ph 94 失われたカラダ
phase 94 失われたカラダ
1
夜空ごと吸い込むように、憂がジークを飲み込んだ。
周囲に骨の砕ける音が響き、憂の口の両端からヨダレ混じりの血が流れた。
憂は顎が外れないのが不思議なぐらい口を開き、ジークの爪先まで漏らさず食った。
しばらくの間、空は真暗だった。
どれだけ経過したのか。
次第に東側が藍色に変わった。
憂は小さくなって、オーシャンズ・タワーの傾いたバルコニーに降り立った。
心配そうなディーヴァが見守っていた。
彼女は複雑な気持ちで、憂に話しかけた。
「大丈夫!? あんな人食べて、お腹壊さない?」
憂は普通の人間の顔に戻っていた。
青白い顔に無理やり微笑みを浮かべ、
「大丈夫だよ。かなり臭くてマズかったけど、もう吐き出したりはしないよ。これで、あいつの中の黒瀧の血は俺のものだ…」
と、満足そうだった。
彼はジークを消化しつつある胃袋を、腹の上から撫でた。
何となく気のせいか、不快感があった。
憂はジークの黒飛龍剣を片手に持っている。
それが手に吸い付くようで、何だか熱い。
剣の吸った闇が重たくて、持て余した。
「こんなモノ…と思ったけど、まあまあ気に入ったかも。へぇー、持ち主が変わるとデザインが変わるんだね」
憂が剣をかざし見た。
黒飛龍剣はジークの持っていた時の古代風の両刃の剣から、デザインが完全に変わっていた。
ゲームの中のファンタジーの剣のように、グリップが銀色の髑髏の形になっている。
不気味に捻じれた骨が突き出るように、ちょっと旋回気味に細身の剣が伸びていた。
捻じくれた憂の内面を表すようで、彼は心惹かれて見とれた。
「嫌な予感がする。縁起悪いんじゃない? 捨てちゃえば?」
ディーヴァは憂の自尊心を刺激するようなことを言った。
「気持ち悪くないよ。これはオレ自身なんだ」
憂は捻じれた鞘にストンと、剣を落とし込んだ。
憂は夜明けの迫るバルコニーからタワーの内部に入り、腹をポンポン叩いた。
「すごい満腹だよ。ジークだけじゃないな。闇を随分と吸い込んじゃった。酔っ払ったみたいな気分だー。ちょっと闇の量が多かったよ。吸血鬼の血を飲んだから、眠くなるだろうな。何日か寝ることになる。新しい覚醒の為に…」
「早く地下に降りよう。夜明けの光の射さない場所に行こう」
ディーヴァが憂の腕を取り、引っ張った。
憂は幸せそうに、妻に微笑みかけた。
「そうだね…。鬼姫ちゃん。オレと君の子供達の為に…」
憂がディーヴァをそっと抱き締めた。
彼自身のささやかな幸せと安らぎを、その腕で抱き締めた。
2
ジークは銀河の流れの中、意識を取り戻した。
「うわっ、またここかよ!? 何度目だよ!!」
ジークは見覚えのある景色に毒づいた。
肉体を持たない身となって、闇の深淵へと続く意識界にいる。
彼は緩やかな銀河の回転に押し出され、流されていく。
「肉体は滅んだ」
彼は唇を噛んだ。
いや、虚ろな感覚だ。
眩い星々の光が、ジークの眸を灼く。
遠く大星雲の彼方、死んだ星々のガスさえ残さず吸い込むブラックホールへ、彼は向かう。
ジークの前に、幻覚が訪れる。
一人の黒服の男がブーツで胡坐をかいて座り、前髪を掻き上げた。
どことなく、朔夜に似ていた。
「わかってると思うけど、おまえは死んだ。ジーク、心臓と闇を繋ぐラインは切断された。おまえもう、生者の物質界には戻れない。この闇の中を彷徨い続けることも出来ない。闇の血の契約が、今こそ履行される」
男が言った。
何かがジークの目前にばっと広がった。
何本も交錯する白い巻物、そこには闇の世界の文字が綴られていた。
「契約書…」
ジークは息を飲んだ。
「おい、もう一回、カラダをくれよ!! あの世界に戻りたいんだ。戦いの途中だった。憂をあのままにして置けない。あんなに狂った世界をどうにも出来ないで、俺だけ楽になるわけにいかねーんだよ!!」
ジークが契約書を擬人化した男に、両手ですがりついた。
男は光のない眸で、ジークを見詰めた。
「んなこと、頼むだけムダってわかって言ってんだろ? なぁ、キレイに死ねよ。俺は地獄の閻魔さまじゃない。聞く耳は持たないよ。俺はただのルールブックだ」
「顔だけじゃなくて、声や喋り方まで朔夜に似てるんだな。嫌味なとこまで」
ジークは舌打ちをした。
「おまえが闇の掟に抱く、勝手なイメージさ。俺はどんな外見も性質も持ってないね。悪いんだけど」
契約書はバカにして笑った。
