狐語り
【1.車内】
朝、カーテンの隙間から光がベッドへと差し込んだ。
ここは閑静な住宅街でも、ホテルの一室でもない。横たわるベッドはお世辞にも良いものでは無く、加えて絶えず振動が伝わってくる。
そのお世辞にも快適と言えないベッドの上で、夏樹 美夜は目を覚ました。美夜はカーテンを少し開け、外の景色を眺めながら髪と衣服を整える。
「あと2時間ぐらいかな」
口元がにんまりとしているが、嬉しいというよりも少し記憶の奥を探っているようにも見える。
美夜はこじんまりとした部屋のドアを開け外に出る。目の前は細い通路になっており、同じように部屋から出てきた高齢の人たちに遭遇した。
「お嬢さんはよく眠れたかの? ワシは寝台電車というものはどうもあわんで、肩だけがこって眠れんかったよ」
気さくそうな老人が肩に手をやり首をひねりながら、美夜に話しかけた。
「そうですね、確かに寝つきは悪いわ。でも、この振動が旅をしているんだなって思えるから結構なんですよ、私こういうの」
美夜はにっこりと笑い返すと、老人は、そういうもんかのうと笑いながら、隣の食堂車へと向かう。
それを追うように、美夜も過ぎ去った老人の後を追う。
「さて、とりあえずいつものように食事の真似事だけしますか」
美夜は食堂車のドアを開け、一つ窓際の空いた席に腰を下ろした。
テーブルの上には、既に料理が並べられている。美夜はフォークとナイフを使い、周りがうっとりする程上品に食事をするが、その顔から食事を味あう満足感が伝わってこなかった。
その様子に通りかかった車掌が気づき、美夜に声をかけた。
「お口に合いませんでしたかな?」
「いえ、とても美味しいわ。でも、ちょっと寝付かれなかったせいで食欲があまり無いみたい」
美夜は苦笑し、車掌に笑顔で返す。
車掌はそうですかと、必要あれば薬もあることを伝え、ゆっくりとその場を離れた。
15分後、皿をすべて綺麗に空けた美夜は、小さくため息をする。
「やっぱり、どんなに胃を満たしても食欲だけは満たされないな。半年前の食事で胸焼けするぐらい栄養取れたから、まだ数年は餓死することはないと分かってはいるけどね」
美夜は外の流れる景色を見つめ恨めしそうに呟いた。
普通の人間のする食事は彼女たち種族には一切栄養にもならない。その味覚も人間と異なる為に、どんなに人が美味しいと感じる料理さえも、彼女にはただ体内に取り込むといった行為にしか過ぎない。
夏樹美夜、彼女は私立探偵である。
表向き、その受ける仕事内容はよくある身辺調査などはなく、きまって不可解な事件を専門としていた。前作「Feeding Chain」で本当の姿を晒したように、彼女は人ではない。
普段は人の姿はしているが、時にその姿を獣に似た姿へと変える。
彼女たちの種族は人の社会に紛れ、数年に一度人を食す。ただ人といってもすべての人間ではない、同族である人間を殺すことができる人間のみを餌としている。
彼女は人の社会に紛れて生活をしているが、進んでその社会、人間に干渉はしない。
多種族との必要以上の交友は、彼女たちにとっては時に苦痛でしかないことが多いからだ。
しかし今回の旅は、彼女にとっては必要以上に人と関わると感じており、本来望むものではない。しかし、今から向かう先は、彼女が珍しく過去を思い出すという場所であった。
だからこそ、普段めったに使わない"電車"で旅をすることにしたのだ。
愛車の赤いスポーツカーは、今回は出番がない。
「もうすぐ、着く、、かな」
食堂車から戻った美夜は、個室のベッドに腰掛けたまま小さなかばんを手に取り、中から小さな鈴を取り出した。紅い紐に結ばれた鈴を左手首に巻きつけると美夜は軽く手を振ってみるが、何も音は聞こえてこない。
鳴らない鈴は、今はただ美夜の手首にぶら下がっているだけだ。
"まもなく、狐峠 です"
美夜の目的地を告げるアナウンスが流れた。
それを聞いた美夜は、かばんを肩にかけベッドから立ち上がる。
「15年ぶりか」
停車と共にドアが開き、ゆっくりと美夜はホームに降り立った。
ホームには人影は少なく、初めて美夜は気分が落ち着いた気がした。
先ほどの老人たちもいない、ここで降りたのは美夜一人だけであった。
駅舎は綺麗なものだが、寂しい感じがしてならない。
今にも滅んでいく、そんな特有の空気に満ちていた。
2月、冬の冷え込みが一番厳しい季節。
薄手のコート羽織った美夜は、駅舎から雪で化粧された山並みを一人目を細め眺めていた。
【遭遇】
時刻は昼を過ぎていた。
駅を出てかれこれ3時間になる。
周りの景色は白一色、雪を踏む足音だけが静かに響く。
「はあ、こんな道だったけ・・・」
美夜はくたびれたといった情けない表情で、後ろを振り返った。
そこには街へと続く、長い下り坂が続いている。
それほど急な山道ではないが、積雪と整備されていない道ということもあり、美夜は予想以上に時間を費やしていた。
「この調子じゃ、"普通"に歩いたら山頂に着くの明日かもね。はぁ、本当キャンプの用意してこればよかった」
美夜は人の目がないことを確認してから、雪にぬれることも気にせずその場にしゃがみこみ、手近な雪を手に取り両手でボールにして子供のように下に放り投げる。
「えいっ」
とりあえずしばらくここで休憩するつもりだった。
5分後、
「助かったわ」
