
きつい物言いの彼女に真摯な態度を取られるのは、居心地が悪かった。
「や、めろよ気色わりぃ。気味が悪いな」
「乙女にそのセリフはどうかと思うわ」
「おとめ……? 誰が?」
「ぶん殴るわよ!」
レイラがハッとして、押し黙った。ミコトのペースに乗せられていることに気付いたらしい。
ちぇ、とミコトは唇を尖らせた。つまらん。
「まったく、アンタわけわかんないわね」
ミコトは『意味がわからない』とでも言うように肩を竦めた。表情がニヤけているので、レイラも簡単にそのジェスチャーが演技だとわかったのだろう。
レイラは眦を吊り上げたが、嘆息しただけだった。
「最後に、一つだけ」
「あん?」
見ると、レイラは先ほどよりも真剣な表情で、ミコトを睨んでいた。思わず怯んでしまう。
「――あの子を、裏切らないで」
その言葉は、ミコトに向けられていながら、視線は空虚を向いていた。どうしてか、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
息を飲むミコトを見やり、レイラは吐息をこぼした。
「それだけ、だから」
「……ああ」
それきり、洞穴の中には重たい沈黙が広がった。
ミコトは何かふざけようとも思ったが、レイラは会話を拒んでいるようだったので、口を噤んだ。
ミコトは小さく、ため息をこぼした。
この姉妹は、何かある。きっと、平和な世界で生きてきたミコトには、理解できない何かが。
けど。
(裏切るつもりはねえさ)
何があったとしても、何が起こるとしても、ミコトは彼女たちを見捨てない。
それだけは絶対に、本当だった。
右手をきつく握った。この気持ちを、決意を、覚悟を手放さないように強く、強く、握りしめた。
そうだ。救わなきゃいけないんだ。救えば俺はきっと……。
「……あ」
耳にレイラの呟きが届いた。
見ると、レイラは洞穴の外を見て、頬を緩ませている。ミコトも視線を追って、表情に喜色が浮かんだ。
暗闇が薄くなり、少しずつ明るくなってきている。
――夜明けだ。
「やっとか。待ちくたびれたぜ太陽」
横を見ると、レイラがサーシャを起こそうとしていた。
サーシャは目をこすって、ゆっくりと体を起こした。
しばらくして意識を覚醒させたサーシャが立ち上がり、大きく背伸びをした。
ミコトは肩を回し、腰を回した。バキバキ、と一瞬骨を心配してしまう音が鳴ったが、大丈夫だ。
「……おはよう」
「おはよう、サーシャ」
「おはよーさん」
軽く挨拶して、三人そろって洞穴の外に出た。
太陽は出ていなかったが、川の下流のほうにある山が明るくなっていた。その方向が東で、これから向かう先なのだろう。
どうやらこの谷、ガルムの谷は、東西に広がっているらしい。地球と異世界が同じならば、だが。
「さて、と」
もうすぐ、迎えが来るはずだ。
それで、落ち着いたらどうしようか。まず、魔術を憶えたい。世界地図とかも見てみたい。いや、常識を学ぶことが先決か。
どうしてだろう。これから先、どうなるかなんてわからないのに、不安を感じなかった。むしろ、楽しみにすらしていた。
なるようになるさと、輝かしい未来を思い浮かべた。
しかし。
「待ちくたびれたぜぇ、てめぇらぁ?」
洞穴から出たミコトたちの、視線の先。川の上流方面、十数メートル向こうに、その男は大岩に座り込んで、ニヤニヤと笑っていた。
ラウス・エストック。茶色の眼と髪を持った、レイピア使い。
「なんで、テメェが……」
「おぉいおい。俺は引退してけっこう経つが、それでも通り名が付くほどの傭兵だぜぇ? その気になって探せば、かぁんたんに見つけられんだよ」
レイラがサーシャを庇いながら、後退った。
何かアクションを起こせば、すぐさま襲われる。そんな、おそらく殺気と呼ばれるものを、ミコトはピリピリと肌で感じていた。
体が震えそうになるのを抑えて、ミコトは無理やり表情筋を動かし、不敵な笑みを作った。
「で、わざわざ待ってたってわけか? 待たせちまって悪いな、悪人面」
「いぃやいやぁ、今来たところさ、若白髪」
「そのセリフ、待ち合わせのときの常套句だよな。TSでもして出直してきな。あと若白髪言うな、その目付きの悪い目ぇ抉り取るぞ」
ラウスは余裕そうな表情を崩さない。動揺を誘うことはできなさそうだ。
「(時間を稼いで。アタシが合図を出したら逃げるわよ)」
内心ため息をこぼしたミコトは頷いて、ラウスに言葉で気になったことを口に出した。
