ph 95 湖底の泥
phase 95 湖底の泥
1
ジークが再び蘇った。
屍の腐る匂いが鼻についた。
地面を掴むと、指がまだどろどろで固まっていない。
ジークは自分の匂いに、猛烈に吐いた。
「ぐぁ…」
ジークは夜道の水溜りから這い出た。
吐いた汚物より、自分が臭かった。
「頼む、血を…。血をくれぇ…」
彼は他に何も思いつかず、獲物を求めて、オーシャンズ・タワーの表通りに飛び出した。
一番最初に通り掛かった人間にむしゃぶりつき、肩の肉を食う。
「うわっ。何すんの!? 吸血鬼の真似!? 見ろよ。この人、やべー!!」
学生が仲間を振り返った。
不思議と痛くないから、恐怖もない。
「いやぁぁあ!!」
女の子達が悲鳴を上げて、一目散に逃げた。
街灯も壊れた、昨今の不便な夜道だ。
「おいおい、待てよ…」
学生がスマホのライトで、肩に食いつくジークを見た。
暗がりに浮かぶ、薄紫色をしたゾンビの顔。
髪は泥水で額にへばりつき、バサバサ。
「うはっ!!」
学生が青くなった。
ジークの顔には隈取りがあり、タトゥーが入っているみたいだ。
白い眸がギョロッと動いた。
上半身裸で、痩せているが逞しい体つき、しかし、腹部が腐っている。
「ひぃぁぁぁぁー!!」
学生が絶叫した。
ジークは夢中で血を啜った。
心臓や腸が食いたい。
強烈な欲望に支配されている。
学生が失血のショックで、ばたっと倒れた。
その瞬間に、ジークは我に返った。
「危ねぇ。殺すとこだった。俺は今、…鬼そのものか」
彼は自分を嫌悪し、口の血を拭いた。
ジークの全身から、闇が黒い水蒸気のように噴き出した。
彼の傷が癒え、皮膚が瑞々しく潤う。
髪が急にしっとりした。
眸が淡いカフェオレ色になり、顔からタトゥーが消えた。
「悪かったな。献血、ありがとう」
ジークは倒れた学生から、スニーカーを脱がした。
「裸足じゃ、キマんねーんだよ」
彼は勝手に他人のスニーカーを履いた。
サイズは偶然、ぴったりだ。
ジークはパンツのポケットに親指をかけ、その場から去った。
どこかで、野良猫の鳴く声が響いた。
2
ジークは灰色の世界を彷徨っていた。
進んでも進んでも、光が見えてこない。
前方の気配を窺うと、ねっとりとした濃い空気が邪魔をする。
深い湖の底の、水圧のように重い空気がある。
空気は濃く澱んでいて、腐臭が漂う。
辺りの黒い煙りは、地面から噴き出す闇だ。
帯状に噴き出し、湖底に揺れる水草のようだ。
忘れられた思い出が、泥に詰まっている。
ジークは黒瀧の別荘の、あの湖底を歩いているように感じた。
水面は遠い。
月明かりも届かない。
愛した人は愛の代わりに、悲しみと裏切りをくれた。
この世に、真実の愛はあるんだろうか?
ジークは悲しみという自分のフィルターが、この場所を暗く包んでいる気がした。
泥をすくえば、二人の楽しかった思い出が泡の中に見えて来そうだった。
彼女の無邪気な笑顔が思い浮かんだ。
「ルビー…」
その名を呼ぶと、胸に痛みが走った。
その名は、ジークの胸を切る鋭利な刃物みたいだ。
「ルビー…。会いたいよ…。君が鬼になってしまった今でも…、俺は君が忘れられねーよ…」
ジークは自分が情けなくて、泣きたくなった。
「君をこの手で殺して、楽になりたい…。人生で一番、愛してたんだ…。とても残酷な君を…」
彼は両手を前に差し出し、首を締める真似をした。
暗い空が真紅に変わり、世界全体が血の色に染まった。
「ルビー…」
もう一度名を呼んだ時、胸が張り裂けて血が迸るようだった。
低い微かな声を、ルビーが聞き取った。
「ジーク?」
ルビーは愛人と寝ていたベッドで、起き上がった。
彼女は窓を開きベランダに出て、ジュリエットのように見下ろした。
ロミオが塀の下で待つように、ジークが見上げていた。
「ジーク。これは夢なの?」
下着姿のルビーが笑いかけた。
ジークは涙目で彼女を見詰め、
「会いたかった…」
と、囁いた。
二人は夢の中で再会した。
3
ルビーはベランダの白い手摺に座り、シルクのキャミソールの上にガウンを羽織った。
「ジーク、これはどんな魔法を使ったの? あなた、死後の闇に堕ちたんでしょ?」
彼女は面白そうに尋ねた。
楽しそうに話すルビーに失望しながら、ジークは、
