ph 96 深淵の夜明け
phase 96 深淵の夜明け
1
ジークとルビーが湖底に沈む。
二人を泥が包み込み、彼女の長い髪の先を残すだけとなった。
突然、湖底の世界が丸ごと一つの泡だったように、一気に弾けた。
湖水が空間の亀裂から流れ出し、泥が舞い上がって水が濁った。
憂だ。
黒飛龍剣で空間を切り裂き、仁王立ちしている。
流れ出す湖水で、彼の足下には川が出来ている。
湖底の濁った水の中で、何かが動いた。
水の勢いで掻き出される泥から、何か影が八方に伸びた。
蜘蛛の毛むくじゃらの脚が素早く動き、水が少ない方向へ跳んだ。
ぐったりと意識のないルビーに変わり、背中に生えた蜘蛛の脚が動く。
彼女の潜在意識が、邪悪さの象徴である蜘蛛の脚を動かしている。
「ルビー!! 大丈夫!?」
憂が姉を心配して叫んだ。
蜘蛛の脚は返事が出来るはずもなく、ずるずるとルビーの体を乱暴に引き摺って、安全圏の弟の背後へ移動していく。
「よかった、ルビー!! まだ深淵に溶ける前だったね?」
憂が安堵の息を漏らした。
ジークは水が流れ出した後の泥に、胸まで埋まったままだった。
彼の首には、ルビーに絞められた手形が赤くくっきりと残っている。
虚ろな眼差しで、彼は憂を見つけた。
「憂…?」
ジークは微かな声に驚きを込めた。
憂は完全に人間離れしていた。
映画の特殊メイクを施したように、皮膚なのか、金属なのかわからない顔。
節が出来て硬く反り返った肩や腕も、最早別の存在に近い。
しかも、髑髏のような形状の鍔とグリップ、カバーが一体となった黒飛龍剣。
先が捻じれて旋回するような細身の剣だ。
異界のもの。
憂の属性を示している。
「おまえ…、何だよ、そりゃー…」
ジークが呟いた。
「クソ…。俺、死に損ねたんじゃねーかよ」
ジークは憂の後ろに、闇の深淵が開くのを見た。
黒々と。
どろどろと濃く。
重苦しく、汚らわしく。
憂が黒飛龍剣をふりかざした。
「帰るよ、ルビー」
憂が空間をもう一度切り裂こうとした。
その剣は、かつてこの深淵のバランスを保っていた剣だ。
闇を集約し、そして闇をコントロールもする。
その黒飛龍剣に向かって、黒い手が数十本も闇から生えてきた。
「なっ…!?」
憂は愕然としたが、すぐさま、闇が伸ばした手を切り払った。
憂は深淵に巣食う数百の怨霊達に、取り囲まれていた。
2
憂は化け物達を見回した。
一つ目の薄っぺらな影法師や、輪郭が曖昧にぼけてしまった黒い怨霊、大きく裂けた赤い口の中を見せつけて笑う、顔に口だけの鬼などが出現していた。
笑い声とも啼き声ともわからない、獣じみた声や歯の軋みを耳にした。
そいつらは余り実体がなくて、黒飛龍剣は怨霊を切り裂かずに宙を空振りした。
黒飛龍剣は脈動するように震え、辺りの闇を吸う。
どんどん剣の重さが増していく。
憂は幻覚の世界に引き込まれた。
何故か、中学の校舎が見えた。
机と椅子が数列並んでいる。
級友の後ろ姿が見える。
憂は一番後ろの列の席にいる。
彼の歯は緊張して、ガチガチ鳴っている。
憂は周囲を見回し、黒飛龍剣をぶんぶん振り回した。
塩ビタイルの床が見えているのに、まるで湖底の泥のように、憂の足が沈んでいく。
黒飛龍剣が重過ぎるのだ。
現在、黒飛龍剣の重さは自分の体重ぐらいに感じられる。
憂の覚醒した腕は、そのぐらいの重さにどうということはないが、二倍になった重さのせいで足が沈む。
憂の周囲に姉がいない。
姉のいた場所には、一匹の巨大なタランチュラが伸びている。
タランチュラの醜い顔。
憂は苛々して斬りたくなる。
しかし、これは誘導かも知れない。
斬ってしまった後で、この蜘蛛が姉だったら困る。
憂は荒い息をした。
心臓がきりきり絞られるようだ。
級友が憂を振り返り、薄ら笑いを浮かべている。
「如月くん。俺達を蝶の幼虫の餌にしたんだよね。今度は君が食われなよ」
誰かが言う。
天井が不意に破れ、紫色の顔をした怨霊が逆さまに飛び出してくる。
「でああーぶうばぁーっ!!」
怨霊が喚きながら憂に掴みかかる。
「食われてたまるか!」
憂が怨霊の胴体を薙ぎ払った。
怨霊は胴体が真っ二つになり、黒い霧を噴き出しながら左右に分かれた。
その黒い霧の向こうから、また別の怨霊が湧き出して、長い舌で憂の顔を舐め上げた。
「タベル、タベル。オマエハ食イ物ダァー!!」
