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夏の終わりに

作者: 三途比呂

海を見ていた。

黄昏の夏の海を、僕は見ていた。

空は沈みゆく夕日の鮮やかなオレンジ色に染められ、水平線から波打ち際へと、一筋の光の帯が、一際強い輝きを放ちながら伸びている。

優しく吹き渡る潮風が水面を揺らす度、黄金色の光がキラキラと乱反射して、とても綺麗だった。

だけど、僕は知っている。

この美しい光景は儚いものなんだ。

やがては消えてしまうものなんだっていう事を・・・。



こんなに綺麗な風景を見ているのに、何故だろう?

その美しい風景とは対照的に、寂しさと切なさを感じさせる。

夕日が水平線に少しずつ沈むと、空の天辺からは、紺碧の空間が広がってくる。

この美しい光景も、やがてはあの空間に飲み込まれてしまうのだろう。

鮮やかに染められたオレンジ色の空も、眩いばかりの輝きを放っていた水面も、ただ一色の紺碧に、塗り潰されてしまうんだ。


「さっきから黙っちゃって、何か考え事?」


少しムッとした表情で彼女が言った。

僕は彼女の顔を直視し、すました顔で答える。


「ちょっとこの風景に感動してた」


「なにそれー、悠斗ゆうとらしくないな、明日は雪降るかも、すごい大雪」


彼女は戯けて、空をキョロキョロと見渡しながら、茶化すように言った。


「俺だって感傷に浸る事もあんのー!」


「そうなんだー、5年間付合ってて初めて知ったぁ〜」


また彼女は茶化すように言った。

少し間があり、お互いに顔を見合わせて笑った。

二人の目の前には、紺碧の空間が広がってきた。


「そろそろ帰るか、腹も減ったし肌寒くなってきた」


「そうだね、夏ももう終わりだね・・・・・また、来年も一緒に来ようね」


彼女はそう言うと僕の肩にもたれ掛り、小指を突き出し言った。


「約束の指きり!」


「わかったわかった、はい、約束ね」


僕は彼女の小指に自分の小指を絡ませ、約束の指切りをした。

8月も終わりに近い休日の、他愛もない出来事だった。



9月、僕はいつもの暮らしに戻っていた。

満員電車、群集の足音、車の排気ガス、スクランブル交差点を行き交う慌ただしい人々の流れ、そんな都会の喧騒と、息苦しいストレス社会に埋もれている。

彼女とはあの日以来、会っていない。

僕は業界では中堅の広告代理店で営業をしている。

営業という職種は、顧客の都合で時間が奪われる事が多い。しかも、この時期、多くの企業は”冬季”の広告制作の真っ只中で、広告業界は繁忙の極みである。

無論、僕も例外なく、毎日をあくせく過ごしていた。


トルゥルゥルゥルゥ、トルゥルゥルゥルゥ


携帯が鳴った。着信を見ると彼女からだ。


(参ったな・・・今日、約束してたんだっけ・・・)