転がっていく雪の玉のその先からわずかな駆動音がするのを、美夜は聞き逃さなかった。反対色の黒い乗用車が雪を踏みしめ斜面を登ってきた。
美夜は車が近づくのを確認し、大きく手を振る。
黒い車は静かに美夜の脇に静止し、うっすらスモークのかかった窓が降りた。
「どうかなさいましたか?」
運転席から顔を出したのは意外にも女性だった。年は美夜よりも少し若いように見える。黒塗りの乗用車との組み合わせがあまりにも不釣合いだと、美夜は感じずにいられなかった。
「じつは山頂にある温泉地にいきたかったんですけど、この雪でなかなか進めなくて困っていたんです」
女性は美夜の顔を見た一瞬動揺をする素振りを見せたが、すぐに困ったような表情に変わり、一度後ろの座席を確認するように振り向きながら答えた。
「そこだとここから山添で回ることになりますから、まだ10kmはありますよ。お乗せしたいのは山々なんですが・・」
後部座席で動きがあった。
「八重子さん構わないよ、乗っていただこう。女性の足でこの雪道は辛いからね」
男の声。それを聞いた女性、八重子は微笑んだ。
「明さんがそう言うのでしたら」
八重子は運転席からおり、後部座席のドアを開き美夜を招いた。
その様はまるで一流のメイドという感じだ。
「ありがとうございます、助かります」
美夜は一礼をしてドアに手をかける。しかしその手はしばらく止まったままとなった。
「どうしました、気にすることはありませんよ。困ったときはお互い様です」
後部座席に座った男が美夜に声を掛けた。そこにはスーツに身を包んだ明と呼ばれた男がいた。
年齢は美夜と同じぐらいか、しかし年齢のわりには落ち着いた雰囲気をしている。
整った顔立ち、好青年、または青年実業家という言葉が似合う男だった。
男は美夜に手を差し出す。
美夜は少し躊躇したような素振りをみせたが、すぐに男の手を取り、そのまま後部座席に座った。
「ありがとうございます、本当に、えっと・・・」
車は静かに走り出し、男は笑顔で美夜に話しかけた。
「私は富士 明といいます。住まいは丁度この山の山頂付近です。ですので近くといわず目的地まではお連れいたしますよ」
「本当に何から何まですみません、冬の山をなめてちゃだめですね」
美夜は左手で頭をかく振りをする。
「えっと、私は夏樹、、」
"チリンッ"
その時、鈴の音がした。
美夜の左手首に紅い紐で結ばれた、鳴らない鈴の音。その音は美夜の耳だけに響く。響いたはずだ。
「車をすぐに停めて、何か来るわっ」
美夜は二人に叫ぶ。瞬間、黒い霧のようなものがフロントガラスを覆った。
驚いた八重子は思わずハンドルを切る。
車はそれにより山側の斜面に乗りあげ、フロントの右側面を木に接触をし停止をする。雪道と斜面でなければ車は横転していただろう。
「きゃああっ」
ハンドルを握る八重子の声が響いた。同時に、黒い霧は車全体を覆う。
「二人ともここにいて、絶対外に出ちゃだめ!」
美夜は素早くドアを開け、雪の中へ転がりだす。明は美夜の言葉にためらいつつも、異様なその雰囲気を感じたのかドアを閉めた。
車は黒い霧に包まれた状態のままということもあり、明と八重子は外の様子をうかがうことができない。
美夜は姿勢を低くし、ある一点を目指した。雪で覆われた二本の大木の間。
一見した限り何かあるようには見えないが、そこへ美夜の耳にしか聞こえない鈴の音が誘導した。
雪が散った。美夜の右手が大きく形を変え、鋭い巨大な爪が深く雪が積もった地面を切り裂いた。
その時、森の奥へと素早く移動する影を美夜は見逃さない。
"富士家の者に死を・・・"
低い声が響く。美夜の左手首の鈴の音も絶えず鳴り響いていた。
「待ちなさい!」
美夜は森の奥に消えた影を追おうとしたが、同時に鈴音の音がぴたりと止む。
「逃げられたか、意外に感のいい奴ね」
美夜の右手は元の姿に戻る。明と八重子の乗った車は黒い霧から解放されていた。
車は木に接触したこともありフロント部分が破損していたが、走れない状態では無いように見える。
二人が無事なことを確認した美夜は、影が消えた方向を再び見つめた。
「まったく、最近の若いもんは礼儀も何もあったものじゃないわね」
足元の雪を手に取り、苛立ちと共に美夜は影が消えた方向に投げつけた。
【依頼】
「美味しいわ、それにとても良い香り」
美夜は広いリビングのソファーに腰掛け、八重子が入れた紅茶を美味しく飲むフリをする。
「ありがとうございます。でも、もしかして美夜さんは熱いものはお苦手なんですか?」
八重子はあまりにもゆっくりと飲む美夜を見て口元に笑みを浮かべた。
それに美夜は苦笑して答えた。
「ええ。私、猫舌だから」
雪道での突然の襲撃から1時間が経っていた。
車はなんとかこの山の頂上に位置する冨士家の邸宅へ向かい走った。その間はもうあの黒い何かが襲ってくることはなかった。
途中での下車が危険なことも考え、明が共に彼の邸宅に行くことを美夜に勧め、美夜も諦めそれに同意した。
山中に似合わない屋敷が現れたのは、再び走り出して40分後のことだ。
屋敷についた明は頭首である父に今回の事件の報告を行うということで、世話役である八重子を美夜の側に置き席を離れている。
「ねえ、八重子さん。さっきのあれって人の仕業じゃないわよね」
美夜はカップを置き、八重子に尋ねる。