「戦いは終わったんだよ、ジーク。おまえは敗けた。そして死んだ。たったそれだけだ。束の間、生者の世に戻れて楽しかったか? 遣り残したことは、全部済ませて来たか? もうどうだっていいことさ。ここから先は、無、だけが有る、んだから」
契約書は自分で言ったことに頷き、大笑いした。
「説明するよ、ジーク。おまえのカラダは失われた。微塵も残ってない。消滅して、エネルギーは憂の所有に変わった。ここにあるのは、エネルギーを何も持たない、精神のみのおまえだ。最後の自我の欠片と言える。さあ、おまえはこれからどこへ向かうのか?」
契約書は朔夜みたいに気取ったポーズを取り、肩をすぼめて手を広げた。
「闇はいずこから来て、いずこへ去るのか。人はいずこから来て、いずこに向かうのか。始まりはいずこ? 終わりはいずこ? この謎を解く者はいない」
契約書が勿体つけて喋り出した。
「昨日から来て、明日に向かうんだ。簡単なことだ。俺をあの世界へ返してくれよ!!」
ジークが大声で怒鳴った。
「あの世界とは何か? この世界とは何か? …それはおまえの自我という、未熟な観念によって得られる幻想だ。幻想はお終いだ。おまえの理性は尽きる寸前さ。ケダモノに理屈はいらないね」
契約書が否定した。
「俺は否定的な話は嫌いだ。肯定的に物事を考えるのが好きなんだ。ネガティブな話題を持ち出すヤツは、心の芯から暗いんだよ。声のでかいヤツが、明るい性格ってんじゃねーし…」
ジークが契約書の声を消そうとして、無意味に話し続けた。
契約書は彼の声を消すほどに明確に答えた。
「事は成すのか。意志に関わらず、成り立ったのか。違いがわかるか、ジーク。事の次第はどうにもならないんだよ。全ては宇宙の思惑通りさ」
契約書は腰に手を当て、立ち上がった。
「未練を捨てることだね、ジーク。潔く終わるのは、かっこ悪いことじゃないだろ。死とは万人に訪れる、公平な最終結果だ。おまえは多くの患者を診察した。終末を迎えた患者には、安らかに死を受け入れるよう勧めてきただろ? 患者の家族にも、理を諭してきただじゃないか」
ジークは膝を改めて、正座した。
「…今、冷静に考えてみた。でも、同じだ。俺はあそこへ戻りたい。生の執着とは違う。頼む!!」
彼は深く土下座して頼み込んだ。
契約書は彼を冷ややかに見下ろした。
「プライドはないのか? どんな言い訳をしたって、惨めになるだけだぞ」
ジークは首を振った。
「俺はむしろ、死にたいぐらいだ。先に逝って俺を待ってる奴等がいるのさ。だけど、黒瀧のジイサンに…、俺はあの人に命を分けてもらってよかった。本当に大事なものが…一回死んで、やっとわかったんだ」
契約書が黙った。
ジークは額を星々の輝きに擦りつけて、頭を下げた。
「人間はみんな、生きてる間にやらなきゃいけないことがある。何か一つ、つまらないものでもいいから遺さなきゃならねーんだ」
ジークは後悔していた。
「まだ何も遺してねぇ。俺は弱くて、相当なバカで、いつも大切なことを後回しにしてしまって…。命より大事な人も守れなくて。誰しも強くなりたいんだけど、俺も憂もみんな、小さくて弱っちぃ存在なわけで…。こうして一度全てを失って、初めて知るんだ。…人生は短すぎるということを……」
彼はゾンビとなってからの時間を思い出した。
「仲間とめぐりあえて、幸せだった。血を吸わなきゃ生きてけねー体で、夜に徘徊するだけだったけど…、仲間が孤独な復讐の鬼の俺を…、人間の心に戻してくれた」
温かいものが心の奥を流れる。
彼の最後の理性は蝋燭の炎のように、まだ吹き消されずに点っていた。
「俺は仲間との約束を守りたい。最後の最後まで…。この心が折れて無くなる時まで…」
今度は、契約書が首を振った。
「勝手だな、ジーク。つまらない言い訳だ。最低だ。醜いよ。自分だけ助かろうって言うのか。おまえの仲間は全員死んだよ。なのに、おまえは孤独な復讐の鬼に戻り、今まさに復讐に向かおうとしてるだけじゃないの。自分を偽るのはよせよ。おまえは血を見たいだけだ。ケダモノめ!」
契約書が巻物の一本を、ジークに投げ付けた。
巻物が額に当たって、目の前に落ちた。
「おまえは契約の最後に、自分の魂を闇に差し出すと約束してる。その約束の方が先だろうが? これは選択の自由じゃないぞ。決定事項だ。ルールを守るんだな!」
契約書が長い舌で、ジークの額から出た血を舐めた。
ジークの心がダメージを受けた。
絶望。
本当にお終いだ。
諦めの気持ちが広がっていく。
彼の全身に亀裂が走っていく。