僕は、これから同僚と”打ち合わせ”と言う大義名分を掲げ、ネオン街へと向かう所だった。

彼女との約束を破らなければならない僕は、バツが悪そうに電話に出る。


「もしもし、真理か・・・」


「あっ、悠斗、今日は会えるんでしょうね?」


「それが、今日も残業になっちまって、今、電話しようかと思ってたところだよ・・・」


「また残業なのー、楽しみにしてたのにー!!」


「仕方ないだろ、仕事なんだから・・・」


「だって、今日は絶対って言ってたじゃない!」


ここの所、こんな調子で彼女との約束を何度も破っていた。

仕事で会えない事も多かったが、同僚との付合いを優先したり、日頃の疲れから、休日は一日寝てしまって、約束をドタキャンしてしまう事もあった。

だからといって、彼女を軽視していた訳じゃない。

ただ、今日まで積み重ねてきた彼女との時間が、僕の彼女に対する気持ちを少し麻痺させてしまっていた。

俗に言う、倦怠感って奴だ。


「ホント、ゴメン、今度、絶対埋合せするから・・・」


彼女とはいつでも会えると思っていたし、また、それが当然の事だと信じて疑わなかった。

今日まで過ごしてきたような時間が、永遠に続くものだと、この時は錯覚していた。



それは突然の知らせだった。

その日、仕事を終え、帰宅したのは深夜0時を周っていた。

ネクタイを緩めながらTVのリモコンをとり、部屋のソファーに腰を下ろすと同時にTVの電源をいれる。

画面にはいかにもという感じの、くだらない深夜番組が映し出されて、チャンネルを変えるが興味を引くような番組はやってない。取り合えず、適当な番組でリモコンを置いた。

携帯を上着の内ポケットから取り出し、ふと、画面を見ると、待受けにはあの日、浜辺で撮った彼女の笑顔が、僕に微笑みかけている。


(最近真理に冷たくしちゃってるな・・・・・まあ、明日、埋合せするからいいか・・・)


翌日は仕事が休みで、彼女と会う約束をしていた。

僕は彼女をショッピングにつれだし、日頃の”埋合せ”で、前々から欲しいと言っていた指輪をプレゼントするつもりでいる。

彼女の喜ぶ顔を想像しながら、いつの間にかウトウトしてしまった。


トルゥルゥルゥルゥ、トルゥルゥルゥルゥ

トルゥルゥルゥルゥ、トルゥルゥルゥルゥ


携帯の着信音がけたたましく鳴り響き、その音でハッと目覚めた。

慌てて出ると、彼女の母親からだった。


「もしもし、井上さん、あの子が、真理が・・・・」


声の感じからして只事では無い事が伺える。しかも、かなり動揺しているようだ。


「どうしたんですか?落着いて下さい」


そう言いながらも僕自身も動揺して、携帯を握る手が震え、体がピーンと張詰める緊張感に支配されている。


「真理、真理、しっかりして・・・真理」


彼女の母親の叫び声と共に救急車の音がして、電話は切れてしまった。

僕は取る物も取らず部屋を出て、急いで車に飛び込み、エンジンをかける。

高鳴る心臓の鼓動が、更に僕を焦らせた。


(焦るな、焦るな、大丈夫、大丈夫)


そう自分に言い聞かせながら車を走らせ、彼女の家に向かった。



夜明け前、僕は、病院にいた。

昨夜、彼女の家に向かう途中で、彼女の母親から搬送先の病院を知らせる連絡をもらい、急いで病院に駆けつけた。


救急処置室前の薄暗い廊下のソファーに、彼女の母親と少し間をおいて腰を下ろした。彼女はこの母親と二人暮らしで、父親はいない。

母親の話では、彼女はここ数日間、微熱と頭痛に悩まされていたらしく、昨夜、母親が部屋に様子を見に行くと、すでに意識のない状態で倒れていたという。

普段、気さくで明るい母親も、以来無言で、閉じたままの救急処置室のドアを、祈るような眼差しで見つめている。

彼女は搬送後、すぐに精密検査にまわされて、未だ医師からの説明は何もなく、時間だけが重苦しい空気とともに流れていた。


ガチャッ


救急処置室のドアが開き、ドアノブを握ったままの看護士が神妙な面持ちで、こちらに目配せをする。

彼女の母親は素早く立ち上がり、二歩三歩進むと僕を見て、一緒に入室する事を促すように頷いた。それに呼応して、僕も立ち上がり、母親の後を追うように、救急処置室へと歩みを進めた。