「分かりません、私には何も」
八重子は顔を背け短く答えた。美夜はそれ以上何も言わず、しばらく八重子の表情に視線を向け、そして再びカップを口元にあて、飲むふりをする。
その時、美夜の座るソファーの後ろに位置するドアが開いた。
明と、もう一人の年配の男性。
顔には深いしわが入り、その年齢よりもかなり上に映る。きっと彼がここの頭首なのだろうと美夜は思った。
「富士 源助です。このたびは息子がお世話になったのことで」
明の父、源助は軽く一例をして美夜の顔を見る。美夜を見た源助は、何か思ったのか目を見開いたままだった。
「失礼ですが、あなたのお名前は?」
その戸惑いと驚きの声に子供に語るように美夜は言った。
「はじめまして、わたしは夏樹 美夜と申します」
美夜は立ち上がり、胸元の内ポケットから用意していた名刺を取り出した。それを受け取った源助は、名刺と美夜の顔を何度か見て頷いた。
私立探偵 夏樹美夜 とそれだけが書かれている。
「私も長く政界などで生きていますと、色々な真実とも嘘ともとれる話を多く聞きます。そういった話の中であなたのお名前も聞き及んでいますよ。夏樹美夜さん」
「あら、どんな風に?」
美夜は再びソファーに腰掛ける。
「まるで迷信みたいな話ですよ。しかもあなたの名前をはじめて聞いたのは私が子供の頃、同じく政界にいた父からですが」
「そんな時代にも私と同姓同名の方がいらしたんですね」
美夜は悪戯っぽく笑い、源助の言葉を受け流した。
「ここで私、そして息子たちとお会いしたのも何かのご縁でしょう。よければ美夜さん一つお話を聞いていただきたい。それに興味を持っていただけるなら、仕事として依頼を受けていただけませんでしょうか」
そんな突然の父の言葉に、明は驚きの表情を見せた。
「父さん、まさか今回の事件のことを依頼するわけではないでしょうね。そんな警察でも何ら情報がつかめないっていうのに。しかも彼女は僕たちのせいで巻き込まれたんだよ」
明は父に対し、少し大人気ない感じで訴える。
「明さん」
美夜は明の顔を見て、にっこりと微笑んだ。
「私は普段からこんな不可解な案件を受けていますから気にしないで。それに今回の事件、ちょっと気になりますから、お話次第で受けたいと思います。あと、報酬は出来高払いでよろしいかしら源助さん」
美夜の言葉に源助は頷いた。その額には微かに汗が滲んでいる。
「それでは八重子君、美夜さんにお部屋の準備をしてくれたまえ」
「承知しました。すぐに準備をいたします」
源助の言葉に八重子はすぐにリビングを出ていく。部屋を出る八重子の顔色は伺えない。そして、3人が残された。
「どうか、よろしくお願いいたします。詳細については夕食の際にすべてお話いたしますので」
源助はそれだけを言い、その場から退席した。その足取りは少し慌てている様に見える。
「あの美夜さん、父の話は本当に聞いてからでもいいです。受けるか受けないかはその際に判断をしていただければ結構ですので」
申し訳なさそうに明は言う。
「大丈夫、こういうのはしょっちゅうだから慣れているわ」
リビングを出た源助の額は今も汗が流れていた。
「私が見たのは、そう、確か50年は昔のはずだ。服装はまるで違うがあの顔、あの声、そしてあの名前、見間違えるはずがあるものか。あの話はやはり真実だったか」
源助は子供の頃、一度だけ美夜と同じ姿をした女性に出会ったことがある。
和服に身を包み、鋭い目をした女性。当時の首相と親密に何かを語っている姿を、父について国会の見学をしていた源助は偶然見た。その彼女の風貌にしばらく目を奪われたのを覚えている。
彼女について後で父に尋ねたところ、当時官僚だった父は少し顔色を変えて子供であった源助に語った。
「この世界は人だけのものではないのだよ。そして生きていくには共に協力していくしかない。彼女もその一人だ」
不似合いな子供を見つけたその女性は、子供だった源助の頭をくしゃくしゃにして"退屈だろ"と話しかけた。子供のような無邪気な笑顔だったと今も覚えている。
その当時は理解できなかったが、父と同じ世界に入り源助は再び彼女に関する話を聞く機会があった。
昔から不可解な事件や、事故、それらの中心にはいつも夏樹美夜いう名前が絡んでいるということ。
政府はそれを表ざたには決してしない。それが彼らとの暗黙のルールということらしい。
その彼女に再び出会ってしまった。
「しかし、私たちには彼女の力が必要だ」
【八重子】
美夜の受けた依頼はまとめるとこのようなものだった。
富士源助が経営する会社の山林開発に対して、不可解な事件が続き今も作業員に怪我が絶えない。
警察も捜査をおこなっているが、現在までこれといって目ぼしい情報も無い。作業員の中には怪我だけでなく高熱を出し昏睡状態となっている者もいて、作業員の中では祟りじゃないかといった噂まで出る始末。おかげで現在は作業の進行も滞っている。
夕食の席で語られた依頼内容に、美夜はすこし耳を動かした。
「源助さん、開発をしている山ってまさか」
「ああ、この山だ。ここは冬場には良質の雪が降り積もる。大きな収益を上げることが無いこの町だが、この山を開いてアウトレットパークとして開発し、で町に活気をもたらすことが狙いだ」
源助は美夜の言葉にうなづきながら答えた。