「なあ、なんでお前はサーシャを襲うんだ? テメェ今、引退したって言ったよな? ならなんで?」
「……どぉでもいぃだろぉが。てめぇにゃ関係ねぇこった」
「まあな。それを聞いたところで、好感度が最悪が最低に変わるぐらいだし」
「変わってんのかぁ、それ?」
時間を稼げ。迎えが来るまで、会話を途切れさせるな。頭を回転させろ。
怖がるな。怯えるな。恐れるな。
絶対に、退くな。
「ま、悪人面の並べる理由なんざ、十中八九くっだらねえことなんだろうけど」
「……んだと」
ラウスが怒りで表情を歪めた。それに気をよくして、ミコトは続ける。
「だってよ、テメェみたいな悪党がアホ正義のため~、なんて言ってるとことか想像できねえし? 引退したんなら、金のためってのも違うんだろ? じゃあやっぱり、ひどいことをするためなんだろ? エロ同人みたいに」
「そのエロ童人がなんだか知らねぇが、確かに正義だ金だぁなんて言ってるわけじゃねぇよ」
ラウスが盛大にため息をこぼして、レイピアで肩をポンポンと叩いた。
「こぉやって余裕ぶっこいてるから、最後の最後で詰めを誤るんだよなぁ。《ヒドラ》の野郎が来ちまったら、さすがに撤退するしかねぇしなぁ。反省ぃ、反省ぃっと」
そのセリフは、もうラウスが会話を続ける気はないと告げるもの。
ミコトは焦った。まだ迎えは来ていない。ラウスの言う《ヒドラ》さえ来れば、なんとかなるのだ。
「もうちっとトークしようぜ。ほら、コミュニケーションは大事だろ? 今のご時世、就職にはコミュ力も必要になるんだしさ。な?」
「わりぃが、時間稼ぎに付き合うのも、もぉ飽きた」
「……ノリがわりぃぞ? 女の子に嫌われるぞ?」
「知るか」
ミコトは舌打ちした。
ラウスは大岩から立ち上がり、跳躍して地面に降り立った。ぽんぽんと、尻の埃を払い落す。
「てめぇが俺を嫌うように、俺もてめぇが嫌いだからな。だが安心しろよぉ? てめぇはぁ……」
一歩一歩、気負う様子もなく近づいてくる。
ミコトの額に汗が流れる。緊張で顔が強張りそうだ。
息が荒い。苦しい。
合図はまだか。いつだ。今か? 次の瞬間か?
いや、冷静になれ。息を整えろ。
「…………」
そして。
ミコトはラウスを睨み付けて。
ラウスがさらに一歩踏み出した、その瞬間。
「逃げてッ!」
レイラの合図。同時に、ミコトの横を人間の背ほどもある炎の塊が数十発、大気を燃やしながら通過した。
ミコトは顔を青くしながら、ラウスに背を向けて走り出した。横にはサーシャが、サーシャ後ろにはレイラが走る。
「――苦しむ間のなく殺してやっからさァ!」
大気を切り裂く音が聞こえた。
首を回して後ろを見ると、ラウスがレイピアを降り抜き、炎を切り裂いたところだった。
炎が大気に溶けていく中で、ラウスは凶悪に笑う。
「『エアリモート』ォ!」
ラウスの体が、目に見える風に包まれた。炎が風に巻き込まれ、数瞬の間もなく消えていく。
崖でミコトとサーシャを追いつめたときと、おそらく同じ魔術。
「待ァてよオイぃ!」
地面を蹴ったラウスの体が、超速度でミコトたちに迫る。
開いた距離を一瞬にして埋めるスピードは、おそらく体に纏った風によるもの。速度上昇の魔術だろうか。
考察する暇もなく、ラウスが跳び上がった。ニ階建ての家ほどの高さまで上昇し、レイピアを上段に構えた。
「クヒッ……『エアリエント』」
レイピアに、目に見える風が纏わりつく。振る速度が上がるのか、切れ味が上がるのかはわからないが、より危険になったのはわかった。
ミコトの横でレイラが、赤い革手袋がはめられた右手をラウスに向けた。
直後、レイラの右手の先に、轟々と燃える炎の塊が出現した。
「『イグニスト』……!」
そして、炎が射出される。
やった、と思った。
ラウスの体は空中にある。どこにも逃げることはできない。この炎は、確実に当たる。そう思った。
だが、甘かった。
「ヒィイ、ヒャハハハァ! 無駄だ無駄ァ!」
哄笑。そして、蹴った。――何もない、空中を。
「う、そ……だろ」
ラウスの動きが直角に曲がった。横回転しながら切り裂くことで、炎は呆気なく散らされる。
さらに中空を蹴ることで、ラウスは急激な軌道の変化を可能としていた。レイラが炎を放ち、サーシャが水の塊を放つが、すべて切り裂いて消滅させる。
レイラは炎を連射し、広範囲に射出しているが、ラウスは簡単に一蹴してしまう。