怨霊が囁く。
胴体二つに分かれた怨霊が二体の怨霊に分かれ、夫々が二つ頭の人頭蛇身となって襲いかかってきた。
「食われろ!! 食われろ!!」
クラス全員が口を揃え、怨霊を応援して大合唱になった。
憂の近くで、蜘蛛も怨霊に襲われていた。
脚を一本ずつもぎ取られ、バリバリ食われていく。
耳にするのもおぞましい、人間の骨を齧る音。
姉は四肢を食われながら、身動きしない。
「ルビー!!」
虫の死骸にたかる蟻のように、ルビーに闇の怨霊達が群がっている。
憂にも次々と数え切れないほどの怨霊が、歯を剥いて食いかかってくる。
「ルビーを食うな!! オレの大事な姉貴を…!!」
憂はルビーの周囲に火を吐き、怨霊達を焼いた。
自分の身を盾にするように、ルビーの前に飛び出した。
「ルビーは何があっても、オレが守る!!」
憂は死にもの狂いで、怨霊達を斬って斬って斬りまくった。
必死に逃げようとして、残った脚でもがく蜘蛛。
痛みのせいで、ルビーがとうとう目を覚ました。
彼女は激痛に顔をしかめ、 憂の獅子奮迅の戦いぶりを見た。
ルビーの頸椎は折れているようだった。
首がしゃんとせず、前に倒れてしまうので、ルビーは起き上がれない。
背中の蜘蛛に引き摺られていく。
ルビーはエネルギーが尽きる寸前である。
だから、全身の骨折を回復出来なかった。
「忌々しい…ジーク…」
彼女は首を絞めたジークを呪った。
彼女の腹は子宮から腐敗し始め、腹膜が溶けて腸が飛び出した。
「うう…、腐っていく…。溶けたら死んでしまう…」
ルビーは半泣きの顔になった。
「ああ。こんな醜い死に方は、嫌…」
首が揺れてぶらぶらで、美しい顔が汚い泥に塗れた。
憂は命懸けで姉を庇い続け、ルビーは弟をほったらかして一目散に逃げた。
3
ジークは泥を掻き、湖底から這い出た。
彼の周囲も、既に闇の深淵の黒いタールに変わりつつあった。
蟻に食われるように、身を食われていく。
ジークはヒリヒリする痛みを感じながら、ふらついて起き上がった。
憂は九匹の黒蝶を吐き出した。
黒蝶が舞った。
最初は怨霊を誘う囮のように見えた。
けれど、黒蝶はひらひらと怨霊の攻撃を躱し、やがて黒いヒト型に変形していった。
雷鳴が響き、稲妻が眩しく閃き続ける。
憂の放った使い魔の黒蝶は、翅で怨霊達を切り裂き、拳で怨霊達の頭を砕いた。
「ルビー、逃げて!!」
憂が蜘蛛の後ろ姿に叫んだ。
蜘蛛は言われる間でもなく、遠くへ走り続けた。
ルビーは憂が切り裂いた空間の、異なる次元の狭間を通って逃亡した。
深淵から物質界へ、暗黒の道が続く。
怨霊達がルビーを追いかける。
ルビーのすぐ側まで怨霊達が迫り、尖った爪の長い指を伸ばす。
憂は姉を助ける為、割って入った。
彼は怨霊の攻撃をまともに食らった。
憂の全身に闇が噴き付けられる。
彼は斑に染まっていく。
彼の自我は元々弱く、繊細だ。
皮膚にブツブツと穴が開く。
彼は汚物に塗れるように、闇に汚されていく。
彼の皮膚に開いた無数の穴から、黒い血が垂れた。
彼と使い魔は善戦し、多くの怨霊を霧に変えたけれど、ここが吸血鬼の死後の世界なのだから、怨霊も減りはしない。
憂は殆ど食われていないが、精神的ダメージが自我を腐らせてゆく。
彼は脳の中が、魂が、汚れていくのを感じる。
憂の前に、ジークが歩いて来た。
ジークは怨霊を素手で払い飛ばし、覚醒して白光りしていた。
「何で、おまえは白いんだ!?」
汚れてどす黒くなっていく憂が問うた。
「憂、てめーは繊細過ぎるんだよ。鈍感でなきゃ、生き残れねーんだよ。人間の世界もそうだろ? ピュアな子供なんてな、ずっと傷付いてくだけなんだよ」
ジークが立ち止まった。
ジークも一切の傷を回復出来ず、今にも死にそうだった。
闇の深淵の、最も深い底。
憂の九匹の使い魔が、数え切れない怨霊に遂に破られ、燃えて落ちた。
ジークは青白い雷光を閃かせた。
憂も波を最大に発揮し、強く輝いた。
「勝負は一発で終わる。俺にはそれだけしか、もうチカラが無い」
ジークは心の中で思った。
憂の黒飛龍剣が闇を吸い込む限界に達し、剣の中でチカラが混じり合って融合していく。
それに引き摺られ、深淵の亀裂が広がり、この世界の天井が崩落し始める。
深淵は今から、無秩序な混沌に向かう。
闇の深淵を知り抜いた男、黒瀧秀郷はどこかへ消えた。