「でもこの山って、昔から伝説とか何かありませんでした?」
源助は感心したように美夜を見た。
「よくご存知ですな。この山は"狐語り"といった御伽噺が昔からあるのですよ。この山を守っていたといわれる狐の一族の話が。この山に住む人間は、狐との共存を選ぶことで分かち合い、今も生き続けることができるようになったという伝説ですが、それも詳しくは伝承が残っていません。よくあるお稲荷さんに祭られた狐と同じ流れだと思いますがね」
美夜は、源助から視線を外し、食卓に出されたスープにそっと口をつけた。
ひんやりとしたスープが、暖房の効いた部屋にいた美夜にとって味が感じなくても心地良い。
「伝説というのはなにかしら根拠があってのものと聞きます。私はこのような依頼も過去に何度か受けていますから安易に否定はしません。本当に開発に反対した狐の祟りかもしれませんよ。彼らには今回の開発について話はしました?」
そういうと美夜は再びスープに口をつける。 源助は顔を曇らせた。
「まさか、狐にですか?美夜さん、それはあまりに笑えない冗談です」
同じ席についていた明が父の代わりに答える。
「確かに山の開発で自然が失われますが、それによって多くの得られるものがあるんです。それが湖の街の今後へとつながる」
美夜は目を細めて明の顔を見つめる。明は握った両手をテーブルに強く押し付けるが、その際明の前に出されたワインが倒れ、こぼれたワインの赤いシミが白いテーブルクロスに広がる。
シミは徐々に広がっていった。そこにそばに仕えていた八重子が少し慌てて駆けつける。
「私はこの山林開発をすることを、狐たちにも同意を得たのかと聞いただけよ。彼らだって馬鹿じゃないわ、ここに生きるものたちにとってどうしても必要なことなら、真剣に話せば彼らも納得してくれるんじゃないかしら」
源助は静かに美夜をみつめる。鋭い目線、この雰囲気はあの当時のままだと一人感じていた。
明はそばで倒れたワインを片付ける八重子を気にとめることも無く、美夜を強くにらんだ。
「美夜さん、会って間もないことは承知で言いますが、私はあなたはもっと現実を見ている方だと思っていました。はっきり言って幻滅ですよ」
美夜はその視線を変えることは無い。
「明さん冷静になってね。ひとつの考え方に縛られたらだめ、現にこのテーブルを見て。彼らの意思表示がされているじゃない」
美夜は再びスープに口をつける。明は何のことだと視線を下に落とす。
「そんな馬鹿なことがあるものか・・・」
明が視線を落としたその先に広がった赤いシミは不自然に形を変えている。まるで狐の顔のように赤くシミが広がっていた。
「世の中に根拠のない伝説なんて無いのよ。その中に隠れている意味を、私たちはそれから目を逸らさず、受け止める義務があるわ」
明はじっと視線を下に見つめたままだった。その様子を源助、そして八重子が静かに見つめる。
美夜は一人スープを飲み干し、ある一人に視線を送った。
「お話の続きはまた明日にしましょう。そうだ八重子さん、申し訳ないけど冷たい飲み物を部屋まで持ってきていただけないかしら」
美夜はすっと立ち上がり部屋を立ち去った。
明は呆然としたままだった。源助は彼の方に優しく手を置いた。
「明、彼女に任せよう。私はおまえより頭は固くなっているが、私が知っている彼女を、彼女から伝わってくる説得力を信じてみたいと思う」
源助とて、決してこのような祟りなどを頭から信じているわけではない。
信じているのは夏樹美夜という女性の存在だった。あの頃の姿のまま変わることのない彼女の存在。本当は彼女はあの女性の娘、いや孫なのかもしれない。
まだ結果がどのような形になるかなどは源助には分からない。しかし、解決策のない今となっては彼女に頼むするしかなかった。
美夜は一人用意された部屋の中で、窓から外の景色を眺めていた。
派手さはないものの整った客室。明かりの消された部屋の中、開かれた窓からは冬の冷たい風が吹き込む。
「まったく時間が経てばすべてが流される訳じゃないのに」
美夜は薄く覆った曇の隙間から覗く月を見つめる。
「あなたもそう思うでしょ」
美夜の目は黄色い光を放ち、ゆっくりと振り返る。
「はい、人は忘れることで自らを正当化しているのだと思います」
両手に飲み物の乗った盆を持ち、ドアの前に立つ八重子の姿がそこにあった。
八重子は美夜の黄色く光る目に臆することもなく、にこりと笑った。
「さすがです美夜さん。私の事まだ気づいていないと思っていましたのに」
八重子はドアを閉め、中ほどにあるテーブルに盆を置く。そしてグラスに飲み物を注ぎ美夜に差し出した。
「どうぞ。ただの水ですが。作られた飲み物よりもこの方がいいと思いましたので」
八重子の瞳は薄い青色の光を放っていた。
「ありがとう、気が利いているわ」
美夜はグラスに入った水を一気に飲み干す。そして自然な笑顔を八重子に向けた。
「でも、びっくりしたのは事実よ。あのおちびちゃんがこんなにも美人になっていたんだからね」
「ありがとうございます。私にとっても美夜さんは憧れの対象でしたから、お世辞でもそう言っていただけるとうれしいです」
八重子は空いたグラスに再び水を注ぐ。
「さて、これからはこちらの本題だけど。あなたたちは今回の件、あなた達は何を考えて動いているの?」