「夢の中でも、君は俺の死を悲しんでくれねー。俺の未練が、ここまで引っ張って来たのさ」
と、言った。
「私みたいな悪い女を好きになったのが悪い。これ以上、私に壊されたくなきゃ、早く成仏することね」
ルビーは好奇心いっぱいに、辺りを見回した。
「ここはどこなの? 私は新しい恋人と寝てた。愛し合って、疲れて寝たのよ。夜明けが近かったから、地下室で休んでたのに。…私の方が、死者の世界へ呼ばれたのかな?」
「君の眸には、この世界は何色に映ってる?」
ジークは悲しみの赤い世界から聞いた。
「爽やかなライトグリーン。清々しく希望に満ちた、若葉の色ね…」
ルビーはベランダに腰を下ろしたまま、手を広げて体を伸ばした。
彼女は美味しそうに空気を吸った。
ジークの視界の隅で、ダークグリーンの水草が伸び、建物の一階からベランダへ絡み付いた。
彼の周囲は、嫉妬と憎しみで空気が濁った。
黒っぽい藻が生えたように見えた。
ルビーはジークを見下ろし、
「あなたはまだ、あの湖の底にいるのね…。私と憂ちゃんがボートに細工をして、あなたを沈めた…。そうよ、日本に帰ってきたのは闇で出来たカラダ、幻のあなた。あなたの本当のカラダは、湖で朽ちていく途中なの。今も白骨が湖底に眠ってる…」
と、囁いた。
「俺の葬儀をしたんだろ?」
ジークは恨めしく思った。
「そうなの。でも、ちゃんと見てなかった。黒瀧博士があなたの死体を湖から引き上げて来て…、余計なことをしてくれたって、腹を立ててたから」
ルビーはぷぷぷと笑った。
ジークはルビーの中に、蜘蛛女の影を見た。
美しい魔性。
美貌の裏に、とてつもなく醜い蜘蛛が潜んでいる。
「今、思い出したよ…。ルビー、俺が死んだ時のこと…」
ジークは髪を掻き毟った。
「霧の立つ湖で…、君の死を嘆き悲しむ俺が…、ボートの上で見た吸血鬼は……」
彼は精神的苦痛に顔を歪ませた。
彼の脳裏には、残酷な映像が再現されていた。
「…ルビー。君だよ。憂ちゃんがけしかけて、吸血鬼に俺を襲わせたと言ってたね。…俺は死ぬ間際の記憶を、やっと取り戻したよ。…俺の腹を食って、俺を殺したのは…君だ!!」
ジークがジャケットをばっと開き、生の腹部を晒した。
彼の逞しく割れた腹筋に、ルビーの歯形が残っていた。
ジークの記憶の中。
沈みかけたボート。
水がどんどん浸入してくる。
仰向きに倒れたジークの上に馬乗りになり、腸を食らう黒衣の女。
髪を振り乱し、鬼の形相で牙を剥き、ジークの腸を食いちぎる。
ルビーは気まずい顔をした。
「ああ、だって…。蘇った時って、ちょっと猛烈にお腹空くじゃない? 堪らず、食べちゃったのよ。本当は一思いに頭を押さえ付けて、ジークを溺死させてあげる予定だった。あはは、うふふ、私があなたのお腹を食べちゃったのよー!!」
彼女は吹き出し、腹を抱えて大笑いした。
「でも、謝らないからね。だって、私は別の生き物になっちゃったんだもん。それまでの約束とか、婚約とか、もう関係なくない?」
大笑いするルビーを、ジークはじっと見詰めていた。
「嘘だ…。こんな記憶は信じたくない…。嘘だ…!!」
ジークが呟く。
「嘘じゃない。本当よ」
ルビーが自供した。
彼はがっくり来て、しゃがみ込んだ。
「ルビー。俺を食っといて、泣き顔で葬式に出て、遺産を相続したんだな? 今は達紙先生だって!?」
彼は湖底の泥を掴み、彼女に投げ付けた。
泥から泡が立った。
泡にぱっと光が交錯し、思い出がプリズムのように光った。
彼女がプロポーズを受けた日のことが、ジークの眸に映った。
ルビーはベランダの手摺を跨ぎ、品のないエロい体勢で舌を出した。
「あなただって、楽しい夢を見たでしょ。あなたはもう死んだの。ただの亡霊」
手を振って、犬を追い払うような仕草をした。
ジークはうちひしがれて、泥に膝を着いた。
「君を吸血鬼にしたのは誰なんだ? 大祐か? 黒瀧教授か?」
「大祐、そうよ。そして、最終的には黒瀧教授の血ももらった。決まってるじゃない。それが気に入らないから、黒瀧博士があなたに血を分けたのよ。同情したんですって。本当だと思う?」
ルビーが答えた。
ジークは黒瀧秀郷の低い声を思い出す。
死なせてくれと言った彼に、黒瀧が言った言葉だ。