中へ入ると医師が、カルテが広げられた事務机の前に座り、何かの数値が書かれた細長い紙切れを片手に持ったまま、僕達の方へ視線を向ける。


「お座り下さい」と、医師が着席を促すのと同時に、彼女の母親は、矢継ぎ早に言う。


「先生、娘はどうなんですか?容態は?、命は、命は大丈夫なんですか?」


「落着いて下さい。今の所、命に別状はありません。ただ、・・・、暫く入院して頂かなければなりません」


「今の所って・・・どういう事ですか?娘は何の病気なんですか?」


医師は、そう言い終えた母親の顔から一度、視線を外し、手に持った紙切れを確認するように見てから、もう一度、母親の顔を直視する。母親は固唾を呑んで、医師の言葉を待っていた。


「・・・お嬢さんは、急性骨髄性白血病です」


医師の言葉を聞いた僕は、頭の中が真っ白になり、暫く何も考えられなかった。

その時の母親の様子や、医師の表情さえも憶えていない。


「今は治らない病気ではありません。効果的な治療法も確立しています」


医師のその言葉で、我に返った。

母親は啜り泣き、何度も頭を深々と下げ、医師にすがるように言う。


「先生、娘を助けて下さい。よろしくお願いします、よろしくお願いします」


「我々も最善を尽くします、一緒に頑張りましょう」


医師は勇気付けるように母親の手を握り、力強く言った。

看護士に病室に案内され、眠っている彼女の顔を見ると、急に涙が溢れてきた。

窓の外はいつの間にか、夜が明けている。

僕は、明るむ窓の光を遮るように瞼を閉じた。


(神様、助けて下さい。お願いします、お願いします・・・)


心の中で、繰り返し何度も祈る。


(神様、助けて下さい、助けて下さい・・・)



彼女が白血病と診断されてから、僕の生活も一変した。

全てが彼女中心の生活になっていた。

3年間勤めた会社も辞め、現在は週3日、建設現場でバイトをしている。


彼女は化学療法の副作用に食欲が奪われ、日に日に痩せ細っていく。

入院して2ヶ月が経った頃、ある出来事があった。

その日、仕事を終え帰宅すると、留守電に一件のメッセージが入っていた。


「もしもし、悠斗・・・、もう病院に来ないで・・・・・・、髪の毛がね、髪の毛が抜けちゃってね・・・・、こんな姿、こんな姿、恥ずかしくて見せたくないよ・・・」


涙声で吹き込まれた弱々しい声、紛れもない彼女の声だ。

彼女は、辛い身体を圧して、必死で病院の公衆電話から掛けてきたのだろう。

きっと直接は言えなくて、携帯ではなく、自宅の留守電に掛けてきたんだ。

肉体的にも精神的にも、辛くて苦しくて、彼女の心は押し潰されてしまいそうなんだ。

そんな彼女の苦しみを考えると、涙が止まらなかった。


翌日、ある所へ寄ってから病院へ行った。

病室へ行くと、彼女は布団を被ったまま、僕に顔を見せようとしない。

また止めどなく、涙が溢れてきた。


「お前の姿がどうなっても、俺はお前を愛し続ける・・・俺を見ろ!お前は俺がこんな姿だと嫌いになるのか?」


僕はそう言って、被っている帽子を取った。

病院に来る前に寄ったある所とは床屋だ。僕は自らを、坊主頭にしたんだ。

彼女はゆっくり布団を取って坊主頭の僕を見ると、大声で泣き出した。

僕はこの時、強く思った。

彼女を全力で支えていく事が、僕の存在価値なんだ、と・・・・・。



季節は春を迎えていた。

彼女の症状が悪化し、放射線治療を開始していたが、満足な効果は得られない。

担当の医師からは最終手段として、骨髄移植を提案されたが、彼女の母親も僕も白血球のHLA型が適合せず、骨髄バンクからドナー候補者が見つかるまで連絡を待つだけの日々が続いていた。

ドナー候補者が見つからなければ、彼女は死からは免れない。

僕の疲労も限界に近付き、抑えられない苛立ちが募る、だが、それ以上に、彼女は切羽詰った状態だ。

病院の正面玄関に向かう通りの桜並木には、淡いピンク色の花が咲乱れ、風が吹くとその花びらは、ひらひらと舞い落ちる。側道は、桜の花びらに覆われ、ピンク色の絨毯じゅうたんを敷詰めたようで、春の風情を感じるには十分な光景だ。