八重子に美夜の視線が突き刺さった。八重子の顔には多少怯えの表情が現れるが、その目は美夜の視線から逃げず、真正面から向かい合った。
「長はこのたびの富士家の行いを、すべてつぶすつもりです。いえ工事だけではありません、それに携わる人間すべてを排除するつもりかもしれません。命を含めて。
長の考えが少し極端だとは私も感じていますが、でも、この山が人間たちにとって栄える、栄えないに関係なく私たちにとってはかけがえのない土地です。その山を人を呼ぶだけのために削り、傷つけるなんて」
八重子の目が薄い青色の光が増した。
「やっぱりね、あの坊やも昔から短気だったから。でも、この開発は人との共存を行う上で必要になることはないの?あなたたちだってこの土地から人がいなくなれば、生きてはいけないわよ。必要なら互いの交流を行う場を特例だけど私が設けてもいいわ」
八重子は首を静かに横に振った。
「もう遅いんです。長は明日にでもこの屋敷にいる人間をすべて殺すつもりです。そしてその怒りは徐々に山を下り、下の町にいるすべての人間に飛び火するでしょう」
美夜は一気にグラスの水を飲みこむ。
「物騒な話ね。それに何故? いくらなんでも急すぎるわ!」
八重子は膝を落とし、顔を手で覆い語った。
「長は、父はもう長くありません。一族の長として、父はこの山は共存する人間をすべて殺してでも守るつもりです。この山を命をはぐくんだこの土地を、命をかけて最後まで守り抜き死のうとしています」
美夜は八重子に背を向け、再び窓の外を見た。
「ねえ、あなたはどうしてこの屋敷にいるの?彼らの動向を探るだけとはちょっと思えないけど」
「私はここには4年前から人としてこの屋敷での生活を行ってきました。みんなとても良い人たちばかりです。身寄りがないと嘘を言ってこの屋敷にもぐりこんだ私に彼らはとても優しく接してくれました」
「ここの人間はあなたが殺すのかしら」
八重子は大きく首を振った。
「私は人が嫌いではありません。そして、私はここで、ここにいる人間たちを守りたい・・・、彼を含めた誰も殺したくはないんです」
叫びを押し殺したような声を八重子は吐き出した。
【5.青い瞳】
夜が訪れる。
ただそこには月明かりだけがあり、白く化粧をした台地を照らしている。
屋敷の中は寝静まり、人の寝息がわずかに聞こえるだけ。
二階に用意された部屋の中、そこに美夜の姿はなかった。
「昔ほどじゃないけど、いい雪ね」
美夜は膝近くまで積もった雪を踏みしめながら、林の中を歩いていた。
その後ろには静かに付き添う八重子の姿がある。
「美夜様、本当に申し訳ありません」
八重子は申し訳なさそうに先頭を歩く美夜に声を掛ける。
八重子の美夜に対しての呼び方が「さん」から「様」に変わっていたが、美夜は大して気にならなかった。
ここにいたる一時間前、美夜は珍しく自分から今回の仲裁に入ることを八重子に伝えた。月夜ということもあり時間を無駄にしたくない美夜は、これから八重子の父と会うことにしたのだ。当然先方の確認を取ったわけではない。確認など必要ない、物事の結果は行動に伴っているのだからと美夜は言う。
「あとどれぐらいかしら?」
美夜は黄色い眼で振り返り、八重子を見つめた。八重子は少し慌てたように、
「この林を抜けたところに一つ開かれた場所があります」
と、だけ答えた。
それから少しして視界が開けた。
その一帯だけ切り開かれた土地。足跡ひとつ無い白い雪が覆っていた。正確には一人の姿を覆うようにして。
一人の老人がそこに立っていた。
その周りには他の何かがいるようには見えないが、周囲を囲うようにおびただしい数の気配があった。
中心に立つ人物は白い雪と同じ色をした長い髭を地面にまでたらし、その目は青く光り空の月を見つめていた。
「お久しぶりですな」
落ち着いた相手に敬意をしめすその言葉は、老人から美夜に向けられていた。
「百年ぶりかしら、あなたも大分に年をとってしまったわね」
美夜は懐かしい知り合いに向けるような視線で、老人を見る。八重子はその後ろでじっと顔を伏せていた。
「美夜様、あなたはまるで変わらない。私が物心ついたあのときから。あなたはどれだけの人間、そして私たちのようなものの最期を看取っていくのでしょうな」
老人の目の青さが深みを増した。その視線は自然と美夜から後ろにいる八重子に注がれる。
「私がこの世に生を受けて二千年とすこし、でもこの命だって永遠ではないわ。いつかは朽ちて再び地に帰るときが来る。何千年先のことかはまだわからないけど。」
美夜はひとつ言葉を区切り、地面の雪をつかんだ。
「それはこの雪だって同じ、春になれば解けて水となり再び台地に戻る。ねえ、人間たちがしでかしたことは確かに許されるものではないけど、だからといってその命すべてを奪っていいものではないわ」
老人は両手に自らの顔の前に出し、そして月を包むかのように腕を空に掲げる。
「私にはもう時間がありません。代々守ってきたこの土地を私の代で人間にいいようにされてなるものですか。私はこの命のある限り人と戦い、そして尽きるつもりです」
老人 の開かれた手がきつく結ばれる。それは彼の意思の表れということを美夜は理解していた。
「馬鹿な子ね・・・」
美夜は母親が子供を包むような優しい声を出した。そこに一人、気丈に立つ老人に向けて。