「そうだな、気持ちはわかる。しかし、おまえは復讐をするべきだ。このまま死んでしまうのは、余りに悔しくないか?」
ジークは頭を抱え、何度も深呼吸した。
過呼吸になりそうなぐらいに。
「思い出した…。俺は…最愛の恋人を殺した犯人を殺す為に蘇ったんじゃなかった…。俺を裏切って殺した、最愛の恋人を殺す為に蘇ったんだ…!!」
ジークは小刻みにぷるぷる震えた。
目の前に、愛憎の果ての相手がいる。
世界はすっかり色褪せた。
真に絶望とは、色すら無い。
4
絶望するジークの様子を、ルビーは味わって見ていた。
「確かに、私には復讐される理由があるよね。そんなの、お断りだけど」
彼女はガウンを脱ぎ捨て、醜く変貌し始めた。
背中がボコボコと膨らみ、蜘蛛の巨大な脚が生えてきた。
毛の生えた脚が八方に広がり、二本がベランダの手摺を掴み、握り潰した。
「私の夢の中に侵入してきたのは、私のチカラを封じたつもり?」
ルビーの唇が赤くなり、長い牙が露出された。
「さっさと塵になってしまえ!!」
彼女から、重い空気を更に圧迫する波が噴き出した。
ジークは後方に跳び、泥の中から何かを引き出した。
鋼の鎖を何本も捩じり合わせたモノだ。
鎖がジャラジャラ鳴った。
「そんなもので、私を縛ろうってわけ?」
ルビーが嘲り、口から蜘蛛の糸を吐いた。
先にジークが絡み取られそうになった。
いや、ジークは糸を切って軽々と跳んだ。
彼は体重がない軽い動きで、重たい鎖を投げ付けた。
蜘蛛の脚の一本が引き倒され、ぐるぐると鎖が巻き付いた。
「苛々する」
ルビーはチカラを込め、鎖を筋力で呆気なく切断した。
切られた鎖が、数十本の細い鎖に変わる。
鎖は衝撃で跳ね返るように、ルビーの頭上に落ちてきた。
数十本の鎖が夫々蛇のように蠢き、ルビーの華奢な体と八本の脚を縛った。
「馬鹿なの? 捕まったのは、あんたよ!!」
ルビーが叫んだ。
蜘蛛の巣の真ん中で、ジークが捕えられている。
ジークは蜘蛛の巣に絡まり、不安定な姿勢でくっついている。
「いいんだ。ルビー、一緒に死のう。それがいい」
彼が両手をルビーに差し出した。
「ちょっと、やめてよ。冗談じゃない」
ルビーはじたばた暴れた。
二人の前で、地面から水が湧き上がる。
幻想の湖底は本当の湖水で満たされ、泥が鼻と口に入り込む。
濁った水が、二人を中心に渦巻く。
二人の思い出の数々がランダムに、光りながらプチプチと泡になって消えてゆく。
二人の口から泡が昇る。
「卑怯よ…。ジーク、あんたの道連れにしようって言うの…!?」
途端に息苦しくなり、ルビーが彼を詰る。
「卑怯はどっちだよ?」
ジークの手がルビーの首筋に届いた。
「ルビー。ここはどこか、聞いたね…? 答えは…、深淵だよ」
ジークが彼女の首を絞めた。
「深淵!? 闇の深淵なの!?」
ルビーはショックを受けた。
水に巻かれ、ルビーがもがく。
「嫌だ!! 死にたくない!! 私は不死者よ!!」
深淵で受ける精神的ダメージが、元の世界で眠る肉体のダメージとなることを、彼女も知っている。
ルビーは強靭な精神力で、この幻想を自分の都合に捻じ曲げようとした。
彼女は湖水を排出しようとした。
「そうはさせねーよ」
ジークとルビーは引き寄せ合った。
「ジーク! あんたが先に死ねば…、この夢は終わるのね…!?」
ルビーがジークの首を絞めた。
二人は互いに手を相手の首にかけ、壮絶に、首を絞め合った。
最後は、直接的に絞め合うことになった。
ルビーの遠慮のない力が、ぐいぐいとジークの喉を絞めた。
ジークは気を失う直前で、
「ルビー、愛してる。この湖底で一つの藻になろう…。俺達はここで眩しかった日々を思い出しながら、長く抱き合って、少しずつ磨滅して行こう…」
と、精一杯の力を込めて、彼女を絞めた。
「嫌よ、嫌!! 私は自由でいたい…!!」
ルビーは泣きながら、口の端から泡を噴き、白目を剥いた。
湖の上を、黒い蝶がひらひらと飛んでいた。
彼女の蘭の温室にいたのと同じ、黒いアゲハ蝶だった。
思い出が細かな虹となり、泡が柱のようになって水面へ昇っていく。
「さようなら。残り全ては…無…」
互いの首を絞め合う二人が、湖底の泥に沈んでいった。