しかし、彼女は窓のない透明なシートで仕切られた無菌室に移され、この光景を一目見る事すらも叶わない。


「悠斗、ごめんね、わたし、駄目かもしれない・・・」


そんな言葉を聞く度に、生きる事に諦めを感じている彼女の心が、痛烈に伝わってくる。

普段なら「絶対に諦めるな」「心を強く持て、弱気になるな」と、励ました。

だがその日は、弱音を漏らす彼女に、「お前だけが苦しんでるんじゃない、俺だって、毎日辛い・・・」と、配慮に欠けた言葉を浴びせてしまった。

今の彼女には絶望しかないのだから、弱気になるのは当然の事だと、自分でも分かっているつもりだったのに・・・。

なぜかその日は、最低な言葉を口に出してしまった。


「もういいんだよ、悠斗には本当に感謝してる。辛い思いさせてごめんね、今までありがとう」


僕は、僕との別れを決した彼女の言葉に”ハッ”として、なんの言葉も掛られず、病室を後にしてしまった。

彼女から解放されたいと願う、心の中の薄汚れたもう一人の自分、そんな醜い自分自身の存在に動揺し、その場から早く立ち去りたかった。


アパートに戻ると、部屋の電気を付けるのも忘れ、TV横のサイドボードに置いてあるウイスキーボトルを鷲掴みにし、苛立ちに任せキャップを開けると、勢いのままにラッパ飲みする。

彼女の気持ちを考えると、とても素面ではいられなかった。

ソファーに八つ当たりするようにドカッと腰を下ろし、ウイスキーを煽り続けた。


(俺はなんて事、言っちまったんだ・・・、俺は最低な男だ)


自分の器の小ささに、心底嫌気が差す。

ふと見たサイドボードの硝子に映る自分の姿に怒りが込み上げ、持っていたウイスキーボトルを投げつけた。



目覚めると酷い頭痛に、思わず顔を歪めた。


(ううっ、頭いてーし、気持ちわりー・・・)


”ズキンズキン”と、心臓の鼓動にあわせ、頭は割れるような痛みが走り、断続的な吐き気に襲われる。

目の前のテーブルにはビールの空き缶が散乱し、サイドボードの硝子は割れ、CDや写真立てが滅茶苦茶に散らばり、フローリングの床には硝子の破片と共に、ウイスキーボトルが転がっていた。


「なんだこりゃ・・・」


そう呟いて昨日の記憶を辿るが、一向に思い出せない。

壁掛け時計に眼を遣ると、午後2時を周っている。

二日酔いで覚束ない足取りの身体を引きずってキッチンまで行き、水道の蛇口を捻ると、日光に照りつけられた屋上の貯水タンクから引かれた水道管を通ってきた生暖かい水が勢いよく噴出し、おもむろに掴んだコップの口一杯まで注ぐと一気に飲み干した。続けて顔を洗おうと、受け皿のように両手を合わせ、流れ出る水を注ごうとした瞬間、彼女の記憶が甦る。

昨晩のアルコールが過ぎたのか、ここ数ヶ月の精神的な疲労からか、目覚めてから今まで、彼女の記憶が飛んでいた。


(情けねぇ、この程度で頭が混乱するとは・・・・)