屋敷の中のあまりの静けさに、明は一人眠れずにいた。
夕食の際、普段の自分ではありえないような子供のような、癇癪とも取れる言葉を吐いた自分が恥ずかしかったこともある。しかしそれだけではない。
「狐の祟りなんて、そんな非現実な事なんてあるわけが無い」
あまり沈み込まないベッドの中、明は声に出していた。
「八重子、僕はどうしたらいい・・・」
八重子という言葉を出した自分に明はベッドの中で小さな笑いをした。何をこんなときに言っているのだろうという自分への笑い。
明は自分の気持ちには嘘はつくまいと思っている。彼は八重子のことを始めてあったときから、その気持ちは変わらない。
そう、例え彼女が人で無かったとしても。
初めて彼女に出会ったのは四年前、この家の前で倒れていた八重子を明が見つけた。その当時父の仕事はどうにか軌道に乗り、山林開発に取り掛かろうとしていた頃だった。
意識を取り戻した彼女は自分の名前を含め、過去の記憶をすべて失っていた。
ベッドに横たわり、衰弱していた彼女に名前が無いことに不自由を感じていた明は、彼女に八重子という名前を贈ることにした。
その名前を聞いた彼女がかなり驚いた素振りを見せたのを明は今でも覚えている。意外というよりも、驚きや喜びといった感情を、八重子が明に見せたからだ。
この名前をこんなに喜んでくれるとは明も正直思っていなかった。彼にとってこの名前を贈るのは初めてではない。明が八重子と名づけるのは彼女で二度目。
その後、八重子は体調を回復したが記憶だけは一向に戻らず、明とその父の計らいによりこの屋敷に身をおくこととなった。裏で父が彼女の事を警察などを用いて身の上を探っていたようだが、彼女に対しての捜索願は出ていなかったという。
八重子がこの屋敷で正式に働きだしてから一週間後のことだったろうか、夜に暗く明かりも灯されない廊下で彼女が大きな窓を一人拭いていた。
そこに偶然通り見かけた明が、気にせず明かりをつけて仕事をするようにと八重子に言おうとした時、それはそこにあった。
「青く光る瞳」
月明かりを受け、八重子の瞳は青く光っていた。その色はとても美しく、人のものとは決して思えないほどに。この色をした目を見るのは二度目。
それは明が今の八重子に出会う10年前に、初めて八重子と名づけた対象。
小さく、すぐにでも崩れてしまうと思うほどに明の腕の中で震えていた子狐。
子供の明をじっと見つめていた青く光る瞳。
彼女の瞳は同じ青を湛えていた。
【5.別れ】
月の下。
美夜は老人の傍へと歩み寄る。
その姿は徐々に変わり、彼女の本当の姿を月下にさらけ出した。
「ねえ、どうしてもその意思は変わらないのかしら」
美夜は老人に向かい言う。老人は顔色一つ変えず静かにたたずみ、すっと左手を前に差し出す。
その手にはいつの間にか真白な杖状の剣が握られていた。
「坊や・・・私を殺す決意ということで良いかしら?私に剣を向けたということは、その全てを捨てるということよ」
美夜は無表情で老人と視線を交わす。老人は何も語らずその剣を振り上げた。
その剣を美夜はその巨大な爪を持った右手で防ごうとした。しかしその時、美夜の左脇から誰かが素早く飛び込み、老人に体当たりをする形で崩れこむ。雪は綿のように舞い、月明かりを反射させた。
その光景を美夜は一人瞬きすることなくじっと見下ろした。
「これが、あなたが望んだ結果なのかしら」
美夜は仰向けに倒れる老人、その上に覆うように重なる八重子を見ていた。
「あなたに剣を向けるということは私の全てを破棄、この長としての立場を捨てるということ」
老人は見下ろす美夜と、自分を覆う八重子に向かい言う。老人の下の雪が、白という色から徐々に赤に染まる。
老人の腹部に深々とその剣は刺さっていた。
「名も無きわが娘よ、お前が今日から我々の長だ。お前の取った父の無念からの行動を止めた行い、それはわが一族の判断ということだ・・・」
八重子はゆっくりと涙を溜めた目を開く。彼女の手も血の赤で染まっていた。
「これからはお前の意思を通すが良い。この山を人間に差し出すのもお前の判断次第だ。我が一族の者たちもそれに素直に従うだろう」
八重子は血に染まった手を拭うことなく立ち上がり、老人を見下ろした。
「そうだそれで良い、長たるもの下手に感情を表に出すものではない。私に最後をくれたのがお前でよかった。名も無きわが・・」
「八重子、それが私の名前」
老人の声を遮り、八重子短く言う。
「八重子、それがお前の名前か。良い名前だな」
老人はそれに満足したかのように小さく頷き、八重子に向けたその目を閉じる。その瞼が再び開くことは無かった。
たくさんの見えない動物の咆哮が二人を包む。
悲しみ、怒り、祝、過去からの変革が来たことをその咆哮が告げていた。
「八重子、彼はあなたに止めて欲しかったのよ。そうでないとこんなにも満足をした顔をするわけが無いわ。彼は長く生きたことにより、人間と近い感情を持った。でも心の内では、怒り、憎しみ、そんな感情に飲み込まれる自分自身がきっと嫌になったんだわ」
美夜は悔やんでいた。仲介に入った後の、この結末を予想しなかったわけではない。ただし、彼に最後を下すのは美夜自身が行うつもりだった。八重子の手を血に染めさせたくは無いという美夜の思いから。