諦めというダメージが、ガラスのような精神をひび割らせてゆく。
3
ジークは覚悟して、意識を縮めた。
だが、契約書が突然、無表情に巻物の一本を破り捨てた。
ジークの額に投げ付けた、最後の部分をである。
「…あ!?」
ジークは驚いて、契約書を見た。
契約書は憮然と言い放った。
「もう一枚契約書を書き直すなら、延命してやっても構わない。ただし、条件付きだ」
「マ、マジでー!?」
歓喜の声を上げて、ジークが膝で前ににじり寄った。
契約書はジークを侮蔑の眼差しで眺めた。
「おまえの受け入れやすい条件にしてやる。つまり、おまえが勝てば延命は無期限で、おまえが敗けたら即、おまえを私達がいただくという条件だ」
ジークは動揺し、条件に不満を漏らした。
「そんな条件、飲めるかよ。クソ」
契約書は、
「私達は優秀な人材が不足して困っている。私達の意図を組んで働く優秀で強い吸血鬼が、なかなか誕生しない。全員、自我が軟弱すぎる。しかも、私達は黒滝秀郷という、二千年の逸材を失った。…おまえのせいで」
と、言った。
ジークはぶるぶる身震いした。
「やめろよ。その条件は絶対飲めねーぞ」
「おまえが私達の忠実な下僕として、物質界に降臨するなら、もう一度カラダを与えてやる」
「いらねーって。そーゆーカラダだけはいらねぇ。降臨とか、もう真っ平!」
ジークは両手を振って、断った。
契約書は赤い血色のリボンを見せた。
「おまえの魂と繋いでやろうか。最強のカラダをくれてやる」
ジークは銀河を流れ、逃げた。
「クソッ、蘇る方法が他に思いつかねぇー!! どうする!?」
彼は逃げ惑った。
彼の影みたいに、契約書はつきまとって離れなかった。
「ざけんじゃねぇー、このストーカー野郎ー!!」
ジークが契約書を蹴った。
彼の脚は空を擦り抜けた。
「こういう交換条件はどう? 面白いことを教えてやる」
契約書が耳元で囁こうとした。
「あっち行けってー!!」
ジークが振り払おうとした時、契約書がまさかのことを言った。
「…え!?」
ジークは顔色を失った。
契約書はにんまり嗤った。
「どうだ、ジーク? 面白い話だろう?」
契約書は自信ありげに、赤いラインを差し出した。
ジークは震える手で受け取った。
「どうする!? ジーク?」
契約書が新しい巻物を、ピンと広げた。
ジークは震える指先を、そっと近付けた。
いくつかの文字が、自然に浮き上がった。
ジークの顔に、あのタトゥーの黒い隈取りが浮き上がった。
「契約は成立した!!」
契約書が叫び、高笑いを上げた。
「はぁーはっはっ!! おまえが敗けたら、私達がおまえをいただくぞ!! おまえの自我の残り全てを!!」
契約書が声を響かせて去る。
ジークが、新しい肉体の眸を開いた。
4
憂は地下の、姉の部屋を訪れた。
戸口で、ジークから奪い取った黒飛龍剣を見せた。
新しい所有者の為にデザインが変わった剣を見て、ルビーは弟を褒めた。
「よくやったわ、憂ちゃん。頑張ったね。本当に」
憂は得意げに語った。
「どうってことなかったよ。オレとルビーの邪魔するヤツは、みんな殺す。いつでも言って。ルビーを守る為に、オレは生きてるんだから」
すると、ルビーは悲しそうに、
「それが心配の種なのよ。憂ちゃん、病弱なのは変わらないんだから、無理しないで。心臓が痛むといけないわ。早く、ゆっくり休んで」
と、弟を抱き締めた。
「わかった。お休み、ルビー」
憂は姉の頬に、外国の映画みたいなキスをした。
弟を送り出し、ルビーは世界の果てまで、その眸で見渡した。
「…本当だ。ジークの気配がない。…死んだんだ、あの人」
ルビーは急に吹き出した。
「バカみたい。あの人。私に本当に愛されてると思ってたなんて。…お金より魅力があるわけじゃなかったのに。大祐の方が顔がよかったわ」
手が勝手に、胸を押さえた。
「何だろう。息が苦しい。…悲しい? そんなハズないんだけど。私はジークを利用しただけ」
眸が勝手に潤み、片側の眸から涙か流れた。
「そのハズよ。…なんで? 私、悲しいのかな?」
ルビーはシーツを持ち上げ、現在の恋人のベッドに潜り込んだ。
熱いキスを重ね合い、逞しい腕に抱かれた。
「あんな男、どうだっていい。あんな面白くもない男、私は別に…」
ルビーは疲れ、眠りに落ちた。
「ジーク…」
ルビーの頬を涙が伝った。
瞼の裏に、彼の優しい笑顔が思い浮かんだ。
「私を信じた、バカな人…」
ルビーは夢の中へ入っていった。