慌てて着替えを済ませ、病院へと向かった。


「ゴメン、遅くなって・・・・」と、悪びれる事もなく彼女の病室へと入っていく。

彼女は、透明なシート越しに一瞬、驚いた表情を見せ、不思議そうに僕を見つめる。


「どうした、怒ってるのか?」なにも言わない彼女に言った。


「もう来ないと思ってたから・・・」


「来るに決まってるだろ、なんで来ないと思うんだ?」


「昨日、あんな事があったから・・・だから・・・」


そう言われ、必死で昨日の記憶を呼び起そうとするが、全く憶えていない。


「実は・・・、何も憶えてないんだよ、昨日の事。なんでだか昨夜、かなり飲み過ぎたみたいで・・・、部屋もメチャメチャになってた」


彼女は、苦笑いを浮かべた僕の言葉に俯くと、瞳からは涙がこぼれた。


「・・・・ごめんなさい、みんなわたしのせいだよ・・・」


全てを背負い込む彼女の淋しげな表情に、尋常ではない心の傷が垣間見える。


(きっと、僕が傷つけてしまったんだろう・・・、僕が何か言ったのか?)


そう直感した。


「お前のせいなんかじゃないよ、俺の弱さが原因だ」


僕は彼女をを直視し、続ける。


「昨日の事は憶えてない・・・ただ、俺はどんな事があっても、お前を愛し続ける。だから、今迄通り、お前を支えさせてくれないか?」


その言葉を聞いた彼女は涙を流し、黙ったまま頷いた。



ジメジメと鬱陶しい梅雨も明け、快晴の続く七月だった。

この季節にシンクロするように、その知らせは舞い込んできた。

骨髄バンクから彼女のドナー候補者が見つかり、八月には移植手術が行えるとの連絡である。

彼女の心に射した一筋の光明は、それまでの苦痛を拭い去るとともに、正に生への道標となり、全てを良い方向へと動かしているようだった。

彼女のネガティブだった思考回路もポジティブに切替わり、そういった心の変化も影響して、眼に見えて体調も安定している。


「よく頑張ったな、よかった、本当によかった・・・本当に・・・・」


彼女に掛ける労いの言葉も、胸に込上げる熱い感情に邪魔され、その後は言葉が続かない。、昨日までとは違う喜びの涙を流し、痩せ細った彼女の手を握り、何度も何度も頷くのが精一杯だった。


「悠斗が支えてくれたから、わたしは頑張ってこれたんだよ。悠斗、本当にありがとう」


感極まって言葉の出ない僕の手を握り返し、彼女は言葉を続けた。


「悠斗、あの約束、憶えてる?」


「約束?」


「夏の終わりにあの海でした約束・・・」


彼女の言葉に、黄昏行くあの海の美しい光景と、紺碧の空間が広がる浜辺で交わした指きりを思い出していた。


「うん、ちゃんと憶えてるよ」


「ごめんね、約束守れなくて・・・・・。迷惑ばかりかけて、大切な人との約束も守れなくて・・・、わたし、最低な彼女だね・・・」


そんな彼女の言葉を遮るように言った。


「なに言ってんだ、そんな事気にすんな。それより手術頑張って、病気を治す事が一番大切な事だ」


「一日も早く元気になって、悠斗にいっぱい恩返ししなきゃ、だから、わたし頑張る。いつかまた、あの海に行こうね」


そう言うと彼女は、指切りをせがむように小指を差出す。


「わかった、約束するよ」僕は彼女と二度目の指切りをした。


その夜、寝室のベッドに横たわり、暗い天井を見つめ、今までの自分を振り返る。

僕は今まで、何度となく彼女との約束を破ってきた。その都度、埋合わせすればいいなんて、軽い気持ちで彼女との約束を破ってきたんだ。

なのに、彼女は病魔に侵された身体で、あんな小さな約束を果たせない事を気にかけ、自分を責めている。

その小さな約束さえも、僕は忘れかけていたのに・・・。

眼を閉じると、あの海のあの光景が、瞼の奥に鮮明に甦る。


(夏の終わりのあの海に、また二人で・・・)