しかし、八重子は美夜に剣を向けた時点で、父のその本当の意思を知ったのかもしれない。
「帰りましょう、美夜様」
八重子は父の亡骸をそのままにし、今来た道を戻ろうとした。そんな気丈に振舞う八重子を、後ろから美夜は抱きしめる。
「どこへあなたは帰るの?」
八重子は振り返らず、答える。
「お屋敷にご挨拶に行かないと。今までお世話になりましたから」
「その後は、どうするの?」
美夜の言葉に八重子は答えず、美夜の手を解いて再び歩き出す。美夜はそれを見送りながら、それも良いかと一人考えていた。
翌日。
美夜は、頭首である源助と明に既に全て終わったことを伝え、ある一つの契約をすることでもう二度と怪我人などが出ないだろうと語った。
源助は特に何も語らず、頷くだけ。
明はまだ納得できない表情をし、美夜とその後ろに控える八重子を見た。
八重子はいつもの格好ではなく、普段着に着替え、その手には大きな鞄を両の手で握っている。
「でも、どうして彼らとの契約が八重子をこの屋敷から追い出すことなんですか!」
明は叫んだ。
美夜が伝えた一つの契約とは、今後この山に関しては彼らは一切手を出さない代わり、八重子をこの屋敷、富士家の人間と離させるというものだった。
その真意は美夜は聞いていないと言い、そして八重子もそれに同意したという。
八重子のその後の身の振り方に関しては、美夜が面倒を見ると二人に伝えた。
明の怒りの形相を横に、八重子は笑顔で答えるしかなかった。
「私がここを去ることで皆さんが幸せになります。でも、私のことは心配しないでください。本当に今までお世話になりました」
一度頭を深く倒した後、顔を上げた八重子は明の前に出て、手にしていた一枚のハンカチを彼の前に差し出した。
「これは、あのときの・・・」
明は八重子から受け取ったハンカチを見ると、言葉をなくした。
「私はあなたから大事なものをいただきました。この名前とそのハンカチ。でも、私にはこの名前一つあれば十分ですから」
八重子は微笑む。
その光景を美夜は後ろで腕を組みながら見ていた。
人と、人でないものが互いに深くつながることはできない。奇麗事で済ませた話はたくさんあるが、全て虚構のものだ。
自分が生きてきた長い人生でたくさん見てきたもの。その度に信じたいと思う心を抑え、生きてきた自分。
「さあ、いきましょう」
美夜と八重子は屋敷を出る。明は車で送るといったが、美夜はそれを断った。
彼はただ屋敷から遠ざかる二人を見送ることしかできなかった。その手にはしっかりとハンカチが握れている。
子供の頃、明は山の中で怪我をした一匹の子狐を見つけたことがある。他の動物に襲われたのだろうか、足を怪我しており、明が近づくと子狐は強く吼えた。明は子狐が威嚇するのを無視し近づき、その怪我した足に一枚のハンカチを巻いた。
その際何度子狐に噛み付かれたか分からない。
しかし簡単な手当てが済んだ頃、子狐はおとなしくなっていた。
単に弱っているせいだと思っていたが、明がその子狐の目が青く光っていることに気づく。
「君はきれいな目をしているね。えっと、君には名前は無いよね。僕の大好きだったおばあちゃんの名前なんだけど、君につけてあげる」
子供の明にとってその名前は、ふと思い浮かんだものだった。別にペットとして飼おうとしたわけではない。
単に遊び相手、友達が欲しかっただけかもしれない。
しかし、子狐をその名前で呼んだとき、突然、明は気を失った。
再び目を覚ましたとき、なぜか彼は自分の屋敷の前にもたれかかるように倒れており、使用人に発見され大騒ぎとなったことがある。
あの時、小さな子狐の足に巻いたあのハンカチが再び明の手の内にあった。
「八重子、君はやはりあのときの君なのか・・・」
二人の姿はもう見えない。
彼はもう二度と生きているうちにあの二人と出会うことは無いのだろうと、感じずにいられなかった。
実際、明が八重子会うことはこの後の生涯無かった。
【7.エピローグ】
雪はいつか水となり、台地に吸収される。
私たち一族も今までそうやって生きてきたと八重子は思う。
私の名前は八重子。
美夜様を慕い、この遠い東京の地まで来てしまいました。
この地まで連れてきたのは頂いた大事なこの名前だけです。
私は、何代も昔から父の代まで受け継がれた生き方を、私は守ることをやめました。でもそれは父からの願いであったのだと、私は思います。
季節は冬から春へと変わり、白から色づく季節へと変わりました。
この新しい土地は以前私が住んでいた山とはまるで違います。自然が少ないことを始めとして、あまりにも多い人間の数にびっくりするのは今も変わりありません。
私は最初その数を見ただけで、胸が締め付けられるように窮屈で仕方なかったのです。
でも美夜様がそんなこの街をまるで自分の庭のように歩く様は、流石に私は感心するしかありませんでした。
美夜様は、すぐに慣れるわ、と言いました。
本当に私はこの街になれることができるのでしょうか、美夜様以外誰も知らないこの街で。
せめてもの救いは私は一人ではなかったことです。
"チリン"と鈴の音が鳴り、ドアが軽快に開き、
「ただいま、外はもう春の陽気ね。ねえ八重子、明日はお花見するわよ」
手に荷物を抱えた美夜様が帰ってきました。