破裂寸前まで闇で膨らんだ黒飛龍剣が、今、新たな宇宙を生み出そうとしている。
憂は黒飛龍剣を闇に奪われた。
黒い海原が黒飛龍剣を取り戻し、憂は痺れて動かない右手を左手で支えた。
「ジーク。オレ、内側から溶けてきた…」
憂が泣きそうに言った。
「心臓が腐ってきたんだよ。おまえはそこが人間としての死因なんだから、エネルギーが尽きかけると、心臓から腐るのさ」
ジークが淡々と答えた。
「永遠の命でも得られないものがあったよ、ジーク。愛は金でもチカラでも買えない。オレの孤独は何度でも、何度でも振り出しに戻ってく…」
憂が震える右手を抑え切れず、全身震え始めた。
「ジーク。人間は痛みを抱えて生きていけるの? 絶望したまま、生きてけるの? 独りぼっちだったのに、それでも?」
憂が聞いた。
「生きてかなきゃなんねーんだよ。それでもだ」
ジークが答えた。
「憂。闇のチカラってのは、子供のオモチャじゃねー。この光と闇の世界の、一種の自浄作用なんだよ。だから、闇は滅びることがねぇー。光と闇は今も共にある。最初から、分かれてなんかなかったのさ」
ジークが闇の契約書に書かれていたことを思い出し、語った。
「世界の自浄力?」
憂はふっと笑った。
「オレは浄化される側だったのか? ジークがする側で?」
ジークは力なく首を振った。
「違う。本当に悪いヤツは、最悪の自滅に堕ちる。俺も自我を持ち続ける限り、まだ結論は先に持ち越していく。おまえはそこで力尽きてくれ。見てるのが痛くて、切ねーから」
憂は足が冷えていくのを感じた。
彼の心臓が停止した。
腐って溶けてしまったようだ。
憂は涙をポタポタ落とした。
「ジーク。せめて、最後は男として死なせてくれよ。オレはルビーを守って死ぬんだ」
憂は闇のラインが切れる間際の、チカラのありったけを震える右の拳に込めた。
「いいさ」
ジークも最後のチカラを振り絞った。
闇の深淵に朝日が昇るように、二つの光が炸裂した。
強く輝いて燃え尽きる星のように、光が萎んでいった。
4
ルビーは蜘蛛の脚四本で引き摺られ、狭間の道で裂けて擦り減っていた。
どこまでも怨霊が追いかけてきて、深淵が長大に伸びていく感じだ。
心臓が早鐘を打ち、不安で恐ろしくて息が出来なかった。
どんなにみすぼらしく惨めな姿でも、なりふり構っていられない。
早く自分の肉体に帰り着かなければ、肉体も魂も滅んでしまう。
ルビーの美しかった心は、財産と不死を得てから変わり果て、欲望に溺れていった。
その報いが来たのか、醜く脆く崩れた姿になった。
醜くなった自分を想像するだけで、死にたくなるほど嫌だった。
彼女の自我の強靭さは、ジークを圧倒するほどだった。
生への執着が強く、ワガママで残忍で傲慢で、理性なんて欠片もなかった。
闇の怨霊も、彼女を芯まで食い尽くすことは出来なかった。
途中、背後で深淵が爆発するような衝撃を感じた。
「憂ちゃん!?」
一瞬、ルビーは振り返りかけた。
しかし、走ることをやめなかった。
彼女は傷だらけになりながら、物質界へ生還を果たそうとしていた。
彼女は前方に、希望の光を見た。
出口だ。
涙が溢れ、闇の深淵から脱出出来たことを喜んだ。
彼女の為に命を投げ出した弟のことは、頭からすっかり忘れ去っていた。
ルビーが悪夢から目覚めた。
深淵から戻ったルビーの傷だらけの魂は、温かな肉体に収まった。
でも、異様に熱かった。
火が点いたみたいに。
彼女の肉体は、深淵のせいでかなりのダメージを蒙っていた。
天井から、パラパラと粉が降ってきた。
地下二階の部屋が揺れている。
「あっ、ああ、熱い…」
ルビーはベッドから跳び起きた。
目に飛び込んだのは、割れた天井。
どうしてだろう。
天井にX字を刻む亀裂が走っている。
ひび割れた天井から、夜明けの光が射し込んでいる。
さっき、帰途の前方に見えた光とは、この一条の光だった。
吸血鬼狩り。
ハンターの攻撃によって、ルビーの寝室の結界が破られていた。
魂が深淵に行っていたルビーは、対処が遅れた。
天井が破れ、建物の深部へ危険な日の光が射し込んだ。
ルビーは怒りと憎しみに声を震わせた。
「よくもやってくれたね!!」
ルビーの全身が火だるまになって燃え上がった。
最も残酷な、吸血鬼の末路。
「ぎゃああああ!!」
ルビーは一瞬で焼き尽くされ、断末魔の悲鳴を残して、黒い煤となって散った。