この約束だけは絶対に果たさなければ・・・、そう心に誓った。



蝉時雨が響き渡る、ある八月の夕暮れだった。

一本の電話は、その蝉時雨の騒々しさも掻き消してしまう程、僕の聴覚を奪い取っていた。


「真理が、真理が、死んじゃった・・・死んじゃったのよ」


その言葉を告げられてから、暫く時が止まったかのように、僕は動けなかった。

受話器から聞こえる彼女の母親の声は、冷静さは微塵もなく、動揺と衝撃も露に彼女が死んだと言っている・・・。


(彼女が死んだ・・・・そんな筈はない、彼女は来週、骨髄移植を受けるんじゃないか)


彼女は、骨髄移植が決まってから明るさも取り戻し、容態だって安定していた。

そんな彼女が死んだなんて言われても、到底、信じられない。

僕は、その信じ難い事実を自ら確かめるように、急ぎ病院へ向かう。

額から滴る汗もそのままに、病院の駐車場へ車を停めると、彼女が寝ている筈の病室へと駆け入った。


「真理、真理・・・・」


彼女の名前を必死で叫ぶが、そこに彼女の姿はなかった。

誰もいない病室の空のベッドには、一輪の花が手向けられている。

僕は突付けられた現実に全身の力を奪われたかのようにその場に崩れ落ち、大声で泣いた。



二日後、彼女の自宅で、厳かに葬儀が行われていた。

喪服に身を包み、参列者に深々と頭を下げている彼女の母親の姿は、とても小さく、老いて見えた。

祭壇の真ん中に飾られた彼女の遺影には、あの海で写した写真が使われ、その遺影は優しい眼差しで、僕に微笑みかけているようだ。


やがて、葬儀も終わり、出棺の時を迎える。

すすり泣く参列者達は、彼女の亡骸を乗せた霊柩車に手を合わせ見送る。


ファーン


物悲しいクラクションの音が響き、霊柩車はゆっくりと動き出す。彼女の遺影を抱えた助手席の彼女の母親は、参列者に何度も何度も頭を下げた。

霊柩車が見えなくなると、参列者はマイクロバスに乗り込み、霊柩車の後を追うように火葬場へと向かった。



僕は、高く聳え立つ火葬場の煙突から立ち昇る、真白な煙を見つめていた。

真白な煙は空高く立ち昇ると、やがて無色になり、消えてしまう。

僕はこの時、やっと気付いた。

この世に永遠は存在しないと言う事を・・・。

日常の全ての事柄には、それぞれに限られた時間が与えられ、いずれは儚くも幻のように消えていく。

結局、僕達の日常とは、その時間が切れるまでの一片を積み重ねているに過ぎない・・・。

そして、そのタイムリミットは、生ある限り誰にも止められない。


火葬が終わり、彼女は本来の容姿を失った。

炎に包まれていた彼女の、その変わり果てた姿からは、もう、喜怒哀楽の表情さえ窺い知る事はできない。


お骨上げを済ませた彼女の母親は、僕の手を取って言った。


「今までありがとう、真理は貴方に会えて、本当に幸せだったわよ。貴方にはこれからの人生、強く生きて行ってほしい」


握られた手から、彼女の母親の優しさが伝わってくる。


「ありがとうございます。初七日にお伺いします」


僕はそう言って深々と頭を下げた。



彼女が死んで数日が経った頃、僕は病院にいた。

精神内科の受付を済ませ、診察の順番を待つ。

あれからの僕は、何もする気が起きず毎日を抜け殻のように過ごしていた。

ある夜、心配した真理の母親から電話をもらったのだが、真理の母親は僕の異変に気付き、僕を病院へ連れて来たのである。


「井上さーん」


受付の女性が名前を呼ぶ。

僕は真理の母親とカーテンで仕切られた診察室の奥へと入る。

黒い革張りの椅子に座った中年の医者が、終始笑顔で僕に色々と質問をし、その後、幾つかの検査を受け、診察室に戻された。

診察室では医者と世間話をして、検査結果を待っている。

そこへ看護士が来て、医者に脳の断面図が写し出されたレントゲン写真を手渡すと、医者は暫く黙ったままそれを見ている。