避けられるのに、わざわざ切り裂きに行っているのは、ラウスの余裕ゆえか。
まるで獲物を甚振る蜘蛛のようだ。
ミコトは何もできないことに歯噛みする。
サーシャとレイラに頼ってばかり。これでは、ただの足手纏いではないか。
「殺してやる! 目玉抉りとって髪ぃ毟って鼻を削いで、二度と人前に出られねェ体にしてやる! 肌を切り裂いて肉を断ち切って骨を叩き斬って、見るも無残な死に様をお天道様の下に曝してやる!」
ついに、サーシャとレイラの魔術に、大きな隙ができた。なんとかラウスを近付けさせまいと放っていたが、タイミングがずれてしまった。
ラウスが笑って中空を蹴り、すさまじい速度でこちらに突っ込んできた。
回避はギリギリだ。ミコトは前に跳び込みことで、レイピアの凶刃を避けた。
受け身を取る暇もなく地面を転がり、体の節々を川岸の岩にぶつける。
痛みをこらえて立ち上がろうとするミコトの上に、白い何かが転がってきた。重量に足の力が負けて、ミコトは後頭部の岩にぶつけた。
「ったァ……ッ!」
ミコトは白い何かに、温かな熱を感じた。慌てて確認すると、それはサーシャだった。
サーシャは頬を赤く腫れさせて呻いている。見れば、白い衣服のところどころに、靴裏の跡がある。
前を見た。ラウスがニヤニヤして、蹴りを放った体勢で構えている。
奴は何を蹴った? 決まっている。
ラウスは、この少女を蹴ったのだ。
「テメェ……!」
憎悪を込めて睨むが、ラウスは嘲笑ったままだ。
憎い。目の前の男が。余裕綽々な面を見せ、こちらを嘲笑する、目の前の男が。
歯を剥き出しにして跳びかかろうとしたミコト。しかし、その前にレイラが背を向けて立ち塞がった。
「アタシが足止めする。アンタはサーシャを連れて逃げて!」
「んな……こと、できるか! 見捨てられるわけねえだろ!」
この戦闘とも言えない、ただ一方的に嬲られるような戦いで、彼我の実力差はわかった。今のミコトでは逆立ちしたって勝てない。レイラの攻撃も、すべて余裕に無効化されるだろう。
ラウスに対する、憎悪の心は変わらない。たが――勝てない。それを、レイラに止められてできた時間と、僅かな理性で悟った。
逃げ切るには、誰かの犠牲が必要だ。それもわかっていて、しかしそれを容認できるわけがない。
「馬鹿なこと言ってねえで、早く逃げるぞ! 迎えってのが来るまで持ちこたえれば……」
「甘ったれたこと抜かしてんじゃないわよ! ……だいたい、アタシは犠牲になる気はないわ。しぶとく生き残るわよ」
首を少し回して後ろを見るレイラの目を、ミコトは見た。覚悟を決めた眼光に、諦観の色は見えない。
ミコトの葛藤の間に、レイラは駆け出した。
伸ばした手は、中空を彷徨った。
「――――」
脳裏に『光景』がよぎる。
駆け出した玲貴の後ろ姿に、手を伸ばすのを躊躇する、愚かな自分の姿が。
「……っ」
ミコトは首を振った。あのときとは、状況が違う。
レイラが詩を紡ぐ。数多の炎が出現し、射出されるが、ラウスは簡単に避けていく。
ミコトが入る隙間のない戦闘。きっとレイラの耳には、ミコトの声など入らない。
ミコトは、伸ばした手を引っ込めた。
「レイラ!」
だからその声は、ミコトのものではなかった。
悲痛に歪んだ少女の声は、サーシャのものだ。
脇を抜けて、戦闘に加わろうとするサーシャ。その左手をミコトは掴んだ。
それ以上、彼女を先に進ませないように。
自分の表情がどうなっているのか、ミコトにはもうわからなかった。
「ミコト、なんで……!?」
サーシャの抗議に、ミコトはなんとか説得しようと怒鳴りかけて――それを、見てしまった。
レイラが、膝を付く姿を。
右肩から溢れ出る、大量の血液を。
血の滴る凶刃を。
唇を舐めて嗤う、殺人鬼の姿を。
「ふヒャハ!」
ラウスが、地面を蹴った。
あっという間に距離を詰めてくるラウス。
朝日に照らされても輝くことのない、血の赤が塗られた漆黒の凶刃。
「――――ぁ」
それは、意識しての行動ではなかった。
ただ、なんとなく体が動いてしまっただけで、何も考えてはいなかった。
未だこちらを見て、抗議の声を上げようとするサーシャの手を、力の限り引っ張った。ほとんど脚に力をおめていなかったミコトは当然、体を前に出す。
殺人鬼が、ラウスが迫る。レイピアの切っ先が、迫る。凶刃が、迫る。
――死が、迫る。
動けない。避けられない。すべてが間に合わない。
そして――――。