あまり綺麗とはいえない、鉄筋コンクリートの二階。この二階のフロアが美夜様の探偵事務所です。でも、初めて入った私の感想は唖然としか言いようがありませんでした。
埃の積もった室内、そしてちらかった衣類や下着。この人は本当に私たちの尊敬する美夜様なのかと疑ったほどです。
今でもたまに疑ってしまうほど。
私のここでの初めての仕事は、掃除となったのは言うまでもありません。
詳しいことは分からないけど、ここは政府というところから支給されていると美夜様は言いました。ここはものすごく地価が高い場所とのことです。
今、富士家を出た私は今はここでお世話になっています。
美夜様は仕事のサポートして欲しいと私に言うけど、今は散らかった部屋を片付け、いつ誰が来てもいいようにするのが今の私の一番大事な仕事です。
「そんな片付けたって、依頼人なんてろくに来ないわよ。ここにくるのは暗い顔したお役人や、何も知らずに偶然訪れる相談人。それだって、月に一度あれば良いぐらいだわ」
美夜様はそう言うけど、散らかった部屋なんて私は耐えられません。
美夜様が抱えていた荷物の袋の中を覗いてみると、アルコールと思われる瓶が何本か入り、そしてそのつまみになると思われる食材が詰まっていました。美夜様は人間の食料を食べても美味しくないのに、何故こんな事を?と聞くと、美夜様は笑って答えます。
「たまには人に紛れて気分だけでも馬鹿騒ぎするのも楽しいわよ。八重子もそのうち分かるわっ」
私はただ頷くことしかできませんでした。
夜、美夜様は私を助手席に乗せて車で優雅に走りだしました。
春の夜風はまだ冷たいですが、それでも冬の風とは全然違います。
美夜様はドライブが趣味らしく、運転しているときはいつもニコニコとしている。車はしばらくして山に入り上っていき、その途中、美夜様は車を止めると月のある方角を指差しました。
そこには薄く雲のかかった月、そしてその下に広がる人工の街の光。
その夜景を私はとても美しいと思いました。
「私たちには作り出すことができない光よ。人間だけが作り出す光、でもそれを私も美しく思うわ」
美夜様はしばらくその夜景を見つめていました。
僅かに黄色く光ったその瞳が、少し寂しく思えたのは錯覚だったのでしょうか。
翌日、私は大きな荷物を持って美夜様の後ろを歩いていました。向かった先は近くにある公園、桜の花が満開となった公園です。
美夜様は手早くビニールシートを一番大きな桜の樹の下に広げると、そこに突然大の字で横になりました。
そのあまりのはしたない姿に私は思わず手で額を覆いたいほどです。それを美夜様は良く思わなかったらしく、私の手をつかんで勢いよくひっぱり上げ、私はそのままビニールシートに顔から倒れこんでしまいました。
額がずきずき痛みます。そんな少し涙目になった私を美夜様が笑いながら見る。
「ほらほら、せっかくのお花見なんだから、もっと気楽にね」
私はじっと美夜様を睨むことにしました。
八重子が私を恨めしく睨む。
まあ、ちょっと悪ふざけが過ぎたかもしれないけど、この子はもう少し気を抜いたほうがいい。
時間によって解決することもあるけど、行動しなければいつまでも心の底に残ることも多い。
人でないものが人の社会に紛れて生きる。
それは簡単なようで、非常に難しい。二千年も生きていると嫌でもそれは感じてしまう。
私は用意した紙コップに、八重子に持たせた包みからアルコールの瓶を取り、その中身を注ぐ。
溢れれんばかり注がれたコップを私は八重子の前に差し出した。
八重子は額を押さえながらコップを受け取ると、勢いで一気にそれを飲み干した。
しまった、さっきので意外に八重子を怒らせたらしい事に今気づいた。
アルコールを飲み干した八重子は、一気に顔を真っ赤にして再び私を睨む。あちゃー目が据わっているよ、この子。
更にこの子は酒癖が悪かったようだ、ちょっと誤算。
「美夜様、いいですかちゃんと聞いてくださいね。私はですね、美夜様のことを思って色々としているんですよ。ねえ聞いています?大体ですね、私の30倍以上生きているのに、なんでそうはしたないんですか?私たちはですね、美夜様は憧れの存在なんです。そんな姿を私を見たくは・・・」
八重子はそのまま私に倒れこむ。一気にアルコールが回ってしまったらしい。
アルコールに酔えるこの子を少しうらやましく思いながら、私は八重子を抱きしめた。
八重子を東京に連れてきたのは正解だったのだろうか、と今も思う。
一応、彼女の意思はできるだけ尊重したつもりだったけど。
美夜は、何も味覚に感じないアルコールに口を付けた。
味がする事もないし、酔うことも無い。ただ人の真似をしているだけ。
それでも美夜はいいと思う。
いつ死ぬか分からない自分は、多くの命の誕生と死を見つめ、ただ通り過ぎる。
人の命が無ければ生きていけない自分。
共存することはできても、生涯を共にする相手はいない。
それでも私はここにいると、美夜は思う。
美夜は再びコップに口を付け中身を飲み干した。
こんなに気持ちのいい春なんだから、少しは酔わせてもらえないものかと、美夜は空になったコップを放り投げる。
「美夜様・・・」
八重子の子供のような寝言。
美夜は抱きしめた八重子を、母親のような笑顔で見つめていた。
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「狐語り」了