僕はその沈黙に痺れを切らして訊ねた。


「僕はうつ病ですか?」


医者は僕を見据え言う。その表情に、さっきまでの笑顔はない。


「軽度認知障害・・・・」


「軽度認知障害?」


聞き慣れない病名に、思わず聞き返す。


「初期の若年性アルツハイマー病です」


医者のその答えに、僕は耳を疑った。


「えっ?僕が、アルツハイマー・・・・そんな馬鹿な・・・」


そう言いかけた時、黙って事の次第を見守っていた真理の母親が口を開いた。


「貴方が真理の初七日に来なかったの。おかしいと思って電話したら、貴方すっかり忘れてたのよ・・・」


真理の母親のその言葉に、僕は愕然とした。


(僕が真理の初七日を忘れていたなんて・・・・)


医者はこれからの治療法だとか、病状の進行を遅らせる薬がどうとか言っていたが、僕は上の空で聞いていた。

結局、遅かれ早かれ僕自身の人格は破壊されてしまうんだ。


(いずれ真理の事も忘れてしまう・・・)


指切りをして交わした約束も、愛し続けると誓った言葉も、僕はいずれ忘れてしまうのか・・・。

このままでは、僕は僕じゃなくなり、僕自身のタイムリミットをむかえてしまう。

たとえ生命があったとしても、君を忘れてしまえば、それはもう、僕ではない。

僕は、君を愛する事が僕の証なのだから・・・・。



僕は車を走らせていた。

夏も終わりに近い、八月の下旬だった。

僕は彼女との約束を果たすために、あの海へ向かっている。

今は亡き彼女も、あの海に来ている気がしていた。

僕は行かなければならない、あの約束を、そして君を忘れてしまわないうちに・・・・。


潮風が薫る夏の海、水面はキラキラと輝いていた。


(ここに一緒に来ようって、君と二度も指切りをしたね)


日暮れ前の砂浜に、静かに腰を下ろす。

水平線の彼方から優しい微風が吹いてくる。

そして、その時を迎えるまで、時間はゆっくりと過ぎていく・・・・。


海を見ていた。

黄昏の夏の海を、僕は見ていた。

空は沈みゆく夕日の鮮やかなオレンジ色に染められ、水平線から波打ち際へと、一筋の光の帯が、一際強い輝きを放ちながら伸びている。

優しく吹き渡る潮風が水面を揺らす度、黄金色の光がキラキラと乱反射して、とても綺麗だった。

だけど、僕は知っている。

この美しい光景は儚いものなんだ。

やがては消えてしまうものなんだっていう事を・・・。


(真理、君も見ているかい・・・)


夕日が水平線に少しずつ沈むと、空の天辺からは、紺碧の空間が広がってくる。

この美しい光景も、やがてはあの空間に飲み込まれてしまうのだろう。

鮮やかに染められたオレンジ色の空も、眩いばかりの輝きを放っていた水面も、ただ一色の紺碧に、塗り潰されてしまうんだ。


(真理、僕も今、そっちに行くよ)


僕は、目の前に広がる紺碧の海原へと、静かに歩きだす。


僕は僕自身のタイムリミットを止めるんだ。

生命が終焉を迎えても、君を愛する僕の思いは、限りない永遠となる・・・


(僕は君を忘れない、絶対に忘れないよ・・・)


紺碧の海は、静かに僕を受けいれ、優しく包み込む。

浜辺に打ち寄せる波は、僕の足跡を消し去った。

そして、僕は永遠を手に入れた。

君と見た、夏の終わりに・・・・


                                             【END】

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― 新着の感想 ―
[一言] 美しい言葉がいろいろあって、詩を呼んでいるような文章だと思いましたが、ところどころくどい表現があって、ちょっと気になりました。ストーリは、主人公の若年性アルツハイマーは、意外な展開でした。す…
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